雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

許容範囲 ・ 小さな小さな物語 ( 1156 )

2019-05-30 14:05:41 | 小さな小さな物語 第二十部
今年の箱根駅伝は、東海大の総合初優勝で幕を閉じました。
最終結果は、優勝の東海大と二位の青学大との差は3分41秒あり、大差と表現できるような快勝に見えます。しかし、往路優勝は東洋大であり、復路優勝は青学大であることを考えれば、大接戦であったことがよく分かります。
箱根駅伝の場合、20km以上の距離で戦える選手を最低10人は必要なわけで、実際にこの戦いに出場するほどのチームとなれば、そのレベルの選手が20人程度は必要でしょうし、激しい練習の中では負傷者も出るでしょうし、体調や精神面などからくる好不調の並みもあるでしょうから、実際の出場メンバーが走るまでの戦いも、激しいものがあるのでしょう。

連続優勝を逃した青学大の監督が、「力負けではなく、采配ミスだった」と発言されていました。
この采配というのは、各コースのペース配分の指示などもあるのでしょうが、主には、選手起用面での采配ではないでしょうか。あるいは、レース当日のチーム力を最大値に導くためのコンディション作りなど、実際に走っている場面以外の戦いも大きなウェイトを占めているような気がします。
例えば、こういう意見を述べている人もいました。。練習時に安定して好タイムを出している経験の浅い選手をどの区間で使うか、というのは監督としては難しい決断を迫られるというのです。距離の長いエース区間で使いたい誘惑にかられるそうですが、他校の経験豊かなエース級の選手と競った場合、潰される可能性も高いそうです。しかし、成功した場合、自チームのエースをライバル校が弱そうな区間に投入できることになり、断然有利な展開がなされるそうです。

箱根に限らず、駅伝という競技においては、何人もの選手が長い距離を走るわけですから、全員が最高のパフォーマンスを発揮することは難しいといえます。ある程度のロスは覚悟しなければならない競技なのかもしれません。
おそらく各チームの監督は、各選手には最高のパフォーマンスを求めながらも、心の内では、それぞれの選手について若干のロス、つまり許容範囲を計算しているのではないでしょうか。そして、その許容範囲を余裕をもって設定できるチームが強いチームといえるのではないでしょうか。

さて、私たちの生活においても、様々なものに対して許容範囲を設定しているのではないでしょうか。意識的に、あるいは計画的に許容範囲を設定しているもののようです。そして、その許容範囲の有無、あるいは大きさが、余裕の尺度ではないでしょうか。
その許容範囲というものは、決して物質的なものばかりでなく、精神的なもの、目に見えないものなどにも存在していて、そういったものの許容範囲こそが優しさであり、品格に大きな影響を与えているように思うのてす。

( 2019.01.06 )
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日本の真ん中 ・ 小さな小さな物語 ( 1157 )

2019-05-30 14:03:18 | 小さな小さな物語 第二十部
たまたまですが、「日本の真ん中は我が町だ」といった記事を見る機会がありました。
兵庫県に住んでいる私などは、まず「子午線」の存在が意識され、わが国の標準時の基線となっている東経135度線が通っている「明石市」が浮かびます。
もっとも、東経135度線は、当然のことながら点ではなく線ですから、その線が引かれる市町村は沢山あるわけですから、この経線を理由に「日本の真ん中」を主張する所がたくさん出てきても不思議はないわけです。
中でも、「西脇市」には、北緯35度線も通っていることもあって、「日本のへそ」であることを高らかに唱っており、その名前の公園ばかりでなく、JR西日本の駅さえあります。

因みに、東経***度00分、ならびに北緯**度00分の線が交わっている地点は、全国に40地点もあるそうで、それに基づいて日本の真ん中を主張している都市もあるようです。
また、東京都の日本橋は、五街道の基点であることや、永田町は政治の中心地だということから、「日本の真ん中」を唱える向きもあるようです。
この他にも、人口の分布から見た場合、わが国の領土が全て入る円を描いた場合の中心に当たるなど、様々な根拠から「日本の真ん中」を主張する市町村は30に及ぶそうです。
それぞれに、知恵を絞った根拠に基づいているわけですから、いずれも正しく、どれか一つを正解とする方が無理があるようです。
ただ、町おこしや、観光資源としての価値は、よほど工夫を計らないと、「日本の最北端」「日本の最南端」などといった、「端っこ」を訴えたキャッチコピーの方が有力とも言われています。

