ラヴェンダーの咲く庭で

「みゃーきんぐ・ぷあ」から変更。保護猫と綴る日々の備忘録、独り言にすぎない半径5mの記録です!基本、読み専です。

いつも一緒に、

2021-05-10 23:50:25 | 猫病気

去年と同じく自粛のゴールデンウィーク中、

延々と介護に終わりのないように思えた老猫「もじゃ公」@♀は、急激に体力が落ちていきました。2019年9月23日の夜から始めた、1年と8か月弱の、2~4時間おきの全介助にも、一日200回はいくか?数えきれないシリンジの強制給餌にも、ついに終わりが来ました。

 

 

◆5月1日(土)曇りから雨。23-14℃ 大荒れの天候、時折雷鳴。

  

午前中、「題名のない音楽会」の直後、

  

点けっぱなしのテレビから警報音、広範囲の地震速報に驚く、

 

こちらも少し揺れた。東北の古い友人からメールあり。

あとは何時もの通り老猫の世話など、疲れている。

    

まして今日は5月の最初の日、「気持ちを新たに頑張ろう!」とは思っていたが、疲れが溜まりすぎて、また気持ちが落ち込みすぎて、練習の時間を寝でしまう。

家での練習を、初めてサボったのだ。今日はレッスンもない、楽器のケースを開け、一旦は楽器を手にしたが、また戻した、気持ちが一杯一杯で。

猫は一日中、大声で鳴き続けている。だが、今以上やってあげられることがない。

 

◆5月2日(日)晴れから曇り、そして雨、止んだり曇ったり。21-17℃

 

鳴き続ける老猫に付き合い、明け方4時まで強制給餌。また、老猫2匹に輸液。

何時もの日課の隙間に雨の中買い物へ。コロナ禍のこと、猫のことでとんぼ返り。買ったものの料理、片付け、などでゴールデンウィークなど一切関係ない日々。

行きたい展覧会はあったが、都知事の「東京には来ないで」を守っている。テレビの報道ではこちらの海には都会から人が押し寄せてきている、アクアラインは都会のナンバーで大層賑わっている。

午後からは照雨、素晴らしい虹がかかる、2重だった!

 

  

 

◆5月3日(月)憲法記念日 晴れのち曇り。21-11℃

癖が強く、食べられなかったパクチーの花が咲いている。

疲れて寝坊した、老猫の世話からスタート、

 

 

もじゃ公は朝、自力で大量の大、午後も自力、これはまだまだイケると思ったり、毛玉を取ってあげたり。

何回ものキリのない強制給餌、みーみーぼーに輸液したりで、

 

あっという間に、時間が過ぎていく。それでもやるんだと決めた運動と練習のノルマはこなす。

日中までは老猫は元気だった、食欲旺盛、鳴きっぱなしだったが、夕方になると元気を消失していく。声も弱弱しくなり、初めて鳴かない静かな夜を迎える。

 

◆5月4日(火)みどりの日 晴れ。23-12℃

急に静かになった老猫、一晩中このまま亡くなるのではないかと心配した。夜鳴きもないが、早朝の老猫の給餌をせかす声も聞こえない、久しぶりに猫が騒がしくない朝を迎える。

  

みーみーぼーの足も悪化、2匹の先が見えてきている。

いつも通りの世話、いつも通りの家事、運動、練習の日課、

 

夕方、もじゃ公は少し声を出して鳴くようになった。食欲はある、だが排便に苦しみ、亡き母の何回もやったイレウスを心配した。一日中、猫のトイレに振り回される。猫は倒れるまでいきむ、だが出ない。

 

慰めは、小田さんの番組があったこと。

 

◆5月5日(水)こどもの日 曇りから雨。22-18℃

  

母方の祖母の命日だった、今の私の歳で亡くなった。

いつも通り老猫の世話から、みーみーぼーは大を失禁、その片づけとか、落ち着けば小雨の中、なんやかんやでネットショッピングでは足りないものを買いに走り、即とんぼ返り。あとは何時もの日課をこなす。

イレウスを心配したもじゃ公が開通、大がようやく少し出る、また腸も動いて音も鳴っている、詰まってはいない。しかし、この日の6時が食事らしい量が取れた最後の強制給餌になった。

まず、急速に足が衰えた、足がもつれて歩けない、倒れて助け起こさねばならなくなった。またトイレでいきむと血圧が変動して気を失うようになる、身体が少しの外部の刺激で痙攣するなど、いきなり体が衰えた。

キーホルダーにしたいような、取っておきたいような、見事な尻尾の持ち主だった。

相変わらずお腹は減らしていたが、給餌をするとチアノーゼのようになり、ぐったりしてしまう。排便も命がけ、食止めにし、最後は輸液だけで送ることに、ここで方針を決めた。

