『 空白の時代 ( 14 ) 』
新羅再征討
神功摂政四十九年の春三月、荒田別・鹿我別(カガワケ)を将軍に任命した。
そして、クテらと共に軍勢を整えて海を渡り、卓淳国(トクジュンノクニ・朝鮮半島にあった国)に至り、新羅を襲おうとした。
その時、ある人が、「兵士が少なくては、新羅を撃ち破ることは出来ない。更にまた、サハク・カフロ(ともに卓淳国の人らしい)を天皇に仕えさせて、増兵を要請なされよ」と言った。
そこで、モクラコンシ・ササナク(この二人の出自は分からない。但し、モクラコンシは百済の将軍である、と説明書きされている)に命じて、精兵を率いて、サハク・カフロと共に派遣した。
全軍は卓淳国に集結して、新羅を撃ち破った。そして、ヒシホ・南加羅・トクノクニ・安羅(アラ)・多羅・卓淳・加羅の七か国を平定した。更に軍勢を移して、西方に廻って、コケノツに至り、南蛮(百済から見て、南方の野蛮国の意)のトムタレ(済州島の古名)を滅ぼして、その地を百済に与えた。
この時、百済の王ショウコと王子クイスは、再び軍勢を率いてやって来た。すると、比利・辟中(ヘキチュウ)・布弥支(ホムキ)・半古の四つの邑(ムラ)が自分から降伏してきた。
こうして、百済王の父子と、荒田別・モクラコンシらは、共に意流村(オルスキ)で落ち合った。互いに顔を見合わせて喜びあい、厚く敬って歓送した。
ただ、千熊長彦と百済王のみは、百済国に着くと、辟支山(ヘキノムレ)に登って誓った。また、古沙山(コサノムレ)に登って、共に大岩の上に座った。その時、百済王は誓って、「もし草を敷いて座と為せば、おそらく火に焼かれるだろう。また木を取って座と為せば、おそらく水に流されるだろう。それゆえに、大岩に座って誓うことは、長遠(トコシエ)にして朽ちることがないことを示すものである。これによって、今より後は、千秋万歳に渡って絶えることなく無窮であり、常に西蛮(自国を謙遜している)と称して、春秋に朝貢いたしましょう」と言った。
そうして、千熊長彦を連れて百済の都に至り、厚くもてなした。
そして、再びクテらを従わせて、日本に送り届けた。
☆ ☆ ☆
百済との親交
神功摂政五十年春二月、荒田別等が帰還した。
夏五月に、千熊長彦・クニらが百済から帰還した。
そこで、皇太后(神功皇后)はお喜びになって、クニに尋ねた。「海の西の諸々の韓国(カラノクニ)をすでにそなたの国に授けた。それなのに、今また、どういうわけでしきりにやって来るのか」と。
クニらは、「天朝(ミカド)のご恩恵は、遠く弊邑(ヘイユウ・自国を卑称したもの)にまで及び、我が王は歓喜踊躍して、心の中に押さえておくことが出来ません。それゆえ、帰還される使者に託して至誠を伝えようとしたのです。万世に及んだとしても、いずれの年にも来朝することでしょう」とお答え申し上げた。
皇太后は、「何とすばらしいことか、そなたの言葉は。それこそ我が心にかなうことです」と仰せられ、多沙城(タサシ・朝鮮半島内の地名)を加えて贈り、往還の道の宿駅とされた。
五十一年の春三月、百済王は、再びクテを派遣して朝貢した。
そこで皇太后は、太子(ヒツギノミコ・後の応神天皇)と武内宿禰とに語った。「我が親交ある百済国は、天がお与え下さった所である。人為によるものではない。楽しい物や珍しい物は、わが国には今までなかった物である。毎年欠かさず、常に来朝してそれらの品を貢献(ミツギタテマツ)っている。私は、この忠誠をみて、常に喜んでいる。私が生きている時と同じように、私の死後も厚く恩恵を与えよ」と。
その年に、千熊長彦をクテらに付き従って百済国に派遣された。そして、大いなる慈愛を示されて、「私は、神の霊験に従って、はじめて道路(ミチ)を開き、海の西を平定して百済に差し上げた。今また厚いよしみを結び、永く特別に大切にしよう」と伝えられた。
この時、百済王の父子は、並んで額を地に着けて、「貴国の大恩は天地よりも重い。いずれの日、いずれの時にも、決して忘れることはございません。聖王が上に在(マ)しまして明らかなることは、日月の如し。いま私は下に侍(ハベ)り、堅固なことは山の如くであります。永く西蛮(従う意思を示している)となって、いつまでも二心をいだくことはありません」と誓った。
五十二年秋九月の十日、クテらは千熊長彦に従って来朝した。その時、七枝刀(ナナサヤノタチ)一口、七子鏡(ナナコノカガミ)一面、さらに様々な宝物を献上した。そして、「我が国の西方に川があります。水源は谷那(コクナ)の鉄山(カネノムレ)より出ています。その遠いことは、七日行っても行き着きません。この水を飲み、そうしてこの山の鉄を取って、永く聖朝(ヒジリノミカド)に献上いたします。さらに、孫の枕流王(トムルオウ)に『今私が通う所の海の東の貴国は、天の啓示で出来た国です。それゆえ天恩を下されて、海の西を割いて私に賜ったものである。これによって国の基は永く堅固である。お前も、誠実によしみを尽くし、土地の産物を集め、朝貢することを絶やさなければ、たとえ死んでも何の心残りもない』と言いました」と申し上げた。
これより後は、毎年相次いで朝貢した。
☆ ☆ ☆
新羅再征討