まあ、「住めば都」という言葉がありますように、日頃は不満ばかり言っていても、自分の住んでいる町を悪く言われるのはあまり良い気はしません。
年末年始、気候も決して快適とはいえない季節、道路は混雑、乗物は乗車券を確保するのが大変といった中で、年末年始の休暇があるとはいえ、あれだけ大勢の人々がふるさとへ向かうのは、両親などと会う楽しみもさることながら、生まれ育った町、ふるさと、といったものに、何物にも代えがたい郷愁があるのではないでしょうか。

自分が住んでいる町が、「日本の真ん中」だと本気で考えている人は、全人口のうちのごくごく限られた人だと思うのですが、住み慣れた自分の町を、「そう悪くはない」と思っている人は意外に多いのではないでしょうか。
住民サービスが悪いとか、交通の便が悪いとか、治安が悪くなってきたとか、不満な所を数え上げればきりがないほどあるとしても、それでもなお、「まあ、不満を言い出せばきりがないからなあ」と、自分を納得させつつ住んでいるつもりの人の多くが、その街を悪く言われると腹を立てるのではないでしょうか。
案外、私たち一人一人にとっては、自分の住んでいる町が、都とは言わないまでも、わが国の中心地に近いような錯覚を描いているのではないでしょうか。
そして、そうした錯覚があるからこそ、私たちは自分の生きる場所を見つけ出す可能性を秘めているような気がするのです。

( 2019.01.09 )
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全力疾走 ・ 小さな小さな物語 ( 1158 )

2019-05-30 14:01:56 | 小さな小さな物語 第二十部
西宮神社(兵庫県)で行われている、恒例の十日えびすの参拝一番乗りを競う「開門神事 福男選び」は、今年は広島県福山市の消防士の方が参道をトップで駆け抜け見事「一番福」を獲得しました。
狭い参道を大勢の人が駆け抜ける様子は、雄々しい光景ともいえますが、滑稽という感じもしないわけではありません。しかし、この行事は、神事として江戸時代に始まったとされる由緒あるもので、今年は五千人もの人が参加したそうです。
もっとも、スタート順は抽選によってグループ化されるので、まずスタート順がトップグループに入る幸運を引き寄せないことには、一番福を獲得するなんて不可能だと言えましょう。

この一番福を競うレースは、表大門から本殿までの参道を駆け抜けるものですが、その距離はおよそ230mあるそうです。開門と同時にいっせいに駆け出すわけですが、当然全員が全力疾走しているように見えますが、実際は、その間では微妙なあるいは巧みな作戦や駆け引きが行われていたと考えられます。
オリンピックの陸上競技では100mが最短距離ですが、その競技であっても、後半で失速する選手は多数あるわけですから、当然ペース配分や競争相手との駆け引きもあると考えられます。それが、230mの距離ともなれば、しかも、トラックとは全く違うタフなコースですから、それ以上の作戦が必要とも考えられます。
現に、上位に入った人などは事前にコースを下見していたようです。つまり、全力疾走すればよいというものではないのです。

距離の長いレースとなれば、さらにペース配分や作戦の重要性が増すと考えられます。
箱根駅伝などを見ていましても、勝敗を左右する要因は、各選手の脚力の差だけではないことがよく分かります。出場選手の持ちタイムが示されますが、もちろんそれはトラックでのタイムでしょうから、ロードと差があると考えられますが、ある程度実力を示していると思うのですが、いざレースとなれば、思うようにはいかないようです。
箱根駅伝の場合、全コースが20kmを超えているわけですから、最初から最後まで全力疾走することなど出来るものではありません。たとえば、100の力を擁している選手が、前半に60の力を使ってしまえば、後半には40しか残っていないことになります。かといって、前半を40で走った場合、後半に60の力を発揮できるという保証はありません。さらに難しいことは、100の力の選手が必ず100の走りが出来るかどうかは分からず、90かも知れないし、反対にとんでもない記録を出す可能性もないわけではありません。
そうした様々な要因や作戦なども踏まえて、どこで全力疾走をするかということは、短距離レース、長距離レースに関わらず重要なようです。

