雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

拒絶反応 ・ 小さな小さな物語 ( 1146 )

2019-05-30 14:46:10 | 小さな小さな物語 第二十部
東京の山手線に新しく出来る駅名が話題になっています。
「高輪ゲートウェイ」というのが、JR東日本が発表したその駅名ですが、賛否両論、というよりも否定的な意見が高まっているようです。
その理由はいくつかあるようですが、その一つは、新駅名は公募されたもののようですが、投票上位のものは採用されず、遥かに下位のものが選ばれた事にあるようです。あらかじめ、必ずしも上位のものから選ぶわけではないとされていたようですが、投票結果が全く無視された状態なので、何のための公募だったのかという反発が強いようです。
他にも、「もっと簡明な地名にすべき」「山手線の他の駅名とそぐわない」「なぜカタカナを入れなければならないのか」などがあり、中には、「JRの駅名としてふさわしくない」というものもあるようです。

命名については、何につけても簡単に行かないことが多いようです。
多くの人が経験するということでは、子供の名前を付けるのもなかなか難しいようです。かつては、両親やご先祖の名前の一部を取り入れることが多かったようですが、親に自信がなくなってきたというわけではないのでしょうが、その時代の著名人や流行の言葉などの影響の方が多くなっているようです。
市町村などの名前もなかなか簡単には決まらないようです。合併などにおいては、スムーズに決まることの方が珍しいほどですし、住民投票をしてまで市の名前を変えようとしている所もあります。
まあ、スタジアムなどの命名権が巨額な金額で売買(?)される時代ですし、芸名となれば神懸かりやしきりに改名する人もいるわけですから、命名というものが難しいのは当然ともいえます。

人の名前一つとっても、数百年前と比べると、ずいぶん変わってきています。具体例を挙げるのは控えさせていただきますが、特別な規制や弾圧があって変わってきたわけではなく、次代の流れとでも説明するしか仕方のない現象によって、少しずつ変化していき、気がつくと、江戸時代に多く用いられていた名前のほとんどは、少なくとも小学生にはかわいそうな気がするもののような気がします。
最近は次代の流れがいっそう早くなっていますから、生まれてきた子供に、可愛さを絵に描いたような流行の最先端を行くような名前を付けた場合、その子が還暦を過ぎた頃、違和感はないものなのでしょうかねぇ。
そう言えば、誰の名前であっても、人生七十年、八十年、最近は百歳を超える人が珍しくない時代ですが、その間を一つの名前で通しているのですから、私たちは、実に勇気があるというか、厚顔というか、すばらしい根性の持ち主のような気もするのです。

名前に限らず、私たちが何気なく見聞きし接しているものの多くは、常に変化していくもののようです。その一方で、伝統文化のように、変わらないもの、変わらないように懸命の努力を続けているものもあります。それでも、私たちは、常に変わっていくものに包まれて生きていることに違いはありません。
また、私たちの日常生活を守っていくためには、「変えてはならないもの」「変えなくてはならないもの」の選択が重要なことも確かといえます。
ただ、時の流れとともに変化していくものに対して私たちの抵抗力は弱いものですが、人為的な変化に対しては極めて強い拒絶反応を示す傾向があります。しかも、その拒絶反応を示す対象や程度は、個人差が極めて大きいことが、私たちの社会の軋轢の原因の一つになっているようです。

( 2018.12.07 )
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その間にあるもの ・ 小さな小さな物語 ( 1147 )

2019-05-30 14:43:35 | 小さな小さな物語 第二十部
外国人労働者の受け入れを拡大する改正入管法は、大荒れの末、八日の午前四時過ぎに成立しました。
この法案についての是非は、本稿のテーマではありませんので割愛させていただきますが、どちらが比重が大きいかはともかく、最終的には移民政策をどうするかということになるのでしょうから、今後の日本にとって英知を集めるべき重大テーマであることは間違いないことでしょう。
それはともかく、国会に限った事ではありませんが、徹夜で討議する国会議員の方々も大変だな、と思いますとともに、これを討議というのにあたるのかという強い疑問も感じています。
例えば、議事が思う方向に進まないからと言って次々と問責決議案を提出するのは、それが通るなどと思っていないのでしょうから、この行為にどれほどの価値があると考えての事なのでしょうか。一方の政権側も、成立させるべき日限を切っての国会討議のように見受けられますので、何か一連の面白くもない行事を見せられているような気がします。
そもそも、今回の政権側と法案反対の野党側とは意見が遠く離れていて、その隔てている距離を近づける意思などともに持ち合わせていなかったのではないでしょうか。

