雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

違憲状態の戦い ・ 小さな小さな物語 ( 688 )

2015-03-16 10:00:04 | 小さな小さな物語 第十二部
今年もはや十二月となりました。
「師走」という言葉は、まことに言い得て妙とでも表現したい言葉ですが、現代人にとっては、この言葉が生まれた頃(いつの頃かは知らないのですが)程の慌ただしさはないと思われます。
ただ今年は、明日には衆議院選挙が公示されることもあって、直接関係などないと思いながらも何とはなく気ぜわしい気がして、選挙が終わり、結果はどうなろうとも、その後の組閣だ何だかというニュースを横にらみしているうちに年の瀬になってしまいそうです。

「大義がない」などと幕末のレベルの低いドラマのようなセリフが飛び交う選挙前哨戦でしたが、どうやら争点の中心は、経済政策の是非についてに集約されてきたようです。
現在のわが国にとって、数え上げれば手の指などでは到底足らないほどの課題がありますが、そのほとんどの物は、この二十年ばかりの経済の停滞から脱することが出来ない限り実現困難なことは確かです。そういう意味では、経済政策が争点の中心になることは結構なことだと思います。
ぜひ、立派な施策を提示し合ってほしいものですが、正しいデーターと実現可能な手法も示してほしいものです。
正しいデーターと言いますのは、例えば、雇用の改善について言えば、データー的には著しい改善がみられていることは確かですが、その内容についても公平な判断が必要な気がします。同時に、給与所得者の一人当たりの所得が減っていると声高に主張されている人もいますが、団塊の世代といわれる人たちの退職で比較的高給者の減少が影響しているはずで、この程度の影響さえ理解していないようなデーターに基づく論議も勘弁してほしいものです。

経済政策が選挙の争点になるのは結構ですが、考えてみますと、より根本的な問題が争点の末端にさえ登場していないことに失望してしまいます。
今回の衆議院選挙の結果がどう出ようとも、おそらく、今回の選挙が違憲であるという訴えがなされるはずです。
現に、前回の参議院選挙は「違憲状態」という最高裁の判断が示されたばかりです。その内容は、「合憲」とした裁判官は一人もおらず、「違憲」あるいは「違憲で選挙は無効」とした裁判官もいたほどなのです。そのような選挙制度のもとで選ばれた現役の参議院議員(正しくは半数ということかも知れませんが)に、国政を語る資格などあるのでしょうか。第一、恥ずかしくないのかと思うのですが、全くそのような神経は持ち合わせていないようで、各党間の選挙制度の見直しは、全く進展していないようです。
現在戦っている衆議院の立候補予定者たちも、そのうちの前議員といわれている人は、同じような違憲状態で誕生した議員であることを、少しは認識しているのでしょうか。さらに言えば、その状態から僅かな手直しのもとで行われている今回の選挙も、きっと「違憲状態」以上の裁決がなされる可能性が高いはずです。

残念ながら、今回の選挙後も、「違憲状態議員たち」に国政が運営されることになるでしょう。
その後は、早急に抜本的な選挙制度の改正を行ってほしいものです。衆議院はともかく、参議院は時間的な余裕などないはずです。
その時には、現在行われているような、「何増何減」などといった手直しではなく、もっと根源から見直すような改訂を行ってほしいものです。
その際には、二つのことを検討してほしいと思っています。
一つは、現在は一票の格差ということが大きな争点になっているように思われますが、果たして、国政を担う国会議員が「人口割合」だけで選出されていいのかということを、もっと堂々と論議してほしいと思います。
もう一つは、選挙制度はともかく、定数や区割りについては、当事者でまとめる能力が無いということに早く気が付いてほしいということです。
少々、生意気すぎますか?