この日から、寝具を運び、猫の隣で寝ることにする。動けなくなった猫は、さらに私を頼りにする、転ぶたびに床に寝そべって大声で私を呼ぶ。

五月蠅くて眠れないだろうに、相変わらず、クロはもじゃ公に付き添って一緒の段ボール箱に入るのがいじらしいし、気持ちが助けられた。

   

(なぜか、きーじが大喜びで私の上に乗ってくる。重い。)

 

 

◆5月6日(木)晴れ。23-17℃ 夏日。

  

   

猫は一晩中、出来なくなりつつある寝返りや、何度もトイレに行こうと立ち上がり、また、いきんでは倒れる、そのお世話を徹夜でしていた。

7時半、オムツ交換時、ようやく一晩中猫を苦しめた大が出た。猫は口内炎のように、貧血の猫のように、口をくちゃくちゃ言わせはじめている。

2匹に輸液をし、ここ数日で落ちくぼんで、右目に白い膜の目やにのはった猫の目を点眼し、乾いてふさがった鼻を拭いている時にけいれん発作が来た。

亡くなる覚悟をしたが猫は持ち直す。その後、用事で友人に電話をかけ、間に猫に再びけいれん発作が起き、今度は猫はパニックで鳴き叫び、友人は声に驚いていた。

2回の発作の後、夕方5時に大を摘便、その後、輸液。老いは不可逆的で、猫に大逆転はない、どんどん弱っていく。

  

きーじも付き合いで隣で寝ている。良いのに。

 

◆5月7日(金)曇りから雨。21-16℃

深夜の午前1時からもじゃ公に輸液、午前中は2匹に輸液、みーみーぼーは大失禁で大掃除、もじゃ公は少し摘便。

もう綺麗に腸を空っぽにし、強制給餌はしないつもりだったが、猫はお腹を鳴らすし、お腹が減って延々鳴き続けた。お昼の11時頃騒ぎに根負けし、老猫用のミルクを数㏄入れてみた。

その直後、血圧の変動で、舌を出した開口呼吸、見た目が下顎呼吸が1時間以上続いて、撫でながら今日で死を覚悟をした。

     

途中、聴診器を取りに行こうと手を離すと、猫は息もも絶え絶えに「行かないで」というように小さく一声鳴いた。

2時間くらい身体に手を置いていた、呼吸は戻り、猫のカッと瞳孔を開いた目、口は自然に閉じ、すやすやと寝始めた。

他の猫のことも耳でしっかりキャッチ、呼吸は時折腹式呼吸になり、決して良くはない兆候だが、低レベルな状態で、猫は安定し続けた。

  

呼吸だけでも水分の蒸散は凄い、5時に輸液、鼻や口の渇きくらいにしか対処出来ない。あとはいないと大鳴きするので、傍に寄り添うくらいか。

悩みぬいて、先生に明日のレッスンは休むことをメールする。去年の緊急事態宣言の時は仕方がないが、初めて自分からレッスンを休んだ。

 

◆5月8日(土)曇り。23-16℃ 夜からは小雨。

深夜12時、輸液。一晩中、猫はトイレに行こうと箱から出ては転び、そのまま鳴き続けたり、寝返りができずもがいたりで、オムツ交換や、体位変換、猫の形を直してあげる係をしているようなものだ。クロも騒ぎで寝れないだろうに、付き合っていじらしい。

   

午前8時、午後4時には、少量でも便が自然に下りてきた、良かった、今日も腸閉塞していないと安堵する。

猫も余力を振り絞り、起きている時は、箱から目を見開いて、私をじっと見つめている。

いつも思うのだが、飼主の手は、たとえ奇跡を起こせなくても、動物にとっては「神の手」なのである。きっと良い風にしてくれると。

あとは、愛情の象徴、たとえ一時の嫌な処置があっても、だ。

昨日は今日まで猫は生きていないだろうと思っていた。猫は生きたが、レッスンのあった時間、猫はフラフラと転んだり、倒れたりしていた。

私が居なければ床にもがいたまま、助けられなかったのだからこれでいい。(先生からは心温まる返信をいただく、余計なことも言わず簡潔に的をついている内容、素晴らしいお人柄だ。)

猫が少し落ち着き、自分の予約したレッスンが終わるころの時間、少しだけおさらいをした。

 

◆5月9日(日)素晴らしい快晴。26-30℃ 夏日。母の日だった。

パン屋さんの値引き商品、昔の小学生の貰う赤いカーネーションの造花のようなものが付いていて懐かしくて購入。私はもう白いカーネーション、あと、猫どもはなにもくれないw

猫は刻々と悪くなっていく。立てないで鳴きっぱなし、私がいると落ち着く。人と絶対に離れたくないと頑張っているが、頑張っても、終わりが見えてきた。

 

最後のシャンとした写真。

深夜12時半、朝8時半、午後12時、6時、少々の輸液。これで最後だと思う。

一日中、猫の段ボール箱の隣に付き添う。

野次馬きーじも参加。仲の良いクロが遠慮しているのに。

 

