もっきぃの映画館でみよう(もっきぃの映画館で見よう)

年間100本の劇場鑑賞、音声ガイドもやってました。そんな話題をきままに書きます。ネタバレもありますのでご注意を。

希望の国 何を記憶しておくことが必要だろうか?<ネタバレ大あり>

2013-02-27 23:22:10 | その他(邦画)
見たい見たいと思っていても、福知山に住んでいると、なかなかタイミングが
あわずに見逃してしまう作品があるもので、昨年の邦画で、一番残念に思って
いたのが、この「希望の国」。「愛のむきだし」園子温監督というだけで、
引きが強い。さらにテーマが「原発」ともなれば、なんとしても劇場で
みたいものだと、思っていたところ、大阪・心斎橋シネマートで再上映が
決定。ラストチャンスと、この作品のためだけに、京都から心斎橋経由で
福知山最終で帰ることにした。3月にはDVDがでるのに、そこまでするか?
という気もなかったわけではないのですが。行って良かったです。
ここまで満足度の高い作品を連発する、園監督はすごいなあと改めて思ったし、
ちらしにもあった雪の中の大谷直子と、夏八木勲のシーンの美しさは、
邦画ならではの屈指の名場面だと思います。

希望の国 [DVD]
松竹



【冒頭】
テロップで長島県とでたときは、福島県じゃないのと思った?
○島県というわけにもいかないから、一文字替えたのかと見ていたが、
「チェルノブイリのとき・・」「福島のとき・・」とのセリフもでてきた。
福島県であれば、何がおこるかはこの2年みてきたわけで、果たしてそれを
どのように描くかという心構えでいたのだが、これから何が起こるのかと、
不安になる。さらに、いきなり主人公の家の庭を横切って原発20kmの境界の
黄色い立ち入り禁止のテープが張られる。私の職場は、原発30km内にある。
これは日本のどこでもおこりうる近未来の話だ。

【ストーリー】
公式HPからの引用です。
そのあとにネタバレがはじまりますのでご注意ください。

舞台は東日本大震災から数年後の20XX年、日本、長島県。酪農を営む小野泰彦は、
妻・智恵子と息子・洋一、その妻・いずみと満ち足りた日々を送っていた。
あの日が来るまでは。長島県東方沖を襲ったマグニチュード8.3の地震と、
それに続く原発事故は、人々の生活をたちまち一変させる。原発から半径20キロ
圏内が警戒区域に指定される中、強制的に家を追われる隣の鈴木家と、道路ひとつ
隔てただけで避難区域外となる小野家。だが、泰彦はかつてこの国で起きた
未曾有の事態を忘れていなかった。国家はあてにならないと言い、自主的に
洋一夫婦を避難させ、自らはそこに留まる泰彦。一方、妊娠がわかったいずみは、
子を守りたい一心から、放射能への恐怖を募らせていく。
「これは見えない戦争なの。弾もミサイルも見えないけど、そこいらじゅう
飛び交ってるの、見えない弾が!」
その頃、避難所で暮らす鈴木家の息子・ミツルと恋人のヨーコは、消息のつかめない
ヨーコの家族を探して、瓦礫に埋もれた海沿いの町を一歩一歩と歩き続けていた。
やがて、原発は制御不能に陥り、最悪の事態を招いてしまう。泰彦の家が避難区域
となり、強制退避を命じられる日も刻一刻と迫ってきた。帰るべき場所を失い、
放射能におびえる人々。終わりなき絶望と不安の先に、果たして希望の未来は
あるのだろうか?

★ここからネタバレ大です。主な、登場人物である3組の男女、それぞれの
ラストシーンについて言及しています。

文中での「あの日」は、長島県で震災の起きた日をさします。

【鈴木家の息子・ミツル(清水優)と恋人のヨーコ(梶原ひかり)】
ミツルは、遊んでばかりいる若者。「あの日」もバイクの後ろにヨーコを乗せて、
遊びに行っていたが、カノジョの両親は、津波に流されたようである。ミツルは、
両親を探すヨーコにとことんつきあい、警戒区域にもはいってゆく。
そこで、ビートルズのレコードを探しているという幼い子二人に出会う。
「これからの日本は1歩2歩3歩なんておこがましい」
「これからは、一歩、一歩。」
そう言って消えて言った子供は、津波に流された両親の亡霊か?
それから、二人は「一歩、一歩」と歩いてゆく。

このメッセージは、今年最初にみた「おだやかな日常」に近いと感じた。同作品の
内田監督は『この映画をとらないことには前へ進めない』といい、私は、
『何も考えず、前へ進もうとしている人と国に対する警鐘』の映画とブログに書いた。
一方で、この映画のメッセージその1は『一歩一歩』。原発を推進してきたような
1歩2歩3歩と進めるのではなく、着実に十分考えて進もうということだと思う。

