雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

一票の格差 ・ 小さな小さな物語 ( 679 )

2015-03-16 11:14:21 | 小さな小さな物語 第十二部
「政治と金」にまつわるトラブルは、次から次と話題を提供してくれていますが、ぼつぼつどこかで手打ちをしてほしいものです。
追及される方にはそれなりの根拠がある場合が多く、全くの無罪放免にしてしまうのに腹立たしさもありますが、国会討議の主題が、このようなことの繰り返しでいいのでしょうか。
「大臣、あるいは議員の資質に欠けるか否かのことを討議しているのだ」と、大見えを切っているような発言もありますが、そのような可能性のある人物を数多く国会に送り込んだことは国民の責任であり、恥でもあるのですから、ぼつぼつ勘弁して欲しいと感じていたところ、追及する側からも同じような問題が浮かび上がってきたようですので、手打ちも近いということなのでしょうね、きっと。

重要議案とされる懸案事項も少なくないようですから、やはり、それらのことを議題としてほしいものです。
議員の資質を問うような、あるいは、犯罪にもなりかねない問題などに関しては、別途然るべき場所を作って追求なり釈明なり心行くまでやってほしいものです。そのような機関は、あるはずですから。但し、「泥棒に追い銭」になりかねないような費用はかけないで下さいよ。
古今東西、政治や政権には、「かね」を中心としたトラブルは絶えることがないようです。つまり、根絶することなど出来ないのです。対策は「かね」にまつわるトラブルはあるものとしてルール作りをするしかないのです。そして、厳格に守る方法を考えるしかないのでしょう。
そのルール作りは、おきて破りをする当事者にさせてはならないのは当然のことです。

一連のトラブルに関する質疑などの中に、「資質を疑う」といった発言が時々聞かれるのが気になります。
勉強不足であるとか、経験不足であるとか、あるいは判断ミスということは誰にでもあることです。しかし、「資質を疑う」とまで言われるような人に国会議員をさせていていいのでしょうか。同時に、安易にそのような発言をされる人に対しても、少々資質を疑ってしまう気になってしまうのです。
折から、参議院の選挙制度に関する試案が話題になっています。衆議院は、いつの間にか当面このままで良いことになってしまったのでしょうか。
立派な国会議員を選出することは難しいことですが、その原因の一つには選挙制度にあるように思えてなりません。
わが国は、一応、三権分立を国家運営の根本に据えているはずです。
その一権である司法からの指摘を受けてさえも、なかなか選挙制度を是正できない国会は当事者能力に欠けているのではないでしょうか。そのような構成員から、「かね」にまつわるトラブルを抱えた人物が出てくることなど、不思議でも何でもないといえます。
早急に、選挙制度の是正を行ってほしいものです。

ただ、気になることがあります。
新聞の見出しや社説、あるいはテレビ報道などでも、「一票の格差」といった表現をよく見ることです。
法における「平等」の中には、選挙における一人一人の意思表示の法的効力は同一であるべきだということは、疑いもなく肯定出来ることだと思います。
しかし、そのことと、よく話題になる「一票の格差」というものとは、完全にリンクする必要はないようにも思うのです。誤解を受ける表現かもしれませんが、例えば、衆議院や参議院の議員選挙において、一般に言われているような「一票の格差」というものは、現在の形が良いというわけではありませんが、完全に人口比例になることが良いとも思われないのです。
完全な人口比例により国会議員が選ばれるようになった場合、都市部から選出される議員が現在よりはるかに多くなります。単純にそれが「平等」だと言われればそれまでなのですが、地方の疲弊はさらに激しくなることでしょう。それでも良いというのであれば、それまでなのですが。
国会議員の選出基準には、人口に比例させることはもちろん必要ですが、その他にも、国土の広さや、場合によっては管轄する海洋の広ささえも加味させる必要があるような気がするのです。
人が住んでいない国土であっても、国政が行き渡らなくてもよいということではないはずだと思うのですが、この考え方、変なのでしょうか。