   

夕方から僅かな口呼吸になり、また戻るを繰り返しだしたが、意識ははっきりしており、ずっと私を目を見開いて瞬きもせず追っている、まるで脳裏に焼き付けるように。

または、痩せて小さくなった頭を撫でると、信頼しきってぐいぐい甘える。飼い主が助けてくれるはず、奇跡を起こしてくれると信じているように。

9時頃から呼吸が変わり、猫は朦朧とする時間が多くなっていく、たまに呼吸困難になってわなわなと発作が来る、それでも撫でるとしばらくすると落ち着いた。しまってある酸素発生機とテントを出すほどの呼吸困難ではなかった。

今、意識がないだろうと11時頃手を離すと、「行くな」とばかりに、小さな弱弱しいかすれ声で鳴いた。

そこから一晩中傍に付き添う、出来ることは獣医師の言うように顎に枕を当ててやるくらいしかない。猫はウトウトしてはガタガタっと呼吸困難の発作を起こし、空気を吸いやすいように伸びあがり、また低酸素状態に順応し、ウトウト、朦朧となり、また呼吸困難の発作を繰り返した。

発作の時、「今回の発作でもう駄目だ」と思うも、猫は何回も戻ってきた、一度は振り絞った声無き声で鳴いた。「もじゃ公」と呼ぶと反応した。顔に手を添えているだけで喜んだ。

 

◆5月10日(月)快晴。23-15℃ 素晴らしい天気。

    

もじゃ公は朝は深夜から虫の息になった。ずっと目を見開いて黒目がち、つまり瞳孔が大きく、視野がもう良く見えない結果なのだろうが、(目が乾くと思い、瞼をそっと閉じても、)がっと見開いて私を見続けていた。

朦朧としていても、呼吸困難になるたびに苦しんでバッと起きてしまうので、何時まで続くのかと、身を切られる思いで傍にいた。身体の一部に手を置き続けた。

猫は血流が脳に行かなくて譫妄なのか、たまに寝たまま敷物を前足で踏み踏みしていた。

自分も付き添いながらウトウトした4時27分、最後の大きな発作が来た。猫は頑張った、何度も気絶したように見えても、大きく息を吹き返し抗ったが、ついに4時44分心臓が止まった。

何かを察して、この日は一緒に寝ないで姿を消していたクロが、その最後の瞬間に現れ、ずっとつきそっていた。(多くの猫がいたが、こんな行動は初めて。)

苦しいようでいても、沢山の看取った猫の死の中では、もじゃ公は良い終わり方だったと思う。

 

何時もの通りに、病み衰えた体を清拭し、丁寧に毛玉を取ってブラッシングをし、私の髪を結んだ。お腹は太っていた、自力で食べられなくて、強制給餌を始める一年と八か月前より。頑張った勲章だ。

さすがに、これだけ2人5脚で闘うと、すぐに焼く気にはなれない、一晩は家に置いてやりたい、アイスノンを沢山詰めた。

その後は狂ったように、猫の介護の痕跡を消していく、高齢だったので落ちた犬歯3本も持たせてやらなければ…。

もじゃ公の最期にかまっていて、みーみーぼーも大の失禁をしており、寝具の大掃除や輸液。そのあと一息ついた。もう、私をしきりに呼ぶ猫の声も聞こえない。家がやけに静かすぎた。

少し休み、楽器を取り出して練習した、猫の止まらない鳴き声で、音を聞くのも嫌になっていたが、これからは色々と余裕をもって出来るだろう。

最後まで生きることに希望をもって頑張った猫から少し人生観が変わった。死ぬ瞬間まで、死ぬ気で粘れ、生きることに粘れ。まして、人間なら生きることは、猫以上に何かをあれこれやれるはず。

また時間の価値、この猫と過ごした長い時間をもう一度繰り返すと亡き母より年上になる、つまり、もう残り少ない日々は貴重、さらにこのコロナ禍でどう過ごしたいかを学んだ、と友人と話す。じりじりと消耗する長きにわたるお世話は、私を良い方へ変えたと思う。

久しぶりに静かな時間がゆっくりと流れた、音楽も味わった。

「今日こそは寝る!」そう決めたのに、家の中が静かすぎてなぜか落ち着かない、まだ彼女の居ない感覚がつかめない。

クロもしょんぼりしている。ウロウロと家の中を回っている。

もじゃ公はいつも利用する葬儀場が混んでいて、ようやく12日の19時30分に予約がとれた。もじゃ公らしく、去り際も粘るのだろう、「まだ、しばらくはここに居たい」と。

彼女はアイスノンに包まれて、歴代の猫が入った発泡スチロール箱に、ようやく肉体の苦しみから解放されて安らかに寝ている。(魂があるとすれば、死んだことも解らず、ずっと傍にいる予感がする。私は構わないが。)

 

 

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。

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