小さな災難に会ったときに十中八九の人がより幸せになるというのは、奇妙な事実である。三十五年前にはじめてアメリカを訪問したときの話であるが、私が旅行していた列車が雪だまりで立ち往生してしまい、列車に積んであった食料を全部食い尽くしてしまったあと何時間もニューヨークに到着しなかった。私は乗客の中の誰が食われるのか、くじ引きでも始まるのではないかと思いはじめていたが、実際はそれどころか、みんなが意気軒昂なのであった。普通の状態ではお互いに嫌い合っていたであろう人々がお互いに好意を持ち合い、みんなが明らかに例外的なレベルの幸福に達していたのである。
同様のことを、私は本当に霧がひどいときのロンドンで見たことがある。普通の霧であればちょっと厄介という程度のものだが、自分の足すらも見えないというひどい霧は、陰鬱そのものといった人にさえ慰めをもたらす。人々は全然知らない人にさえ話しかけはじめる――ロンドンではほとんどあり得ないことだ。彼らは忘れないでいる若い頃のもっとひどい霧を思い出す。そして、ハイド・パーク・コーナーで迷子になり、全然違う街の警察官にたまたま出会ったために発見された友人たちのことを話すのだ。
みんなが楽しみ、みんなが陽気だ――霧が晴れ、再び彼らが素面で重々しく、責任ある市民に戻るまでは。
残念なことだが、避けようのない小さな災難についてなら十分妥当と思われるこの気分は、避けられたであろう大きな不幸に対しても当てはまってしまいがちである。私は難破や噴火や深刻な地震に遭遇したことはなく、こうした経験がすべて楽しいわけではないと思う覚悟はある。しかし、私は世界大戦〔第一次世界大戦〕の始まりを、そのときのみんなの気分が、ほとんどひどい霧のときと同じだったということを――ひとつの浮かれて興奮した親密さを忘れはしない。最初の頃は、来るべき恐怖を予想して悲しんだものはきわめて少数であった。お気楽な自信というのが、関連するすべての国々における状況であった。
正反対の方が自然に思われるような状況での、この奇妙な幸福の過剰には、二つの理由がある。一つには、人間は興奮を愛するということである。我々のほとんどは、退屈に押しつぶされそうな世界を動き回っている。もし象が石炭貯蔵庫の中に落ちてしまったり、ガラス窓に木がぶつかって応接間の一番いい家具をたたき壊してしまったりするとして、事故それ自体はもちろん残念なものであるが、ただそれが非日常的であるという事実がその埋め合わせをする。近所の人に対する話の種があり、二十四時間くらいは話題の中心になることを望むかもしれない。興奮というものはそれ自体において気分のよいものだ。もちろん百万長者の伯父から遺産を相続するとか、そういった愉快なことがその興奮の元になっているとしたらもっと愉快にだっただろうとしても。
しかしながら、雪だまりや霧や戦争の場合においては、もう一つの要素があった――すなわち、みんなが同じように感じていたということである。通常は、我々一人ひとりはそれぞれのことにかかり切りになっている。他の人々は我々の邪魔をするかもしれないし、うんざりさせるかもしれないし、すっかり失敗して我々の気を引くかもしれない。しかし、どうということのない感情が群衆全体を駆り立てるような場合があるものだ。もしそれが起こると、その感情はそれ自体において愉快なものではないとしても、それが共有されているという事実が、他の方法では得られないようなおかしな幸福をもたらすのである。
もし我々がみないつでも集合的感情の状態になりうるとしたら、我々すべてはいつも幸せで、いつも協力的で、いつも退屈とは無縁だろう。おそらく、将来の政府の心理学者はこの成果を手にするだろう。休日は空に書かれた巨大な文字で始まるのだ。曰く、「火星人が君たちを侵略しようとしている。すべての男、女、そして子供は各々その本分を全うせよ。」夕方までには、攻撃は撃退されたとアナウンスされるだろう。こうして、みんなが幸福な休日を実感するだろう。これらは科学の勝利の中にあるが、世界はまだそこまで熟していない。
一九三二年二月一〇日
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Why We Enjoy Mishaps
Bertrand Russell Mortals and Others –American Essays 1931-1935 Routridge, 1996