さて、私たちの日常生活においても、ペース配分は必要なようです。
仕事の面であっても、私生活の面であっても、常に全力疾走できるものではありません。
人生となれば長すぎるといいますか、漠然過ぎるように思われますので別の機会に譲るとしまして、一年とか、ひと月とか、あるいは一日単位においても、それなりのペース配分は必要であって、全力疾走すべきチャンス、隠忍自重すべき時、より積極的に休むべき時もあるように思われます。
今年もはや十日余りが過ぎてしまいました。スロースタートをし、今なおスローの状態ですが、全力疾走はともかく、ぼつぼつスピードを上げなくてはならないのではないかと、反省だけはしています。

( 2019.01.12 )
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清廉潔白 ・ 小さな小さな物語 ( 1159 )

2019-05-30 14:00:45 | 小さな小さな物語 第二十部
「清廉潔白」を辞書で調べてみますと、「心が清く、私利私欲をもたないこと」とありました。
「清廉」の意味が「心が清くて私欲のないこと」であり、「潔白」が「①清潔で純白にこと。②いさぎよくこころのけがれていないこと。」とありますから、この二つを加えた「清廉潔白」がどれほど凄いことなのかは、想像することさえ難しいほどです。
従って、「清廉潔白な人物」となれば、想像や小説などの中に登場するとしても、実在の人物となれば、数千年の歴史を遡らなくてはならないような気がします。

ただ、「清廉潔白な人物」は稀有な存在だとしても、「清廉潔白らしい人物」は時々お目にかかることがあるような気がします。問題は、その人物が「清廉潔白」に限りなく近い人物なのか、本当はそれほどでもない人物なのか、そもそも作為的に「清廉潔白」を悪用しようとしている人物なのか様々だと思うのですが、その見分けが簡単ではないのですよ。
もっとも、それは何も「清廉潔白」に限ったことでなく、「高潔」とか「正義」とか「公正」などといった言葉や、それを名乗る人物についても同様といえます。
最近、言われたくないあたりから、「謙虚であれ」という言葉を聞いたように思うのですが、「謙虚」もその仲間なのかもしれません。

同様の性格をもった言葉は、この他にも数多くあるのでしょうが、それが個人が発する言葉であったり、個人に冠されたものであれば、それなりの対処方法もそれほど難しくなく、究極の方法としては「完全無視」を貫けば済むわけですから、まあ、大したことではないといえます。
ところが、これが、国家間、団体間、あるいは、個人であっても社会的に大きな影響力を有する人物からのものであれば、「完全無視」は難しく、対応にはしっかりとした体制と知恵が必要なように思われます。
しかも、国家間や、大きな社会問題となるような出来事で、双方の考え方が厳しく対立する場面が多見されているように思われてなりません。

私たちの日常生活においても同様で、「清廉潔白」であれ「謙虚」であれ、誰がどのように表現し主張しようとも、たいていは、「ごもっとも」とうなずくか、苦笑いをする程度で流れ去っていくものですが、時には、見逃すことが出来ず、あるいは堪忍しきれず、あるいは完全無視も出来ない状態に陥ってしまい、不幸な問題の発端になることがあるようです。
それを避けることは大変な難問のようですが、考えられる手段としては、「清廉潔白」も「正義」も「謙虚」も、あるいはこの種の高邁な理想の行為は、自分が努力すべき課題であって、他人に求めるものではないことを承知することのように思っています。
しかし、それにしても、彼の尊大な発言はゆるせませんなあ・・・。

( 2019.01.15 )
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今を生きる ・ 小さな小さな物語 ( 1160 )

2019-05-30 13:59:12 | 小さな小さな物語 第二十部
今勉強している「今昔物語」の中に、次のような一文がありました。
『 至り難くして 出で易きは 人の道なり。 入り易くして 出で難きは 三途なり。 』
ある聖人が、殺生を繰り返している男を諭す部分に登場してくる一文です。
「今昔物語」は、そのベースにあるのが仏教礼賛なので、その点は考慮して読む必要があるようにも思いますが、物語としてもなかなか面白い物がたくさんあります。

