ラヴェンダーの咲く庭で

「みゃーきんぐ・ぷあ」から変更。保護猫と綴る日々の備忘録、独り言にすぎない半径5mの記録です!基本、読み専です。

最終章、若しくは最終楽章

2020-05-13 22:27:25 | 猫病気

今日も苦手な夏日だった。28-19℃

※非常に疲れている、記事をうっかり消してしまいガッカリ。

朝から阿鼻叫喚、大失禁の始末に追われる。摘便の次は、食餌量を少し増加したら、軟便だ。

胃の消化能力は凄い、4時間で胃は空っぽになり飢えを訴えるが、そこから先が停滞し始めている。

一階の猫の自由にできる20畳弱と、階段の下2段までが、嘔吐や便失禁で点々としている。その始末で午前中はつぶれる。参考までに、敷物の汚れ。こういう汚れが床中に散乱。

👉消毒、洗濯後👉

(病猫がいなくて、置き餌であっても、猫を沢山保護する人ならば、早朝、猫に頬をはたかれたり、猫トイレ、嘔吐などからスタート、優雅なコーヒーから朝は始まらないのはお解りだと思う...。私はもう30年近くそんな朝。)

床と敷物を大掃除し、給餌し、吐いた分を輸液をし、

輸液を入れればうっとりしていたが、暫らくして血圧が変動し具合が悪くなり、トイレが忙しくなり、摘便の次は、軟便でお尻を絞られ、ついに、今日はオムツを使用しなくてはならなくなった。

洋服を着るくらいだから、オムツも大人しいのだが、とにかく下の具合の悪さで忙しい、落ち着かない。

トイレまで間に合わない、外してあげたり、着けたり、一日中私も追われる。

犬の小さいオムツに、人の一番小さい生理用パットをかますと、パット分、オムツが一回助かるのと、手間的に抜けばいいので楽、出来ればオムツに横に貼りつけたいが、それが出来なかった。

 

常に寄り添うクロも、余りの騒がしさに、今日は余り寄り添わない。

気力、食欲だけは、若い時と変わらず満々な猫も、ついに終末に向かってきているのが、容態で理解できるようになった。

もう猫の世話以外、疲れて何もできない、気力を振り絞りダンベル。

肩幅は自分の好みに変えられないが、洋服と言うものは肩で着るものだ、Tシャツの薄着の季節に、猫背も直し、ピシッと着るのは気持ちがいいものだ。

オムツになったからと言って、猫の食欲は衰えない、相変わらず食べる、

やれるだけの全てを終えて、少し離れる、これ以上は何も出来ない。見ているだけではノイローゼになると思うからだ。

逃げているクロと、楽器や布をいじっていた。

きーじも、今日は私に近づいてこない。(彼も以前はオムツをさせられていた。)

つけたニュースでは、もう台風一号発生と!

お願い、貯水池、ダムだけに来てよ、台風、黄砂も要らない。

それにお高い薬の話。

ゾルゲンスマ👉オナセムノジーンアベパルボベック

何故高いのか、私が読んでも解らないが、難病の子を持つ親が薬(=油)をつくるという映画ロレンツォのオイル/命の詩を思い出した。個人の負担は数万だという、親はホッとしたと思うが、この値段、どうしてこうなる?

猫はひっきりなしに階下から鳴き叫ぶ。オムツ外しが間に合わなかったり、

結局縦に貼りつけ、横から引き抜く。

その後気を取り直して練習するも、ずっと階下で叫んでいる、オムツになっても食が衰えない、むしろ以前より忙しい。

寝かしつけてホッとする。

 

 

庭では、国光の実が実りだしている。

結局、今日も何も出来なくて一日が終わる、虚しい…。

私は本当の愛猫家なのかな?楽しい猫ブログは書けない、自分が何かに対して盲目的にはベタベタした愛情が持てない、

捨て猫を次々に拾うという事は甘いもんじゃなかった、私が好みの猫を選んだことはない、向こうが入れてくれと、病みやつれてくるから入れただけだ、無償の愛と言うやつでもない。

私は例えば、子猫も老猫も同じだし、人間の子供は盲目的に、無条件にかわいい、天使とかはなく、やはり、ここはきちんと躾けて欲しいとかetc、苦手とかはあるし、

親に対しても、子に言う「あなたの為なのよ」は、いや、それは「私の為でなく、あなたの望み、あなたの思い描いた親孝行のコースなのだ」そう腹で思う人間なのである。(バッハの「主よ人の望みの喜びよ」は名曲だがw)

で、どこか冷たい人間なのだろうか?愛情深くないのか?期待に応えられなくて済まなかった、そう悩むほど、せめて自分で出来る事をと、手で工夫して何かの工作で補ったり、疑問を読み、それを先生にまとめて質問して学んで補ってきた。対人、対動物、植物全般にだ。

この手を動かして、盲目的ではないと自分で思う、愛情の不足分を補ってきた...。

 

部屋に戻ると、コロナの患者数が減ったというニュース、第2波が来ない事を祈る!

 

最後に、相互の読者様森の中のティータイム様(wildrose様)の、私の記事への米で、同じくガブリエル・バンサンのファンであられるという事で、

バンサンの処女作は私も持っており、文字が、色が一切ない絵本、その画力には驚かされた。

しかし、全部を揃えることはできない、図書館で借りて読むことくらいしか出来なかった。そもそもバンサンは、絵本にしては大人びているものが多い、大人の絵本、難しいと思う。

バンサンの遺作「ヴァイオリニスト」は、ちょうど奇しくも自分もレッスンを受けている事もあり、古本で購入した。

初期と同じ、やはり文字が要らないと思う画力。

 

さて、私は捨て猫だったもじゃ公の最後の日々、もじゃ公の書く最終章、若しくは最終楽章を、手を貸し、見守るだけだ。

だらだらとブラームス並みに長いのか(それは、些か参るが)、ショートショートな物語なのか、皆目見当もつかないが、最後まで飼い主の務めを果たすしかない。

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