雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

遥かなる友よ   第七回

2010-02-12 08:39:41 | 遥かなる友よ

          ( 四 )


労働収容所の生活が始まった。


我々が到着すると、すぐに全員に対して健康チェックのようなことが行われた。
全員が素裸にされ、軍医らしい者に一人一人尻を捻じられた。男か女か判断がつかない大柄な軍医は、尻を捻じると甲高い声で叫び、その声に従って我々は分けられていった。
どうやら、尻の肉付きで体力の状態を計っているようであった。


偵察隊から同じように移動してきた十八人は、ここでも別けられることなく同じグループに組み入れられた。全員がまだ元気だということのようであった。


我々は、二百人余りで一つの隊が組織され、木造の大きな建物を宿舎として割り当てられた。その隊を三十人程ずつの小隊に分けられ、常に一緒に行動するよう指示された。
我々十八人はここでも同じ小隊に属することができ、これまでの経緯から私が小隊長のような役を受け持つことになった。
全体の隊長は四十歳代の伍長が就き、ソ連軍との伝達役を務めることになった。


慌ただしく日が過ぎ、捕虜としての厳しい環境に戸惑いながら九月が過ぎた。


シベリアの冬は、十月の声とともにやって来た。
それは、突然にやって来て、あっという間もなく真冬に突入していった。雪は少なかったが、何もかもが凍りついていった。


シベリアの冬には段階がなく、いきなり真冬になるのだと思っていたが、そうではなかった。十一月、十二月とさらにその厳しさは増し、それからが本当のシベリアの冬であった。


私は、この労働収容所で二年半の年月を過ごすことになるが、それは、人間が生存し得る限界を超えるような日々であった。


何もかもが人間が人間として生存していくには過酷過ぎた。
宿舎に当てられた建物には床がなく土間のままであった。真ん中が通路で、両側に三段のベッドが設置されていたが、それはベッドというより荒削りな板敷の棚であった。

一つの棚に十人が並んで寝るのだが、最初の冬は寝具が一切支給されなかった。大きなペチカが一つあり、燃料の薪は十分あったが、とても寒さを防げるものではなく、各自が携帯していた毛布や上着を持ち寄って、二人ずつ寄り添うようにして寒さを防いで眠った。


食事は移動中と同じような物の組み合わせであったが、味より何よりも量が足らなかった。毎日の三食とも量が足らないのである。
食事が終わったその時から、空腹との戦いが始まるのだ。


命じられた労働は穴掘りであった。時々、少し離れた森へ燃料となる木を切りに行くが、それ以外は何のためのものかは分からないが、ただ深い溝を掘り続けた。
冬の大地は完全な凍土となり、岩盤のようであった。焚火で溶かし、先の尖った鉄棒で掘っていくのだが、割り当てられたノルマを達成するのは簡単な作業ではなかった。


そして、何より辛いことは、先が見えないことであった。
いつの日にか故国の土が踏めるという希望を頼りにあらゆる苦難に耐えていたのだが、何の情報も与えられないという不安と、間断なく襲ってくる絶望との戦いの日々でもあった。


来る日も来る日も、その日一日を生き延びることだけに追われ、眠られぬ冷たいベッドで遠い故国を思い浮かべる毎日であった。


   **


年が変わり、本格的なシベリアの冬がやってきた。
日照時間は極端に短く、あらゆるものを凍りつかせるシベリアの冬は、我々の身体の外気に触れる全ての部分を凍てつかせた。それは、単に身体だけに止まらず、生命さえも凍てつかせていった。
他のあらゆる悪条件とも相まって、我々の労働収容所から死者の出ない日はなかった。


満州辺りで冬を過ごした経験のある者はまだ寒さに対する抵抗力があったが、日本本土の冬しか経験していない者や、中国大陸での生活が長くても沿岸部の冬しか経験していない者にとっては、シベリアの冬はあまりにも過酷であった。


その寒ささえ上回る苦しみは、飢えとの戦いであった。
酸味の強い黒いパンはまだ良かったが、スープとカーシャと呼ばれる雑炊状のものは酷かった。しかし、最初は喉を通すことができなかったカーシャでも、飢餓状態が続けば、自然に受け入れられるように人間の身体はなっているようだ。
痩せこけた身体は、胃袋に流し込めるものであれば、どんな物でも受け入れる体質に変わっていった。


しかし、どう胃袋に流し込んでみたところで、絶対量が足らなかった。
食事が終わるのと同時に空腹感は始まり、意識がある限り消えることがなかった。与えられる食糧は、空腹感を満たすものではなく、次の食事まで生命を繋ぎとめるために必要なぎりぎりのエネルギー源でしかなかった。


与えられる物は何でも食べた。身体に差し障りがあるかどうかなど考える余裕などなかった。とにかく何かを腹に入れなければ倒れてしまう、そんな状態が続いていた。


下痢を起こす者も少なくなかった。病で倒れ、異国の土となっていった者も、我々がいた労働収容所だけでも少ない数ではなかった。
殆どが赤痢とかチフスであったと考えられるが、明日は我が身と思いながらも、それはそれで楽になれるという気持ちもあった。


人間というものには、肉体と精神がどのように存在しているのだろうかと考えることがあった。
飢餓状態が続くうちに、自分という人間からは精神的なものは全て消え果ててゆき、存在するものは空腹から逃れたいという肉体的な欲求だけになる。精神的なものなど何の役にも立たず、むしろ、精神的なものが肉体を滅ぼそうとさえする。


捕虜となった当初は、殆どの者がそう遠くない日に日本の土を踏めるものだと考えていた。
しかし、極寒のシベリアの労働収容所の生活は、そんな甘い夢を消し去るのに多くの時間を必要とはしなかった。


わが帝国が負けるなどということは、我々の精神構造の中には存在していなかった。戦いは時の運、戦いに敗れることはあるとしても、降伏することなど考えてみたこともなかった。いわんや、自分自身が捕虜になることなど予測の範囲外であった。


厳しい戦いの最前線に展開していたら、敗軍の兵になる可能性は常に意識していた。だが、その時はいささかの迷いもなく自決の道を選ぶ覚悟であった。それは、日本の兵士であれば誰一人変わらぬ覚悟であった。


だが現実は、我々は投降し、捕虜としての屈辱と苦難の日々を必死になって耐えていた。
精神が正常に働き始めると、誇りも覚悟もどこかへ投げ捨てて、這いつくばるようにして屈辱に耐え、ただ今日一日の生命を永らえるためにもがいている自分の姿に、大声で泣き出したいような自己嫌悪に陥った。


何もかも投げ出したくなった時、肉体の限界を超えて耐え忍ばせるものは、それもまた精神の力であった。
このままでは死ねない。いつの日か故国の土を踏むまでは絶対に死ぬことは出来ぬ、という思いが細い細い生命の糸を繋ぎとめていた。
いつかは日本の土を踏むのだという思いだけが、肉体を襲う苦しみも精神を蝕む屈辱と絶望をも、限界を超えて耐えさせていた。


   **


 


 


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