【酪農を営む小野泰彦の息子・洋一(村上淳)と妻・いずみ(神楽坂恵)】
一昨年末、20歳年下の神楽坂恵と結婚した、園子温監督。本作品は結婚後最初の作品
と思うのだが、冒頭の洋一のはしゃぎっぷり、はりきりぶりは、実生活での二人の
喜びがつたわってくるようでもある。ところが「あの日」があり、20km圏外ながら
二人は、洋一の両親と、30頭の牛を残し自主的に避難。そこで妊娠5ヶ月の吉報を得る。
だが、いずみは、病院で、隣り合わせになった妊婦から、ずっとその地にいるのに
(警戒区域から来たわけではないのに)『私の母乳からセシウムがでだんです。』
と聞かされる。妊婦役の、占部房子の訴えかける目は見もの。

占部房子は、映画『バッシング』で、中近東でのボランティア活動から日本に戻り、
自己責任等々バッシングを受ける役を演じていたことを思い出す。つまり、
このささやは、バッシングが、占部房子から、いずみへと伝授されるという
儀式的意味合いがあったのではないかと思うのだが考えすぎか?

いずみがバッシングを受けたのは、なんとしてでも放射能からお腹の子供を守ろうと、
洋一に『おまえは宇宙飛行士か?』と言われる過激な防護服で、街を闊歩したからで、
周囲から奇異の目でみられ、洋一は職場で、わらいものとなる。ただここで注目
すべきは、いずみの図太さ。放射能には恐怖心を持ちながら、周囲の人間に対しては
とても強い。また実際、いずみを笑っていても内心不安な部分をだれでももって
いるのではないだろうか?むしろ、自分の精神衛生維持のために笑っているとも
とれた。

二人は、さらに放射能の届かぬ遠くへと移動。新たな島へと橋をわたるとき、
助手席から首をだして防護服のフードをはずす、いずみの笑顔がすがすがしい。
だが次のシーン、そのX年後?。浜辺で子供と遊ぶシーン。少し離れたところで
洋一が寝そべっている。幸せそうなシーンで、ガイガータウンが鳴り響く。
激しく動揺する洋一に対して、いずみがいう。「愛があれば大丈夫」

???いずみは、ガイガーカウンターの音を聞いたのだろうか???
聞いていないのであれば、放射能のない世界であれば、愛があれば大丈夫と
すんなりと受け入れられるのだが。
聞いているのであれば、理解しがたい。いつのまに耐性を身につけたのか?
子供がうまれて強くなった?最後に頼るのは女性しかない?何がなんでも
園監督は、神楽坂恵に、そういわせたかったのか?
ただ、原発事故は繰り返される。人類は生き続けるとすれば、そのときに
何が救いになるかとしたら、愛(と女の図太さ?)だというのは理解できる。

※このいずみのラストシーンは、重大な見落としがあるかもしれず、次みたら、
ころっと感想が変わるかもしれません。

【酪農を営む小野泰彦(夏八木勲)、妻・智恵子(大谷直子)】
前述の息子夫婦のシーンが、園監督の妻・神楽坂恵に対する愛のシーンとれば、
夏八木勲・大谷直子の夫婦のシーンは、実生活で認知症という園監督の母に対する
愛のシーンのように思えました。

ちなみに、役者、大谷直子さんの実年齢は、1950年4月生まれの62歳。役柄上も
その年齢とすると認知症としては、若年性認知症。まだ体も動く。残念ながら、
短期の記憶は乏しく、原発のニュースのたび「原発できたの。残念ねえ」という。
自分のことを21歳と言い出したり、幻聴、幻影もある。だが「あの日」まで、
いや「あの日」以降も、庭の手入れをし、絵をかくのもうまいし、夫の支えもあり
本人にとって幸せな日々が続いているように見えた。息子夫婦が去ってゆくとき、
息子が父親を激しくハグし、母親に対してあまり反応しなかったのは???だけど。

夫婦だけ取り残された家で、夫・夏八木勲は、家事を行い、妻が「帰ろうよ」と
いうたび「10分」たったら、帰ろうという。10分前の記憶がない妻に対して、
声を荒らげることもなく、受けとめて、最善と考える応えをする夫。発症から
ここまで何年たったのだろう。回想シーンがなくとも、今を演じて、二人の年輪を
感じさせてくれる。(祝・毎日映画コンクール男優主演賞)