( 2014.11.01 )
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ウイルスとの戦い ・ 小さな小さな物語 ( 680 )

2015-03-16 11:12:59 | 小さな小さな物語 第十二部
西アフリカのエボラ出血熱の猛威は、なお衰えを見せようとしないようです。
多くの人々が懸命に治療や封じ込めに務めているようですが、なお終息には程遠く予断を許さない状態が続いているようです。
特に今回の流行では、スペインやアメリカでも患者が出現し、世界で最先進と考えらるアメリカの治療機関においてさえも二次感染したということが、その脅威の大きさを証明した形になってしまいました。
何分、ワクチンをはじめ有効な治療法が確立されていないことや、致死率の高さなどがこの病気の恐ろしさを際立たせています。
わが国でも、発病の疑いで隔離したという出来事が報道されました。幸い、すぐに陰性であることが判明したようですが、世界中の人々の交流が進んでいる現代では、わが国だけが安全地帯でいることなど困難と思われます。

エボラ出血熱が初めて確認されたのは、1976年のことです。
スーダンのヌザラという町の男性が発症したのが確認された最初とされていて、その男性の出身地にあるエボラ川という名前から、エボラ出血熱、エボラウイルスという名前が付けられたそうです。
この時には、284人が感染し、最初の男性も含めた151人が死亡しています。その後、アフリカ大陸では10回の流行が見られています。いずれも突然流行したようですが、これまでは感染者を一部地域に閉じ込めることが出来ていたため、今回ほどの大きなニュースにならず、そのためもあって治療方法などの対策が進んでいなかったように思われます。
エボラウイルスは空気感染しないとされていて、感染力の強さに比べそれほど広範囲に広がるものではないようです。万が一、わが国でも感染者が出れば大変ですが、わが国のインフルエンザウイルスによる死亡者は、年間1万人を越えているわけですから、怖いとはいえ冷静に対応すべきだと思われます。

それにしても、エボラにしろインフルエンザにしろ、ウイルスとはなかなか厄介な存在のようです。
第一、ウイルスは、動物とも植物とも判定できないどころか、生物かどうかさえ疑問のある存在なのです。生物とは何ぞや、などということになりますと難しくなってしまいますが、ウイルスは生命体の最小単位である細胞を有していないので非生命体と表現されることもあるようです。
ウイルスそのものは、単体では増殖することはできず、他の生物の細胞に寄生して初めて増殖が可能となるのです。エボラウイルスのような病原体となっているウイルスは、寄生した生物の細胞を利用して増殖を続けますが、それによりその生命体が死滅すれば、やがてウイルスも存在を続けることはできなくなるのです。
自らの存在を失うことになるのに、なぜそれほどの増殖を続けるのか、ウイルスに尋ねてみたいものです。

現在確認されているウイルスは亜種も含めれば5000万種類以上といわれ、そのうちの数百種類が人間に病気をもたらすらしいのです。
また、病原体といわれるウイルスであっても、人間の体内に入って発病するまでの時間、つまり潜伏期間は、1~2日から数十年とさまざまらしく、もしかすると、数百年、数千年という物もあるかもしれない気がするのです。もしかすると、大部分のウイルスは、人間と共生関係にあるのかもしれません。
ウイルスが発見されたのは、1883年ということですから、人間の歴史においてはごくごく最近のことといえます。しかし、それは、ウイルスがあまりに微小なため、近代科学が発達するまで発見できなかっただけで、その存在は遥か昔にさかのぼることは十分推測されることです。
ウイルスの誕生は、地球上に生命体が誕生したころに、少し違う形の「いのち」として誕生したか、もう少し遅れて、生命体から分離して独自の進化を遂げてきたのか、あるいは、宇宙の遥か彼方から飛来してきたものか、そのどれかではないのかと、考えを巡らせています。
エボラウイルスを封じ込める有効な対策の完成を願っていますし、現に、天然痘ウイルスは人間の手によって完全に制圧されたとされていますから、エボラウイルスの完全制圧も期待できるはずです。
しかし、多くのウイルスは、人間を抹殺するために登場してきたとは考えられず、人間や他の生物と共生関係にありたいと考えているようにも思われるのです。

