カフェ・ド・クリエというコーヒーチェーンをたまに利用することがあるのだが、最近ここで「ご自由にお持ちください」と読売新聞のその日の朝刊が置いてあるのに気づいた。すべての店舗で実施しているのかどうかは不明だが、これには少し驚いた。カフェ・ド・クリエが新聞を仕入れているのか、読売新聞が無料提供を前提に置いているのかわからないが、フリーペーパーに関するある種の実験なのだろう。広告掲載料や影響力など、何らかのメリットが計算できれば、より広く展開するつもりなのかもしれない。それにしても編集という外から見ればそれなりに情報取得には金をかけていそうな仕事をしている私でも、職場の若い衆に「新聞とってる?」と聞くと大概は「とってません。ネットで充分だから」という答えが返ってくる。充分と思っているのは君の向上心がその程度だからだよ、などと言いはしないが(思ってはいる)、まあ新聞報道のありがたみなどというものはここ十年くらいで暴落してしまったことは明らかで、将来的にこれが回復するという事態もあまり考えられない。
米国では歴史のある新聞社が倒産したりしているらしいが、近い将来には日本でも大手の新聞社が経営危機に陥って合併したり倒産したりということが起こりうるだろう。十八世紀から十九世紀にかけて、欧米でのいわゆる近代市民社会の成立過程には、新聞やパンフレットなどのメディアがブルジョアジーと結びつきながらその理念を伝えるために大きな役割を果たしたということだが、それ以来商業ジャーナリズムというものには理想とか正義とか、あるいは早耳ゴシップとか、何らかの形で人の心を鼓舞するものがつきまとっていた。これらを下支えしていたものは実は理想でも正義でもなく、カネであろう(だから商業ジャーナリズムなのだが)。そのことを悪くいう気持ちは全くないどころか、私は商業ジャーナリズムが発達していない国には住みたいとは思わない。事例は……まあ言うまでもない。ついでに言えば投票率が異常に高いところにも絶対に住みたくない。
何の話だったか……。つまり、今までずっと月に数千円払って購読していた新聞というものがあっさりと無料で提供されているのを見て、そして自分でも無料で読んでみて、確かに楽しみはしたのだが一方で微かな不安を感じたということである。全面的にああ得したね、よかったね、という気分にならないのは、私が特に悲観的な人間だからというわけではないだろう。