雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

盛り上がり過ぎでは?

2024-07-03 18:58:00 | 日々これ好日

     『 盛り上がり過ぎでは? 』

   新紙幣の発行日ということで テレビ番組は
   少々 盛り上がり過ぎではないかと 思ってしまった
   テレビだけでなく 両替に 銀行に長い列が出来たとか
   まあ 全く関心を持たれないのも困るが
   券売機などに 痛い出費を強いられた人のことを思うと
   何とも複雑
   渋沢さんにも 津田さんにも 北里さんにも
   まだ お目にかかっていないが
   今月中には すれ違うことぐらいは 出来るでしょう

                   ☆☆☆

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いよいよ見まく

2024-07-03 08:01:06 | 古今和歌集の歌人たち

     『 いよいよ見まく 』


 老いぬれば さらぬ別れも ありといへば
         いよいよ見まく ほしき君かな

        作者  業平の母

( 巻第十七 雑歌上  NO.900 )
        おいぬれば さらぬわかれも ありといへば
                いよいよみまく ほしききみかな


* 歌意は、「 年を取ると  避けることの出来ない別れも あると言いますから ますますお会いしたいと 願うあなたです 」といった、子を慕う親心を詠んだものでしょう。

* この歌には前書きがあって、「 業平朝臣の母の皇女、長岡に住み侍りける時に、業平宮仕へすとて時々も えまかりとぶらはず侍りければ、師走ばかりに母の皇女のもとより、『とみのこと』とて文を持てまうできたり。あけて見れば、詞(コトバ)はなくてありける歌 」とあります。
この前書きから、作者は「業平の母」だと分りますが、古今和歌集は、天皇や皇子・皇女などの和歌には作者名としては記さず、このような形で記しています。

* 「業平の母」とは、伊勢物語の作者とされている在原業平(アリハラノナリヒラ・825 - 880 )の母の伊都内親王( 801? - 861 )のことです。
伊都内親王は桓武天皇の第八皇女です。第一皇子は平城天皇です。
桓武天皇には数え切れないほどの后妃や夫人・宮人などがおり、皇子や皇女も同様ですが、それゆえに、皇位や皇族間の勢力争いや、藤原氏を中心とした政権争いが激しい時代でもありました。

* 伊都内親王は、平城天皇の第一皇子である阿保親王と結婚しました。伊都内親王にとって一粒種となる在原業平の誕生が 825 年なので、この少し前に結婚していたのでしょう。
ただ、阿保親王は、810 年に平城上皇と嵯峨天皇が対立するという薬子の変に連座して、太宰権帥に左遷され京を追われていて、帰京できたのは平城上皇が崩御した後の 824 年のことなので、その直後のことかもしれません。

* 阿保親王は平城天皇の第一皇子ではありますが、生母が宮人の葛井藤子で、その父は五位クラスの下級貴族であり、皇位を継承する候補からは外れていたと考えられます。ただ、性格は控え目で、文武の才は勝れていたとも伝えられていますので、政争に巻き込まれる懸念はつきまとっていたようです。
826 年に、まだ二歳の業平らに在原朝臣の姓を賜って臣籍降下させているのも、そうした争いから子供たちを守ろうとしたのかもしれません。
しかし、絶大な権力を誇った桓武天皇の皇女として宮廷生活しか知らなかった伊都内親王の生活にどのような変化を与えたのでしょうか。

* 京に戻った阿保親王は、827 年に上総太守に任命されました。実権などほとんどない名誉職なのでしょうが、安定した収入が保証されたものと考えられます。その後、様々な役職に就いていますが、上総太守は常に兼務していることからも、阿保親王のみならず伊都内親王の生活面を支える意味もあったのかもしれません。
その後、833 年に三品を授与され、収入面ではいっそう厚みを増したことでしょう。さらに、治部卿、宮内卿、兵部卿などを歴任しており、嵯峨天皇の信頼は厚かったと考えられます。
ところが、842 年に、廃太子を巡る政争(承和の変。藤原氏による他氏排斥の最初の事件とされる。)に巻き込まれそうになります。この時には、嵯峨上皇の皇太后橘香智子に報告することで難を遁れていますが、何か事を起こそうとする勢力にとっては、阿保親王は味方に引き入れたい人物なのでしょう。
ただ、政争を避けたはずの阿保親王ですが、この三か月に急逝しています。死因は伝えられていませんし、病気であったという記録はありません。そして、葬儀にあたって、反乱を未然に防いだことが評価されて、一品を追贈されています。

* さて、作者の伊都内親王にとっては、どのような生涯だったのでしょうか。
伊都内親王は桓武天皇の晩年の皇女で、父とは六歳の頃に死別しています。おそらく、父との思い出などほとんどなかったのではないでしょうか。また、母とは三十三歳の頃に死別しています。
阿保親王と結ばれたのは、二十三、四歳と推定されますので、当時としては遅い結婚です。結婚生活は十八年程に及びますが、どのようなものだったのでしょうか。
四十二歳の頃に、阿保親王が急死しました。伊都内親王はその後も同じ邸で暮らしていたようですが、848 年に邸は落雷により焼失し、その後は長岡の山荘に移っています。
長岡での暮らしは、861 年に亡くなるまで十三年に及んでいます。掲題の和歌は、この間に詠まれたものでしょう。
桓武天皇の皇女として生まれた伊都内親王ですが、桓武天皇の跡は、平城・嵯峨・淳和と異母兄が皇位に就き、その跡は、甥の仁明、その子の文徳、さらにその子の清和天皇と皇位は移っていました。
伊都内親王が逝去した時の天皇は清和天皇ですが、まだ十一歳であり、皇族の大長老の死をどのように受け取ったのでしょうか。

* 伊都内親王の生きた時代は、皇位をめぐる激しい時代でした。伴侶となった阿保親王はその荒波を被った人物の一人でもありました。
しかし、長岡に移ってからの晩年は、中央からは忘れ去られたような存在だったかもしれませんが、わが子に思いを馳せながらも穏やかな十余年だったのではないでしょうか。
最後に、掲題歌に対する業平の返歌を記しておきます。
『 世の中に さらぬ別れの なくもがな 千代もと嘆く 人の子のため 』

     ☆   ☆   ☆

 

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