金星は、今「明けの明星」の位置にあります。
夜が明けるのが遅いこの季節、少し早い時間に空を見上げますと、お天気さえ良ければ美しい姿を見せてくれます。日時によってその位置は変わりますが、太陽と月を別にすれば、圧倒的な明るさですからすぐに見つけることが出来ます。
確か、落語に、竿竹か何かで星を取ろうとする話があったように記憶しています。まあ、いくら明るく輝いていて近くに感じられても、竿竹で届くとは思いませんが、「手が届きそうな」という程度の表現は許されそうな気がするのです。
しかし、いくら手が届きそうな距離であっても、その間には多くの「もの」が存在していることも事実だと思うのです。たとえば地球の近くには大気圏がありますし、大気圏には汚染物質を含めた様々な「もの」があり、金星の周囲も同様であり、その間の距離がどのくらいか知らないのですが、塵なども存在しているでしょうし、人類には未知の「もの」も存在しているかもしれません。
手が届きそうな距離にある地球と金星の間にも、多くの「もの」が存在してはずです。

民主的な意思決定手段の最たるものは、「多数決による」ものと考えられているのではないでしょうか。もちろん、多数決といっても、単純に過半数を求めるものや、2/3以上といった基準を設けているものもありますが、それを含めて、意見が対立した場合、集団の進路を定める方法は賛否の数を数える以上の方法を私たちは見つけ出せていないような気がします。
もっとも、現実の社会はそれほど単純なものではないようで、「談合」などといった事件で時々浮上してくるような合理的(?)な手法も横行しているようですが、さて、どれが正しい意思決定方法なのかは、難しいような気もします。

多くの場合、私たちは賛成か反対で意思を示します。
しかし、どうでしょうか、満場一致で決まるような課題はそうあるものではなく、国会等の議場で満場一致が登場するのは、事前に自分の意見を放棄してしまった人がいるか、そもそも議場で討議するほどの事でなかったか、いい格好を世間に見せるためのものだったにすぎない、などではないでしょうか。
かつての食堂には、すしや定食などに、「松・竹・梅」と三種類が用意されていました。松と梅との間に存在する「竹」は、結構多くの人の支持を受けていたようです。
私たちは、多数決以上に優れた意思決定方法を持ち合わせていないと考えているとすれば、「賛成」と「反対」にある「竹」のような存在をもっと重視する手段を見つけ出す必要があるのではないでしょうか。

( 2018.12.10 )
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悪意との戦い ・ 小さな小さな物語 ( 1148 )

2019-05-30 14:41:57 | 小さな小さな物語 第二十部
『 人生は他人の悪意との戦いだ 』 これは、ある哲学者の言葉らしいのですが、残念ながら出典を承知しておりません。
ただ、この種の言葉は、大学者の言葉を借りるまでもなく、古来同じような言葉や考え方は数多く伝えられています。
性善説とか性悪説となれば、中国の孟子と荀子の相反する主張としてよく知られています。筆者は、どちらの説についても本格的に勉強したことがありませんので、辞書に書かれている程度の事しか知りませんが、孟子の唱える性善説は肌触りの良さを感じるとしても、人が生涯にわたって、どのような場面でも「性善」ということではないと思うのです。別に、性悪説に一票入れるわけではありませんが。

昨今、スポーツ界における、パワハラ・セクハラ、あるいは八百長もどきのものなどが数多く表面化しています。
つい先日には、問題になっていた日本体操協会のセクハラ問題は、第三者委員会の調査結果として、「配慮に欠け、不適切な点が多々あったとはいえ、悪性度の高い行為だとは認められない」との判断を示し、これに基づき、協会は職務停止となっていた役員二人の復帰を決定したと発表されました。
何とも、どう受け取ればよいのか分からない見事な「メイ回答」ですが、残念ながら世間の多くの人を納得させるほどのものではないように感じられ、この問題は第二幕が用意されているような予感がします。

