雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

世界の中の日本 ・ 小さな小さな物語 ( 1208 )

2019-12-08 15:46:27 | 小さな小さな物語 第二十一部

八村塁選手の米プロバスケットボールNBAのドラフト会議での1巡目指名は、テレビや新聞などで大きく取り扱われていますが、米国ではさらに大きなニュースになっているようです。
八村塁選手は、父が西アフリカのベナン出身、母親が日本人で富山県で育った八村少年は、小学生の時にはすでに野球で抜群の素質を現わしていたそうです。中学からバスケットに転じ、高校は宮城県、そしてアメリカの大学に進み、今回の快挙に繋がりました。
新聞の記事を参考に紹介させていただきましたが、八村塁選手の21年余りの経歴は、「NBA 日本人初の快挙」などと騒ぐのは、少々的外れのような気がしないでもありません。八村塁選手は、すでに日本人などという枠で考える時期は飛び越えてしまっているように思うのです。

スポーツ界には、すでに世界を舞台に大活躍をしている選手がたくさんいます。野球界では、米大リーグでトップクラスの選手として活躍している人が何人もいます。サッカー界では、ヨーロッパの国々をはじめ世界中に羽ばたくのはすでに珍しいことではないほどです。
プロ選手としてではなくても、柔道やバレーボール、野球などでも指導者として、その競技の後進国の指導に尽力されている人も少なくありません。
そうした方々の目的は様々なのでしょうが、結果として、「世界の中の日本」という立場に光を当ててくれているのではないでしょうか。

それは何もスポーツ界に限ったことではなく、音楽などの芸術界などでも同じことが言えるでしょうし、研究者となれば、海外に出て活躍されている方も少なくないのでしょが、海外の方が研究環境が優れているという理由が多いという声が聞こえてくるのが残念ですが、そういう場合も含めて、「世界の中の日本」に貢献してくれているのでしょう。
また、海外など全く縁がないという人であっても、たまたま出会った外国人の人に、ちょっとした親切、ちょっとした心遣いが、意外に大きく「世界の中の日本」を輝かせているかもしれません。

もっとも、そうまでして「日本、日本」と主張する必要があるのかという声があります。
しかし、わが国は、アジアの片隅に位置しているという立地から逃れることは出来ません。近隣国との軋轢は絶えませんし、今のところ直接関係していないとしても世界中で紛争が多発しています。先進国とされる国々でも、国内での価値観の対立が激しくなってきています。ここ数年、わが国を訪れる外国人の数は急増しています。それは、外国という存在を無視してわが国が存在することの難しさが増しているということでもあります。
先日行われた国会における党首会談の内容を見ていますと、「2000万円、2000万円」と叫ぶのも結構ですが、外交についてももう少し勉強してほしいと感じました。
折から、大阪でG20が開催されます。会合の成果もさることながら、わが国も「世界の中の日本」としてしか存在して行くことが出来ないことを、勉強したいと思うのです。

( 2019.06.23 )

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二千万円はともかく ・ 小さな小さな物語 ( 1209 )

2019-12-08 15:44:59 | 小さな小さな物語 第二十一部

いわゆる二千万円問題は、少し落ち着いたのでしょうか。
「年金だけでは老後資金が二千万円不足する」という金融庁の金融審議会市場ワーキンググループの報告書について、私は全文を見ていませんので、推測で意見を述べるのはどうかとも思いますが、テレビや新聞の報道の多くも、私と同程度の理解力をベースで報道されているような気がしています。
それどころか、国会での討議も、そうした記事をベースにしたものや、まことに独自的な理解をベースに討議されているように見え、馬鹿々々しくなってしまいます。
おそらく、当報告書の狙いの重点は、老後生活に自助努力が必要だということを訴える、ということにあったと思われるのですが、そうだとすれば、これだけ大騒ぎしたことにより、その狙いを伝えるという目標だけは十分に伝わることになり、大成功だったのではないでしょうか。