( 2014.12.01 )
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一千兆円の重み ・ 小さな小さな物語 ( 689 )

2015-03-16 09:58:50 | 小さな小さな物語 第十二部
国家の借金が一千兆円を超えているそうで、大変だそうです。
国民一人当たり、生まれたばかりの赤ん坊も入れて、八百万円を超えるそうです。つまり、今日生まれてきたわが国の赤ん坊は、八百万円の借金を背負ってこの世にデビューしたことになりますから、そう言われてみると大変なような気がします。
八百万円の借金ということになれば、いわゆるサラ金にお世話になっておれば、普通のサラリーマンでは独力で対処できない金額になってしまいますから、確かに、由々しきことではあります。

折から、某格付会社がわが国の国債の格付を一段階下げたということで、「それ見たことか」といわんばかりの解説をされる方もあるようです。約束していたはずの消費税の引き上げを見送ったから、国際市場の信用を失ったというのです。
冗談じゃないですよ。単なる民間の格付会社の勝手な判断にうろうろすることなどありませんよ。その格付会社は、これまで世界的な金融不安を発生させた企業などにどのような評価をしてきたのか、じっくり検討してみたいものです。
消費税の引き上げの見送りの是非はともかく、世論調査などによれば、過半の国民が適正と判断しているのですから、わが国の国民はそうそうバカではないはずです。株式市場が、一格付会社の判断などにピクリとも反応していないのは、まことに結構なことです。

とは言いながら、一千兆円というのは、いくら国家の借金だといえ膨大に過ぎます。ゼロの数を数えるだけでも大変です。
昨年くらいのデーターですが、わが国の国家財政の借入金の残高は、GDP比243%だそうで、世界中で断トツの一位です。もちろん悪い方からです。第二位が、何かと問題になっているギリシャの175%ですからその大きさは異常といえることは確かです。因みに、アメリカは104% 、フランス91%、イギリス90%、ドイツ78%で、中国39%、韓国33%ということを考えれば、わが国の国債の格付を中国・韓国より下位ランクとした某格付会社にも一理あるということになります。
しかし、あまりにも単純な判断だと思われるので、千数百兆円の金融資産を有しているといわれるわが国国民の底力を見せてやりたいものです。

選挙戦たけなわです。
今回の選挙戦の争点の中心は経済政策に絞られてきたようです。
しかし、国家財政の健全化に関しては残念ながら抜本的な解決策を述べられている党は無いようです。せいぜい、「経済成長も、財政健全化も」といった信念の吐露や、相手陣営を貶めるために「大変だ大変だ」といっているに過ぎないように聞こえます。
まあ、選挙期間中は、この問題に触れるのは荷が重いでしょうから、新政権誕生後には、もっと真剣に取り組み、もっと大胆な発想のもとに、外国の格付会社などに後ろ指さされることのないような対策を打ち出してほしいものです。
「消費税を予定通り10%にあげる」なんてことでは、何の役にも立ちませんよ。もっと抜本的に、そもそも一千兆円の借金といいますが、国家はそのすべてを返済する必要があるのかどうか、そのあたりも含めて、大胆な構想を打ち出せる経済学者を見つけ出してほしいものです。

( 2014.12.04 )
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冬本番 ・ 小さな小さな物語 ( 690 )

2015-03-16 09:52:07 | 小さな小さな物語 第十二部
「本格的な冬の到来」などという見出しは、もっと早い時期の常套句のように思われますが、この数日の寒波はかなり強烈なもののようです。
ここ数年、大体が暖冬だ暖冬だといわれながら冬を迎えていますが、なかなかどうして、さすがに冬は冬ですから、厳しい寒さを用意しているようです。
今年も、早くから暖冬予想が伝えられていましたが、早い時期から大雪に襲われている地域があり、この二、三日でいえば、例年はまだ雪に見舞われない地域で相当の雪が降り、列車や自動車が立ち往生するという深刻な状況が発生してしまいました。