( 2014.11.04 )
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小さな小さな物語  目次

2015-03-16 10:10:26 | 小さな小さな物語 第十二部
          小さな小さな物語  目次 ( 681 ~ 700 )

     No.681  羽生選手激突
        682  円安の功罪
        683  大義名分
        684  GDPショック
        685  選挙戦始まっている


        686  空理空論
        687  人柄が出る
        688  違憲状態の戦い
        689  一千兆円の重み
        690  冬本番


        691  アナウンスメント効果
        692  是非を問う
        693  本気で政策推進を
        694  物価上昇
        695  見えないが実は光っている


        696  悪魔の証明
        697  後悔先に立たず
        698  除夜の鐘
        699  特別な日
        700  六日年越し
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羽生選手激突 ・ 小さな小さな物語 ( 681 )

2015-03-16 10:08:53 | 小さな小さな物語 第十二部
フィギュアスケートの羽生選手が中国大会のフリーの演技直前の六分間練習の最中に中国選手と激しく衝突しました。
テレビで中継されていたこともあって、突然の大事故に多くの人が目撃することとなり、大きな衝撃となりました。
会場内の一瞬凍りついたような雰囲気や悲痛な声援などが、テレビを通してでも震えを感じるように伝わってきました。
結果は、負傷しながらも、羽生選手も中国の選手も欠場することなく痛々しいばかりの演技を披露してくれました。
羽生選手や中国選手にとっては、全く予期していない事故で不運であったとしか言いようがないのでしょうが、優勝した選手も、あの雰囲気の中で、しかも痛々しい二人の鬼気迫るとさえ見える演技のあとにリンクに立つのは厳しかったことでしょう。

テレビでこの衝突事故を見た瞬間、私は、今年の春先に起きた、プロ野球の阪神の西岡選手と福留選手のアクシデントを思いだしました。幸い二人は完治されましたが、西岡選手は復帰までに長い時間を要しています。
冷静に考えてみますと、フィギュアスケーターの瞬間スピードは土の上のスポーツ以上の速さと思われ、しかも二人ともがジャンプを行おうとしていた瞬間だったとすれば、その衝撃は相当のものと考えられます。衝撃ということからすれば、例えばプロの相撲の立ち合いで頭と頭をぶつけあう場合なども相当激しいものと思われますが、この場合は互いに衝撃を予期しているわけですが、羽生選手の場合は全く突然の衝撃であり、ダメージの大きさが心配されます。

棄権を選ばず競技を続けたことに対して、賞賛の声が多く聞こえてきます。その精神力や責任感の強さに対する賞賛の声は当然としても、同時に考えさせられる部分もあります。
おそらく、コーチやドクターなどは棄権を勧めたと想像されるのですが、羽生選手の強い意志で出場となったのでしょうが、顎の傷や頭への衝撃を考えれば、本当は絶対安静を保つべきだったはずです。そのようなことは、スタッフの方たちはもちろん羽生選手も十分承知の上で出場したのには、競技への強い思い入れ、多くの人の期待への責任感などが衝撃の危険を上回ったからであって、それだからこそ、世界中の多くの人々に感動を与えることになったのだのと思われます。

