釈迦悟りを開く ・ 今昔物語 ( 巻1-7 )
今は昔、
天魔が様々な手段を講じて、釈迦の成道(ジョウドウ・完全な悟りを得て仏と成ること)を妨げようとしたが、釈迦は芥子粒ほども惑わされることがなかった。慈悲の力を持って、見目麗しい天女の正体を見破り、魔神どもの武力による脅迫にも屈せず、二月七日の夜を以ってこのような天魔たちを法の力で降伏させて、大きな光明を放って定に入り、真諦(シンタイ・究極の真理)を思惟(シユイ・思索)された。
また、中夜(チュウヤ・夜半。夜中)に至り、天眼(テンゲン・肉眼で見ることが出来ない対象を見抜く超能力)を得られた。また、第三夜(後夜と同意。夜半過ぎから夜明けまでの時間帯)に至り、無明(ムミョウ・事物の真相に無知なことで、煩悩の根源となる)を破り、知恵の光を得られ、永久に煩悩を断ち切り、一切種智(イッサイシュチ・菩薩の知恵に対して、仏だけに備わる最高の知恵)を完成された。
この時より、釈迦仏と称し奉る。
釈迦牟尼如来(シャカムニニョライ・釈迦仏の尊称。この夜の悟りで菩薩から如来(仏)になられた)は、黙然と座っておられた。
その時、大梵天王(ダイボンテンオウ・梵天に同じ。帝釈天と共に天界の長の地位にある。仏法の守護神となる)が来て、「一切衆生の為に法を説き給え」と申された。
仏眼(ブツゲン・この世の一切の真実の姿を見通す仏の目)を以って諸々の衆生を上中下根(根は、仏道修行の能力といった意味か?)、及び菩薩の下中上根を観じ(観察)なさいますのに、二七日(フタナヌカ)が経った。世尊(セソン・釈迦仏に対する尊称)は又思われた。「私は甘露(カンロ・仏の教えを甘美な物と例えた)の法門を開き、あの阿羅邏仙(アララセン・第五話に登場している)を悟りの道に導こう」と。すると、空から声があり、「阿羅邏仙は昨日の夜に命が終わった」と言う。
釈迦仏は、「私は、『かの仙人、昨日の夜の命が終わった』ことを知った」と仰せられた。そして、また思考され、「迦蘭仙(カランセン・第五話に登場)は仏道修業する様子が明白である。まず、彼を導くべきである」と考えられた。すると、また空から声があり、「迦蘭仙、昨日の夜に命が終わった」と言う。
釈迦仏は、「迦蘭仙、昨日の夜に命が終わってしまった」と仰せられた、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
今は昔、
天魔が様々な手段を講じて、釈迦の成道(ジョウドウ・完全な悟りを得て仏と成ること)を妨げようとしたが、釈迦は芥子粒ほども惑わされることがなかった。慈悲の力を持って、見目麗しい天女の正体を見破り、魔神どもの武力による脅迫にも屈せず、二月七日の夜を以ってこのような天魔たちを法の力で降伏させて、大きな光明を放って定に入り、真諦(シンタイ・究極の真理)を思惟(シユイ・思索)された。
また、中夜(チュウヤ・夜半。夜中)に至り、天眼(テンゲン・肉眼で見ることが出来ない対象を見抜く超能力)を得られた。また、第三夜(後夜と同意。夜半過ぎから夜明けまでの時間帯)に至り、無明(ムミョウ・事物の真相に無知なことで、煩悩の根源となる)を破り、知恵の光を得られ、永久に煩悩を断ち切り、一切種智(イッサイシュチ・菩薩の知恵に対して、仏だけに備わる最高の知恵)を完成された。
この時より、釈迦仏と称し奉る。
釈迦牟尼如来(シャカムニニョライ・釈迦仏の尊称。この夜の悟りで菩薩から如来(仏)になられた)は、黙然と座っておられた。
その時、大梵天王(ダイボンテンオウ・梵天に同じ。帝釈天と共に天界の長の地位にある。仏法の守護神となる)が来て、「一切衆生の為に法を説き給え」と申された。
仏眼(ブツゲン・この世の一切の真実の姿を見通す仏の目)を以って諸々の衆生を上中下根(根は、仏道修行の能力といった意味か?)、及び菩薩の下中上根を観じ(観察)なさいますのに、二七日(フタナヌカ)が経った。世尊(セソン・釈迦仏に対する尊称)は又思われた。「私は甘露(カンロ・仏の教えを甘美な物と例えた)の法門を開き、あの阿羅邏仙(アララセン・第五話に登場している)を悟りの道に導こう」と。すると、空から声があり、「阿羅邏仙は昨日の夜に命が終わった」と言う。
釈迦仏は、「私は、『かの仙人、昨日の夜の命が終わった』ことを知った」と仰せられた。そして、また思考され、「迦蘭仙(カランセン・第五話に登場)は仏道修業する様子が明白である。まず、彼を導くべきである」と考えられた。すると、また空から声があり、「迦蘭仙、昨日の夜に命が終わった」と言う。
釈迦仏は、「迦蘭仙、昨日の夜に命が終わってしまった」と仰せられた、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます