雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

一緒になるのも別れるのも難しい ・ 小さな小さな物語 ( 1143 )

2019-05-30 14:51:10 | 小さな小さな物語 第二十部
つくづく感じさせられます。「一緒になるのも別れるのも難しい」と。
日産自動車の事件は、経営トップの横暴や使い込みといった単純な事件で終わりそうでない様相を呈してきました。
事の真相は、今のところ現社長サイドの情報が中心になっていますので、すでに前会長らが逮捕されたからと言って安易に判断することは慎むべきだと思いますし、法令違反については、検察がしっかりと捜査してくれるはずです。
その黒白は別にするとして、逮捕とほとんど同時に、一部からは「クーデター説」が浮上していることを考えても、その面は完全否定できないような気がします。
外野席より遠い場所から眺めての意見ですが、窮地にあった日産がルノーに助けられたことは事実ですし、凄腕のリーダーによって業績がV字回復したことも事実でしょう。しかし、別の観点から見れば、名門企業の二万人にも及ぶ社員を切り捨て、本丸ともいえる資産をたたき売りすることが出来たことが大きな要因であることも否定できない一面があります。
ここに来て、日産の業績がルノーを上回る状態になった現在、公表されている分の役員報酬の格差だけでも、まるで占領されている感じがしている人も少なくないはずです。そうした不満に、前会長は絶好のチャンスを与えてしまったような気がしてならないのです。

「合従連衡(ガッショウレンコウ)」という言葉があります。中国の「史記」に登場する言葉ですが、「その時の利害によって他と結びついたり離れたりすること。時勢に応じて巧みに計略を廻らす政策。」といった意味で、もともとは国家間の外交政策を指していたものですが、現在はもっと広い意味で用いられているようです。
この言葉は、もとは一つのものではなく、「合従」と「連衡」は別の人物により唱えられた政策でした。
「合従」は、中国の戦国時代末期の頃、西方の強国秦に対して、南北に連なっている燕・趙・韓・魏・斉・楚の六国が合力して対抗させる戦略を指します。提唱者は当時数多くいた、学者とも政治家ともいえる人物の一人である蘇秦(ソシン・紀元前317年没)で、六国を説き伏せて六国の宰相となり、秦と戦ったが敗れたようです。ただ、秦の東方進出を十数年阻んだ効果はあったようです。
もう一つの「連衡」は、蘇秦と同門の人物張儀(チョウギ・紀元前309年没)が「合従」に対抗する戦略として提唱したもので、東方にある六国を分断させて一国ずつと同盟を結び、その隣国を攻略していく政策を言います。これにより秦は東進を果たしますが、宰相となっていた張儀も後に失脚したようです。
「合従」が六国を縦に同盟したものであり、「連衡」が秦と横の一国と同盟を結んだものであることから、「合縦連横」という文字を使うこともあったようです。

少々長くなってしまいましたが、このように、国家が同盟を結ぶということは、なかなか難しいようです。最近の歴史で見ても、ソビエト連邦の崩壊があり、現時点ではイギリスのEUからの脱退問題があります。
企業となれば、国内においても多くの事例があります。多くの提携や合併が行われていますが、解消に向かった例も少なくありません。
「同じ力の会社同士の合併は難しく、吸収合併の形はうまくいくことが多い」という声を聞くことがありますが、うまくいったのは吸収した側であって、吸収された側の悲哀は語られないことが多いものです。
そう考えれば、日産自動車も難しいかじ取りが求められるのでしょうが、正々堂々の対処を期待しています。

いずれにしても、国家や会社でなくても、「一緒になるのも別れるのも難しい」ことには変わりがないようです。
死ぬや生きるやと大騒ぎして結ばれた二人でも、そこまでやらなくても良いのではないか、と思うような別れ方をする夫婦も決して珍しくありません。
それなら、なぜ結婚したのかと馬鹿のように言う人もいますが、それは当事者でないから言えることで、結婚なんて、結ばれてみなければ分からないことが山ほどあるものなんですよ。国家や企業同士であっても同様だと思いますよ。
それが証拠に、決して大成功したとは思えない政策である「合従」という言葉も「連衡」という言葉も、今もなお多くの人に親しまれているのですから。

( 2018.11.28 )

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