それにしても、昨今は、何か問題が起これば、「第三者委員会」による調査が流行りのようですが、さて、多くの人を納得させるような調査結果を導き出した「第三者委員会」は、どの程度の比率なのでしょうか。
そもそも、そのメンバー選定については、多くの場合疑問視される人物が加わることがあります。それはある程度無理もないともいえますのは、その問題にまったく専門知識を有していない人を選出するのはどうかと思いますし、大変詳しい人の場合は、対立しているどちらかと親交がある可能性があるからです。また、多くの場合には弁護士が加わっていますが、弁護士といえども、一般の裁判において、加害者側に就く場合と被害者側に就く場合とは豹変するわけですから、まるで万能のような評価をするのには首を傾げるのです。
つまり、「第三者委員会」が一種のアリバイ作りになっている場合があるように思えてならないのです。
そう考えれば、少なくとも公的な組織とされているようなスポーツ団体の事件に関しては、然るべき機関において、調査委員会などに加わる資格のあるメンバーを選定しておく、などの工夫は出来ないものでしょうか。

もっとも、日大の事件が不起訴になったように、スポーツにまつわる事件には、独特の難しさがあるようです。それに、日本では一年にどれほどの裁判があるのか知らないのですが、考え方が対立することは山ほどあるわけです。
誰が見てもわかるような悪事は、完全ではないとしてもその多くは、法治国家であるわが国では犯罪が成立しているようになっているはずです。
問題は、その実に微妙な悪事が始末に悪いのです。「不適切な点が多々あっても」白になったり黒になったりするのでしょうから、その不適切な点を多々ぶつけられる人にとっては、まさに『人生は他人との悪意との戦い』を強いられているのではないでしょうか。
所詮、どうにもならないことなのでしょうか。

( 2018.12.13 )
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誤差の範囲 ・ 小さな小さな物語 ( 1149 )

2019-05-30 14:40:09 | 小さな小さな物語 第二十部
あおり運転に関する注目の裁判がありました。
この裁判については、当初から、「危険運転致死傷罪」の適用が可能かどうかという点が、専門家ばかりでなく、一般人からも様々な意見が出されていました。
「加害者が車を運転していない状態の時の事故について『危険運転致死傷罪』を適用させるのには無理がある」というもの。「いや、車を動かせている時だけを『運転』と考える方がおかしい」というもの。あるいは、「そもそも、これは事件であって、事故と考えることがおかしい。高速道路上、あるいは車が関わっての事件であって、『殺人罪』を適用すべきだった」というものなど、法律専門家の間でも相当な見解の差があったようです。

法律は、わが国ばかりでなく、法治国家とされているような国家においては、多くの法令などによって、日常生活の細部にまでも規定が定められているように感じることもありますが、実際は、法令では束縛できない部分が数多くあり、法令の網がかかっている分野であっても、抜け道が四方八方に張り巡らされているらしいことは、時々目にすることです。
それに、厳格な法律といっても、例えば「殺人罪」であっても、その罪状で有罪とされた場合でも、その法定刑は「死刑、無期または5年以上の懲役」となっています。その適用は、ただ一つではなく、言葉として適正かどうか分からないのですが、許容範囲が定められているのです。

私たちの周囲にあるもので、きっちりと定められているように見えるものであっても、それぞれに誤差があるものです。たとえば、100mの距離を測った場合、理論上は簡単に測れるとしても、出発点の目印、到着店の目印を何かで付けるとすれば、その部分で何らかの誤差が発生するはずです。
自動車部品や精密機器の部品などの工業製品においても、厳しい規格が求められる一方で、必ずいくばくかの誤差が定められているものです。最近、わが国を代表するような企業において、規格の精度をごまかすような事例が出ていることは残念ですが、厳しい規格が求められる製品であればあるほど、その個々の部品に対しては、必ず誤差が準備されているものなのです。

私たちの日常についても同様で、多くの場合においては、誤差が必要とされているものです。通常私たちは、それを許容範囲と呼ぶ場合が多いようですが、スムーズな人間関係、穏やかな人間関係の醸成には許容範囲を必要としているものです。
許容範囲という言葉には、どこか上から目線的な雰囲気もありますが、そうではなく、人間関係の潤滑油的な役割の大きな要因の一つだと思われます。
許容範囲は、大きければ大きいほど良いというものではありませんが、出来得れば、他人には大きく自分には小さくあるように心がけたいとは思っています。

( 2018.12.16 )
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危険がいっぱい ・ 小さな小さな物語 ( 1150 )