ところが、「二千万円不足」というのが一人歩きどころか、大暴れしてしまい、それに年金制度云々という滅茶苦茶な理屈を言い出す人が出てくるなど、国会の貴重(?)な時間をかなり無駄遣いしてしまいました。
そもそも「二千万円不足」という部分は、数か月前に厚労省の資料として使われていたものをほとんどそのまま流用したものらしいのですが、今初めて知ったということは別に恥ずかしいことではないかのように、言葉だけは激しい論争となってしまったようです。
「まるで鬼の首でも取ったように責めたてる陣営」、「報告書を受け取らず、すたこら逃げ出そうとする陣営」。どれもこれも、参議院選挙を意識してのことだと思われるのですが、せめて有権者だけは、的外れの論争に惑わされないようにしたいものです。

ところで、二千万円はともかく、年齢により差はあるとしても、老後の生活資金の問題は、重いテーマといえます。
「二千万円不足」と示されたモデルケースの場合を考えてみても、そもそも、これだけの年金を受給できると人は、どれほどの比率を占めているのでしょうか。国民年金だけの人はとても及ばないわけですから、おそらく三分の一以上の人が、モデル外になってしまうことでしょう。
この種のモデルは、多くの人が様々な形のものを示してくれています。国家を運営していく上では、モデル世帯なり平均世帯なりが必要なのでしょうが、それを錦の御旗のように振り回されても、あまり役に立たないということも、為政者の方々は承知すべきです。

しかし、私たちには老後があり、年老いても生活費は必要です。不満だらけの年金制度とはいえ、世界中の国々と比べると、わが国の制度は捨てたものではないはずです。
現に、老後の生活資金を考えた場合、十分ではないとしても、ほとんどの人が年金収入が必要資金の中の一角を占めるのではないでしょうか。
そこで、不足部分をどうするのか、ということになりますが、二千万円はともかく、知恵を絞って生み出すしかないようです。年金収入がモデルケースに及ばない人はもちろん、それ以上の人であっても、簡単には準備できない金額が算出されるはずです。
でも、あまり楽観するのもなんですが、いろいろ方法はありそうですよ。
まず一番は、資金寿命が耐えられるまで働くことでしょう。九十五歳まで働けば問題は解決しそうですが、さて、どの程度の収入が期待できるかという問題が残ります。
反対に、生活資金をどこまで減らすことが出来るかというのを趣味にしてしまうことです。国民年金だけで悠々自適の生活を生み出せれば、それはそれで豊かな生活ということになります。もう一つは、海外移住ですか・・・。
まあ、現実の問題としては、これらの手段を少しずつ取り入れて、何とか逞しく生き抜きたいものですねぇ。

( 2019.06.26 )

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おもてなし ・ 小さな小さな物語 ( 1210 )

2019-12-08 15:44:06 | 小さな小さな物語 第二十一部

大阪市始まって以来というほどの厳戒態勢の中、G20が開催され、今のところ順調に進行されているようです。
今回の会議には、28の国・地域と9の国際機関のトップが参加しており、次々と報道される首脳が到着される風景は、テレビで見ているだけでも迫力を感じ、誇らしさのようなものを感じています。

全体会議としては、厳しさを増している貿易に関する事項や、一国では手に負えなくなってきている巨大通信業者の問題、対策が急がれるプラスチックゴミによる海洋汚染の問題、等が取り上げられるようです。
もちろん、それぞれのテーマについて、関係国や機関の間で事前打ち合わせのようなことはなされているのでしょうが、これだけ多くの参加者が、たった二日間の会議で具体的な合意に至るのは難しいでしょうが、それなりの認識を共有し、今後の具体的な方策の端緒となれば、大成功ではないでしょうか。

そして、全体会議以上に注目を集めているのが、幾つも行われる二国間の首脳会談です。
何と言っても今回の会合の最大の目玉とされているのは、「米中首脳会談」でしょう。この結果は、様々な形で世界中に発信され、経済界を中心に大きな影響を与えることになるでしょう。
それほどではないとしても、「日・米」「日・中」「日・露」「米・露」などの首脳会談は、時間や事前準備などに制限があるとしても、簡単には実現しない組み合わせだけに、成果はともかく、G20開催の価値は十分あるような気がします。
それに、前記したような注目を浴びている組み合わせだけではなく、参加国はそれぞれに多くの個別会談を行っているはずで、具体的成果という意味では、遥かに大きな意味を持つ首脳会談が実現している可能性もあります。