上記の一文は、古代仏教の思想の一つである「輪廻転生(リンネテンセイ)」に基づくものです。
私たちの、命といいますか魂といいますか、そうしたものは、生と死を繰り返して六道を転生するとされています。この六道は六趣とも表現されますし、上記文中の三途は三悪道(三悪趣)と同義です。
さて、少々長くなりますが、六道について、簡単に説明させていただきます。
「天道」・・天上道、天界道ともいう。この世界は、天人の住む世界ですが、まだ煩悩から解き放たれておらず、また他の世界に転生する。
「人間道」・・私たちが生きてる世界。
「修羅道」・・阿修羅道とも。阿修羅の住む世界で、果報に優れていながら悪業も負っている者の世界。
「畜生道」
「餓鬼道」
「地獄道」
以上の六道(六趣)を、生前の行い(果報・因果)に従って、転生するという考え方です。
このうち、「天道」「人間道」「修羅道」を三善道(三善趣)といい、「畜生道」「餓鬼道」「地獄道」を三悪道(三悪趣・三途)といいます。但し経典などにより、幾つもの説があるようです。特に、「修羅道」というのは、その扱いは多様のようです。上の説明では、「善道」に属していることになりますが、四悪道(四悪趣)として「悪道」の一つとされることもあります。また、六道の代わりに「五趣」として、修羅道を加えない説明もあります。
この「修羅道」に住む阿修羅は、もとは天界の神であったのが、乱暴を働いたためか追放されて、修羅道を形成したともいわれます。この辺り、高天原を追われた須佐之男命に似ているような気もします。
この辺りのことは、私にはうわべの説明しかできませんので、その点はご勘弁ください。

さて、冒頭の一文は、私たちが生きている「人間界」は輪廻転生する中では善道、つまり幸せな部類の世界なのですが、ここに生まれるのは簡単なことではないが、ここから離れるのは簡単なのだといっているのです。そして、「地獄道」などの三悪道は大変な苦しみが待っている世界なのですが、そこに生まれるのはごく簡単ですが、抜け出すのはとても難しいことだと教えているのです。
私たちは、自分が人間として誕生してくる時には、その理由やいわれを知っているわけではありません。当然、人間界に生まれることの難しさも承知しているわけではありません。

もちろん、行くのは簡単だといわれても、餓鬼道にも地獄道には行きたいとは思いません。死後の世界や、前世や来世について、様々なご高説を述べられる方もいらっしゃいます。中には、実際に見てきたといわれる方もいるのだという人もいます。私個人としては信じられないのですが、「死ねば何もかもなくなってしまう」というのも少し寂しいような気もします。
いずれにしても、私たちが生きている世界が、それほど難しい、奇跡的ともいえる結果として存在しているといわれますと、首を傾げながらも、もう少し大切に生きなければならないような気もするのです。
この世のことを、浮き世とも憂き世とも表現します。浮かれがちになり易く、憂きことの多い日々のような気もするのですが、今日そのものをもう少し大切にすることは必要な気もしています。

( 2019.01.18 )
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小さな小さな物語  目次

2019-05-30 11:39:38 | 小さな小さな物語 第二十部
          小さな小さな物語  目次


     No.1161  金星と木星
        1162  進化の途上
        1163  設計図を描く
        1164  二月という月
        1165  統計への信頼


        1166  適材適所
        1167  やりきれない
        1168  回復を祈る
        1169  揚げ足と言葉尻
        1170  琵琶湖のオオワシ  
  


        1171  すばらしい技術
        1172  世代交代
        1173  移り行くもの
        1174  車窓からの景色
        1175  選挙の季節   


        1176  敵の敵は?
        1177  八年過ぎて
        1178  神の領分 人間の領分
        1179  旅立つ時に
        1180  辞退は出来ないのか
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金星と木星 ・ 小さな小さな物語 ( 1161 )

2019-05-30 11:38:19 | 小さな小さな物語 第二十部
明け方、東南方向の空に金星が美しく輝いています。そして、そのすぐ横に木星が並んでいます。
この時期、金星は明けの明星と呼ばれる位置で私たちを楽しませてくれていますが、木星も似た方向にあって、しだいにその間隔を狭めてきていましたが、昨日あたりが最接近のようです。
今後は離れていきますが、しばらくの間は、日の出前の東南のかなり高い位置の空を見上げますと、二つの惑星が美しい輝きを見せてくれています。