関西の、平地に近い当たりの紅葉の名所は、落ち葉も含めれば、まだまだ見頃の時期で多くの観光客であふれているようです。
折からの厳しい寒さは少々辛いですが、紅葉をより一層美しくするのには役立っている上に、例えば京都でいえば、大原辺りは雪化粧でしょうし、雪の金閣寺も早々と姿を見せてくれるかもしれません。
雪国と呼ばれるような地域では、すでに根雪となる雪が降っているようですし、生活する人にとっては厳しい気候が長く続くわけですが、一方では、珍しい雪景色を喜び、スキー場を抱える観光施設では、大雪大歓迎というのですから、それぞれ人さまざまというところでしょうか。

いつもの散歩コースに、いくつかの池がありますが、その中で一番大きな池には、毎年冬の鳥がやってきます。
本当に正しい名前かどうか自信が無いのですが、シラサギの群が今年もやってきています。それも、今年は百羽を遥かに超える数で、いつもの年より数倍多いように見えます。その池は、農業灌漑用の池で、この季節には水がほとんどなくなってしまうのですが、当地はこのところ雨が多かったので水量はそこそこありますが、浅くなっている部分で何やら餌をついばみ、突然一、二羽が飛び立つと、次々と舞い上がり、半数ほどが池の上で旋回し、やがていずれかに向かって飛んでいきます。おそらく、この池だけでは餌の足らないことを知っていて、それぞれ餌場を求めて飛んでいくのでしょう。
それにしても、例年にない数の多さは、遠来の客を喜べばよいのか、居付く場所が少なくなっているのか、複雑な気持ちです。

「冬来たりなば春遠からじ」という言葉があります。イギリスの詩人からの引用だそうですが、「苦難の時も耐えていれば、やがて幸せがやってくる」といった意味で使われることが多いようです。
まあ、意味はよく分かりますが、少なくとも四季のある日本において、衣食住に厳しかった大昔はともかく、冬を苦難の時に当てるのは単純すぎるような気もします。
地域によっては、冬の季節がとても長く、また厳しい自然環境の中での生活を強いられるのでしょうが、やはり、冬は冬として、しっかりと存在しているのですから、その生活を大切にすべきだと思うのです。
ところで、今朝飛び立ったシラサギたちは、それぞれ十分な餌を取ることが出来て、夕方にはあの池に戻って来れるのでしょうか。

( 2014.12.07 )
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アナウンスメント効果 ・ 小さな小さな物語 ( 691 )

2015-03-16 09:51:08 | 小さな小さな物語 第十二部
選挙戦たけなわといったところですが、すでに新聞社はじめ多くの機関から結果予想が出されています。
大々的なものとしては、第一回目は公示直前の頃に行われ、第二回目は選挙戦の中間のあたりでなされました。
果たして、これらの数字がどの程度正確なのか、あるいは、何らかの意図があって出されているものなのかどうか、少々考えてしまいます。

選挙の予想と、内閣支持率などの世論調査とは若干調査方法が違うでしょうから、同一視するのは正しくないと思いますが、内閣支持率などの世論調査の場合は、新聞各社のものを比べてみれば、相当の差があります。
例えば、内閣支持率の各社の平均値が50%~60%程度の時でも、新聞社によって15%程度の差が出るのが普通ですから、上であれ下であれ何らかの意図があるのではないかと疑ってしまいます。
最近の新聞社などの世論調査の主流はRDD方式といわれるもので、これはコンピューターによって無作為に抽出させた電話番号先にアンケートするものです。他にも、インターネットによるもの、直接人が電話する方法などもありますが、それぞれに問題点があるようです。
RDD方式の場合は、固定電話にかけられますので、比較的年代の高い層に偏る傾向があり、インターネットの場合は若い層に偏る傾向があるそうです。また、人が直接電話する方法では、意識的か無意識かはともかく、架電者により回答が誘導される可能性があります。実際に、誘導の名人のような人もいるらしいのです。
選挙予想となれば、世論調査を加味しながら、各社の取材による判断が大きく働くでしょうから、公表される数字にはその新聞社の意志が少なからず加えられているはずです。