2019-05-30 14:35:52 | 小さな小さな物語 第二十部
北海道札幌市の爆発事故の報道されている映像は、実に凄まじいものです。
インタビューを受けた人の中には、「ミサイルが着弾したのかと思った」と答えている人がいました。ミサイルが着弾したのを経験したことがある人は少ないと思うのですが、事故現場だけをみる限り、戦乱地区の報道映像を越えるほどの凄まじさに見えます。
これほどの大事故でありながら、死者が出なかったことは不幸中の幸いともいえますが、その原因の一つは、現場となった建物が、古い木造建物であったことが幸いしたようです。
そうとはいえ、多くの人が負傷しており、壊滅的な被害を受けた建物は2~3軒のようですが、窓ガラスが破損したり壁や車に被害を受けた地域は相当広範囲にわたっているようです。

爆発事故の原因は、どうやらスプレー缶の処理らしいという情報に驚いたのですが、その後の情報によれば、およそ常識外れと言いたいような処理を行っていたためのようなので、少しばかり納得しました。
ガスコンロ用の小さなボンベがありますが、今回の場合は消臭用のスプレー缶らしいのですが、殺虫剤や化粧品など結構この手の製品は一般家庭に出回っています。今回のように、100本ものスプレー缶を保管してる家庭はめったにないでしょうが、数本であればほとんどの家庭にあることでしょう。たいていの人は、使用中はともかく、廃棄の段階では、それなりの注意は払っているようです。
ただ、残量の確認方法や、廃棄の段階で缶に穴を開けるか否かについてさえ、行政や製造業者間などで統一されていないようですから、危険に対して鈍感ということではないでしょうか。

しかし、考えて見れば、私たちの周囲には危険がいっぱいです。
横断歩道を歩いていても、事故に遭う人がいます。車を運転すれば、いくら熟練していても、いくら注意を払っていても、事故を起こす可能性は皆無ではありませんし、最近幸いにも表面化してきていますが、悪質な運転マナーの持ち主も少なくありません。
道路わきの壁が倒れてきたり、建物の階上から自転車が降ってきたという事件もありました。
それでは、家で布団をかぶって寝ていればよいかと言えば、地震などには無防備ですし、自動車が飛び込んでくるかもしれません。

何かの笑い話に、「天が落ちてくるのではないか」と心配する人も登場するようですから、人間の不安心理は底なしのようです。
地震国であるわが国の場合、その方面の研究は必要なのでしょうが、私が記憶している限り、予想が当たったという覚えが有りません。火山爆発などは相当詳しいデーターが取れるようですし、台風予想などは格段の進歩を示しています。
しかし、私たち自身が犯す、うっかりとしたミスや不注意は、防ぐことはなかなか難しいようです。スプレー缶の取り扱いなどはもう少し丁寧に危険周知させる必要があるのでしょうが、日用品で危険なも物はスプレー缶に限ったことではないと思うのです。
くどくど書けば切りがないのですが、要は、私たちの周囲には危険なものに溢れているということは確かだと思うのです。
しかし、考えてみれば、私たちはプレートがぶつかり合っている頂点であり火山列島でもある所に住んでいるのですから、少々の危険などはどっしりと受け止めればいいのかもしれません。ただ、自分が危険の発信元にならないようには、十分な注意を心がけたいものです。

( 2018.12.19 )
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彼は何を見ているのだろう ・ 小さな小さな物語 ( 1151 )

2019-05-30 14:14:27 | 小さな小さな物語 第二十部
当地は、ノラネコの保護に手厚い地域で、市の支援もありボランティアの方々が様々な活動をしているようです。
わが家に出入りしていたノラネコのうち、まだ小さい時からやって来ていたクロネコ君は地域ネコと認定(?)されたのを機に、食事と寝床の世話をさせていただいています。トイレは、以前から庭の2~3か所を我が物顔に使ってくれています。
テラスに冬の寒さをしのげるように住処を整え、一日三食以上の食事を準備し、大騒ぎしています。
おかけで、時々のパトロール以外は、テラスや住処で寝るか庭を走り回っています。

ところで、このクロネコ君、時々、身じろぎもしないで、じっと一点を見つめているとがあります。たいていは遠くを見ています。空ではなく、地面ではなく、でも、遠い遠い彼方を見つめている感じです。
ネコを飼っていたり、興味がある人のうちの多くの人が経験していると思うのですが、わが家のクロネコ君に限らず、ネコにはそのような性質があるようです。何かの物音や、遠くに鳥がとまっている時などもそのような姿を見せますが、そうではなく、いくら視線の先を見回してみても、該当するようなものもないのに、じっと見ていることがあるのです。
いったい、彼は何を見ているのでしょうか。