今回の羽生選手の懸命の演技が、単なる根性論として独り歩きしないことを願っています。
あの状況下において、なお競技が続けられ、あれだけの演技を行うことが出来たのには、世界に冠たる類稀なる才能と、常人を遥かに超える鍛錬を積み重ねてきた裏付けがあったからこそ成し遂げられたことであって、どのようなスポーツであれ、並の才能で並の練習しかしていない選手が、並の指導者による変な根性論で振り回されることのないことを願っています。
どのようなスポーツであれ、プロ選手の域にある人ならともかく、特に小・中学生などは、心身の健全な育成のため、あるいは、人生における楽しみのために学んだり参加するためのものだと思うのです。
中途半端な知識や経験に基づいた根性論による指導のため、スポーツが嫌いになったり、相当重篤な健康被害を受けている子供が少なくないのです。
本来スポーツは楽しいものでなくてはなりません。羽生選手の演技に身が震えるほどの感動を受けながらも、こんなことを考えてしまいました。

( 2014.11.10 )
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円安の功罪 ・ 小さな小さな物語 ( 682 )

2015-03-16 10:07:31 | 小さな小さな物語 第十二部
円・ドル相場は、このところ115円前後で推移しています。
「何とかパズーカー」などと物騒な表現もされているようですが、何としても円安、物価上昇に持って行きたいという日銀や政府の意思は感じられる行動ではありました。
二年前、とてもやっていけないというほど円高で苦しんでいたはずなのですが、ここへきて、円安による副作用が云々されるようになりました。
円高はダメ、円安も困る、ではいったいどうすれば良いのでしょうか。

単純に考えれば、円高、つまり自国の通貨が高くなることは、国力を買われていることであって、悪いことではないはずなのです。
ただ、現実的には、輸出業者には不利に働くことは確かなことで、血の滲むような企業努力が、まるで気まぐれのように動く為替相場で利益どころか採算割れに追い込まれることもあるわけですから、とても円高を喜ぶわけにはいきますまい。
しかし、円安になれば輸入製品は高くなるわけですから、食料や原油などを輸入に頼っているわが国としては、ほとんどの物価が上昇することになります。収入が伸びるどころか、可処分所得が減少している家庭が多い現状では、円安は、そうそう喜んではいられないわけです。

二年ほど前、円高がわが国経済停滞の大きな要因とされていましたが、私は、わが国は「強い商品」を売るべきだと提唱しました。その強い商品の代表的なものが「円」だったわけです。ですから、「円」をどんどん生み出して、売って売って売りまくればよいと思ったわけです。若干遅すぎた気もしますが、ここにきてようやく少し円安になってきたわけです。
問題は、売って売って売りまくったはずの「円」が、どこに売られていたかということなのです。その多くは、国内に滞留していたのではないでしょうか。強い商品を売る先は、当然のことながら海外でなくては意味がありません。国内をお札でジャブジャブにすることは、バブルを発生させることになり、その結果についてはわが国はもう学習済みのはずです。
現在の水準は、個人的には、少なくともドルやユーロに対してはそれほどの円安だとは思わないのですが、もし円安に過ぎるとすれば、海外の資産を売っていけばいいわけです。

為替相場については、テレビなどで、その道の専門家らしい人が様々な意見を述べておられます。
しかし、ごくごく一部分ではあたるとしても、相当の確率で正しい見通しを述べ続けられた人にはなかなかお目にかかれません。つまり、分からないのですよ。
ただ、この二年ほどの円・ドル相場の推移を通じて、私たちはいくつかのことを教えられました。
まず一つは、少々円安になっても、わが国の輸出は伸びないということです。すなわち、国内の生産能力や競争力はそれほど強くなくなってしまっているという現実です。
二つ目は、この程度の円安でも、早くも音を上げる人が出てくるほどのダメージを受けるということです。
そして三つめは、食糧やエネルギーといった、国民生活の首根っこともいえる部分が、非常に高い割合で海外に頼っているということです。
円安だ、円高だと一喜一憂するのも大切でしょうが、この第三の部分はもっと真剣に取り組まなくてはならない課題ではないでしょうか。他国がすべて親切な国ばかりではないのですから。

