水の丘交通公園

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東京地下鉄 5000系電車

2008-08-01 18:49:06 | 電車図鑑・地下鉄
営団(→東京メトロ)が、主に東西線用として昭和39年から昭和56年までに
製造した車両である。

国鉄中央線への乗り入れを予定していたため、営団の車両として初めての
20m級4ドア車となった。
車体は日比谷線に投入されていた3000系電車と同じセミステンレス製であるが、
路線識別のために、ハイライトブルー(タバコのハイライトの箱の色)の
帯を入れたほか、全体に経済性を優先させた設計となり、
正面部分を中心に角ばった外観となっている。
また、客用ドアの窓も極端に小さくした設計のものを営団で
初めて採用した。
これは、子供がドアに手をついて景色を見ていて戸袋に手を引き込まれないための
工夫で、半蔵門線用の8000系電車までの新車や各線の在来車のドアにも採用される
ようになった。

車内はロングシートで、送風装置として、ファンデリア、または首振り扇風機を
採用した。
初期に製造されたものは、吊革に東京地下鉄道以来の伝統であるリコ式吊り手を
採用していたが、昭和44年製造の車両から普通のものに変更されている。

主制御装置は抵抗制御でブレーキは発電ブレーキ併用空気ブレーキである。
先述の通り、経済性重視のため、3000系で採用していた全電動車方式から、
付随車を挟んだものとなった。

昭和42年に、7連3本が試験的にアルミ車体で製造された。
昭和44年には、一部の編成が千代田線開業用に製造されている。
千代田線では開発と製造が、やや遅れていた6000系電車の増備までのつなぎとして
運行されたほか、綾瀬~北綾瀬間の支線で運行されている。
これらは、支線用の3連2本以外を除いて昭和56年までに東西線に転属している。

昭和53年~56年までの間に東西線の輸送力増強用に増備された編成では、
ドアの戸袋部分にあった窓を廃止したほか、台車も同じ方式の改良型に
変更されている。
また、この中には荒川鉄橋(西葛西~南砂町間)で竜巻に遭遇し、脱線転覆した
車両の代替新造分も含まれる。
この事故車両は鉄橋の構造などが幸し、損傷は少なかったものの、搬出の際、
逆に、鉄橋の構造が仇となり、現地で4つに解体された。

昭和63年より、東西線に後継の05系が登場したが、後期製造分が、まだ新しかったのと
そもそも膨大な数の編成を短期間に置き換えるのは難しかったため、
平成元年より後期型の車両を中心に冷房化と制御装置の更新を行うことになった。
搭載された冷房は集中型一基で天井に冷風ダクトを通し、扇風機で攪拌する
簡易型である。
また、制御装置と発電ブレーキも、発熱量の少ない界磁添加励磁制御と
回生ブレーキに改修されている。
同時期に東葉高速鉄道開業用に一部が譲渡されたほか、東西線全編成の10連化を
行った。
この組み換えのため、余剰になったアルミ車の中間車1両の車体をリサイクルして
当時製造された05系124編成の部材として使用している。
この鉄道車両のリサイクルは日本で初めての試みであった。
また、この際に行った車体強度実験でアルミ車体の耐用性がセミステンレス車体よりも
高かったことが実証された。

平成11年にアルミ車のうち、1本の編成を分解し、3連2本に組み替えて、
千代田線北綾瀬線に転属させ、セミステンレス車の編成を置き換えた。
この2本にはパンタグラフのシングルアーム化とワンマン運転・ホームドア対応改造を
実施している。
平成13年より本格的な廃車が開始され、平成19年に、前述の千代田線北綾瀬支線用の
3連2本を残して全車引退した。

廃車後、一部編成がインドネシア・KRLジャボタベック(ジャカルタ近郊に路線を
延ばす鉄道会社)に譲渡されSeri5000として、他の日本の鉄道車両と一緒に
運行されている。
これには東葉高速鉄道に譲渡された編成も含まれる。
また、新木場工場や綾瀬工場などで、車籍を有さない牽引車や教習者として
数両が残っていたが、それも今は教習用の3両だけである。
機器類は長野電鉄3500系の予備品や冷房化用、京阪電鉄から大井川鉄道に譲渡された
3000系電車の改造用などに譲渡されている。
この他に南砂町駅近くの公園でカットボディになった先頭車1両が展示されている。

千代田線北綾瀬支線用のものは、同線の主力として、今後も継続して
運行されていくとおもわれる。


千代田線北綾瀬支線用のもの。


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