アナウンスメント効果という現象があります。これは、選挙予想に限ったことではないのですが、影響力のある人物や機関の発表が、一般社会に何らかの影響を与えることを指します。
例えば、選挙予想の報道でいえば、ある陣営の優勢が伝えられると、一般選挙民は負ける方に一票を投じるのは無駄票になるので優勢な陣営に投票する傾向になる場合があるそうです。いわゆる「勝ち馬に乗る」という行動で、バンドワゴン効果といわれるそうです。
反対に、「判官びいき」という心理も働くそうで、そんなに苦戦をしているのならそちらを応援してやろうということで、状況が一転することもあるそうです。これをアンダードッグ効果といわれています。

今回の選挙においても、有利を伝えられた与党陣営は、喜びよりもむしろ危機感を抱いて引き締めに必死だそうですし、野党陣営は、判官びいきという心理に訴えたいと考えていることでしょう。
今回の各新聞社の予想は、新聞社により若干の差異はあるとしても、概ね与党有利を伝えていますが、その表現方法には微妙な差が見られます。さて、どの程度当たるものか、お手並み拝見と行きたいものです。
ただ、私たちとしましては、「勝ち馬に乗る」のもいいでしょうし、「判官びいき」もいいのでしょうが、ここはひとつ、政党と人物を自分の考えで選択し、積極的に選挙に参加したいものです。

( 2014.12.10 )
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是非を問う ・ 小さな小さな物語 ( 692 )

2015-03-16 09:49:44 | 小さな小さな物語 第十二部
いよいよ明日は、衆議院議員選挙の投票日です。
激しい選挙戦が展開されてきたようですが、その戦いも今日が最後で、明日は今度は私たち選挙民が意志を示す時です。
「自分の一票など大勢に何の影響もない」という言葉を聞くことが少なくありません。テレビなどで、立派なコメンテーターの方々が貴重な一票を投じるようにと呼びかけられたりしていますが、残念ながら、自分が持っている一票の重さを実感することはなかなか難しい気がします。
しかし、ノーベル平和賞を受賞した少女の会見や演説を聞きますと、「自分の一票など大勢に何の影響もない」などと言っていることが、如何に平和ボケし、世間の流れに甘えきっているかということが痛感されます。

さて、選挙戦は、争点がない選挙などといわれながらも、どうしてどうして、相手陣営を厳しく、時には口汚くののしり合っていて、これも一つの争点なのかもしれません。
マニフェストという言葉は、どうやら政治の世界では死語になったようですが、各党ともに「選挙公約」というものを掲げていて、新聞やテレビなどでも主張の違いについて解説されていたりしました。ただ、私たち選挙民の多くは、それが「選挙公約」であって、「選挙を有利に戦うための公約」であることを知り尽しているものですから、それらを素直に受け取ることが出来ないのではないでしょうか。

数多く掲げられている公約に対して、各党は、その「是非を問う」論戦を展開させていたように思われます。
一人でも多くの支持を得るために競う論戦ですから、実現の有無より、国民受けを重視するのは当然のことですが、さて、実際に私たちの生活を守っていくためには、そうそう極論に走ることはできませんし、走られても困ると思うのです。
幸いそれなりの秩序が確立しているわが国においては、その是非はともかく、オセロゲームのように世の中が一変してしまうことは考え物です。
「是は是として非の意見も考慮し」「非は非として現実に寄り添い」政治や社会は動いているのではないでしょうか。それを「安定している」と考えるのか「生ぬるいと考えるのか」、それも争点ではないでしょうか。

選挙に限らず多くの場面で「是非を問う」ことに迫られることがあります。裁判などはその典型なのでしょうが、その裁判でさえ「疑わしきは罰せず」という緩衝部分を作っているのは、「是非を問う」ことの難しさを先人たちは経験してきているからではないでしょうか。
現在のわが国においては、意見が二分するような事案に対しては、決着をつけるために「是非を問う」ような手段を用いるのは慎重であるべきだと思われます。
私たちの日常においては、「足して二で割る」という解決方法がよく用いられます。ほとんど解決らしい解決にならないのですが、「是非を問う」ことを避けて「是非もなし」ということにしているのでしょうね。
大声で「是非を問う」と言われるほど、優柔不断な私などは、ますますその言葉の裏を読もうとしてしまうのですが、ノーベル平和賞の少女の訴えを聞いたことですから、明日は投票に行こうと思っています。

