本能寺の変のときの状況というのが、昔から腑に落ちなかった。だいたい、近くに二条城もあるのに、どうして信長は丸腰に近い状態でわざわざ寺なんかに宿を取ったんだろう? ……と思っていたら、なかなか興味深い報道が。当時の本能寺は単なる寺ではなく、石垣を巡らした城のような構えを持っていたらしい。よく考えてみれば確かにありそうな話だが、下の記事にもあるようにTVの時代劇などではごく普通の寺院として描かれていたので、そのイメージを疑っていなかったのだ。
とはいえ、「信長ともあろう者が、どうして『是非に及ばず』とか言って簡単に諦めてしまったんだろう?」「死体はどこに行ったんだろう?」「誰か黒幕がいたんだろうか?」等々、それ以外にも謎だらけ(Wikipediaにはいくつか説が紹介されてますが)。日本史に詳しいA氏にでも、ご教示を乞いたいところ。
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京都新聞電子版(2007年8月7日)より
本能寺の無防備覆す 信長が“城塞並み”防御か
京都市中京区の旧本能寺跡で、「本能寺の変」の直接の証人というべき大量の焼け瓦が見つかった。瓦が埋まっていた堀には、堅固な石垣が積まれ、境内全域ではなく特定の建物を守る堀だったとみられる。織田信長が全く無防備の状態で襲われたのではなく、城のように防備を固めていた可能性が出てきた。
本能寺の変は、毛利攻めを命じられた明智光秀が謀叛(むほん)を起こし、1万3千の兵を率い就寝中の信長を襲った。信長はわずかな手勢で防戦したが自害、本能寺は炎上した。謀叛決行前、光秀が「敵は本能寺にあり」と配下に告げたとも伝わる。
ほぼ同時代の京を描いたとされる上杉本洛中洛外図(国宝)で、本能寺は瓦ぶきと板ぶきの建物が2棟ずつ描かれる。境内全体を囲む堀があったとみられるが、細かい部分は雲で隠れ、境内に堀があった可能性は知られていなかった。
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旧本能寺の堀跡で見つかった石垣(京都市中京区) |
調査を担当した関西文化財調査会の吉川義彦代表は「石垣の丁寧な造りは職人技」と驚く。今回、境内の内側にも堀が見つかったことで、二重の堀を持つ堅固な寺だったことになる。
本能寺を含む京の法華寺院は、町衆の信仰を集め繁栄したが、比叡山延暦寺の怒りを買い、1536年、天文法華の乱でことごとく焼かれ、その後、再建された。
今谷明・国際日本文化研究センター教授は「比叡山ににらまれていた再建時の法華寺院は、境内に堀は造れなかったはず。信長が寺を城塞(じょうさい)化するために造った堀だろう」とみる。堀は、掘った土砂を積み上げた土塁を伴うのが一般的だ。今谷教授は「堀や土塁で館を囲み、僧侶らが入れない特別な空間をつくっていたのだろう」と、信長が最期を遂げた館が堀の近くにあったと推測する。
一方、西川幸治・同センター客員教授(都市史)は「防御施設にしては中途半端で、信長のパワーにふさわしくない。天文法華の乱を経験した寺側が設けたものではないか」と話す。
いずれにせよ、信長の居館が堀や石垣で囲まれていたとすれば、映画などで描かれた本能寺の変のイメージは根底から覆ることになりそうだ。