牛込日乘

日々の雜記と備忘録

Our summer day withers away too soon.

2007-08-25 23:59:56 | Weblog
 近所の小学校で盆踊り大会をやっていたので出かけてみる。娘を初めて靴を履いて外を歩かせてみたのだが、すぐに慣れてはしゃぎ回っていた。太鼓の音にニコニコしながら手を動かしたり体を横に揺らしたりして、今にも踊りの輪に入っていきそうな勢い。

 私の実家があるあたりは夏休みも十八日くらいまでで、お盆が終わると夏もあっという間に去っていく。田舎の感覚だと、お盆というのは期間が厳格に決まっており、十六日を過ぎて盆踊りをするというのは私にとっては何となく居心地の悪い感じがする。まだまだ猛暑の余韻はあるが、日は確実に短くなってきている。

たまには甲子園

2007-08-19 23:59:08 | Weblog
 ゆっくりTVで高校野球を観る。
 帝京-佐賀北の試合はまれに見る好ゲームで満足。セミプロのような帝京よりも弱小公立の佐賀北を当然ながら応援していたわけだが、八回裏の帝京二遊間の守備はあっぱれ(→YouTubeより)。延長戦もハラハラし通しだったが、結局十三回の裏二死からの連打で佐賀北が勝利。

帰省

2007-08-19 00:02:43 | Weblog

(東京駅・長野新幹線のプラットフォームにて)

 一六日から一八日まで佐久に帰省。弟夫妻とは入れ違いになってしまったが、二月に亡くなった伯父の新盆に行ったりして、いとこたちと久し振りに会う。昨年は我が家も含め三人女の子が生まれ、親としては成長ぶりが気になるところ。それぞれ早かったり遅かったりすることがあるとはいえ、みんな元気で何より。来年くらいからは一緒に遊べるかもしれない。

 実家では、娘はいつもより広いスペースを得意そうに歩き回ったり、小さな西瓜を抱えたりして喜んでいた。一番気に入っていたのが仏壇の鐘(いま初めて知ったのだが「リン」というらしい)で、チーン、チーン、と鳴らしては笑っている。

 父親が新調したノートPCにSkypeとMS Messengerの設定をする。カメラが内蔵されているタイプだったので、ビデオチャットができるかもしれない……と思って帰京後に試してみたところ、大成功。内蔵マイクの性能も悪くなく、ヘッドセットなどを使わなくても十分実用に耐えられる。娘もPCの画面のじじばばに向かってニコニコしていた。

スティーヴン・オカザキ監督『ヒロシマナガサキ』(2007)

2007-08-15 23:59:42 | Cinema

 終戦記念日だからというわけではないが、岩波ホールへ『ヒロシマナガサキ』(原題は white light / black rain: The Destrustion of Hiroshima and Nagasaki )を観にいく。広島と長崎の被爆者たちのモノローグを中心に、原爆投下に直接関わったパイロットや技師らアメリカの当事者たちへのインタビュー、戦争当時の日米のニュース画像、戦後のアメリカ当局が記録したカラーフィルムやTV番組などを織り交ぜつつ構成されたドキュメンタリー映画である。

 被爆者たちの怒りや悲しみは、そのまま原爆を落としたアメリカへの、あるいはもっと早く戦争を終結させなかった日本の戦争指導者への敵意や憎悪として表れるというわかりやすい図式に当てはめてしまいがちなのだが、ことはそう単純ではない。例えば、ある被爆者の女性が、原爆投下機に搭乗していた兵士について「あの方もとても苦しんでこられたということがわかったから(彼を恨んでいるというわけではない)」とコメントするシーンがある。

 一方で、被爆当時十歳だった別の女性(妹も生き残ったが後に自殺)は、終戦後の広島に来ていたアメリカ兵たちに「なぜ、私たちの母を、姉を、兄を、兄弟を、何も悪いことしていないのに何で殺したんですか、と言いました。でも、日本語ですから相手に通じなかったと。ただニコニコ笑ってらっしゃたんですけど、返してくださいと叫びました」と回想している。

 どちらのことばにも嘘はない。

 お盆中にもかかわらず(であるがゆえに、と言うべきか)大入りで、開場時間の二十分ほど前には入場制限されていた。意外だったのは、観ていて辛くなる場面が多い映画なのに、明らかに二十代前半くらいの若い女性の姿が多かったこと。ざっと見て観客の三分の一くらい、それもごく普通の今どきのお洒落な女の子たちだった。女性誌か何かで紹介していたのだろうか、理由はよく分からないが、何となく明るい気分になった(もちろん市民運動家が観たっていいんだが、それだけじゃあまり発展性がないからね)。

 映画のパンフレットによれば、監督のスティーヴン・オカザキ氏は、一九五二年ロサンゼルス生まれの日系三世。Days of Waiting(1991)でアカデミー賞短編ドキュメンタリー部門を獲得しているほか、受賞歴多数。ヘロイン中毒患者からアメリカの酪農産業主催のミスコンなど多岐にわたる題材を扱ってきた。原爆を題材にしたドキュメンタリーもSurvivors(1982)、The Mushroom Club(2005)など何本か制作しているとのこと。


向日葵や信長の首切り落とす(角川春樹)

2007-08-07 23:59:20 | Weblog

 本能寺の変のときの状況というのが、昔から腑に落ちなかった。だいたい、近くに二条城もあるのに、どうして信長は丸腰に近い状態でわざわざ寺なんかに宿を取ったんだろう? ……と思っていたら、なかなか興味深い報道が。当時の本能寺は単なる寺ではなく、石垣を巡らした城のような構えを持っていたらしい。よく考えてみれば確かにありそうな話だが、下の記事にもあるようにTVの時代劇などではごく普通の寺院として描かれていたので、そのイメージを疑っていなかったのだ。