金星も木星も、古来私たちとは馴染み深い天体で、多くの言い伝えや説話があるようです。
明るさから言いますと、太陽と月を別にすれば、一番明るいのが金星で、木星は三番目にあたります。因みに二番目は火星です。
星の明るさを示す方法で馴染み深いのは、「*等星」という呼び方です。通常1等星から6等星までに分けられますが、正しい決め方は知らないのですが、ある本によれば、とても明るいものを1等星、肉眼でようやく見えるものを6等星とし、1等星から6等星までの差を100倍としているそうです。これによれば、1段階違うと、明るさはおよそ2.5倍になるそうです。
1等星よりさらに明るい星は、0等星に近付き、さらに明るいものは-(マイナス)1等星、-2等星となっていきます。
恒星で最も明るい星は、シリウスで-1.46等星です。
惑星の明るさですが、金星は、-4.9~-3.8で、木星は、-2.9~1.6とされていて、その明るさは際立っています。

もっとも、この明るさというものは、地球上にいる私たちが目視した場合のことであって、それぞれの物体が発している明るさとは、まったく異なります。そもそも最も明るい金星といえども、惑星ですから、自分で光を発しているわけではなく、恒星である太陽の光を反射しているに過ぎないわけです。
また、地球上から目視できる星の数は8600ほどあるそうですが、実際に一度に見ることが出来るのはその半分以下でしょうから、4000程度ということになるのでしょう。さらに、現代の日本人の平均的な視力と大気の状況を考えれば、それよりはるかに少ない数にしかならないと思われます。
それでも、澄んだ日の夜空を眺めるのは楽しいものです。そして、見つけることが出来るわずかな星のうち、金星と木星が接近するとなると、何だか、天文愛好者のような錯覚を感じてしまいます。

しかし、考えてみます、惑星は太陽の周りを廻っていますが、金星は地球の内側を廻っており、木星は地球の外側を廻っています。従って、この二つが接近したというのはどういうことなのか、位置関係を思い浮かべて頭を痛めてみても、科学的大発見には至りませんが、どうやら、見かけの接近と実際の接近は別物だということは理解できます。そして、それは、人間社会でこそ多く見られる現象のような気がします。
さらに言えば、個人間であれ国家間であれ、そのようなことは百も承知の上で、互いに近い関係にあることを演出しなければならないことも、避けることのできない憂き世の義理というものなのでしょうね。

( 2019.01.24 )
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進化の途上 ・ 小さな小さな物語 ( 1162 )

2019-05-30 11:37:10 | 小さな小さな物語 第二十部
今、テレビで動物園を紹介する番組を見ています。
そう言えば、この前動物園に行ったのはいつのことだったのか、思い出せないほど以前のことになってしまいました。間近に実物を見る迫力には及ばないとしても、テレビ番組では、多くの種類、珍しい種、そして、動物園ではとても見られないような距離や生態を紹介してくれています。
今見ている番組では、アメリカのある動物園を紹介していますが、広大な園内には、千数百種、四万数千匹(頭)の動物が飼育されているそうです。

動物園の役割には、まず、私たちに楽しみや癒しを与えてくれることがありますが、その他にも、生物学ばかりでなく、広範囲の学術的研究の重要な観察機会を提供し実験場でもあるようです。そして、何よりも重要な役割の一つに、「種」の保存ということがあるそうです。
現在、世界中には、どれほどの「種」が生存しているのでしょうか。この「種」というのは、生物分類上の基本単位を指しますが、命名されているものだけでも200万種といわれ、実際にはその数倍から十数倍はいると推定されているようです。
動物で確認されているものでも100万種を遥かに超えているそうですが、その7割は昆虫類だそうです。
絶滅危惧種という言葉を耳にすることがありますが、実際は、私たちが知ることのない「種」が、毎日毎日多数姿を消していることは確かなことなのでしょう。