ともあれ、国家や機関の最高首脳を一度にこれほど大勢迎えたのは、少なくとも第二次世界大戦後では初めての事と思われます。さらに、この会合の随行員や報道関係などのいわゆる関係者は3万人を越えているそうです。
テレビ番組で紹介されている報道関係者用の施設を見ると、政府も、世界中に発信されることを強く意識していることがよく分かりました。
世界中の人々に背伸びした姿を見せる必要などありませんが、遥々東洋の果てまでやって来てくれた人々に、仕事や国家間の利害の厳しさはともかく、わが国の国民性や風景や文化などを通じて、穏やかな一瞬を感じていただけるようなおもてなしを伝えていただけるよう、関係している方々にお願いしたい気持ちです。

( 2019.06.29 )

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足元を固める ・ 小さな小さな物語 ( 1211 )

2019-12-08 15:32:31 | 小さな小さな物語 第二十一部

米トランプ大統領と北朝鮮金委員長が南北軍事境界線で再会し、互いに境界線を越え、さらに50分を越える会談が実現したことは、実に衝撃的な映像でした。
トランプ大統領は現職米大統領として初めて境界線を越えたわけですが、SPも付けず、一人で境界線に向かって歩く姿は、見事過ぎるほど劇的な映像でした。その切っ掛けとなったのがトランプ大統領のツイートだということに、下準備があったなどの意見を述べるコメンテーターもいるようですが、そのような事は大したことではなく、トランプ大統領は、自らの信念により、それが自身の選挙対策としてであれ、国家の権益のためであれ、これだけの行動を成し遂げたことには拍手を送りたいと思います。
金委員長とて同様で、国家存立をかけてであれ、自らの存在を守るためであれ、けんか別れの状態の修復にこの会談が有益だと考えての行動でしょうから、やはり、勇気ある決断だったのではないでしょうか。

この電撃的な会談に、すっかり影が薄くなってしまった気もしますが、大阪で開かれたG20首脳会議も高く評価しても良いのではないでしょうか。
議長国としての日本の頑張りぶりは、安倍首相はもちろんのこと、全都道府県から応援に入った警察官の方々の警備の姿、口では文句を言いながらも、大阪市やその周辺市の市民の方々の協力は、これだけの会合を大都会で安全裡に開催することが出来、実に誇らしい気がします。
さらに言えば、このわずか二日間の間に数多く行われた二国間の会談は、今後の世界に与える影響も少なくないはずです。
「米中会談」などは、現状では最良に近い内容のようでしたし、他にも簡単には実現できない二国間会談が開かれたようです。うがった見方をすれば、今回のトランプ大統領と金委員長の会談実現にも、G20での情報交換が後押しする部分があった可能性もあります。

いずれにしても、国連総会などもそうでしょうが、多くの国家が集まる会合は、集まること自体に大きな意味があるともいえますが、意見の集約は大変です。
それぞれの国家の代表は、自国の利益のためにのみ行動するのは当然のことです。互いに譲歩し合うことは大切ですが、その譲歩は、何らかの形で自国の利益にならない限り実現しないはずです。
世界中の国々は、存立と向上のために、より強靭に、より豊かになるために、たゆまぬ努力と厳しいつばぜり合いをしているのでしょう。
わが国とて同様で、自立した国家の存続のためになすべき外交があり、民の安寧のための内政があるはずです。
G20首脳会談を無事に終え、次は東京オリンピックだ、その先には大阪万博もある、という声もありますが、それらのどれを成功させるためにも、安定した国民の生活があってのことだと思うのです。
今こそ、しっかりと足元を固める必要があるのです。

いよいよ、参議院選挙が始まります。
国会議員に限りませんが、選挙で選ばれた国民あるいは地域市民の代弁者であるべき議員や首長に、目に余るようなお粗末な人物が散見されるような気がします。箸にも棒にもかからないような人物ならともかく、一日でも早くその場を去って頂きたい人物が少なくないような気がします。
ある説によれば、「およそ組織というものは、その組織のために懸命に働く人は20%程度で、60%は何とか義務程度は果たすが、下位の20%はむしろ害をもたらしている」のだそうです。
これに従えば、国会議員といえども、20%程度は、どうにもならない人物が含まれていても仕方がないということですが、選挙という目を通すのですから、せめてもう少し比率を減らしたいものです。
来るべ参議院選挙においては、少なくとも自分の選挙区からは、下位の20%にも入れないような人物を選出しないように、お互いに知恵を出そうではありませんか。

