牛込日乘

日々の雜記と備忘録

ある憂鬱な戦後史

2006-07-04 23:48:27 | Weblog

 今日、ネットで見た記事(讀賣の朝刊でも目にした)。

戦艦大和 沈められる直前の無傷の写真発見
 広島県呉市の市海事歴史科学館(大和ミュージアム)は3日、戦艦「大和」が1945年4月、沖縄へ特攻出撃する直前の写真を米国立公文書館所蔵の記録写真の中から見つけた、と発表した。沈められる直前の無傷の「大和」の写真が見つかったのは初めてという。
 写真は45年4月6日午前10時ごろ、山口県徳山沖の周防灘で、米軍B29偵察機が高度9296メートルの上空から撮影。戦闘準備を整える「大和」や周囲に巡洋艦、駆逐艦など6隻も写っている。「大和」には、レイテ沖海戦後の44年末に増設した艦尾部の三連装機銃台座などが確認されるという。
 「大和」など10隻の第二艦隊が沖縄へ向けて出撃したのは、写真撮影から約5時間後の午後3時20分で、翌7日午後、沖縄沖で猛攻撃を受け沈没した。【牧正】
(毎日新聞) - 7月4日10時8分更新


 四、五年ほど前の独身時代、文京区千石のオンボロビルに住んでいた。すぐ近くには鈴木貫太郎元首相の、裏手には『戦艦大和ノ最期』で知られる吉田満氏の家があった(勿論ともに故人だが)。鈴木家は和風、吉田家は洋風、どちらとも上品でそれなりに立派ではあるが、言われなければまずそれと気付かない二階建ての一軒家であった。

 『戦艦大和…』は私も一読し、当時二十歳そこそこの若者が死を覚悟しつつ与えられた運命に対し力を尽くそうとする姿や何よりその文語体の無駄のない文章にそれなりの感銘も受けていたので、「ほう、ここが……。」などと思ったものだった。この写真の大和に、その吉田氏が実際に乗り込んでいたのだ。勿論その後の運命について、このときの氏は知る由もない。

 九死に一生を得た吉田氏は戦後は東大法学部を出て日銀に勤め、日本の戦後復興から繁栄に至るまでの時代の指導的立場の一員として活躍されたとのこと。私にはまず能力的にもこのような生き方はできないが、自分の持てる力を社会のために生かそうとするいい意味でのエリートの存在というのは、現在でも(こそ)必要であるとは考えている。

 さて、少し前のこと、ネットで仕事上の調べ物をしているときに、偶然あるブログサイトに行き当たった。主催は何かのコンサルティングをしているビジネスマンらしいのだが、自分の著作をAmazonのレビューで否定的にコメントされたことを異常なまでに根に持ち、常識では考えられない低劣かつセンスのないやり方と言葉でそのコメントを書いた人(仮にB氏)を攻撃しているのだった。

 その常軌を逸した阿呆さ加減に逆に興味をひかれ、一気にその顛末を読んでしまったのだが、私にはどう見てもB氏の言い分が正しく思われた。何より、この現代のエリートを自負していると思われる何とかコンサルタント氏(東大卒→電通→独立という人らしい)の夜郎自大に、「戦後の繁栄が生んだ最良と呼ばれる部分がこういう層なのだとしたら、まあ、この社会はもう一度滅ばないわけにはいかないであろう」と思わざるを得なかったのである。

 さらに少し調べてみると、この何とかコンサルタント吉田某氏というのは、驚くなかれ吉田満氏のゴレイソクであるとか。悪ふざけかとも思えるあんまりな展開であるが、これも戦後の六十年を閲して成ったひとつの奇跡的なエピソードかもしれない。喜劇を見て気が滅入るのは決して珍しいことではない。