クロネコ君の表情からは、ぼんやりと見ているという感じはしません。明らかに、何かを見つめていると伝わってくるのです。
具体的な何かなのか、もっと精神的な何かなのか、次元を超えた向こうに存在しているものなのか・・・、
いずれにしても、私には見えない何かを見つめていると思わざるを得ないのです。
それが何なのか、とても興味があります。
努力すれば見ることが出来るものなのか、見えないまでも感じ取れるものなのか、あるいは、見ることに意味があるのか否か・・・。
やはり、出来ることがあるとすれば、不思議な縁でお近づきになったクロネコ君に、少しでも気に入ってもらえるようにお世話させていただくことだけなのかもしれません。

私たちは、見えないものがあると、つい見たくなってしまいます。
また、見えるものは存在しており、見えないものは存在していないと思う傾向は、かなり強いように思われます。
しかし、私たちが見ているものなど、存在しているもののごく僅かなのかもしれませんし、見えていると思っているものも、真実の姿を見ているとは限らないのかもしれません。
私たちは、自分に見えているものは信用し、見えていないものは疑ってしまう傾向があるように思うのです。でも、見えているものは、案外、人様々なのかもしれません。自分に見えているからといって、それを真実、あるいは正義として押し通すのは、必ずしも正しいことではないような気がするのです。私たちは、ネコ君が見ているものさえ、見つけることが出来ないのですから。

( 2018.12.22 )
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「平和」を叫ぶのは簡単だが ・ 小さな小さな物語 ( 1152 )

2019-05-30 14:12:31 | 小さな小さな物語 第二十部
天皇として最後の誕生日の会見に、大変な感銘を受けました。 
その内容について云々することは、あまりにも畏れ多いことではありますが、多くのテーマについて懇切丁寧に述べておられ、しかも、時には声を詰まらせられて、感情を抑えきれないようなお姿には、テレビを通してのことですが、見させていただいている私などでも、次々と光景が浮かんできて、大きな感激を受けました。

中でも、『 平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています。』というお言葉には、強い衝撃を受けました。
平成という時代が検証されるのは、もっと先になってからであるべきだとは思うのですが、自然災害が多く発生しており、社会を揺るがすような犯罪も幾つかありました。近隣諸国との軋轢も、私などが承知しているよりはるかに深刻な場面も数多くあったのではないでしょうか。自衛隊の海外派遣などを巡っても、戦乱に巻き込まれる危険と、国際社会の一員として責任を果たすこととの、厳しいせめぎ合いがあったはずです。
そうした中で、わが国は、平成という30年にわたる期間を、戦争のない時代として凌ぎ切ったのです。
天皇のお言葉に、限りない重さを感じるのです。

「平和」について語る人は大勢います。声高に叫ぶ人も少なくありません。
しかし、「平成が戦争のない時代」であれと、真剣に願い、祈り、行動した人は、わが国にどれほどの人がいるのでしょうか。
もちろん、戦争を願う人など、わが国では極めて少数派だと信じたいのですが、主義主張や、経済的あるいは精神的な利益のために行動することが、私たちの人生観の中核を成すようになってしまっているのではないでしょうか。
つまり、わが国が戦争状態に入ることなど思考の中に含まれておらず、時々平和について叫ぶ程度で平和は保てるものと考えているのではないでしょうか。

第二次世界大戦において壊滅的な敗北を喫したわが国。その時、今上天皇は「敗戦国の皇太子」であったわけです。それがどういうお立ち場であるかを私たちの誰もがうかがい知ることは不可能でしょうが、「平和を懸命に祈る」天皇を私たち国民は戴くことが出来ていたことを、率直に感謝すべきだと思うのです。
そして、その祈りに対して私たちは何ができるのか。残念ながら私には見えないのですが、「平和平和と叫ぶだけでは保てるものではない」ことだけは確かなような気がしています。

( 2018.12.25 )
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正当な評価を ・ 小さな小さな物語 ( 1153 )