( 2019.07.02 )

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我慢と辛抱 ・ 小さな小さな物語 ( 1212 )

2019-12-08 15:31:22 | 小さな小さな物語 第二十一部

南九州を中心とした豪雨は、なお予断を許さない状況が続いています。
離れた地域に住む者にとっては、あまりなじみのない小さな川が、ごうごうと泥水を渦巻くようにして流れるさまは、テレビを通しての画像であっても、怖ろしさを感じます。
気象庁や地方自治体ばかりでなく、政権トップからも身の安全を守るようにとの呼びかけは、自然災害に対する必死の抵抗のように思われましたが、少しでも早く、少しでも安全な場所に避難するしか手段はなく、歯がゆさのような気もします。
自然災害に苦しめられるのは、わが国だけの事ではありませんが、地震や台風に加えて、大雨も同列にして対応の強化を進める必要性が増しているようです。

日本語には、我慢・辛抱・堪忍など、「耐え忍ぶ」といった意味の言葉が幾つもあります。
もしかすると、自然の厳しい試練に対応する手段として、こうした言葉が多く生まれてきたというのは考えすぎでしょうか。考えすぎかもしれませんが、例えば掲題とした「我慢と辛抱」ですが、日常よく使われている言葉ですが、文字を見直してみますと何とも難しい文字が使われています。そこにも、どうにもならないものに対する私たちの先人たちの知恵と苦悩が込められているような気がするのです。

因みに、それぞれの言葉について辞書などで調べてみました。
『我慢』は、もとは仏教語で、「高慢。うぬぼれ。おごり高ぶり。」といった意味で煩悩の原因となる一つとされています。
ふつう私たちは、この言葉を使う場合は、「我慢する」といった具合に、この言葉を押さえ込むといった意味に使われるのがほとんどです。今昔物語の中に、「我慢より癡心(チシン)を生ず」(高慢から愚かな心が生まれる。)とあるように、本来はこのように使われていたのかもしれません。
『辛抱』も、「心法」から転じたという説もあるようで、言葉の意味は我慢や堪忍と似通っていると思うのですが、何だか奥深い意味を含んでいるような気がします。
また、ある説明の中には、『我慢』は、嫌なことをひたすら耐え忍ぶことであり、『辛抱』は、楽しみを得るために耐え忍ぶことだとしているものもあります。
そう言えば、『堪忍』の方は、もうすこし幅広く使われているようですが、関西では、「堪忍してえナァ」「堪忍やで」「堪忍したるわ」といった具合に使われることがありますが、この場合は、かなり柔らかな雰囲気になります。

いずれにしても、私たちの日常生活には、ストレスがあふれており、至る所に癪の種(シャクノタネ)が散らばっています。
「堪忍袋」という理性を守る袋もありますが、その緒は案外簡単に切れるようです。
「我慢の限界」と開き直るのも一つの手段でしょうが、「ならぬ堪忍するが堪忍」という聖人君子のような教えもあります。
まあ、理不尽な行動に対して怒りを抑えることは簡単な事ではありませんが、怒りを爆発させる前に一呼吸おいて、「我慢ってどう書くのかな」「辛抱ってどう書くのかな」「堪忍ってどう書くのかな」と考えて、正解を導き出してから行動する、というのは案外良い方法ですよ。
ただ、本当に腹が立った時、そんなことを思い描けるかどうかが、問題なんですよ、ねぇ・・・。

( 2019.07.05 )

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貿易戦争の勝者 ・ 小さな小さな物語 ( 1213 )

2019-12-08 15:30:15 | 小さな小さな物語 第二十一部

韓国との関係が厳しさを増してきました。
日本政府が韓国向け輸出製品のうち半導体の3つの素材について手続きを厳格化するとしたことで、両国間の軋轢は一気に表面化した感じです。
しかし、最近の両国間は、文化面を中心とした国民レベルの関係はともかく、政府間の交渉事は、私たち国民レベルから見てもギクシャクしていて、何事もなく関係が続いて行くと考える方が暢気すぎるといえましょう。