動物園が「種」の絶滅を防ぐことに貢献しているといっても、その数は微々たるものです。100種や200種の動物の絶滅を防ぐことが出来たとしても、全体の「種」の数からすれば、微々たるものといえます。
しかし、動物園などにいる。私たちと極めて近しい環境に生存している大型動物が絶滅していくことは、やはり寂しく、辛いものです。「種」に上下貴卑などの差はないとしても、身近な「種」を守ることは、人類の自己満足だとしても、それなりの意味はあると思うのです。

かつて、それはいつ頃のことであったのか、類まれな偶然と奇跡的な変化が出合って、地球上に生命が誕生しました。おそらく、それは一つの生命ではなく、多くの場所で多くの生命が誕生したのではないでしょうか。また、時も同じくしてではなく、様々な機会に、例えば、地球自体の変動や、太陽はじめ外部からの刺激によって、何度も何度も多くの生命体は登場し、進化を遂げ、その多くは絶滅してきたのではないでしょうか。
そして現在、私たちは、ヒト科の現存しているただ一つの「種」であるホモーサピエンスとして、数千万種の中の一種として生存しているわけです。そして今日の現象は、決して地球上の生命体の進化の完成状態であるわけではなく、進化の途上の一時点に過ぎないと考えるのが自然なのではないでしょうか。
そう考えれば、これから先も多くの「種」が失われ、多くの「種」が進化を続け、もしかすると、あらゆる場所で新しい生命体が生まれて進化のスタートラインに立っているのかもしれません。
つまり、ホモーサピエンスは生命体の進化の頂点にあるはずがないのですから、憎み合い、けなし合い、許すことも、他を認めることも満足にできない私たちの資質も、仕方がないといえばその通りのような気がするのです。

( 2019.01.27 )
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設計図を描く ・ 小さな小さな物語 ( 1163 )

2019-05-30 11:35:56 | 小さな小さな物語 第二十部
人気グループ「嵐」の活動休止宣言は、芸能ニュースの枠を遥かに超えて、ちょっとした社会現象の様相を呈しています。
テレビではニュース速報として報じられ、新聞は一般紙でも大きく取り扱われました。
エンターテイメントとしての評価や今度の宣言の意味などについては、私には発言する知識があのませんが、人気の頂点にあって、このような決断を下したことには、大いに興味を感じました。

この背景には色々あるのかもしれませんが、少なくとも、メンバーの一人以上の人が、自分の生き方について立ち止まって見直してみたいとの強い希望があったことは確かだと推察されます。
一心に走り続けている中で、ふと疑問のようなものが浮かび上がり、立ち止まって、じっくりと考えてみたい、この先の設計図を描き直してみたい・・・、こうした疑問は、多くの人が一度や二度は経験することではないでしょうか。
しかし、実行となれば、なかなか決断できるものではありません。サラリーマンが転職するのも簡単なことではありませんし、家業を職種替えするのも同様でしょう。それを思えば、人気絶頂のグループが活動休止を決断するのは、簡単なことではないことがわかるような気がします。フアンとの関係、所属事務所やスタッフとの関係、CMや公演会場との契約関係、他にも、直接間接に関係を主張する人は膨大な数でしょう。しかも、それは、単に精神的なものだけでなく、利害も絡んできますから難しい調整が必要と想像できます。
そう考えれば、是非はともかく、この決断を表明することが出来たグループに拍手したいとともに、幸せなグループだと思います。

世間的には、どうということもない日々を過ごしているように見える人であっても、生き方を見直すほどの決断となれば、その重さは、人気グループと大差がないように思われます。しかし残念ながら、しっかりとした設計図を描いての決断は、そうそう出来るものではありません。
惰性やしがらみに押し流され、客観的に見れば極めて軟弱な足場であっても、それを棄て去ることが出来ず、よほどの他力が働かない限り、自分の日常を大きく変えることは至難の業といえましょう。

しかし、私たちは、設計図を描くことは案外好きなのではないでしょうか。
例えば、チラシ広告などでマンションや戸建ての広告が入っていると、住居を移る予定など全くなくても、ついつい見入ってしまい、「ここがこうなっていれば」「これは無駄だなあ」「ここは狭すぎるよ」などと自分なりの設計図と照らし合わせ、最後は「とても、予算がなあ」となるとしても、一瞬引き込まれてしまいます。
また、部屋や机の引き出しの整理であっても、あるいは狭い菜園や花壇であっても、私たちは無意識なものも含めて設計図を描いているのではないでしょうか。
さらに言えば、人生とか将来というほど大げさでなくても、今日一日、この一週間の過ごし方についても、殆どが惰性の延長だとしても、漠然とした設計図は描いているのではないでしょうか。
人気グループの解散宣言に触発されたとしては、いささかスケールが小さいのですが、せめて、この先一年程度の設計図を描き直してみようと、考えてはいるのです。

