雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

悪意との戦い ・ 小さな小さな物語 ( 1148 )

2019-05-30 14:41:57 | 小さな小さな物語 第二十部
『 人生は他人の悪意との戦いだ 』 これは、ある哲学者の言葉らしいのですが、残念ながら出典を承知しておりません。
ただ、この種の言葉は、大学者の言葉を借りるまでもなく、古来同じような言葉や考え方は数多く伝えられています。
性善説とか性悪説となれば、中国の孟子と荀子の相反する主張としてよく知られています。筆者は、どちらの説についても本格的に勉強したことがありませんので、辞書に書かれている程度の事しか知りませんが、孟子の唱える性善説は肌触りの良さを感じるとしても、人が生涯にわたって、どのような場面でも「性善」ということではないと思うのです。別に、性悪説に一票入れるわけではありませんが。

昨今、スポーツ界における、パワハラ・セクハラ、あるいは八百長もどきのものなどが数多く表面化しています。
つい先日には、問題になっていた日本体操協会のセクハラ問題は、第三者委員会の調査結果として、「配慮に欠け、不適切な点が多々あったとはいえ、悪性度の高い行為だとは認められない」との判断を示し、これに基づき、協会は職務停止となっていた役員二人の復帰を決定したと発表されました。
何とも、どう受け取ればよいのか分からない見事な「メイ回答」ですが、残念ながら世間の多くの人を納得させるほどのものではないように感じられ、この問題は第二幕が用意されているような予感がします。

それにしても、昨今は、何か問題が起これば、「第三者委員会」による調査が流行りのようですが、さて、多くの人を納得させるような調査結果を導き出した「第三者委員会」は、どの程度の比率なのでしょうか。
そもそも、そのメンバー選定については、多くの場合疑問視される人物が加わることがあります。それはある程度無理もないともいえますのは、その問題にまったく専門知識を有していない人を選出するのはどうかと思いますし、大変詳しい人の場合は、対立しているどちらかと親交がある可能性があるからです。また、多くの場合には弁護士が加わっていますが、弁護士といえども、一般の裁判において、加害者側に就く場合と被害者側に就く場合とは豹変するわけですから、まるで万能のような評価をするのには首を傾げるのです。
つまり、「第三者委員会」が一種のアリバイ作りになっている場合があるように思えてならないのです。
そう考えれば、少なくとも公的な組織とされているようなスポーツ団体の事件に関しては、然るべき機関において、調査委員会などに加わる資格のあるメンバーを選定しておく、などの工夫は出来ないものでしょうか。

もっとも、日大の事件が不起訴になったように、スポーツにまつわる事件には、独特の難しさがあるようです。それに、日本では一年にどれほどの裁判があるのか知らないのですが、考え方が対立することは山ほどあるわけです。
誰が見てもわかるような悪事は、完全ではないとしてもその多くは、法治国家であるわが国では犯罪が成立しているようになっているはずです。
問題は、その実に微妙な悪事が始末に悪いのです。「不適切な点が多々あっても」白になったり黒になったりするのでしょうから、その不適切な点を多々ぶつけられる人にとっては、まさに『人生は他人との悪意との戦い』を強いられているのではないでしょうか。
所詮、どうにもならないことなのでしょうか。

( 2018.12.13 )

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