2019-05-30 14:10:29 | 小さな小さな物語 第二十部
今年も残り少なくなってきました。
すでに、学校はほぼすべてが冬休みに入っているでしょうし、会社などに勤務の方も、流通関係や保安などにあたられる業務の方以外は、今日あたりが仕事納めではないでしょうか。
年の瀬といっても、旅行や帰省を計画している人にとっては、交通の混雑が懸念されるところですが、一般家庭においては、年末の行事や新年の準備などは一昔前とは相当変わってきているようです。

スーパーや市場などの混雑は、一部ではすでに始まっているようですが、例えば、お節料理などは、出来上がった物を買うのが主流になっているようで、自宅で手作りしているという家庭においても、その多くの物は単品として完成している物を買ってくるものがかなりのウエイトを占めているようです。
また、それこそ一昔前は、おせち料理などを作っておかなければ、正月三が日あたりは商店の多くが休んでいたため、買い物に不便するという一面もありました。
しかし、スーパーやコンビニなどの増加と共に、家庭での食生活においては、買いだめしておく必要性などほとんどなくなってしまいました。年越しそばやお節料理などは、貴重な風習としてのみその意義があるように思われます。

ところが、今年の年の瀬から正月にかけては、流通関係の営業形態に少し変化が見え始めているような気がします。
年末ぎりぎりまで掛け金の集金などに走り回るのは、それこそ一昔より相当以前に姿を消しておりますが、この正月には、元旦、あるいは三が日の間の営業を縮小させている商店などがかなり増える気配です。
宅配業者を中心とした流通関係に携わる人の労働環境の問題点がクローズアップされてきたからです。
おそらく来年は、介護関係、医療関係、もしかすると教育関係者の労働環境に焦点が当てられる気配が感じられます。

平成という時代はやがて幕を閉じ、次の元号の時代となりますが、その新しい元号の時代は、過酷な状況にある労働分野に大きな変化がもたらされるような予感があります。
一種の聖職的な一面を持つ職業に対して、私たちは、過剰な負担を負わせることによって、社会全体の平衡を保ってきた部分があるように思えてならないのです。人手不足だから外国から労働の担い手を受け入れる、という考え方も必要だと思うのですが、その必要とされる職種の多くは、私たち日本人があまり喜ばない環境の職種を受け持たせようという魂胆が透けて見えるような気がしてならないのです。しかも、低賃金で。
先日の、天皇誕生日の天皇のお言葉の中にありました、「外国の人を受け入れること」に関する部分を、私たちは肝に銘じる必要があるように思うのです。
そして何よりも、過酷な労働環境とされるサービスを受ける場合の私たち一人一人の考え方を、もう一度謙虚に学び直す必要があるように思うのです。一部の職種の犠牲によって成り立っているような社会が、豊かで優しい社会であるはずなどないのですから。

( 2018.12.28 )
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変わるもの変わらないもの ・ 小さな小さな物語 ( 1154 )

2019-05-30 14:08:46 | 小さな小さな物語 第二十部
毎年言っているような気がするのですが、早いもので、今年も終わろうとしています。
この一年に起こった出来事については、テレビ各局が詳しく教えてくれています。振り返って見てみれば、「とても信じられない」とか、「よくも堪えられたものだ」とか、「今なお許せない」といった厳しく悲しい事件も少なくなかったと思うのですが、時の流れは、時には緩急を見せながらも一瞬も止まることなく流れ続け、いつの間にか過去のものとなりつつあります。

事件というほどの出来事でなくても、何か普通とは違う場面に出会うと、私たちは無意識のうちに立ち止り、息を止め、現状を維持しようとするようです。
物事に対して、積極的な思考を持っ入る人と、消極的に考えがちの人がいることは確かですが、瞬間的には、私たちは肉体的にも精神的にも防衛本能のようなものが支配し、攻撃、あるいは逃避に移るのはその後のことのように思われます。つまり、私たちの思考の原点は現状維持にあり、その次に実行する攻撃であれ逃避であれ、それはやむを得ず行う手段であって、本当の狙いは、現状維持なのではないでしょうか。

少々理屈っぽくなりましたが、私たちには自分を取り巻く環境を変えることにとても臆病な一面を持っているように思うのです。
わが国では、様々な場面で変化を強調するのを見ますが、それは、変化を望まない人が圧倒的に多い証でもあるように思うのです。
私たちは、常に変化していく環境に身を置いており、それが幸せな状態であればあるほど、いつかは変化し終焉に至るものだということに脅えを感じていて、無意識のうちに変化に対して抵抗しようとするスイッチが入るようになっているように思えてならないのです。

