牛込日乘

日々の雜記と備忘録

「みんなそう言っている」

2006-07-02 23:45:32 | Weblog

 午後二時から、住んでいる集合住宅の区分所有者による管理組合の総会というのがあり、出席。事前に知らされていた三つの案件について話し合う。そのうちのひとつがかなり大きな問題であり、二時間近くが費やされた。具体的な内容は略すが、これはいわゆるトレードオフの問題で、某社から提案されたAという選択をすればBというメリットがあり、そのメリットを享受するためにはC and/or Dというリスクを負うことになるが、どうするか(もちろんAを選択しなければ何も変わらず現状維持)――というもの。

 私個人としては、C, D, E, ...というリスクは現代人として生きている以上はこの問題があろうがなかろうが背負っているものであるから、BというメリットのためにAの選択をするのもよいのではないか、と考えているので、賛成とした(もちろんAの選択にあたっての諸条件についてはまだまだ検討の余地があるが)。しかし、どうしても賛成しなければならないというものでは全くなく、「まあ、悪い話じゃないんじゃない?」といった程度である。

 結果としては二人の強硬な反対があり、それに半ば引きずられる形でこの議案は否決された。反対意見にはそれなりの根拠もあり、それも個人の価値観に負う部分がかなり大きい問題でもあるので「そういう考え方もあるのは分かるけどね……」とは思う。しかし、気になったのはその二人(五〇代から六〇代と思われるの男性と女性)の「みんなそう思ってる」「誰も賛成なんかしませんよ」という語り口だ。(特に女性の方はよくわからないが途中からすっかりつむじを曲げてしまい、もはや議論の成り立つ余地はないように思われた。)

 お二人のご意見のうち、男性による主張は、私はそれほど気にならないが、まあ気になる人もいるんだろうという内容のものだった。しかし、少なくとも私はその「みんな」の中には入らない。そこで「いや、私はその問題についてはあなたほど拘っていません。だからそのみんなの中には入れないでください」と発言することもできたろう。しかし、私はそうはしなかった。問題そのものがどちらに転んでもそれほど私自身の利害に大きな影響を与えるものではなかったから――と本当に言い切ってしまっていいのだろうか。

 あえて衝突を避けるために主張を控えること、自分の主張のために牽強付会の数の論理を振りかざすこと、いずれにしてもあまり気持ちのいいものではない。確かなのは、その両方にその人が今まで生きてきた基本的な態度というものが形をとって表れているということだ。集会が終わり、雨の上がった空を見ながら、何となくイヤな気分で自室に帰ったのだった。