
国鉄の前身である運輸通信省が第二次大戦から戦後にかけて導入した構内入換用の
タンク式蒸気機関車である。
昭和19年~21年にかけて15両が製造された。
製造メーカーは立山重工業と国鉄郡山工場である。
車体は鋼鉄製で戦時下の蒸気機関車ということで、資材の徹底した節約と
生産性向上を図った設計となっている。
このため、ボイラー上のドームやサイドタンクも直線の角型となっている。
車体の長さは7mと昭和に製造された国鉄の蒸気機関車で最も小さい。
動輪配置は0-B-0で2軸が動輪である。
ブレーキは直通ブレーキを持たず、自機用の蒸気圧ブレーキを装備した。
蒸気圧ブレーキはボイラーの蒸気圧を利用したブレーキのことで、
黎明期の蒸気機関車で採用されていた、半ば枯れた技術であった。
しかし、本形式では長大な客車列車や貨物列車を牽引するのを目的としておらず、
構内の貨車の入換が主任務で高速運転も有り得なかったため、これで十分と
判断され、かなり割り切った設計となった。
これほどまでに小さく性能の低い機関車が、なぜ導入されたかというと、
本形式がそもそも「国鉄自社設計」の機関車ではない産業用の規格型機関車で
あったからである。
本形式を製造した立山重工業は戦時中、多くの産業用小型蒸気機関車の製造に
携わったメーカーであり、戦時中は資材統制のため、車両メーカーで結成された
「車両統制会」に所属した。
この統制会の一部門である「小型蒸気機関車専門委員会」が設計したのが、
本形式をはじめとする戦時規格型の小型蒸気機関車である。
これら営業運転に就く機会のない車両は車両としての籍を持たない(例・線路脇の
引込み線にある保線用の車両)のが通例であるが、国鉄が何らかの事情で
この機関車を入籍させる必要があり、本形式が生まれたと思われる。
こうした経緯から、ほとんど本線に出ることなく、機関庫や貨物駅での
車両の入換作業に従事した。
しかし、戦時設計で国鉄の機関車としては特殊すぎたため、現場で嫌われ、
終戦後の混乱期を乗り越えると早期に廃車が開始された。
最後まで国鉄に残ったのは1号機と10号機で1号機は小樽築港機関区、10号機は
鹿児島機関区で使用された。
特に鹿児島では形式入りの大型ナンバープレートを装備して使用され、末期には
同区のマスコットとして親しまれた。
この他に11号機と12号機が紀州鉄道の前身である御坊臨港鉄道に貸し出され、
後に12号機が正式に譲渡された。
御坊臨港鉄道では同社手持ちの蒸気機関車改造のディーゼル機関車と共に
使用されたが、昭和28年の夏の大水害で洪水に流され土砂の中に埋没。
どうにか掘り起こされたものの、損傷が酷く、蒸気機関車としての復帰は断念。
損傷の少なかった足回りを利用して、昭和29年に凸形車体を持つディーゼル
機関車DB2012号に改造されている。
この車両は昭和40年代中ごろまで同社の貨物列車牽引に使用された。
1号機は廃車後、北海道岩見沢市内の万字線朝日駅跡にある「万字線鉄道公園」に
保存展示された他、鹿児島の10号機も昭和47年に梅小路蒸気機関車館に保存された。
10号機は当初、動態保存機であったが、昭和54年に静態保存に切り替えられた。
しかし、平成14年に梅小路蒸気機関車館開館30周年とJR西日本発足15周年を
記念して動態に復帰した。
復帰後は館内でのイベント走行や汽笛吹鳴のほか、DE10形ディーゼル機関車と共に
展示機関車の入れ換えに使われることもあり、動態復帰と職場復帰を同時に
果たしている。
また、車体が小さく、汽笛の音も甲高い軽快なものであることから、
親子連れにも好評で「豆タンク」の愛称で親しまれている。
