今年の箱根駅伝は、東海大の総合初優勝で幕を閉じました。
最終結果は、優勝の東海大と二位の青学大との差は3分41秒あり、大差と表現できるような快勝に見えます。しかし、往路優勝は東洋大であり、復路優勝は青学大であることを考えれば、大接戦であったことがよく分かります。
箱根駅伝の場合、20km以上の距離で戦える選手を最低10人は必要なわけで、実際にこの戦いに出場するほどのチームとなれば、そのレベルの選手が20人程度は必要でしょうし、激しい練習の中では負傷者も出るでしょうし、体調や精神面などからくる好不調の並みもあるでしょうから、実際の出場メンバーが走るまでの戦いも、激しいものがあるのでしょう。
連続優勝を逃した青学大の監督が、「力負けではなく、采配ミスだった」と発言されていました。
この采配というのは、各コースのペース配分の指示などもあるのでしょうが、主には、選手起用面での采配ではないでしょうか。あるいは、レース当日のチーム力を最大値に導くためのコンディション作りなど、実際に走っている場面以外の戦いも大きなウェイトを占めているような気がします。
例えば、こういう意見を述べている人もいました。。練習時に安定して好タイムを出している経験の浅い選手をどの区間で使うか、というのは監督としては難しい決断を迫られるというのです。距離の長いエース区間で使いたい誘惑にかられるそうですが、他校の経験豊かなエース級の選手と競った場合、潰される可能性も高いそうです。しかし、成功した場合、自チームのエースをライバル校が弱そうな区間に投入できることになり、断然有利な展開がなされるそうです。
箱根に限らず、駅伝という競技においては、何人もの選手が長い距離を走るわけですから、全員が最高のパフォーマンスを発揮することは難しいといえます。ある程度のロスは覚悟しなければならない競技なのかもしれません。
おそらく各チームの監督は、各選手には最高のパフォーマンスを求めながらも、心の内では、それぞれの選手について若干のロス、つまり許容範囲を計算しているのではないでしょうか。そして、その許容範囲を余裕をもって設定できるチームが強いチームといえるのではないでしょうか。
さて、私たちの生活においても、様々なものに対して許容範囲を設定しているのではないでしょうか。意識的に、あるいは計画的に許容範囲を設定しているもののようです。そして、その許容範囲の有無、あるいは大きさが、余裕の尺度ではないでしょうか。
その許容範囲というものは、決して物質的なものばかりでなく、精神的なもの、目に見えないものなどにも存在していて、そういったものの許容範囲こそが優しさであり、品格に大きな影響を与えているように思うのてす。
( 2019.01.06 )
最終結果は、優勝の東海大と二位の青学大との差は3分41秒あり、大差と表現できるような快勝に見えます。しかし、往路優勝は東洋大であり、復路優勝は青学大であることを考えれば、大接戦であったことがよく分かります。
箱根駅伝の場合、20km以上の距離で戦える選手を最低10人は必要なわけで、実際にこの戦いに出場するほどのチームとなれば、そのレベルの選手が20人程度は必要でしょうし、激しい練習の中では負傷者も出るでしょうし、体調や精神面などからくる好不調の並みもあるでしょうから、実際の出場メンバーが走るまでの戦いも、激しいものがあるのでしょう。
連続優勝を逃した青学大の監督が、「力負けではなく、采配ミスだった」と発言されていました。
この采配というのは、各コースのペース配分の指示などもあるのでしょうが、主には、選手起用面での采配ではないでしょうか。あるいは、レース当日のチーム力を最大値に導くためのコンディション作りなど、実際に走っている場面以外の戦いも大きなウェイトを占めているような気がします。
例えば、こういう意見を述べている人もいました。。練習時に安定して好タイムを出している経験の浅い選手をどの区間で使うか、というのは監督としては難しい決断を迫られるというのです。距離の長いエース区間で使いたい誘惑にかられるそうですが、他校の経験豊かなエース級の選手と競った場合、潰される可能性も高いそうです。しかし、成功した場合、自チームのエースをライバル校が弱そうな区間に投入できることになり、断然有利な展開がなされるそうです。
箱根に限らず、駅伝という競技においては、何人もの選手が長い距離を走るわけですから、全員が最高のパフォーマンスを発揮することは難しいといえます。ある程度のロスは覚悟しなければならない競技なのかもしれません。
おそらく各チームの監督は、各選手には最高のパフォーマンスを求めながらも、心の内では、それぞれの選手について若干のロス、つまり許容範囲を計算しているのではないでしょうか。そして、その許容範囲を余裕をもって設定できるチームが強いチームといえるのではないでしょうか。
さて、私たちの生活においても、様々なものに対して許容範囲を設定しているのではないでしょうか。意識的に、あるいは計画的に許容範囲を設定しているもののようです。そして、その許容範囲の有無、あるいは大きさが、余裕の尺度ではないでしょうか。
その許容範囲というものは、決して物質的なものばかりでなく、精神的なもの、目に見えないものなどにも存在していて、そういったものの許容範囲こそが優しさであり、品格に大きな影響を与えているように思うのてす。
( 2019.01.06 )