( 2014.11.13 )
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大義名分 ・ 小さな小さな物語 ( 683 )

2015-03-16 10:06:31 | 小さな小さな物語 第十二部
突然というわけではないのでしょうが、衆議院解散が実現しそうな状況になってきました。
テレビ番組を見ていての感想ですが、多くのコメンテーターや評論家といわれる人などが様々な意見を述べている中で、「この人がこれほど断言してしまっていいのだろうか?」と思わせる発言がありました。政権中枢に相当近いと思われる二人の方が、全く別の番組で年内解散を予測されていたのです。十日以上前のことです。
その時、若干不思議に思いながら見ていましたが、同時に「解散あり」が感じられました。二人とも、そうそう無責任な発言をされない人だけに、あれは、単に予測が当たったのか、解散ムードを醸し出すためのものであったのか、今も判断しかねています。

今週に入って、俄然解散風が吹き荒れて、今では首相の宣言待ちといった感じになっています。
そうなりますと、やはり思っていた通り、あちらこちらから「大義名分」という言葉が聞かれ始めました。
この解散に大義名分があるのかどうか、何を持って大義名分とするのか、などと大見得を切っておられる人が何人もいるようです。
つい先日まで、「うちわ」か「うちわもどきか」などといったレベルの論争に忙しかった人たちから、大義名分云々といった話を聞くのも少々白けてしまいます。

「大義名分」という言葉は、もともとは儒教的な考え方からきたもので、本来は「臣下としての守るべき道義や節度や出所進退などのあり方」を指す言葉ですが、今日では、「行動を起こすにあたっての、その正当性を示す道理や根拠」を指すことが多くなっています。
また、この言葉、特に「大義」という言葉は、幕末の勤王の志士と呼ばれた若者たちが好んで用いたらしく、今日でも、「大義」だとか「大義名分」などと言えば正義の味方のような錯覚を持つ人が多いように感じられます。

まあ、正しくは、衆議院の解散も、消費税率引き上げの先延ばしも、まだ何も決定していないわけですが、それらが正式に決定して選挙戦が始まるまでの間の各政党や政治家の発言や動向をしっかりと見ておきたいものです。選挙中よりも、意外な素顔が見えることが多いからです。
一票の価値が、建前論でいわれるほど重いとは思いませんが、世界中には、まともな選挙が行えない人々が数多くいることを考えれば、やはり真剣な一票をどう行使するか、今から考えていきたいと思っています。

( 2014.11.16 )
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GDPショック ・ 小さな小さな物語 ( 684 )

2015-03-16 10:05:16 | 小さな小さな物語 第十二部
7-9月のGDP(国内総生産)の速報値が、前期比マイナス0.4%で、年率に換算すればマイナス1.6%だということが大きな話題になっています。
事前の予想でも、かなり悪いらしいという話が聞かれていましたが、民間調査機関の予想中央値は、前期比でプラス0.5%・年率換算値でプラス2.1%だったようで、マイナス予測をした調査機関は1社もなかったそうです。
それだけに、マイナスという速報には、かなりのショック性があり、株式市場は大きく下落し、アベノミクスは失敗だったという声が大きくなったりしています。

GDPの持つ意味については割愛するとして、単純に景気の実態を示す物として考えることにしますが、その予測が、そうそう簡単なものでないことは理解できるとしても、調査機関すべてがプラスとマイナスさえも判断できないとなれば、シンクタンクだとかエコノミストだとかいう人たちは、本当に真剣な調査のもとに予測を立てているのが疑わしくなってしまいます。
テレビなどの報道を見ているだけでも、地方や街角でのインタビューが不況を訴えていたり、デパートなどの売り上げが苦戦していることが伝えられているのに、マイナス予測をする専門家といわれる人が一人もいなかったということは、ある種の権威あるとされるデーターをベースに若干の手直しをして持論としているのではないかと思ってしまいます。それなら、私と一緒じゃないですか。
株式市場の500円を超える下落に、まるで相場が崩れ去ったかのような評論をしている人もありましたが、翌日には一端は持ち直していて、まあ、一部の人の意見というのは、何事につけ参考程度にするのが無難なようです。