( 2014.12.13 )
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本気で政策推進を ・ 小さな小さな物語 ( 693 )

2015-03-16 09:48:38 | 小さな小さな物語 第十二部
衆議院議員選挙は、与党圧勝という結果で幕を閉じました。
「大義なき解散」であるとか「争点なき戦い」であるとか、あるいは「選挙にかかる費用が無駄」であるとか「違憲状態とされた選挙制度をほんの手直ししただけ」での選挙であるとか、さまざまな意見が飛び交う中での選挙でもありました。

テレビなどの結果報道の中で、「50%をわずかに上回る程度の投票率の選挙で民意を問うことが出来たというのか」というご立派らしい意見も散見されました。
確かに計算してみますと、圧勝した自民党の総得票数は、有権者全体の過半数に遥かに遠いわけですから、全くめちゃくちゃな話をしているつもりはないのでしょうが、その論で行けば、投票に行かなかった人たちにより別の政府を作らなければならないという理論も、無茶ではなくなってしまうわけです。
また、低投票率の原因として、十二月であることや、天候が厳しかったことや、興味をひく争点がなかったことが述べられています。それらにも一因はあるのですが、時には、低投票率が政府や政治家に原因があるように感じられる意見もありました。
でも、どうでしょうか、棄権者が多いということは、「それも民意の表れ」ということよりも、「政治に対する民度の表れ」という方が正しいのではないでしょうか。
つまり、期日前投票も含めて、どうしても投票所に行けなかった人は別にして、関心が無いとか面倒だということで棄権した人にとっては、文句を言いながらも現在の社会を容認しているということではないのでしょうか。
わが国の状況からは、信じられないような投票率を示す国の選挙が、必ずしも政治体制が良いということと比例していないことを考えれば、そのように感じてしまうのです。

いずれにしても、衆議院の選挙は終わり、しばらくは現政権の体制を中心に国政が進められることになります。
そうであれば、今こそ、本気で国家国民のことを考える政策を討議し推進してほしいものです。
つまり、これから四年間といわないまでも、二、三年は政権交代につながる選挙は行われないでしょうから、各党、あるいは各議員は、しばらくは選挙を意識しているとしか思われないような意見は控えていただき、本気で国政に知恵を働かせてほしいものです。おそらく、そのような期間はごく限られた間だけでしょうから、ぜひ、反対のための反対であるとか、適当に言いくるめることに奔走するとか、といった施策は引っ込めてほしいものです。

わが国の抱える課題は、あらゆる分野に数多くあります。主義主張などによって意見が大きく異なるものもありますが、衆議院選挙が終わった直後のここしばらくこそが、じっくりと課題に取り組める時だと思うのです。
個人的に関心のあることと言えば、例えば、「わが国の借金一千兆円、ということが問題になっていますが、これに対する明快な対処方針を示してほしい」「選挙制度の抜本的見直しを進めてほしい」「将来、無年金者となる人を無くしてほしい」などです。
機会を見て、好き勝手な私案を述べさせていただこうと考えていますが、あれほど精力的な選挙戦を戦える人たちの中から勝ち抜いた議員の方々ですから、そのエネルギーを、選挙を意識しない形で諸課題に取り組んでほしいものです。
とは言いながら、次には統一地方選挙があり、参議院選挙もそう遠いことではなく、結局議員の方々のエネルギーの大半は、そちらに向いてしまうのでしょうね。

( 2014.12.16 )
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物価上昇 ・ 小さな小さな物語 ( 694 )