変わるものと変わらないもの、私たちはそうしたものが入り組んで存在しているように感じてしまうのですが、実は私たちは、変わらないものなど一つとして存在していないことを承知していながら、何とかその真実には触れないようにして、大切なものは変わらないものと自分自身に納得させ、懸命の日を重ねているような気もするのです。
しかし、年の瀬にあたって、この一年を振り返ってみると、ゆったりとしたと思っていた日々が、驚くほどの変化の日々であったことが思い知らされます。
それだからこそ、私たちは、私たちにとって大切なものを守ろうとしているのではないでしょうか。そこには、矛盾があり、思いのままにいかない恨みがあり、愛する者への執着は膨らむばかりです。
まあ、それもこれも、先人が残してくれた知恵をお借りして、除夜の鐘などきいてこの一年の煩悩を洗い流すことにして、新しい一年も、「変わらないもの」を大切にすべく尽くすための禊とするとしますか。
どうぞ、新しい年が皆様方にとって良いお年でありますよう祈念申し上げます。

( 2018.12.31 )

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一年の計 ・ 小さな小さな物語 ( 1155 )

2019-05-30 14:06:59 | 小さな小さな物語 第二十部
「一年の計は元旦にあり」
言い古された言葉ですが、それでもやはり、お正月は将来を見つめてみようという思いを抱かせてくれます。私の場合、個人的な理由もあって、一月三日という日に、「一年の計」というほど大したものではないのですが、幾つかのことに関して、大まかな目標を掲げるようにしています。
ずっと以前には、もっと具体性のある計画を考えたこともあるのですが、次第に柔軟性を増し、言い換えればいい加減になり、ぼんやりと将来像を描く程度になってしまいましたが、それでも、この日は、ほんの少しばかり立ち止まるのが習慣になっています。

「一年の計」というほどのことではなく、計画や予定を立てることは、ほとんどの人がするもののようです。
例えば、小学生なども、夏休みが始まる頃には、それなりの計画を立てるものではないでしょうか。八月末までが夏休みだとすれば、七月十五日までに宿題を全部終わらせる。できれば絵日記も全部終わらせる・・・、などと計画を立てた記憶が私自身にもありますが、一度も計画通りいった記憶がありません。
しかし、私たちの行動の多くは、とっさの判断を求められるもの以外は、何らかの計画、あるいは予測に基づいて行動していると思われます。その多くは、習慣のようなものもあり、あるいは本能的なもののように感じられるものもあります。もしかすると私たちは、一寸先から、遥か久遠の彼方までについて、計画とは言わないまでも、予測なり想像なりすることによって、身体や精神を働かせることが出来るようになっているのかもしれない、とも思うのです。

ところで、計画を立てるというのは、人間独自のものなのでしょうか。上記したような、一寸先から久遠の彼方までの行動を支配するものとなれば、これは計画というより本能の分野のような気もしますので、他の動物なども有しているような気がします。
しかし、一日とか、一ヶ月とか、ある期間を定めて計画を立てるということになると、否定的な気持ちになってしまいます。かと言って、わが家を根城にしているクロネコ君が、朝住みついてくれている小屋から起き出してきて、朝食を食べるとパトロールに出掛け、一時間ほどすると帰ってきて、わが家のテラスや庭で好き勝手に過ごし、昼食を待ち、それが住むとまたお出かけするも、夕食を忘れることなどまずありません。あの行動は、単なる本能とはとても思えないのですが、本当はどうなのでしょうか。

ある先輩がこんな話をしてくれたことがありました。
「計画は緻密なほどよい。しかし、結果の検討は甘めがよろしい」と言うのです。
その心は、「簡単に達成できる計画など、わざわざ立てるほどのこともない。かと言って、計画が達成できないことを自責しすぎると、計画を立てるのが嫌になってしまう」からだそうです。第一、どんなに立派な計画を立て、懸命に努力をしたとしても、大災害などに遭遇すれば、計画など霧消してしまうからだ、とも言うのです。
この教えを忠実に守っているためか、およそ私の計画ですべて達成したことなどほとんどありません。その代わり、未達成で落ち込むこともありません。
さて、「一年の計」でも立てるとしますか。

( 2019.01.03 )
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