今回の予想外のGDPの不振の原因を、4月の消費税引き上げが主因だという意見があります。
アベノミクスといわれる経済政策は、その成否はまだまだ時間をかけないと判定できませんが、この二年間でいえば、顕著な成果は確かにありますが、より生活が厳しくなった層を生み出していることも否定できないでしょう。それらをどう判断するかによりアベノミクスの正否判断は変わってくるのは当然ですが、少なくとも、消費税引き上げの影響を過小評価していたのではないかと思われます。
経済成長を目指し、それも国民生活の向上をベースに考えるとき、消費税の引き上げがマイナスに働くことなど誰にでも分かることです。分かっていなかったわけではないのでしょうが、過小評価していたのだと思われます。
それに、今もなお、財政再建を錦の御旗にしている人たちは増税を主張し続けています。このまま行けば国家が破産するという懸念も理解できます。しかし、わが国のGDPを縮小させていっては、消費税を30%にしても国家の借金を完済させることなど出来ないでしょう。

今回の突然の衆議院解散については、さまざまな意見が交わされています。
思った通り、「大義」「大義」と、我こそは正義の味方という声も数多く聞かれます。
今回の選挙には争点が見つけ出しにくいという声がよく聞かれました。おそらく首相は、「消費税再引き上げ延期」を争点として戦う算段だとも考えられるのですが、いざ選挙となれば、どの党も「引き上げ反対」で右にならえしてしまいそうですから、争点にはなりにくそうです。
その代わりと言っては何ですが、GDPが想定以上に悪かったお蔭で、アベノミクスといわれる経済政策をこのまま継続させて良いのかどうかが絶好の争点となりそうです。
各党が、この点に関して、非難合戦ではなく、実現可能な経済政策を戦わせてくれることを期待しています。まあ、他にも争点はあることはあるのですが・・。

( 2014.11.19 )
 
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選挙戦は始まっている ・ 小さな小さな物語 ( 685 )

2015-03-16 10:03:57 | 小さな小さな物語 第十二部
衆議院が解散されました。
今、十一月二十一日の午後二時です。衆議院の解散などのテレビ報道を見ながら本稿を書いています。
ある番組では、紫の袱紗に包まれた解散詔書が控室から官房長官のもとに運ばれるまで、さらには議場に持ち込まれ衆議院議長により解散詔書が読み上げられる様子などをライブで放送されていて、実に興味深く見ました。
単なるセレモニーといえばそれまでですが、緊張感があって、なかなかいいものでした。
恒例の、解散詔書が読み上げられた後の万歳が、何ともタイミングが合わないのも、笑ってしまいました。不慣れな議員が多い証左だと思われますが、早速そのことを皮肉っていた議員もいましたが、そんなことを選挙戦の論争とするような低レベルなことだけは勘弁してほしいものです。

相変わらず、大義が有るとか無いとかという声が聞こえてきますが、およそ大義などといったものは、そのあたりにゴロゴロしているものではないはずです。衆議院の解散などというものは、わが国の政治形態において、首相に与えられている数少ない専権事項の一つに過ぎないのです。大義が有ろうが無かろうが、そんなことを論じる暇があれば、この国の将来をどうするのかを論じ合ってほしいものです。
ある政治評論家の方が「本当の政治活動は、解散から公示日までの間だ」と言っておられました。選挙戦が始まれば、選挙違反に問われることが気になってほとんどの人が行儀よくなるそうです。