ある日、妻・智恵子は、幻聴か、笛の音に誘われて警戒区域へと入ってゆく。
これを着て盆踊りに行くのと行っていた、青地に桃色花の咲いた着物を着て、
牛やヤギも歩く道路をとおり、会場となる街へと入ってゆく。いつしか雪が降り始め
智恵子は瓦礫のなかを、まるで周りに人がいるかのように、「盆踊りに行くんです」
と、嬉しそうに受け答えしながら会場に到着。あたりは一面雪野原。
ひとりで踊りだす智恵子。そこへあたりを探しまくり、ここだと気づいて警戒網を
車で突破してやってきた夫・泰彦と出会う。智恵子21歳の盆踊りの再現。
智恵子をおぶって帰る泰彦。二人の背景は、白っぽいななにも明かりがさしてきたような
幻想的な空の色(コレ、ちらしにもなっているシーン)
私がメモ書きしたところでしょうがないのだが、この一連の場面は、美しくて、
切なくて、ピュアで、感動的で、どうしても書き留めておきたかった。

しかしながら、いよいよ明日は強制退去の日。泰彦は、殺処分命令がでている牛を
射殺し、庭いじりをしている智恵子の背後から忍び寄る。このシーンを私は、
「希望の国というのなら、やめてくれ」と心の中で叫びながらみた。(カメラが、
二人の前に回る)しゃがんでいる智恵子の頭にライフルが向けらる。が、
撃てない泰彦。振り向く智恵子は、ライフルを見たはずだが、動じない。
「一緒に死のうか」という泰彦の言葉に、智惠子は、既に覚悟していたかのように
あっさりと応じて、二人は大袈裟とも言える熱烈なキスを交わす。銃声。
燃え上がる、花、木。

この映画に対する批判で、多いもののひとつがこの結末であろう。なぜ、希望と
いいながら2人の自殺という最悪結末をみせられるのかと。確かに死んでしまうとは
思わなかった。でも、私は、以下の3つの理由で、このシーンに共感する。

まず、一つ目は、二人とも自らの運命として死を選択したこと。泰彦のみならず
智恵子も覚悟の上の死だったと思う。ひょっとしたら智恵子は、牛が殺されたことも
もう忘れていたかもしれない、しかし、ライフルが何をするものかは分かっていて、
動じなかったのは、一連の流れから考えた上で泰彦と同じ結論に達したのではないか。
認知症といえども、短期の記憶は困難であっても喜怒哀楽はいままで同様感じ、
自分の生死については、本能的な部分で正気で判断していると思えた。病気が
すすめばそれも困難なるだろうし、体力的にも庭いじりも困難になってくるだろう
でも、今の智恵子は、まだそういう判断はできる段階であり、2人が現状を鑑みて
これしかないという形でたどりついた結論だと思う。

次に、この映画は、監督が何度も現地入りして、ヒアリングをした結果であること。
映画全体の流れとしては、盛り込みすぎじゃない?と思うところもあり、ややリズムに
乗れなかったところもある。それでも監督は承知の上で、実際に聞いた内容を
入れていったのであろう。本映画のテーマが原発であるとなると、一番盛り込まないと
いけない話は、現時点で何かと考えると、私は、天災ではなく、原発によって
直接的ではなく間接的に多くの人がなくなったことではないかと考える。言い換えれば
原発によって、さまざまなことが機能せず、地震と津波であればしのげたであろう
ことがしのげず、例えば治療がうけられず、あるいは精神的ストレスに耐えられず、
亡くなっていかれた方々。「原発さえなければ」平穏に暮していけたかもしてない人が
死を選ぶという悲惨な実態、それが現地のヒアリングの結果、避けてとおることが
できない結末だったとの判断と理解します。

最後に、異議を唱えることにおこがましさを感じること。
仮に、ラストの自害のシーンを前に、説得する機会が与えられたとしても、
私自身、生きてほしいと訴えることはできても、説得することはできないなあと。
土地や木に対する義務感や愛着、それこそ本来もつべきものではなかったか?
老夫婦の世代は、他人に世話になる、負担をかけることを嫌がる世代とも思われ、
避難後の生活について、経済的環境的側面でよりよい状況を提示できたとしても
それとは次元の異なる世界で、老夫婦は決断したと思う。そこには、どうこう言う
こと自体、おこがましく、他の2組のカップルに対しては、強引とも言える展開で、
明るい兆しを描いた監督も、無理に希望を描くよりも、今の絶望を残しておこうと
したのではないだろうか?

以上の理由で、このラストシーンも含めて、私も今後も見続けられるべき映画だと
思いました。

PS.【監督のことば】
YouTubeをみていると、監督がNHKに出演したときのものがありそのなかで、
「希望の国」というタイトルについて聞かれ答えていた。
園子温監督『やはりその、自分にとって希望ってのは、もうこころの底から
この悪夢ですよね。早く目を覚ましたいんですよね。でも、覚ます前には、
悪夢と向き合って向き合った後に、かならず希望があると僕はいつも信じて
いるんです、だから、それも祈りをこめてこのタイトルにしたんです。』


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