2015-03-16 09:47:23 | 小さな小さな物語 第十二部
この春以来、物価上昇ということが話題になったり懸念されたりするようになりました。
実に久方ぶりのことで、一般市民が日常必要とする物の価格が上がることがどういうことなのか、しばらく無防備に暮らしてきたことで戸惑っている様子も感じられます。
考えてみますと、現在三十歳前後以下の人にとっては、自分の懐から出す買い物において、値段が上がるということをほとんど経験していないように思われますから、物価上昇に免疫が無く、抵抗力が弱いのではないかと心配されるところです。

政府が唱えるデフレ脱却は、実に重要なことであり、その実現に諸対策を実施することは正しい選択だと思われます。ただ、どうもいただけないのは、「物価上昇2%」といった、何を考えているのかと思われる目標設定です。
「デフレ脱却➡物価上昇」というのは、ある程度容認しなくてはならない症状といえますが、「物価上昇➡デフレ脱却」と考えるのは、あまりにも乱暴な考え方だと思われます。
国民の大半が可処分所得が前年比横ばいないし減少という状況下において、物価が上昇すれば、購買量を減少させるか低価格品に軸足を移すかするのは、当然のことです。物価だけが上昇すればデフレ脱却以前に生活が破たんする国民が続出することでしょう。

このところ、原油価格が凄まじい勢いで下落しています。この状態がしばらく続けば、「逆オイルショック」という現象が、世界の経済に少なからぬ影響を与えることでしょう。
それはともかく、短期的にみれば、原油輸入国にとっては「神風」ともいえる現象です。急激な円安による物価上昇圧力のいくらかを、原油安が和らげてくれるはずです。
ところが、「原油安は、デフレ脱却には逆効果」だととくとくと述べられる自称経済評論家の方がいるのです。その方の理論は、きっと、「国民生活がどうなろうとも、物価だけがどんどん上昇すればよろしい」というものなのではないでしょうか。
本当に、物価だけが上がることに意味があるのでしょうか。

アベノミクスという言葉自体は、個人的にはあまり使いたくない言葉なのですが、二年前からの思い切った金融政策には大いに拍手を送りたいと思っています。
しかし、時には、アベノミクスと呼ばれる経済政策の中心の一つに「物価上昇」があるかのように言われるのは、首相の本意ではないはずだと思うのです。物価上昇は、経済成長を進めた結果としての避けがたい副作用であって、国家としての利益が何も無いままに物価が上昇することは、国家・国民の衰退を招くことは明白なはずです。
「増税は国家の収入を増やし」「円安は輸出条件を有利にし、国内の生産拠点を増やし雇用に役立つ」働きがあり、それゆえに物価上昇という副作用を容認することができるはずなのです。そして、その副作用は、企業や自営業者の所得増となり勤労所得も増加するという循環があってこそ、「デフレ脱却」と言えるのです。
物価が一割上がろうと五割上がろうと、そんなことで「デフレ脱却」なんてふざけたことは言わないでほしいものです。

( 2014.12.19 )
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見えないが実は光っている ・ 小さな小さな物語 ( 695 )

2015-03-16 09:46:07 | 小さな小さな物語 第十二部
『 すっかり寒くなるこの季節、東の空から最も有名で人気のあるオリオン座が昇ってくる。オリオン座はほぼ同じ明るさの2等星が中心に三つ並び(三ツ星)、それを1等星二つと2等星二つが囲む、勇者オリオンにふさわしい、とてもわかりやすく明るい星の並びとなっている。 』
以上は、毎日新聞12月18日付の朝刊にある、『県立大西はりま天文台からの便り』の冒頭部分で、研究員・本田敏志氏の記事を転用させていただきました。

記事はさらに続いていて、オリオン座は天文学者の研究対象としても人気のある星座だそうです。その大きな理由は、オリオン座の領域には、「オリオン座分子雲」と呼ばれる巨大な星間ガス雲が存在していて、これは可視光ではほとんど見えないが、赤外線や電波では明るく見ることが出来るからだそうです。
また、ほとんど何もない星間空間にも、わずかにガスやチリが存在していて、これらが分子雲になるらしい。そして、分子雲は重力によって収縮し星の誕生の元となるそうで、この領域では星の誕生が活発なのだそうです。
それゆえに、研究者にとって魅力があるのでしょう。

