Tik's little window 

スポーツ観戦&体験記、
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2013-02-19 21:20:00 | 暮らし&行事
昨年9月から『ネット断ち』をし、その後も、気力体力が戻るまでお休みしておりました。


懐かしい方、大切な人、初めての方との、沢山の出会いを不思議に思った一昨年。

それが、沢山の別れの予感だったとは・・・・

昨年は、思いもしなかった別れが幾度もあり、

そして、その後に、待ち望んでいた新しい命達との出会いも、待っていました。



本当に、夢のような、ジェットコースターのような一年でした。


突然3人家族が、5人となり、4人になったと思ったら5人、6人になり・・・
今我が家は、4人家族。

脳血腫摘出手術と3、4ヶ月の療養予定で、桜咲く4月花見から
母と父と始まった暮らしが半年続くとは、そして、そのすぐ先に別れが来るとは.....


5月、脳外科手術入院まで一ヶ月待つ間に、世話好きの母と、言われっぱなしの父が逆転した。腫瘍が左脳を圧迫し始め、夜中、起きられなくなった太った母を、痩せた父が必死に起こす状態に。脳手術後のリバビリで走れるまで回復した母だったが、集中力は子供のように、途切れ途切れの様子がみえはじめる。

主治医から、15年前の右手親指爪の悪性黒色腫転移再発、治療薬治療方法無し完治困難、月単位の進行悪化の告知を受け、ネットで黒色腫のブログを見て、闘病介護、そして、看取る日が来る覚悟をする。

6月、右肺の黒色腫摘出手術成功、二週間の入院で脚力低下、気力低下。脳黒色腫が再発拡大する前に、通院での放射線治療を決断。

7月、ずっと母の看病、見舞いをしていた疲れからか、千葉のおばの家に両親のみの小旅行中、父が脳梗塞で左手足不自由になり入院。一週間、放射線治療が終わった母の車椅子を押し、父を見舞い、暑さの中日傘をさして帰宅する。父のリハビリをソーシャルワーカーに相談し、両親の介護申請をすることに。

8月、3人で夕方の散歩。母は毎回車椅子から降り、手をつないで歩行練習。入浴介助始まり、認定下りる前から、ターミナルということで、電動ベッドを使用することに。要支援1の父と要介護の母とデイサービスの体験するが、母は途中でリタイア休憩。父と交替で、入浴&深夜の介護開始。食事に一時間かかる母は、すべてが、ゆっくりゆっくり。入浴介護&二人で着替えを手伝いい終了するのは10時過ぎで、父の疲労度マックス。
なんとか正常な意識がある中、代官山のスタジオで、車椅子でのサプライズの初結婚記念写真を家族で撮影。

9月、血痰再発、気管内視鏡検査で気管転移発覚、気管への放射線治療開始。脳腫瘍肥大による意識障害&飲み込み不能。多発転移による髄膜炎の危険により気管放射線治療中止、危篤状態で9月中旬から9月末の告知受ける。母の延命拒否の書置きを受け、最低限の点滴開始と週数回のレントゲン検査開始。

9月いっぱい、仕事中止、ネット断ちし、朝から晩まで個室詰め。親戚へ連絡、見舞い接待、個室で父と朝から晩まで、心拍数170から30までのモニターとにらめっこ。

10月、初ナイスバディーになった母の身体を看護師さんと拭く。寝たきり意思伝達困難状態で転院の準備をと言われ、数回覚悟するが、病状不安定で移動中止。看護師長さんの、転院無し決定の言葉を聞いて、感謝(涙)。主治医から毎週末危篤状態を告げられ、父、叔父叔母と交替で、泊り込み開始。秋田の親戚上京。泊りがけの見舞いでは、次女が世話を引き受け、メールでも支えてもらう。泊まり込み13日目、秋田、千葉、東京の親戚が皆帰った22日、主人と次女病院到着10分前、父と手を握り看護師が見守る中、午後6時(主治医外出直前)、母息引き取る。

東京で葬儀、父・妹・主人と秋田での葬儀と納骨。東京駅で、里帰り出産に来た長女夫婦の車で、一緒に帰宅。


11月、26日朝4時、予定日より早い陣痛で、長女に起こされ、再び、お世話になった病院へ。
突然の帝王切開の危険も乗り越え、婿殿とお腹をさする中、11時35分2750グラムの男の初孫誕生。

12月、沐浴介助、ミルク、寝かしつつけ手伝い等等、夜中まで、家庭でベビーシッター開始!

1月、シッターの仕事は、孫中心。地元の天神様へ、お宮参り。父も、リハビリの為半日マシントレーニングのデイサービス開始。

2月、6キロ超の孫の抱っこで古傷肘痛再発?!10日、娘と、孫と、婿殿と、主人と、車2台で、お引越し。里帰り終了!

今、毎朝、我が家の遺影と一緒に並んだ母の遺影にも手を合わせる。春秋田に帰ると言っている父との静かな4人家族の暮らし。布団で寝て、風呂に浸かり、パソコンを開く日常が戻ってきた。

母を送り、お世話になった人に感謝の意を伝え、孫を迎えた中、突然こみ上げてきた寂しさに堪え切れなくなった時期もあった。


秋田や千葉から届いた、沢山のメールに感謝。入院中、葬儀、本当に沢山の人に支えていただいた。深夜、そっと母の名を呼びながら何度も体位変換と吸引に来て、亡くなる日にも歯磨きをしてくれた、沢山の看護師さん達、子守唄のようになった心電図のベルの音を、最後の最後まで、鳴らさないよう気使っていただき、優しさにただただ感謝。

毎朝、母の手足を洗い、顔を拭き、クリームを塗って頬ずりし、突然病に倒れた母の手をさすり「ありがとう」を繰り返した。明るく頭の回転が速く、ひたすら、家族や周りの人のために働いた。学業への夢は叶わなかった母が、やっと、自分の時間をゆっくり楽しめる筈だったろうに・・・自分も一緒に・・・

ひ孫との対面も叶わなかったが、母が薄れる意識の中で言った、名が孫の名前になった。


いったい母の人生は何だったのか・・・・孫を抱きながら、昨年逝った多くの人達を思う。

続いていく、命のバトンのその繋ぎ役として、母がいたこと、自分がいることを感じる。


今年一年、母が残した課題はまだ沢山。

「焦らなくても、時間が解決してくれる。」側で声をかけてくれる相方の言葉に救われる。

少しだけ肩の力を抜き口元も緩め、感謝の気持ちを胸に、自分の時間・友・夢も大事にして行きたい。『天草にも行きたい!!!いくぞ~~!!!』


次回は、素敵な映画と、作った方々との出会いのお話を・・・
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