今回の処置を、日本政府は、「安全保障上の問題があって、輸出に関する手続き簡素化を認める国(ホワイト国)を一般国に戻すだけのことだ」としているのに対して、韓国側は、「元徴用工問題に対する報復処置だ」とし、政治問題(歴史認識問題)を貿易面で報復するのは容認できない、対抗措置を検討する、と不満を示しています。
公的な両国の主張は違うように見えていても、両政権とも、その原因となっている現象は十分認識した上での事と考えられます。
おそらく、わが国の政権側とすれば、「過去の約束事が次々と踏みにじられ、やられっぱなしをいつまでも耐え忍ぶわけにはいかない」と決断したのだと推定でき、韓国側とすれば、「歴史認識をいつになったら改めるのか。元徴用工問題などでぐずぐず言うな」という気持ちがあるのかな、と推定できます。
わが国政権としては、国連制裁などを除けば、おそらく初めてといえるような実質的な輸出条件の変更に動いた以上は、そうそう簡単に拳を下ろすわけにはいかないでしょうから、少なくともホワイト国からの削除までは行くことでしょう。
韓国側も対抗処置を取ると表明していますし、市民ベースとはいえ、すでに「貿易戦争だ」との声が出ています。

戦争という言葉が適切かどうか分かりませんが、争いを「戦争」と表現するのであれば、しばらくはその状況を覚悟する必要があります。つまり、戦争は、常に両者に少なからぬ痛みを与えるものなのですから。
「米中の貿易戦争」に比べるとはるかにスケールは小さいとはいえ、不買運動や、旅行者の減少、両国間の貿易額の激減、さらには、市民レベルの交流にまで悪影響が出るかもしれません。
それらを覚悟する必要があるのですが、早くも、「貿易制限はけしからん、即座に取り消せ」という声も国内から出てきています。そうした意見の中に、「両国間の貿易は、遥かにわが国の輸出超なので損するのはわが国だ」と言うのがありますが、どうも、貿易というものが正しく理解されていないような気がしてなりません。
米中の貿易アンバランスについても同様ですが、「ルール上の不公平」は別にすれば、貿易は、物(技術やサービスなどを含む)を売って、お金(代用となる物を含む)を受け取ることで成り立っているのであって、タダでお金が流出したり流入しているわけではないのです。
今回対象となっている3製品について、自国生産や別の国から輸入されて市場を失うことになる、という懸念も示されています。その通りでしょう。しかし、そんなことが簡単にできるのであれば、この3製品も大した物ではなく、若干時間が早まるとしても、やがてはその運命にある製品と言えるのではないでしょうか。

若干話がくどくなりましたが、そもそも貿易とは、両国間にそれなりの利益があるから成立しているはずなのです。需要あるいは供給の問題ではなく、強制的な力によって貿易量を縮小させれば、間違いなく両者が傷つき損失を蒙るものなのです。
貿易戦争に本当の勝者など存在するものなのでしょうか。するとすれば、当時者のどちらかなのでしょうか、それとも別の第三国なのでしょうか。
今回の日本と韓国の問題は、おそらく、簡単に収束しない予感がするのですが、両国は隣国同士であり、厭でも位置を変化させることが出来ないのです。
どこかに、時の氏神はいませんかねぇ・・・。

( 2019.07.08 )

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ルールの限界 ・ 小さな小さな物語 ( 1214 )

2019-12-08 15:28:48 | 小さな小さな物語 第二十一部

「ルール」には振れ幅があり、限界もあることは承知の上ですが、このところ、それを痛切に感じさせられることが数多く見せつけられます。
「ルール」と言う言葉は、もちろん外国からやって来た言葉ですが、いわゆる外来語と言うレベルはとっくに超えていて、立派な日本語ではないかと思うのですが、さて、その意味はということになると、なかなか一筋縄ではいかない言葉のように思われます。
手元の辞書で調べてみますと、『「ルール」とは、「規則。通則。準則。例規。』と説明されています。どうも、日ごろ気楽に使っているのとは、少し違う風合いを感じてしまいます。個人的な感覚でしょうが。