そこで、私たちとしては、正式に選挙戦が始まる前の候補者や各政党の動きや発言を興味深く見ていくことにしましょう。
立派な選挙戦に参画する、などと大義名分を述べるつもりなどさらさらありませんが、各党の主張を聞いて、一か月前、一年前、さらには前の選挙時などのことも思い出して重ねてみますと、面白いことが幾つも浮かんできますよ。
さらに言えば、新聞が代表的ですが、各報道機関の論調がこれほど違うのかということも実に興味深いものです。でたらめな報道が少なくないことを嫌というほど知らされた今年ですが、年の瀬に向かって、ニュースや報道をどのように受け取ればよいのかという頭の体操のチャンスでもあるようです。

いずれにしても、衆議院選挙は、わが国の数多い選挙の中で最も重要な選挙です。そうであってもらわないといけないわけですから、万難を排して投票に参加してほしいものです。
私たちの一票など逆立ちしたところで大した影響がない、と言われてしまえば反論することは難しいのですが、とんでもない選挙が行われたり、たとえ頼りない選挙であってもそのような制度さえ手に入れることが出来ていない人々が世界中にはたくさんいることに思いを馳せて、何としても選挙に参加しようではありませんか。

( 2014.11.22 )
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空理空論 ・ 小さな小さな物語 ( 686 )

2015-03-16 10:02:29 | 小さな小さな物語 第十二部
衆議院が解散し、いよいよ選挙戦が始まりました。
正しくは12月2日の公示日からが正式な選挙戦だと思うのですが、街中ではどう考えても選挙戦としか見えない立候補予定者の熱弁が聞かれ、テレビでは、多くの番組が各党の代表者が、それぞれの主張を述べられています。
各党の代表者といっても、数日前の衆議院の議員勢力から大きな差のある党の代表者が、席順はともかく、ほぼ平等に意見を述べあっていて、またその数が多いものですから、それを仕切る司会の方の苦労ばかりが気になってしまいます。

それぞれ出席されている方は、党の要職にある人ばかりですから、自らの意見や知識を披露するのではなく、所属する党の立候補者が少しでも有利になるように、また、比例代表の投票が一票でも増えるようにするのが目的ですから、議論など成立するはずもなく、対立する党をいかに貶めるかが主目的で、昨日までの行動などには目をつむったような主張も堂々と展開されていたりします。
このような場に登場してくる人たちは、少なくとも政治家としては素人に毛が生えた程度というレベルの人はいないわけですから、わが国の政治家といわれる人の発言を聞く絶好の機会といえます。
それにしても、一人前の政治家になるには、知識や能力も必要なのでしょうが、頑強な神経を持ち合わせていることが絶対に必要だと思われます。

かみ合わない議論と言いましたが、この種の討論会は、討論会という名前だけで、主催者側もまともな議論がなされて何らかの結論を導き出すつもりなどないわけですから、出席者全員が、それなりの平等感をもって自由な意見や主張さえ述べてもらえればそれで良いわけであって、そこから建設的なものなど生まれることなど期待していないはずです。
全く建設的でもなく、いわんや生産性など全く期待できない主張の出し合いですが、それでも拝聴していますと、それぞれに実に素晴らしく感じられる意見が出されています。その多くは、「その通り実行した場合の副作用はどうなるのか」と、突っ込みを入れたいようなことが多いのですが、ぜひ実現して欲しいと思う事もいくつか見られました。
しかし、そのほとんどは、実現することなどないと思われます。

この種の討論会らしい番組に登場してくる各党の代表者が、全くの「空理空論」を述べているとは思われないのですが、例えば次の衆議院議員の任期である四年の間に実現するのかと言えば、その多くは実現しないことでしょう。たとえ解散がなく四年間を勤め上げたとしてもです。
ということは、それらの意見のほとんどは、「空理空論」ということになってしまいます。
「空理空論」の同義語を探してみますと、理想論とか夢物語といった、たとえ実現しなくとも主張し続けてほしいといった意味の言葉もありますが、絵空事とか妄想といった言葉も同義語として挙げられていました。彼らの主張は、たとえ実現しないものだとしても、果たしてどのような意味の主張なのでしょうか。
衆議院は、国権の最高機関であり、私たち国民の生命や生活のすべてを左右させる権限があり、同時に責任があるはずです。
主張されている意見が、絵空事や妄想の類でないのであれば、ぜひとも実現できるだけの勢力を得て、さらに現実性のある理論武装をして私たちの将来に貢献してほしいものです。

