牛込日乘

日々の雜記と備忘録

出版の終わりの始まり?

2010-04-26 00:18:07 | Weblog
 今年はいよいよ電子書籍元年になりそうだということで、まあこれについては十数年前から何度も何度も言われてきたことではあるが、アメリカでのAmazon KindleのヒットやアップルのiPadの発売にかつてない注目が集まっているところなどを瞥見するに、直感的に今度こそある程度本当かもしれないという気もする。ソフトがなければどうしようもないのだが、これはいずれ法整備もされ、さまざまな業者が電子書籍販売の仕組みを提供し始めるだろう。それまでに守旧的な出版業界はさまざまな抵抗を試みるだろうが、大きな流れには勝てないだろう。この十年でダウンロード販売が当たり前になってしまった音楽業界を見れば、出版業界だけが変わらないというのは信じられない。

 まあ、私も出版業界の片隅にいる者として人ごとではありえないのだが、一消費者として考えた場合には全然抵抗がない。書籍代をケチるようではおしまいなので月数万円は費やしていると思うが、その割に私は本そのものに対するフェティシズムが希薄で、後生きれいに保管しておきたいという趣味がない(すでにカバーがあるのにさらに書店で紙を巻いてもらっている人の感覚が分からないし、読むときはカバーすら外してしまう)。なので、特に新刊で出るような読み捨てる本については電子版で一向に構わない。場所を取らないだけで十分に意味がある。

 とはいうものの、商売として考えた場合は困ったものである。多分、電子版は紙の書籍の三分の一から四分の一くらいの価格設定になるだろう。それで購買者が三倍に増えればよいのだが、そう簡単にはいかない。本を読む(あるいは使う)時間というのは有限なので、いくら安くなったからといってもその分余計に本(というか、コンテンツ・データ)を買うということにはならないだろう。出版社としては、紙ではできない価値(音声とか動画とか付属テキストとかSNS機能とか)を付けるなどして紙の本とあまり変わらない価格を維持するとか、抱き合わせで購入単価を上げるとかしないと、単純に売上が維持できない。流通や倉庫にかかる費用はある程度下がるだろうから、利益という面からはもっと精査しなければならないが、いずれにせよこれまでのビジネスモデルだけでは成り立たなくなることは容易に想像がつく。

<つづく>

Quelle coincidence!

2010-04-07 23:27:35 | Weblog
初対面の著者候補と会うために長野市に日帰り出張。私の社会人としての振出しは一九九三年に(まったく思いがけず)長野市から始まったのだが、思えば一七年前になるのか。昼過ぎに長野駅に着くと、気温六度くらいとかなり寒かった。入社早々、四月だというのに雪が降り、ますます都落ちした気分になったことを思い出す。仕事の打合せ場所は長野市役所近くのロイヤルホストで、ここも当時何度も行ったものだった。

夕方仕事が終わった後に、長野勤務時代によく通っていた古本屋、善光洞山崎書店に立ち寄る。同行したベテラン営業マンS氏もずっと懇意にしていたことが分かり、びっくり。吉田健一『甘酸っぱい味』(新潮社、一九五七年)、井伏鱒二『文士の風貌』(福武文庫、一九九三年)、安藤鶴夫『三木助歳時記』(旺文社文庫、一九七五年)を購う。すべてとうに絶版で、しめて二五〇〇円也。当時から掘り出し物が多かったが、これはかなり安い。

帰る前に食事していこうと思って駅前をぶらつくが、なかなかいい店が見つからず。言っては何だが、どうも昔から長野市にはうまいところが少ない気がする。思いついて、何度か行ったことのある蕎麦居酒屋を訪れたところ、なんとそこで宴会中の昔いた会社の上司に再会。こっちも驚いたが、向こうはもっと驚いていた。カウンターで一時間ほど昔話に興じ、二〇:二〇の新幹線で帰京。

April Fool's Gold

2010-04-07 00:12:27 | Weblog
組織の中で他の人より仕事ができるっていうのは、自分だけがお利口さんになるってことじゃなくて、内にも外にも数え切れないほどいるおバカさんとか分からず屋さんとか、まあそういった困ったちゃんたちの使える部分を何とか引き出してその気にさせて動かせる力があるってことだと思うんだけど、アタマのいい君たちにどうしてそんなことが分からないのかねえ?