説明されている四つの言葉には、いずれも「規」か「則」が含まれています。そこで、少々乱暴ですが、これらの言葉の代表として「規則」を辞書で調べてみました。『 ①きまり。のり。おきて。さだめ。 ②物事の秩序。 ③事件または行為の一様性を表現し、または要求する命題。 ④人の行為や事務取扱いの標準となるもの。 ⑤[法] ㋐都道府県知事・市町村長がその権限に属する事務に関して制定する法規範。 ㋑最高裁判所が自己の権限によって訴訟手続、弁護士、裁判所内部の規律、司法事務の処理に関して制定する法。なお、国会の両議院、会計検査院、人事院、各種の委員会なども、その事務に関して同様に規則を制定する権限を持つ。』とあります。
私たちは、ごく気楽に「ルール」という言葉を使っていますが、何が何だか分からないほど複雑な面を持っているわけです。
もちろん、私たちがこの言葉を使う場合、この言葉が持つ意味の全てを指しているわけではなく、ごくごく一部を指して使うのがほとんどですが、受け取った方は、数多い意味の中のどの部分を意識しているのかによって、意思疎通は大きく変化するわけです。
「公正なルールに従い・・・」などと言っても、話し合いが難航することが多いのは、その辺りにも一因があるような気がするのです。

少々古い話になりますが、かつて、プロ野球の名審判が、「オレがルールブックだ」と大見得を切ったことがありました。
アウト・セーフに関して、これも名監督とされる人物の猛抗議に対して、大見得を切ったというものです。
スポーツという、最も「ルール」を大切にする場面であっても、その世界の歴史に名を残している審判と監督どうしであっても激しく対立するのですから、「ルール」に振れ幅や限界があることを認めざるを得ません。
なお、この話はすでに伝説化しているほど有名なものですが、これには後日談のようなものがあります。
一つ目は、監督の激しい抗議に対して審判は、「私が言っているのだから間違いない。ルールブックを見るまでもない」と言ったというものです。
もう一つは、「私がルールブックだ。それでいいじゃないか」と収束をはかったというものです。
さらに、「同時は、アウトかセーフか」と言う問題に対してその審判は、「野球に同時は存在しない、あるのはアウトかセーフだ」と言い放ったとされています。
この三つの後日談、ルールを考えるうえで、なかなか含蓄のある話だと思うのです。

わが国と隣国との関係が厳しさを増しています。
両国間には、二国間の約束事があり、多国間・あるいは国際的な約束事が存在しています。しかし、つくづく思うことは、ルールや約束事は、互いの信頼関係が保たれている時だけが、辛くも守られるものらしいことです。
せいぜい数百年程度の歴史を遡ってみても、国家間の条約や同盟関係などが、いとも簡単に破られてきたことは、限りなく存在しています。
表面化してしまった隣国との厳しい摩擦は、しばらくは覚悟しなくてはならないような気配です。やがては、私たちの日常生活にまで何らかの影響が出てくるかもしれません。
せめて、私たちの日常生活においては、近隣の人々とは、ルールの振れ幅を少し大きめに見て、しかも少し広いめの同時を設定すべきだと思うのですが・・・。

( 2019.07.11 ) 

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振り子はチクタクチクタク ・ 小さな小さな物語 ( 1215 )

2019-12-08 15:27:22 | 小さな小さな物語 第二十一部

「わが家には、幾つ時計があるのだろう」と、ふと思いました。
まあ、今どきのことですから、時計なんて一家に一つあれば十分だとは言いませんが、それにしても、その数の多さに我がことながら驚いてしまいます。
壁にかかっている時計だけでも、各部屋に一つあり、廊下や洗面所などにも、よくも隙間を見つけたものだと感心するほど掛かっています。いくら狭い家だとはいえ、どの場所にあっても時計が見えないと承知できないのかとさえ思ってしまいます。
置時計となれば、とてもそんなものではありません。玄関先は、花瓶と時計が数を競っていますし、どの部屋にも、どの空間にも複数個が鎮座なさっています。
腕時計となれば、動いているのかどか分からない物を含めると、とても数を把握していません。その他にも、テレビやラジオ、スマホに電子辞書、パソコン、万歩計にも時計機能が付いています。
そうした時計に満ち溢れた狭い家の中で、なぜか私は腕時計をつけて生活しています。

