著者は1930年東京生れ、舊制一高を經て1955年東大法學部卒、同年中央公論社に入社。「思想の科學」「婦人公論」編輯部を經て「中央公論」「歴史と人物」編輯長を勤め、1978年退社してゐる。著書に『二十にして心朽ちたり』『面白きこともなき世を面白く』などがあるほか、「アスティオン」「外交フォーラム」「東京人」編輯長の經驗もある。戰後の出版、雜誌ジャーナリズムの王道を歩んだ言論人と言へるだらう。
中央公論社が經營危機の爲に讀賣新聞社の資本傘下に入つたのは1999年2月、本書は同年11月の發行。<第一部 囘想>は1997年秋號から翌98年秋號まで季刊「アスティオン」に連載されたものに書下ろしが加はつてゐる。<第二部 修羅と哀惜>は中公の讀賣への身賣り後に「諸君!」に掲載された。
超一流の言論誌、綜合雜誌だった中央公論の編輯者として、著者はアカデミズム、ジャーナリズム、文壇、そして政治經濟の世界を駈け囘る。和辻哲郎、幸田文、鶴見俊輔、吉田茂、梅棹忠夫、田中美知太郎、今西錦司等々錚々たる人物たちに歴史に殘る論文や作品の執筆を依頼。一方で高坂正堯、山崎正和ら後のオピニオン・リーダーたちをデビューさせている。
この戰後出版ジャーナリズムの狂言廻しによる囘顧録は、そのまま戰後日本の論壇史、文壇史、政治史の一側面を總覽するダイジェストと言つても良いだらう。著者の中公在籍の時代は、戰後のどん底を脱した高度經濟成長の助走期から軟着陸期までをカバーしてゐる。基本的に安定成長を續ける經濟状況と、55年體制と言ふ大きな政治的・思想的な枠組の中で、アカデミズム、ジャーナリズム、文壇、政治經濟がそれぞれの領域で確たる世界を構成していたことに、改めて感慨を持つた。明快なる激動の時代――昭和は遠くなりにけり。
最終的に語られるのは、中央公論社というひとつの組織が内部から崩潰していく過程である。日本の出版社のほとんどは大手版元といへども一族經營による中小企業であり(一部例外もあるが)、トップダウンがうまく機能してゐるときは良いが、一度狂ひ始めると齒止めがきかない。中央公論にとつて不幸だつたのは、1960年の「風流夢譚」事件でテロリズムの標的になつたこと、これを機に言論機關としての軸足がぐらつき、社員の多くが浮足立ち、勞使關係がガタガタになつたこと、有能な後繼者を育成出來なかつたこと等々。冷靜な語り口ゆゑに、行間から浸み出す著者の憤り、徒勞感、あるいは仕事や關係者に對する愛の深さがより生々しく感じられる。
***
粕谷一希著 中央公論社と私 (文藝春秋、1999)
※本日三読したので昨年正字体で書いたものを残す。