( 2014.11.25 )
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人柄が出る ・ 小さな小さな物語 ( 687 )

2015-03-16 10:01:15 | 小さな小さな物語 第十二部
俳優の高倉健さんが死去したニュースが大きく報じられました。
号外まで出る騒ぎでしたが、わが国ばかりでなく、中国においても異例の報道ぶりで、追悼番組まで放送されたようで、今更のように存在の大きさを教えられました。
私自身は、大ファンというほどではないのですが、それでも何本か、あるいは十何本かの映画を見ています。死去を受けて、テレビの広い分野の番組で芸能人の方を中心に多くの著名人がコメントされていましたが、よく聞いてみますと、わざわざ表に出てくるほど親しかったのかと考えてしまうような人も少なくないのですが、それらの人が、自分が高倉健さんと出会ったことがどれほど幸せなことであったのかということを、実に熱っぽく話されていることが印象的でした。

これは、テレビコマーシャルの影響が大きいと思うのですが、高倉健さんといえば、「不器用ですから・・・」というのが代名詞のようになっています。
高倉健さんの大ファンだという人のほとんども、私と同じように映画などを通じてのファンだという人がほとんだと思うのですが、やはり、「寡黙で、不器用で、誠実で・・・」といった人物像を描いているのではないでしょうか。
このところの高倉健さんに関する逸話などを聞いていますと、結構お茶目なところもあるようですが、それを含めても、やはり「寡黙で不器用で」に加えて、離婚することになってしまった江利チエミさんとのその後の関わりなどを聞きますと、「誠実で、愛情深い」なども加えたくなってしまう人柄だったと思われます。

これは、もともと高倉健さんが言った言葉ではないようですが、演技に関して、「人柄が演技に出る」ということを話されていたとも伝えられていました。
かつて、どなただか忘れてしまったのですが、「大俳優、大女優などと言われる人は、演技は下手なものだ」といった内容のことを話されていたことを思いだしました。演技が上手ければ大俳優・大女優にはなれないということではないのでしょうが、本当のスターという人には、演技などではどうすることも出来ない何かがあるということのようです。
実際によく経験することですが、演技が上手いという評判の人が、それまでは脇役主体であったのが、抜擢されて主役を務めることがよくありますが、そのほとんどが色あせた演技者に見えることが実に多いように思うのです。
やはり、全く架空のドラマだとしても、その最も脚光を浴びる登場人物を演じる役者には、どんなに素晴らしい演技力よりも滲み出てくるような人柄といいますか、オーラのようなものを必要としているのかもしれません。

折から、衆議院議員選挙は、公示日前でありながら、さまざまな駆け引きが伝えられています。
立候補予定者は、本当の選挙期間とどこがどう違うのか区別がつかないような状態で、早くも当落が決定しつつある選挙区も少なくないそうです。
さて、「人柄が出る」というのは、何も役者に限ったことではないと思います。
国会議員を目指そうというほどの人であれば、相当の演技力もあるでしょうし、それぞれの道で相当の経験や知識も積んでいることでしょう。当選して、晴れて衆議院議員となる人のすべてに高潔な人柄を求めようというわけではないのですが、演技力、つまり、演説やゼスチャー、見た目の押出やハッタリの強さなどに惑わされないで、滲み出て来るような人柄というものを何とか見極めたいものです。
善人だけで政治が成り立つとも思われませんが、やはり、誠実な人がベースとなる国会を誕生させたいものです。

( 2014.11.28 )
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