牛込日乘

日々の雜記と備忘録

Boy, you're gonna carry that weight a long time.

2011-03-25 23:20:37 | Weblog

 花粉症と地震後の疲れで何となく体調が優れず。週末は家で多少仕事をした他は、ほとんど何もせずに過ごす。

 久しぶりに実家の両親から電話。佐久は特に地震の影響はなかったが、それでもガソリンは制限され、スーパーからミネラルウォーターがなくなっているとの由。経済活動や東北の人々の生活が元に戻るにはどれだけ時間がかかるのか見当もつかない、もしかしたら戻ることはないのかもしれないなどと話す。

 妻と娘は義母の見舞いに川崎に。その間、家で一人で何年かぶりに山田風太郎『戦中派不戦日記』を読み、"Abbey Road"を聴く。


大地震から十日

2011-03-21 22:45:58 | Weblog

 勤務先は、オフィスでなければ仕事ができない一部の人々を除いて当面は自宅勤務となったが、私は毎日出勤組。箱根から西ではいつもと変わらない日常が続いているようで、社内外から呑気な依頼や問い合わせが入ってきたりする。まあ、そちらでは本当に必要なのだろうし悪気はないのはわかっているのだが、つい「何もこんな時にそんなことを頼まなくてもいいじゃないか」と思ってしまう。私が担当している部署は比較的フレキシブルに動けるのでまだいいが、流通などのオペレーションを担当している人たちは本当に大変である。常に最新の状況を把握し、時には代替となる手段を考えたり、そのためのコスト計算をしたりと、本当に頭が下がる。



 福島第一原発の状況を見て、西日本に移動する人々が身の回りにも何人かいる。私はさまざまな情報源や本で得た知識などから今のところ東京は大丈夫だろうと考えているが、万が一のことを思って退避する人が間違っているとも思わない。こういうときは後悔のないようベストを尽くすのが一番だろう。最終的にどうなるかは誰にも分からないのだから。帰宅時に駅前でヒステリックな声を上げて原発反対を訴え、募金活動をしていた左翼団体がいたが、「うるさいなあ、まあ落ち着けよ」という感じ。こんなことをこんなタイミングでしても不安をあおるばかりで、現実的に有効な手段だとはとても思えないのだが、正義好き、運動好きの人はそれが好きでやっているのだから仕方がない。



 同じ年頃の子供を持つ同僚が「怖がるのでTVのニュースは見せないようにしている」というのを聞いて、うちの娘はいまのところそんな素振りも見せないので意外に思ったが、考えてみれば確かにそういうものかもしれない。緊急地震速報のアラームが鳴ると、比較的安全と思われる寝室に行くようにしているのだが、確かに少し緊張した顔をしていた。二年ほど前にNHKで放送していた阪神大震災の検証番組を見たときは幼児なりにショックを受けたらしく、「将来はヨーロッパのケーキ屋さんになる!」と言っていたものだが(ヨーロッパには地震がなくてケーキが食べ放題だからという理由)、今は基本的に落ち着いている。



 私は元々甘党ではあるが、酒を飲むようになってからは昔に比べると甘いものを摂らなくなっていた。しかし、先週はとにかくイレギュラー続きで、心身ともに妙な疲れ方をしたせいか、やけに甘いものが食べたくなる。今日は一足早いバースデー・ケーキを買ってきてもらったので、あっという間に完食してしまった。


今次震災に関する雑感

2011-03-15 22:20:09 | Weblog

 三月十一日金曜日の午後、私は高円寺駅前の喫茶店で同僚と打合せをしているときに地震が発生した。座っていた席は店内のやや奥まった場所にあり、案内されたときに何となくイヤな感じがした。今思えば虫の知らせのようなものだったのかもしれない。

 話しているときにコーヒーカップがかちゃかちゃと揺れ出し、「こりゃちょっと普通じゃないぞ」と言ってすぐに店から出ると、周りの建物や電信柱が激しく揺さぶられていた。一緒にいたK女史と駅前のロータリーに逃げたところ、すでに多くの避難者がいた。周囲を見回すと、八階建てくらいの古くて細長いビルがいくつか左右に揺れており、その中の一つに行きつけのバーがあったので、「あーあ、こりゃボトルは全部ダメだな」などと阿呆なことを考えた。iPhoneでネット検索すると、東京は震度五強、最大は宮城県栗原市の震度七強。これは相当な被害が出ているな、と暗い気持ちになる。駅前には多くの人が集まってきており、奇妙な連帯感があった。余震が治まるまで一時間ほど周辺で過ごし、会社に戻ったところ、総務からの指示によりすでにほとんどの人が帰宅済。最低限の確認をした後、17:00頃に歩いて会社を出て家を目指した。何年か前に試しに徒歩で帰宅したところ、二時間半ほどかかったので、まあだいたいそんなものだろうという心構えはあった。道は割合に単純で、青梅街道から新宿方面に行き、大久保通りを真っ直ぐ行って神楽坂を目指した。

 話が前後するが、高円寺駅前から会社に戻る途中で、さっきまでいた喫茶店に寄って一応会計を済ませてきた。「お代は結構ですから」とは言われたものの、何となく気持ち悪かったので。驚いたのは、まだ余震で揺れている最中に宝くじ売り場で宝くじを買っている人がいたこと。まあ、別に構わないが、それもつい数分前まで揺れまくっていたビルの一階にあるのだから、店の人も閉めればいいのにと思ったことである。習慣の持つ強制力というのは、人が思うより相当に強いようである。

