こうした場面では、当たり前だが<曖昧な日本の私>というのが許されないので、腹芸とかなだめすかし脅し泣き落としの類の小技にはほとんど意味がない。「ま、ここは一つ。」とか「いやいや、そんなこと仰らずに。さ、さ。」とかいうニッポンのオトナ語にはそれなりに味わいと哀愁があって私は全面的に嫌いではないのだが、会議で発言しても通訳は何とも訳しようがないだろう。
言語間のコミュニケーション・ギャップというのはコストがかかる。もちろん、通訳を時間単位で雇うのにも対価が発生するわけで、どれだけ支払っているのか知らないが、純粋な日本企業からすればなんと無駄なコストかということになるだろう。私も「どうしてこんなことを一から説明しなけりゃならないんだ?」という憤りを瞬間的に感じることはしばしばある。
とはいえ、やはり<お互いに言語化して理解できたことだけを基準に意志決定する>というスタンスは組織にとっては悪くない。もちろん、違う言語を使用する者同士がお互いを尊重する態度と適度な緊張感を持っている限りにおいて、ではあるが。あるいは、これは言語を同じくする個人間についても言えることである。日本的な年功序列システムというのは上意下達には向いているので、正しい意志決定がされているという限りにおいては有効であるが、容易に馴れ合いに転化するという欠点がある。同時に、馴れ合いというのは横並びの関係だけでなく主人と奴隷の関係にも成立することにも注意しなければならない。