( 2019.01.30 )


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二月という月 ・ 小さな小さな物語 ( 1164 )

2019-05-30 11:34:20 | 小さな小さな物語 第二十部
今年も、早くも二月を迎えました。
「平成最後の二月」というほど、はしゃぐつもりはありませんが、私は常々二月は少し変わった月のように感じています。
その一番の理由は、一年十二か月のうち唯一二十八日と日数が少なく、しかも通常は四年に一度おまけの日が付されるという際立って特殊な役割を担っているからです。たかが二日か三日のことではないかといえばその通りですが、私たちは、自力で「一日」という時間を捻出することも消し去ることもできないわけですから、一か月が二十八日というものが持っている意味は、案外大きなものかもしれません。

他にも、「節分」があります。今年は二月三日になりますが、節分というのは、ご承知のように「季節の移り変わる時」という意味で、立春・立夏・立秋・立冬の前日のことを指していますから、年に四回あるわけです。しかし、現在、節分といえば立春の前日である二月の節分を指すようになっています。もちろんこれは、古来わが国では、立春を新しい年の始まりと考えてきたことが、他の季節に優先しているということに由来しているものと考えられます。今日でも、立春は、暦の上で大きな意味をもっています。八十八夜や二百十日などは立春から数えた日を指しています。

ところで、なぜ二月が二十八日なのかということについて漠然とした知識しかなかったので、少し調べてみました。
これまでの知識としては、ローマのある皇帝が自分の誕生月が日数が三十日の小の月だったのを大の月にすることにして一日増やすために二月から一日持ってきたというものです。
概ねそのようなことらしいのですが、幾つか興味深いことも分かりましたので紹介させていただきます。
まず、この皇帝というのは、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスのことで、紀元前8年のことです。この人物は、あのガイウス・ユニウス・カエサル(英語読み ジュリアス・シーザー)の姪の子にあたり、第一相続人でもありました。皇帝となり、カエサルの月が七月で三十一日なのに対して、自分の月の八月が三十日だったものを一日増やそうとした対抗心が二月の犠牲を生んだようなのです。
現在私たちが西洋暦として用いている暦は、グレゴリオ暦ですが、これはカエサルが紀元前45年に定めたユリウス暦を、西暦1582年にローマ教皇グレゴリウス十三世がユリウス暦をより太陽年に近しいように改善したものです。ユリウス暦も太陽年との差は小さく、128年で1日程度の誤差だそうです。現在でも、一部の地域や教会ではユリウス暦が用いられているようです。
そのユリウス暦はローマ暦を下敷きに考案されたらしいのですが、その暦の二月が二十九日だったらしく、そのあたりから「二月が二十八日」というものが誕生したらしいのです。少々あやふやなのですが。
さらに面白いのは、初期のローマ暦は、現在の三月にあたる頃をスタート月として、三十日と二十九日を十回繰り返した後、どの月にも属さない六十日ほどの期間があったそうです。当時の暦の主目的は農耕への対応ですから、真冬にあたる六十日余りはわざわざ月を定めるほどのことはなかったらしいのです。そして、春めいてきた時を見定めて、時の王様が新しい年を宣言したらしいのです。
つまり、一月と二月は、初期のローマ暦では「おまけ」みたいなものだったのでしょうか。

昨日から始まった現代日本の二月は、早々に豆もまかなければならないし、巻き寿司も食べなければなりません。とても、おまけの月などとは言っておれません。
他の月より二、三日短いのを、「得をした」と考えるのか「損をした」と考えるのか様々だと思うのですが、日数が少ないことだけは厳然たる事実だと思うのです。
この期間を、古代ローマ人がどのように過ごしたのか知りませんが、やがて訪れる本格的な春に向かって、心身ともに充実させる期間としていたのではないかと思ったりするのです。

( 2019.02.02 )
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