 地震当日に会社に戻っても閑散としていたが、何人かの人は平然と通常通りの仕事をしていた。落ち着いているのか腹が据わっているのか鈍感なのかわからないが、そのうちの一人の態度にはどこか「俺様はお前らと違って落ち着いているぜ、仕事に責任感持ってるんだぜ」というようなexhibitionisticな感じがして、好感が持てなかった。そりゃ仕事は大事だろうが、こんな緊急時には例え会社にいたとしても散らかったものを片付けるとか他部署で困っている人を助けるとか、もっと優先してすべきことがあるだろうがよ、という感じである。カッコつける方向性が間違っているというか、センスがないというか、この人はどうも普段からそういう傾向が強い人なので、これも習慣のなせる技だったのかもしれない。



 会社には仙台営業所があるのだが、幸い皆家族も含めて無事との情報。ただし物資はかなり不足しているらしい。避難所暮らしをしている人もいるとのこと。何とかしてあげたいが、今は電力消費を抑えるくらいのことしかできない。



 さいたま市に住んでいる親戚が、地震の当日に仕事で仙台市郊外の多賀城市に出張していた。午前中で仕事を終えて帰ったところで地震があったそうで、まさに間一髪。仕事に行った建物は、跡形もなくなってしまったとのことである。



 ネットでは国内の各報道機関とともにBBCMSNBCなどの米英のニュースサイトも見ていたのだが、最大の関心は最初から原発問題のようであった。怖いと言えば怖いが、一番の問題は「こういう理由で怖い」のか、あるいは「恐れるに足りない」のか理解できない、あるいは、理解するための時間がないということである。情報も足りないのかもしれないが、まずその情報を判断できるだけの知識があるかどうかが問題である。東電や政治家に責任を求めるのはたやすいが、彼らをくさしたところで自分の命が守られるわけでもない。もちろん原発の近くに住んでいる人々にとっては「今そこにある危機」であるが、今のところまだ余裕があるのなら、流言飛語の類に踊らされないように自分で納得できる考え、結論を出すしかない。

 日本の報道機関の情報やその深さは基本的に横並びであり、TVの前でリモコンを駆使して複数のチャンネルを見てもあまり差は見られない。国外から見ると問題の重み付けが違うので、かえっていろいろなことがわかることがある。単純な例で言うと、上記のような海外のニュースサイトでは、場合によっては犠牲者の死体の写真が掲載されていることがあるが(「これはショッキングな映像なので自己責任でご覧ください」というような注意書きがある)、日本では週刊誌以外では考えられないだろう。日本人の秩序正しさが高く評価されているという報道もあるが、これに関しては余りいい気になるべきではなく、一定の留保が必要だろう。疲労が蓄積してくれば、心の余裕も失われていく。一度悪い方向にパニックが起これば、なし崩し的に多くの人が同調してしまう危険性もまだまだあると思う。こうした事態を避けるためにも「プライド」は必要なのだが。



 これを書いている途中で、また揺れ出した。今度は静岡県東部で震度六強との報道。段々南下しているようで、不気味である。明日も出社しなければならないが、できるだけ安全な経路で通い、無理をしないことにする。


生存報告

2011-03-12 16:45:07 | お知らせ

 我が家は実家も含め今のところ問題ありません。午前中にちょっとスーパーに買い出しに出かけたところ、いつもより混んでいて、カップラーメンだけが売り切れでした。もっと他に買っておくものがあるように思いますが、まあ、ないよりましでしょう。

 地震直後は携帯電話はほとんど通じなかったものの、ネット(携帯&PC)はそれなりに機能しました。TwitterやFacebookが役に立つようです。それと、これから停電になるかもしれないということなので、ラジオがあると安心ですね。

 昨日は高円寺の職場から二時間半掛けて徒歩で帰宅。道は家路を急ぐ人々でごった返していましたが、皆落ち着いて行動していて、日本人も満更ではないなと思ったことです。帰宅したら、金魚の水槽も本棚もほとんど問題なくて拍子抜け。十一階建ての二階なので、余り揺れなかったのかもしれません。東京もまだまだ油断できないでしょうから、まずは自分の身の安全確保を第一に考えましょう。


花粉症歴三十五年

2011-03-02 08:50:39 | Weblog

 今年のスギやヒノキの花粉飛散量は例年の五倍とか十倍とかいう情報もあるようだが、早めに耳鼻科で薬を処方してもらったこともあって何とか今のところひどくならずに凌いでいる。実のところ私はスギなどよりイネやカモガヤなどによるものの方がはるかに重症で、東京にいるとあまり気にせずに済むが、周りが田んぼばかりの実家にいると、くしゃみは止まらないわ目は腫れるわで大変なことになってしまう。私が地元で就職しようとは思わなかったのは、春から夏にかけてさまざまな花粉症に連続して襲われるからというのが(冗談でなく)理由の一つである。大学生になって東京で夏を過ごしたとき、あまりにも体が楽だったので驚いたことを覚えている。

 私が花粉症と診断されたのは一九七六年の小学校二年生の時で、一度引っ越したことをきっかけに、それまであった牛乳や卵などの食物アレルギーがある程度治まった代わりに違うアレルギー症状が出てきたのがはじめだった。当時は今のような誰でもかかるようなものではなく、なかなか理解してもらえなかった。特に夏場のイネの花が満開になる時期(八月初めからお盆くらいまで)が最悪で、いくら長野とはいえ、暑い盛りに窓も開けられずに部屋に籠もりきりになっているのは、かなり辛いものがあった。十歳くらいの頃だったか、眼球がピンポン球のように腫れ上がってしまったり呼吸が苦しくなったりして、急患で病院に担ぎ込まれたこともある。

 まあ、自分の体調について喋々するのはあまり上品なことではない。しかし、今や挨拶代わりに「花粉症ですか?」「ええ、お互い大変ですね」というような会話が当たり前のような世の中になって、症状が軽くなったわけでは決してないが、自分だけが辛いのではないという変な安心感を覚えたりはするのである。