平成18年には梅小路蒸気機関車館の関連施設として準鉄道記念物に指定された。
タンク式蒸気機関車である。
昭和19年~21年にかけて15両が製造された。
製造メーカーは立山重工業と国鉄郡山工場である。
車体は鋼鉄製で戦時下の蒸気機関車ということで、資材の徹底した節約と
生産性向上を図った設計となっている。
このため、ボイラー上のドームやサイドタンクも直線の角型となっている。
車体の長さは7mと昭和に製造された国鉄の蒸気機関車で最も小さい。
動輪配置は0-B-0で2軸が動輪である。
ブレーキは直通ブレーキを持たず、自機用の蒸気圧ブレーキを装備した。
蒸気圧ブレーキはボイラーの蒸気圧を利用したブレーキのことで、
黎明期の蒸気機関車で採用されていた、半ば枯れた技術であった。
しかし、本形式では長大な客車列車や貨物列車を牽引するのを目的としておらず、
構内の貨車の入換が主任務で高速運転も有り得なかったため、これで十分と
判断され、かなり割り切った設計となった。
これほどまでに小さく性能の低い機関車が、なぜ導入されたかというと、
本形式がそもそも「国鉄自社設計」の機関車ではない産業用の規格型機関車で
あったからである。
本形式を製造した立山重工業は戦時中、多くの産業用小型蒸気機関車の製造に
携わったメーカーであり、戦時中は資材統制のため、車両メーカーで結成された
「車両統制会」に所属した。
この統制会の一部門である「小型蒸気機関車専門委員会」が設計したのが、
本形式をはじめとする戦時規格型の小型蒸気機関車である。
これら営業運転に就く機会のない車両は車両としての籍を持たない(例・線路脇の
引込み線にある保線用の車両)のが通例であるが、国鉄が何らかの事情で
この機関車を入籍させる必要があり、本形式が生まれたと思われる。
こうした経緯から、ほとんど本線に出ることなく、機関庫や貨物駅での
車両の入換作業に従事した。
しかし、戦時設計で国鉄の機関車としては特殊すぎたため、現場で嫌われ、
終戦後の混乱期を乗り越えると早期に廃車が開始された。
最後まで国鉄に残ったのは1号機と10号機で1号機は小樽築港機関区、10号機は
鹿児島機関区で使用された。
特に鹿児島では形式入りの大型ナンバープレートを装備して使用され、末期には
同区のマスコットとして親しまれた。
この他に11号機と12号機が紀州鉄道の前身である御坊臨港鉄道に貸し出され、
後に12号機が正式に譲渡された。
御坊臨港鉄道では同社手持ちの蒸気機関車改造のディーゼル機関車と共に
使用されたが、昭和28年の夏の大水害で洪水に流され土砂の中に埋没。
どうにか掘り起こされたものの、損傷が酷く、蒸気機関車としての復帰は断念。
損傷の少なかった足回りを利用して、昭和29年に凸形車体を持つディーゼル
機関車DB2012号に改造されている。
この車両は昭和40年代中ごろまで同社の貨物列車牽引に使用された。
1号機は廃車後、北海道岩見沢市内の万字線朝日駅跡にある「万字線鉄道公園」に
保存展示された他、鹿児島の10号機も昭和47年に梅小路蒸気機関車館に保存された。
10号機は当初、動態保存機であったが、昭和54年に静態保存に切り替えられた。
しかし、平成14年に梅小路蒸気機関車館開館30周年とJR西日本発足15周年を
記念して動態に復帰した。
復帰後は館内でのイベント走行や汽笛吹鳴のほか、DE10形ディーゼル機関車と共に
展示機関車の入れ換えに使われることもあり、動態復帰と職場復帰を同時に
果たしている。
また、車体が小さく、汽笛の音も甲高い軽快なものであることから、
親子連れにも好評で「豆タンク」の愛称で親しまれている。
平成18年には梅小路蒸気機関車館の関連施設として準鉄道記念物に指定された。