この記事を見て、「さて」とばかりに大空を見上げてみても、悲しいかな素人の私にはオリオン座を確認することは簡単なことではありません。
それでも、オリオン座という星座の名前はとてもよく知られていますし、野球チームや映画館や、喫茶店などでもこの名前を付けているのがよく見られました。
しかし、星座としてのオリオン座となれば、たとえ興味のある人でも、そのほとんどは中心の三ツ星か、せいぜい周囲の星までで、「分子雲」などに気が付きませんし、何よりも肉眼では見ることができず、見えないということは「無い」ことと同じになってしまいます。

ある詩人の言葉で有名になってしまいましたが、見えなくても存在している物は数多くあります。冒頭の記事の表題は『見えないが実は光っている』となっているのですが、「見えないけれど存在している」ばかりでなく、「光っている」物も数多くあるのでしょう。
物ばかりでなく、人もまた同じではないでしょうか。
国の政治を行う人々を選出する選挙となれば、「見えないけれど光っています」などと言っていたのでは、とても表舞台に立つことなど出来ないでしょうが、私たちの社会、あるいは私たちの日常生活においては、存在を隠すようにして支えてくれている人たちにより成り立っている部分が少なくないのではないでしょうか。
ちょうど、オリオン座の中心で輝く星たちが素晴らしいのと同様に、『見えないが実は光っている』存在も膨大な力を隠しながらも重要な役割を担っているのではないでしょうか。

( 2014.12.22 )
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悪魔の証明 ・ 小さな小さな物語 ( 696 )

2015-03-16 09:44:29 | 小さな小さな物語 第十二部
「悪魔の証明」という言葉があります。
中世のヨーロッパで生まれた言葉のようですが、その発想は古代ローマ時代にまでさかのぼるようです。
もともとは法律上の考え方として生まれてきたようですが、現在使われる場合の大体の意味は、「『存在しないこと』を証明することは、『存在していること』を証明するよりはるかに難しいということです。

この言葉の持つ意味を説明する例としては、例えば、「この国にネズミがいるかいないか」という設問に対して、「いる」という場合には、ネズミを一匹でも見つけ出せば証明できますが、「いない」ということを証明するためには、本当にいないとしても簡単なことではありません。
それも、「この国」というのが、日本ほどの広さや複雑な地勢を持っているとすれば、その証明は簡単なことではないことはよく分かります。
もっとも、「いる」ということを証明する場合でも、本当は存在していないのであれば、これも証明することは簡単ではないはずです。きっといるとされる「ツチノコ」の存在を証明することがなかなか難しいようなのをみれば、こちらも「悪魔の証明」に近いものを感じてしまいます。

さて、STAP細胞に関する再現実験の一応の結論が理化学研究所から発表されました。
まことに残念な結果でした。
この発表を全部見ていたわけではないのですが、「本当は何がどうなっているのか」という気持ちが、今も残っています。
再現実験に携わった方の発表を聞いておりますと、まさに「悪魔の証明」というものが存在していることが痛感されました。わが国のこの分野のトップクラスの方々が長い時間をかけて実験を続けても、「STAP細胞を再現させることができなかった」ということが分かっただけで、「STAP細胞は存在しない」ということは証明できなかったのですから。
それに、いくら論文に基づくとしても、第三者が簡単に再現できるのなら、大した発見でもないような気もするのです。