神功摂政四十九年の春三月、荒田別・鹿我別(カガワケ)を将軍に任命した。
そして、クテらと共に軍勢を整えて海を渡り、卓淳国(トクジュンノクニ・朝鮮半島にあった国)に至り、新羅を襲おうとした。
その時、ある人が、「兵士が少なくては、新羅を撃ち破ることは出来ない。更にまた、サハク・カフロ(ともに卓淳国の人らしい)を天皇に仕えさせて、増兵を要請なされよ」と言った。
そこで、モクラコンシ・ササナク(この二人の出自は分からない。但し、モクラコンシは百済の将軍である、と説明書きされている)に命じて、精兵を率いて、サハク・カフロと共に派遣した。
全軍は卓淳国に集結して、新羅を撃ち破った。そして、ヒシホ・南加羅・トクノクニ・安羅(アラ)・多羅・卓淳・加羅の七か国を平定した。更に軍勢を移して、西方に廻って、コケノツに至り、南蛮(百済から見て、南方の野蛮国の意)のトムタレ(済州島の古名)を滅ぼして、その地を百済に与えた。
この時、百済の王ショウコと王子クイスは、再び軍勢を率いてやって来た。すると、比利・辟中(ヘキチュウ)・布弥支(ホムキ)・半古の四つの邑(ムラ)が自分から降伏してきた。
こうして、百済王の父子と、荒田別・モクラコンシらは、共に意流村(オルスキ)で落ち合った。互いに顔を見合わせて喜びあい、厚く敬って歓送した。
ただ、千熊長彦と百済王のみは、百済国に着くと、辟支山(ヘキノムレ)に登って誓った。また、古沙山(コサノムレ)に登って、共に大岩の上に座った。その時、百済王は誓って、「もし草を敷いて座と為せば、おそらく火に焼かれるだろう。また木を取って座と為せば、おそらく水に流されるだろう。それゆえに、大岩に座って誓うことは、長遠(トコシエ)にして朽ちることがないことを示すものである。これによって、今より後は、千秋万歳に渡って絶えることなく無窮であり、常に西蛮(自国を謙遜している)と称して、春秋に朝貢いたしましょう」と言った。
そうして、千熊長彦を連れて百済の都に至り、厚くもてなした。
そして、再びクテらを従わせて、日本に送り届けた。
☆ ☆ ☆
百済との親交
神功摂政五十年春二月、荒田別等が帰還した。
夏五月に、千熊長彦・クニらが百済から帰還した。
そこで、皇太后(神功皇后)はお喜びになって、クニに尋ねた。「海の西の諸々の韓国(カラノクニ)をすでにそなたの国に授けた。それなのに、今また、どういうわけでしきりにやって来るのか」と。
クニらは、「天朝(ミカド)のご恩恵は、遠く弊邑(ヘイユウ・自国を卑称したもの)にまで及び、我が王は歓喜踊躍して、心の中に押さえておくことが出来ません。それゆえ、帰還される使者に託して至誠を伝えようとしたのです。万世に及んだとしても、いずれの年にも来朝することでしょう」とお答え申し上げた。
皇太后は、「何とすばらしいことか、そなたの言葉は。それこそ我が心にかなうことです」と仰せられ、多沙城(タサシ・朝鮮半島内の地名)を加えて贈り、往還の道の宿駅とされた。
五十一年の春三月、百済王は、再びクテを派遣して朝貢した。
そこで皇太后は、太子(ヒツギノミコ・後の応神天皇)と武内宿禰とに語った。「我が親交ある百済国は、天がお与え下さった所である。人為によるものではない。楽しい物や珍しい物は、わが国には今までなかった物である。毎年欠かさず、常に来朝してそれらの品を貢献(ミツギタテマツ)っている。私は、この忠誠をみて、常に喜んでいる。私が生きている時と同じように、私の死後も厚く恩恵を与えよ」と。
その年に、千熊長彦をクテらに付き従って百済国に派遣された。そして、大いなる慈愛を示されて、「私は、神の霊験に従って、はじめて道路(ミチ)を開き、海の西を平定して百済に差し上げた。今また厚いよしみを結び、永く特別に大切にしよう」と伝えられた。
この時、百済王の父子は、並んで額を地に着けて、「貴国の大恩は天地よりも重い。いずれの日、いずれの時にも、決して忘れることはございません。聖王が上に在(マ)しまして明らかなることは、日月の如し。いま私は下に侍(ハベ)り、堅固なことは山の如くであります。永く西蛮(従う意思を示している)となって、いつまでも二心をいだくことはありません」と誓った。
五十二年秋九月の十日、クテらは千熊長彦に従って来朝した。その時、七枝刀(ナナサヤノタチ)一口、七子鏡(ナナコノカガミ)一面、さらに様々な宝物を献上した。そして、「我が国の西方に川があります。水源は谷那(コクナ)の鉄山(カネノムレ)より出ています。その遠いことは、七日行っても行き着きません。この水を飲み、そうしてこの山の鉄を取って、永く聖朝(ヒジリノミカド)に献上いたします。さらに、孫の枕流王(トムルオウ)に『今私が通う所の海の東の貴国は、天の啓示で出来た国です。それゆえ天恩を下されて、海の西を割いて私に賜ったものである。これによって国の基は永く堅固である。お前も、誠実によしみを尽くし、土地の産物を集め、朝貢することを絶やさなければ、たとえ死んでも何の心残りもない』と言いました」と申し上げた。
これより後は、毎年相次いで朝貢した。
☆ ☆ ☆
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます