牛込日乘

日々の雜記と備忘録

The best things in life are free, but...

2009-04-19 23:34:20 | Weblog
 昨年ロンドンを訪れた際に驚いたことの一つは、新聞が無料で配布されていることだった。日本でも、たとえばTokyo Headlineという週刊のフリーペーパーが発行されていて、私もたまに見つけて暇つぶしがてら目を通すこともある。しかし、ロンドンでは数種類のタブロイド判の新聞が街角の至る所で配られていて、しかも基本的には日刊紙。内容はいわゆるクオリティ・ペーパーというより、日本でいえば夕刊フジとか日刊ゲンダイをもっと若い人や女性にも読めるようにした感じであった。経済的側面からみれば日本が欧米に比べて遅れているというようなことはあまり考えられないが(東京ほど一般人レベルで何でも手に入り世界中の食べ物が楽しめる都市はほかにないだろう)、新聞の行く末についてはロンドンの方が先を行っている、日本でも数年後には大手の全国紙のうち二つくらい(M紙とかS紙とか)はフリーペーパーになるのではないか――と思ったものだった。

 カフェ・ド・クリエというコーヒーチェーンをたまに利用することがあるのだが、最近ここで「ご自由にお持ちください」と読売新聞のその日の朝刊が置いてあるのに気づいた。すべての店舗で実施しているのかどうかは不明だが、これには少し驚いた。カフェ・ド・クリエが新聞を仕入れているのか、読売新聞が無料提供を前提に置いているのかわからないが、フリーペーパーに関するある種の実験なのだろう。広告掲載料や影響力など、何らかのメリットが計算できれば、より広く展開するつもりなのかもしれない。それにしても編集という外から見ればそれなりに情報取得には金をかけていそうな仕事をしている私でも、職場の若い衆に「新聞とってる?」と聞くと大概は「とってません。ネットで充分だから」という答えが返ってくる。充分と思っているのは君の向上心がその程度だからだよ、などと言いはしないが(思ってはいる)、まあ新聞報道のありがたみなどというものはここ十年くらいで暴落してしまったことは明らかで、将来的にこれが回復するという事態もあまり考えられない。

 米国では歴史のある新聞社が倒産したりしているらしいが、近い将来には日本でも大手の新聞社が経営危機に陥って合併したり倒産したりということが起こりうるだろう。十八世紀から十九世紀にかけて、欧米でのいわゆる近代市民社会の成立過程には、新聞やパンフレットなどのメディアがブルジョアジーと結びつきながらその理念を伝えるために大きな役割を果たしたということだが、それ以来商業ジャーナリズムというものには理想とか正義とか、あるいは早耳ゴシップとか、何らかの形で人の心を鼓舞するものがつきまとっていた。これらを下支えしていたものは実は理想でも正義でもなく、カネであろう(だから商業ジャーナリズムなのだが)。そのことを悪くいう気持ちは全くないどころか、私は商業ジャーナリズムが発達していない国には住みたいとは思わない。事例は……まあ言うまでもない。ついでに言えば投票率が異常に高いところにも絶対に住みたくない。

 何の話だったか……。つまり、今までずっと月に数千円払って購読していた新聞というものがあっさりと無料で提供されているのを見て、そして自分でも無料で読んでみて、確かに楽しみはしたのだが一方で微かな不安を感じたということである。全面的にああ得したね、よかったね、という気分にならないのは、私が特に悲観的な人間だからというわけではないだろう。



ラッセル「知的水準の低下」(2/2)

2009-04-08 00:09:50 | Translations

<承前>
 ある簡単な実験によって、読者も友人の正確性を判断することができるだろう。彼らにここ数か月の間に読んだ本のタイトルを尋ねてみよう。ほとんど必ずといっていいほど、彼らが間違えるのがわかるだろう。本当によく知っている人をのぞけば、知人の名前や住所についても間違えるのである。ある事実がただそれだけのことであって感情や評価の問題ではない場合はいつでも、それが正確に思い出されないことがわかるだろう。これは現代の教育の「ソフト」な特徴と関連している。以前教えられていたことのほとんどはそれ自体としては役に立たないものだったが、正確性を教えるという利点があった。最先端の学校で教えられていることはそれだけ見ればたいていは知る価値のあるものだが、そうしたやり方で教えられるために、結局は生徒たちには分からないのである。その結果、大人たちは精神的にだらしないのが常態になり、邪な動機を持つ事実の歪曲に注意することをやめてしまう。

 手に職を持とうとする現代の若者たちは学校では怠けて、技術的な訓練を始めるときになって一所懸命勉強し始めるという傾向がある。法学部や医学部でそうした若者は知識を得ようと懸命に努力するのだが、それはその知識が彼にとっては明らかに経済的な効用があるからなのだ。しかし、彼のそれ以前のいわゆる教育の期間においては、彼は何とか無教養であろうと努めてきたのである。知識を獲得するのが好きな少年少女たちも少ないながら存在するが、例外的である。

 思うに、教育改革者たちは、過去のばかばかしいほどの過酷さに対する反動の中で、懸命に取り組むことがあらゆる人間の義務であり、若い時代というのが全くの遊びのための時間として扱われることは許されず、大人としての仕事の準備のための重大な側面があるはずだということを、たぶん見過ごしてきてしまったのである。若い時代に遊んでばかりなら、後になって働くことは唾棄すべきものになるだろう。そしてとりわけ、現代社会は以前の時代よりも複雑になっているため、市民によるより知的な訓練を必要としている。それゆえ、知的水準の低下は二重の意味で不幸であり、確実に現在の世界の悪い状態の原因の一つになっているのである。

一九三二年一〇月一九日

 


ラッセル「知的水準の低下」(1/2)

2009-04-07 01:22:52 | Translations

 現代の生活は、労働を省力化するための道具に順応させられている。我々は馬の筋肉によるものの代わりに、機械的な牽引力によって移動する。我々は自分たちの足の代わりに、エレベーターやエスカレーターを利用する。コックは粉末を缶から出して使い、昔ながらの方法でスープを作ってくれといわれればわざわざそれに注目させたりする。以前は鍬を引いたり刈り入れをしたりするのは非常に過酷であり、実直な骨折り仕事を免除されている詩人によって詩の中で嘉せられた。最近では、農作業に従事する人たちは機械の上に楽々と座っている。こうした空間上にあるものを移動させることで成り立っている人間の労働のすべての要素は、うんざりするようなものではなくなった。それは以前とは比べものにならないほどである。過去と比較すると、現代の生活は、筋肉労働という観点から見れば、長い休暇のようなものだ。

 知的な問題についても、同じように骨折り仕事が減ることを期待するような傾向がある。以前であれば学校における厳しい勉強(ワーク)は当然のものを見なされていたのだが、それはすべての仕事(ワーク)は厳しいものであると考えられていたからである。最近では、すべての仕事は楽ちんなものであるべきだという、それとは反対の気分がある。学校における勉強の非常に多くが、かつては悪い教え方によって不必要に難しいものにさせられていたというのは事実である。しかし、教えるための方法がどれだけ優れたものであろうとも、生徒の側の厳しい努力がなければ学ぶことのできないことは大量に存在する。現代の教育者には、この事実を不当なものと考え、このような簡単にすませることのできない学問的な訓練の部分を過小評価しがちな者が多い。アメリカではどうなっているのか私は知らないが、視学官たちの報告するところによれば、イングランドにおいては例えば計算の課題では三十年前に比べて正確性が劣っている。イングランドの小学校は計算に常に重きを置きすぎてきた傾向があるので、この特定の変化を残念に思うべきではない。しかし、他の方面では正確性の低下はより深刻である。