サブカル系ライター、編集者の川勝正幸氏が死去との報道。自宅の火災で亡くなったとのことだが、ベッドの周りがもっとも焼けていたという記事もあり、寝煙草でもしていたのかもしれない。まあ、堅気の会社勤めなどしていると、近年は寝床ははおろかオフィスや家の中ですら煙草を吸うなどということが信じられないような風潮なのだが――個人的にはこのような風潮がいいものだとはまったく思えないのだがそれはともかく――、川勝氏はフリーランスかつ独身で生活していたとのことなので、一九八〇年代から今に至るまでそうしたライフスタイルを続けていたとしてもあまり不思議ではない。
八〇年代は私の十代とほぼ重なるのだが、当時は古き良きサラリーマン社会が確固たるシステムとして機能していたので、そのアンチたるサブカルチャー的な、フリーランスで生きるというスタイルにも息が抜けるカウンターバランスとしてそれなりに存在価値があった。また、日本の世の中全体にそれを許容する経済的な余裕もあった。 エスタブリッシュメントがあるからアウトローがその存在意義を主張できるようなものだが、現在のようにきちんとすべきところがグダグダになってしまい、フリーになりたくないのになってしまうような若者があふれている状況では、フリーランスの矜恃というものを保つのも相当大変なのではないか。
私の出身大学は中堅サラリーマン製造学校である一方で著名なフリーランサー(作家、タレント、メディア関係者、音楽関係者等々)を数多く輩出していて、恥ずかしながら私も密かにそうしたライフスタイルに憧れて入学したようなものなのだが、実際に若くして桁外れに才能がある人間が身近にいたりすると、とてもじゃないが自分のような者がそんな生き方ができるなどとは思えず、ない知恵を絞って悩みながらに卒業が近づいた頃に、サラリーマン社会では自分の属性が意外と受けがいいことに気付いて、「まあ、いいか」という感じで何となく就職してそのままサラリーマン社会に溶け込んでいくというのが大方のパターンであった(それでいて、学生時代の知り合いの知り合いくらいがメディアに取り上げられたりすると、「こいつのことは学生時代から知ってるんだ」と誇らしげに語ってみたりするのである)。
川勝という人は、たぶん、かなりフリーランス的な才能に恵まれた人だったのだろう。しかし、「かなり」であって「絶対的に」ではない。努力してそれを獲得してきたように思われるのだ。たとえば、この人の「福岡県出身、中央大学法学部卒、広告代理店にコピーライターとして就職後に退社してフリーランスに」という経歴を見ると、何か複雑な気持ちになる。たぶん、地元では子供の頃から優等生で、”中大の法科に行って将来は弁護士”などと期待されたにも関わらずよく分からない浮ついた仕事をして(田舎の大卒サラリーマンのイメージは役所勤めか銀行員くらいだろう)、親戚からは「正幸はいったい何をして食っているんだ」などと言われ……(いや、完全に想像です。違ってたら申し訳ない)。それでも好きなことを仕事にしているんだという矜恃があれば堂々と生きていけるのだが、死んでしまっては元も子もない。
近年、今野雄二やら中村とうようやら、私がハイティーンから二十代はじめ頃にかけて活躍していたサブカルチャーのリーダーが次々に自ら命を絶つようなことがあって、私は今野氏や中村氏、あるいは自殺したというわけではない(だろう)川勝氏にも個人的な思い入れはほとんどないが、こうした人種が生きる余地が社会になくなってきているというのは、どうもあまりいいこととは思えない。
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実は川勝氏の姿を、五年前に行った「細野晴臣トリビュートライブ」で見かけたことがある。ちょうど私の前の席に座っていたのである。穏やかな表情の、人柄の良さそうな佇まいが印象に残っている。合掌。