 とはいえ、「信長ともあろう者が、どうして『是非に及ばず』とか言って簡単に諦めてしまったんだろう?」「死体はどこに行ったんだろう?」「誰か黒幕がいたんだろうか?」等々、それ以外にも謎だらけ(Wikipediaにはいくつか説が紹介されてますが)。日本史に詳しいA氏にでも、ご教示を乞いたいところ。


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京都新聞電子版(2007年8月7日)より

本能寺の無防備覆す 信長が“城塞並み”防御か

 京都市中京区の旧本能寺跡で、「本能寺の変」の直接の証人というべき大量の焼け瓦が見つかった。瓦が埋まっていた堀には、堅固な石垣が積まれ、境内全域ではなく特定の建物を守る堀だったとみられる。織田信長が全く無防備の状態で襲われたのではなく、城のように防備を固めていた可能性が出てきた。

 本能寺の変は、毛利攻めを命じられた明智光秀が謀叛(むほん)を起こし、1万3千の兵を率い就寝中の信長を襲った。信長はわずかな手勢で防戦したが自害、本能寺は炎上した。謀叛決行前、光秀が「敵は本能寺にあり」と配下に告げたとも伝わる。

 ほぼ同時代の京を描いたとされる上杉本洛中洛外図(国宝)で、本能寺は瓦ぶきと板ぶきの建物が2棟ずつ描かれる。境内全体を囲む堀があったとみられるが、細かい部分は雲で隠れ、境内に堀があった可能性は知られていなかった。

写真
旧本能寺の堀跡で見つかった石垣(京都市中京区)
 調査を担当した関西文化財調査会の吉川義彦代表は「石垣の丁寧な造りは職人技」と驚く。今回、境内の内側にも堀が見つかったことで、二重の堀を持つ堅固な寺だったことになる。

 本能寺を含む京の法華寺院は、町衆の信仰を集め繁栄したが、比叡山延暦寺の怒りを買い、1536年、天文法華の乱でことごとく焼かれ、その後、再建された。

 今谷明・国際日本文化研究センター教授は「比叡山ににらまれていた再建時の法華寺院は、境内に堀は造れなかったはず。信長が寺を城塞(じょうさい)化するために造った堀だろう」とみる。堀は、掘った土砂を積み上げた土塁を伴うのが一般的だ。今谷教授は「堀や土塁で館を囲み、僧侶らが入れない特別な空間をつくっていたのだろう」と、信長が最期を遂げた館が堀の近くにあったと推測する。

 一方、西川幸治・同センター客員教授(都市史)は「防御施設にしては中途半端で、信長のパワーにふさわしくない。天文法華の乱を経験した寺側が設けたものではないか」と話す。

 いずれにせよ、信長の居館が堀や石垣で囲まれていたとすれば、映画などで描かれた本能寺の変のイメージは根底から覆ることになりそうだ。


六十二回目の廣島原爆忌

2007-08-06 23:55:41 | Weblog
 讀賣夕刊によると、全国の被爆者は三月末現在で二五万一八三四人、平均年齢は七四・六歳、この一年で亡くなったり死亡が確認されたりしたのは五二二一人との由。

 私は身内に広島あるいは長崎の人間が全くいないので、原爆に関する知識は基本的にはメディアを通じて知ったものである(高校の修学旅行で「語り部」の話を聞いたり、仕事で少し取材をしたりしたことがあるにはあるが)。遠く離れていると、被爆地の人々はすべて原爆に対する怒りを表明しており、特に実際に被爆した人はその残酷さを後世に伝えるために経験を進んで語っているかのような印象を受ける。しかし、どうもそれは間違いのようなのだ。

 先日酒席をともにしたある女性(二十代後半)は広島市内の船入町という爆心地に近いところの出身で、親戚にも被爆者が何人かおられる。数年前に亡くなったお祖母さんは戦争当時看護婦をしており、原爆投下直後から救護活動にあたったという経験を持っていた。しかし、詳しいことは孫にも決して語らず、被爆のことも基本的には隠してきた。というのも、被爆者に対する差別は想像を絶するもので、自分の身内が受けた理不尽な扱いに対していつも心を痛めていたから。そして、このお祖母さんのような考え方、生き方をしてきた(している)被爆者は、実はかなりいるというのである。ということや在外被爆者、さらに被爆者認定基準の曖昧さなどを考えると、冒頭の被爆者数というのも実際はもっと多いのだろう。

 全十巻におよぶ『はだしのゲン』でも、実はその七割以上が原爆投下後にもたらされた差別や病気、貧困などとの戦いの描写に費やされている。兵器としての核がもたらす被害は「熱線」「爆風」「放射線」の三つなのだが、それを生き延びた者が肉体的、経済的な打撃に加えてさらに精神的な苦痛に苛まれる。広島以後の世界に生きている人間として、この苦しみもまた決して忘れられてはならないと思う一方で、個人的な体験としては忘れたいと願う多くの人々が存在していることも理解できる。

 政治学者の故丸山眞男氏は広島で被爆しているが、「小生は『体験』をストレートに出したり、ふりまわすような日本的風土(ナルシシズム!)が大きらいです。原爆体験が重ければ重いほどそうです」と語っている(中国新聞のウェブサイト)。これは知識人としての発言なのか、それとも一私人としての本音なのか。