牛込日乘

日々の雜記と備忘録

世代間ギャップについて

2008-02-28 23:55:19 | Weblog
一。

 先週、友人から

 「牛込大学の近くの本屋で『ぴあ』はどこですか、と聞いたら、大学生のアルバイトらしい店員に『…ぴあ?(ナンデスカソレ)』みたいな対応をされた。近頃の学生は映画にも演劇にも行かないで、いったい何してるの?」(大意)

 という憤りのメールが来た。ま、行く人はネットなどで調べて行っているのでせう(自分が働いているところの商品を知らないのか、という問題は残るが)。

 十年ほど前、「最近の若者は『ぴあ』が読めないので『Tokyo Walker』を買っている」という話を聞いて驚いたものだが、事態はさらに進んでいる(というより、退化している?)のかもしれない。

一。

 ここ数年、電車の中などで大学の名前の入ったビニール袋を持った学生さんをよく見かける。教科書や書類などを入れているんだと思うが、二つ折りにするとA4くらいのサイズで、いくつか色のバリエーションがあって(といってもいわゆるスクールカラーは関係ないらしい)、何の工夫もない書体で

 USHIGOME UNIVERSITY

 とか書いてあるだけのものである。二十年くらい前はこういうものはなかったと思うが、よくわからないセンスではある。

 私の学生時代には「ブックバンド」ってのを使っている人がたまにいて(おー、これが「キャンパス」ってやつ?)、見ていてこっぱずかしい感じがしたものだが。

 で、今調べたところ、件のビニール袋は「キャンパスクラッチ」とかいふらしい。
 
 ……ふーん。

一。

 そういう学生さんたちの会話を聞くともなしに聞いていると、「シューカツどうする?」とか「シューカツしなきゃ」とか言っていることがある。就職活動を略して「就活」というらしいのだが、私の学生時代にはそういう言葉はなかったので、当初はかなり違和感を感じた。

 とはいえ、略し方としては理に適っていて(リズムも悪くない)、昔からなかったのが不思議といえば不思議だ。

 今の大学生から見れば私は二十くらい年上ということになるが、それは私が団塊の世代を見るのとちょうど同じである。私の世代が団塊世代をクサしているのと同じように、彼らは「まったく、だからバブル世代は……」とこき下ろすのでありましょう。そして、彼らが今の私と同じ年齢になる頃には、私も本格的に仕事の第一線からは退き始めているのでしょう。

 人生は思っている以上に短いかもしれない――という意外な結論に落ち着くのであった。

Where Have All the Bananas Gone?

2008-02-26 00:34:23 | Weblog

 娘がものを食べ始めてからというもの、我が家ではバナナを切らしたことがほとんどなかった。安くて栄養がある上、消化もいいしスーパーでもコンビニでも買えるというすばらしい食品なのだが、なぜか先々週から先週にかけて近所のどこの店でも売っていないという現象が起こっていた。ようやく見つけると一本一八〇円とか、普段の三倍くらいの値段だったりする。妻と「どうしてだろう?」と話していたのだが、これはもしかしたら一七日に開催された「東京マラソン」用に買い占められてしまったので一時的に市場に出回りにくくなっていたのではないか、という仮説に至った。調べてみると、参加者の栄養補給のために、六万本のバナナが用意されていたとか。



 ネット上をうろついていたら、高校時代の同級生が最近本を出したことを知った。もう二十年近く会っていないが、TVのプロデューサーをしているとのことで、「あー、確かに似合ってるなあ」と得心。特に親しいわけではなかったが、彼は典型的な頭のいい不良というタイプで、結局は文弱の徒である私は、何度か「コイツにはかなわないな」と思わされたものだ。

 ところで頭のいい不良とバカな不良のどこが違うかというと、私見によればそれは人間関係の構築力の差なのである。頭のいい不良というのは、人間の政治性というものをツールとして使うことに非常に長けている。それは単純な上下関係などではなく、刻一刻と変わっていくもので、彼らはその潮目のようなものを巧みに読み取って時には押し、時には引いて、いつの間にか集団の中で重要な位置を占めている(TVの制作現場のような切った張ったの世界では、誰がキーパーソンかを即座に見分け、その場その場で強力に人を動かしていく手腕が必要なのだろう)。これに対して頭の悪い不良は、人間の政治性には敏感だが、それを単純な上下関係に還元してしまうので、結局は人心を収攬することができない。

 ……というようなことを観察して終わってしまうのが文弱の徒たる所以であろう。

 日曜日の日経新聞についてくる「日経マガジン」という冊子の与太記事によると、オタクの時代はもう終わり、「これからはヤンキーの時代」なんだそうな。


Busy Doin' Nothin'?

2008-02-18 23:57:25 | Weblog
 半年間にわたる繁忙期がようやく一段落した。終電や徹夜の毎日でもまだ体力的には何とかなることは分かったものの、家庭生活との両立については課題が山積というのが実感だ。

 仕事というものの悪いところの一つはやっているうちに面白くなりすぎてしまうことで、より詳しく観てみるとそれは他者からの評価による自己確認や自我充足であったり、複雑な人生の諸問題と向き合うことからの逃避であったり、そう考えると明確な信仰心というものを持たない日本人が(何かの不安から逃れるように)仕事中毒になりがちであるということも合点がいく。しかしその反対に、宗教的な情熱に支えられたヨーロッパ人たちが地球全体に自分たちの仕事を広げたせいで現在の世界があるとも言えるが、いずれにせよ仕事には何か人間の業のようなところがある。

 当然ではあるが、「仕事」=ビジネスという訳でもない。十数年前にインドの旧ボンベイの近くのエレファンタ島という小島に行ったとき、島の相当な部分がヒンドゥー教の神々を彫った石窟寺院になっているのを見て、これらを作り上げるまでに要した労力を想像してクラクラしたものだが(有名なエローラやアジャンタの石窟寺院の規模はこの比ではないらしい)、こうした仕事をした人びとはもちろん金儲けをしようと思っていたわけではない。むしろ現世利益でなく彼岸の世界が確かに見えていないと人力であれだけのものはできないというのが本当だろうが、数百年後に我々の生きていた時代のモニュメントとして何が残され、後生にどのような評価を受けるのかを考えてみるのも面白い。

 まあ、何も残っていないかもしれない。

二月もはや六日…

2008-02-06 23:59:48 | Weblog
 金曜日、ようやく娘が退院。出社前に病院に寄り、服、おむつ、絵本などを家に持って帰る。すっかり元気になり、心なしか体重も増えたような感じがする。

 土曜は女子医大に入院中の義母が来宅。午後は出社。

 日曜は雪の中、定例の読書会でテネシー・ウィリアムズ(1911-1986)の短編集を読む。六〇〇ページ近いボリュームで事前にあまり読めなかったとはいえ、読んだ十数編はすべてよかった(特に戦前から戦後にかけての作品)。ホモセクシュアル故に女性の描き方が類型的という穿った見方もできるのかもしれないが、メジャーな演劇人として有名なこの作家がマイナー・ポエット的な味わい深い短編を膨大に残していたとは知らなかった。交流のあったゴア・ヴィダルによるイントロダクションもよかった。

TENESSEE WILLIAMS Collected Stories (VintageClassics, 1999)

 仕事は、ようやくマラソンで言えば競技場に帰って一周する段階になってきた。最後にこけないようにしなければと思いつつ、なかなか思惑通りにはいかないのであった。