個人的には、このようにして万能細胞が誕生することに必ずしも賛成の立場ではありません。難病に苦しんでいる人に光明を与えることが出来るとすれば反対など出来ませんが、やはり、人間が手にしてよいのかという気持ちが消えないのです。
その持論と反しますが、実は、再現実験が成功してくれることを熱望している一人でもありました。
おそらく、理化学研究所としては、この「悪魔の証明」のような迷路から脱出するために、この段階ですべて打ち切りとすることでしょう。
しかし、本当にこのまま封印してしまっていいのでしょうか。
「いまだに『金』を作り出すことが出来ると考えている錬金術師」や「何代にも渡って『秘伝の財宝』を探し求めている」というのも辛い話ですが、今少し、この研究を進める価値はないのでしょうか。
「少々財産があり、『悪魔の証明』などナンボのもんだ」というお方、この研究の継続に私財を投げ出していただけませんでしょうか。

( 2014.12.25 )
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後悔先に立たず ・ 小さな小さな物語 ( 697 )

2015-03-16 09:43:15 | 小さな小さな物語 第十二部
「後悔先に立たず」ということわざがあります。
ことわざ辞典などには必ず載っていますし、比較的使われることも多いことわざではないでしょうか。
しかし、考えてみますと、というよりこの言葉に出合うたびに思うのですが、何だか変な教えのように思えてならないのです。
「ことわざ」といえば、手元の辞書によれば、「昔から言い伝えられてきた、教訓・風刺などの短い句」とあります。「後悔先に立たず」という言葉も、「あとからぐずぐす言ってもどうにもならないよ」といったことを教えている立派なことわざの一つと言えるのでしょうね。

しかし、例えば、「善は急げ」と言えば、その有効性はともかく、教えようとしていることはよく分かります。反対の意味ともいえる「急がば回れ」などという言葉も同様です。
ところが、「後悔先に立たず」と言われますと、つい一言余計なことを言ってしまいそうな気がするのです。
「後悔」という言葉の意味は、同じ辞書によりますと、「前にした行為をあとになってから悔いること」とあります。つまり、「後悔」とは先に行為があってこそ起こりうる現象なのです。
「善は急げ」という教えには、「善を後回しにする」という選択もあるがそれではだめだといっているわけですし、「急がば回れ」という教えには、「急がば最短距離を」という選択肢もあるわけです。
けれども、「後悔先に立たず」ということわざは、「だから、慎重に物事に対処せよ」と教えているのでしょうが、「後悔」という言葉が出た段階で、もうどうにも取り返しがつかなくなっているわけです。

ボヤキ漫才をするつもりはないのですが、もう少し話を続けさせていただきます。
訓話などの中で、「後悔しないようにしっかりやれ」とか、「絶対に後悔しないように」などという言葉が使われることがあります。
まあ、「しっかりやれ」ということを、少々格好を付けて言っているのでしょうが、「後悔しよう」と思って事に臨む人などないわけで、単なる言葉による励ましに過ぎないように思ってしまうのです。
かつて、私はある先輩から、「人生を左右するような決断を実行した場合には、たとえ失敗したとしても、後悔しているようなことを人に言うな」と教えられたことを覚えています。その人曰く、「どんなに親しい人であっても、後悔しているお前に同情することはあっても、それを覆す方法など絶対に教えてくれない。むしろ、多くの人は、口では同情していても腹の底では馬鹿にしているものだ」というのです。
この教えの影響もあって、私は、「後悔するな」という言葉の意味を、「後悔しないように事前の準備を万全にせよ」というより、「結果にしまったと思っても、後悔しているとは絶対に言うな」という意味に受け取る傾向があるようです。

さて、今年も残り数日となりました。
テレビの番組などもその多くが特別番組になっていて、この一年を回顧するものが多くなっています。個人的には、大過ない一年であったように思うのですが、一つ一つの出来事を振り返ってみれば、思い通りにならないことも少なくなかったように思われます。
取り返すことなど出来ないことが分かっていても、やはり、後悔のような気持も湧いてこないわけではありません。しかし、それもこれも、年の瀬が一つの区切りを果たしてくれるようです。
すでに年末年始の長期休暇に入っている人もいますでしょうし、旅行や帰省で移動中の方も少なくないでしょう。この期間、特に日本海側の地方では相当の雪が予想されているようですので、くれぐれもご注意いただきますように。

( 2014.12.28 )
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