牛込日乘

日々の雜記と備忘録

ラッセル「長期的視野に立つこと」

2010-12-14 01:01:31 | Translations

 自分が死んだ後に世界に何が起ころうが、何の関心もないと言う人たちがいる。私個人についていえば、こういう感じ方はしない。私は、現在の行いが将来に実を結ぶかもしれないと考えるのが好きである。たとえ私個人がその将来に参画することはないだろうとしても。私は文明はよい方向に向かっていく考えるのが好きだし、もしその考えとは反対のことが起これば、またそういうことが起こることもあるだろうが、そのときは気が滅入る。このところ、目下の状況はどうも陰鬱であるが、ずっと遠い未来のことを考えるというのは気が晴れるものである。

 

 十九世紀において、人類は進歩を自明のものととらえていた。そして、特に人々が進化を信じるようになってからは、未来は過去よりよいものでなければならないということは自然の理のように考えられた。こういう明るい思考の枠組みの中では、人間はわざわざ遠い将来のことなど考えたりしないものだ。ユートピアも一、二世紀のうちには実現するのではないかと期待されていたのだ。一九一四年以降、こうした楽観主義は自信を失ってしまった。そして現在の不況の中では、非常に多くの人々の心の中で悲観主義に服従させられてしまっている。

<続く>


師走の職場の小さな出来事

2010-12-05 19:05:57 | Weblog

 仕事上、もちろん悪いことではないものの、物事の帳尻を合わせるためにややイレギュラーなことを無理をしてやらなければならない場面があった。それに関して若い者から「何とかやらないで済む方法はないんですか」と問われ、私も当事者のひとりとして何とも回答に窮してしまった。その仕事をすることによって、得られるものもあれば失われるものもある。彼はその仕事にまつわる労苦を厭うているのではなく、その失われるかもしれない何物かの方が、得られるであろうものより重要であると言っている。私にその考え方が分からないわけではない。ここで組織内の上位者としての権威を振りかざして「いいから黙ってやれ」と言うこともできるのだろうが――。

「君を含めた皆が食べていくためには、綺麗事ばかりでは済まないこともあるのだよ。それをしなければならない大きな責任は私にあるが、君にも全くないとは言えない。黙ってあえて面白くもない役を買って出ている人たちを、どうか悪く思わないでもらいたい」とは口には出さなかったものの、五年前の私であれば確実に彼と同じ立場で同じことを言っていたであろうことを思い、心中で「むしろ、こういう正論をぶつけてくる人間がいなくなったらおしまいだろう」と逃げてみるのであったが、もちろん何も根本的な解決にはなっていないのである。



あさましく年をかさねて若人のわかさを晒ふ身となりしかな
(生田長江)