こうして書き連ねてみますと、少々わが家が異常ではないかと思わないでもないのですが、同じようなことを話題にした事がある友人の話や、たまにおじゃまする他人様のお家も、程度の差はあるとしても、似たような環境の人は少なくないようです。
私たちの生活が、時間によって刻まれ、命さえ時間によって量られていることは確かでしょうが、さて、私たちはそれほど時間に縛られているのでしょうか。
仕事や学業や、誰かとの待ち合わせなど、時間が重要な意味を持つことは少なくありませんし、重要さの差はあるとしても、時間を意識しなくてはならない場面は、一日に何度もあることも確かです。
しかし、私たちは、これほどの時計を必要とするほど、時間に縛られ、あるいは、時間を大切にしているのでしょうか。

そして、わが家の時計を見回してみた時、振り子を持った時計が少ないことに気付きました。数えるまでもなく、壁に掛かっているものが一つと、置時計が二つ、それも、申し訳のような振り子です。
そう言えば、若い頃、お金持ちになれば、ボーン、ボーンと低くて迫力のある音を出す大きな柱時計を買おうと考えたことがありました。残念ながら、お金持ちになることは出来ず、大きな柱時計も買うことが出来ないままになりそうです。
そう考えながら、壁に掛かっている時計の、小さな振り子を見つめています。ボーン、ボーンという音ではなく、この時計は音楽を奏でることになっているはずですが、その機能は止められていて、かすかに電子音のようなものが聞こえてくるばかりです。
それでも振り子は、律義に、右、左、右、左と実に公平な動きを見せています。

かつて思い描いた大きな時計は、チク、タク、チク、タクと休みなく息づかいを伝え、時々、ボーン、ボーンと大きな音を立てます。そして、その振り子は、規則正しく、それでいて人をあきさせることなく動き続けています。
ひるがえって、私たちの社会にも、振り子は存在しているようです。ただ、その振れ幅は大きく、左右同じでないことが多いようです。一方に大きく振ると他方にも大きく振れるのは振り子の原理そのものですが、私たちの社会の振り子は、左右の振れ幅が異なることが少なくなく、それが紛争のもとになるのでしょう。
どちらに正義があるとしても、隣国同士が振り子をぶつけ合うことは、辛いことです。

( 2019.07.14 )

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「知らないこと」がいっぱい ・ 小さな小さな物語 ( 1216 )

2019-12-08 15:26:05 | 小さな小さな物語 第二十一部

隣国との関係が厳しさを増しています。
「輸出管理上の問題からの措置だ」「徴用工問題に対する報復だ」と意見は対立、共に表向きの主張の後ろに見え隠れしているものがあるのはも承知の上での対立なのでしょう。
ただ、その見え隠れしているものの数々は、お互いに承知しているようで案外知っておらず、いわんや、その重要さや痛みは、自分の感覚でしか理解していないのではないでしょうか。
両国の実務者が会った場も、その位置付けに大きな差があり、交わされた意見さえも両国間で差異が出るとなれば、相当重症と考えねばならないのではないでしょうか。
わが国側の対応にも問題指摘される部分があるとしても、ここまでこじれると、長期戦を覚悟する必要がありそうです。

今回の騒動の中で、「知らなかったなあ」と思うことが幾つかありました。
まず、「ホワイト国」についてです。アジアでただ一つこの隣国だけが選定されていることでした。安全保障上の問題もあるでしょうし、これまでの経済上の問題もあるでしょうし、政治家の思惑もあったのではないかと考えたりするのですが、少々違和感を感じました。
もう一つは、今回対象となっている工業製品についてです。このぐらいのことで大騒ぎするほどの物が、わが国にあったことに安心感を感じるとともに、「知らなかったなあ」と思いました。
少し前に、レアメタルやレアアースを禁輸されるのではないかという話がありました。現時点でも、原油や食糧など、世界規模の騒動が勃発した場合には、わが国の泣き所となる部分が数多くあるのでしょうが、私たちは、その実態をほとんど知りません。あるいは、積極的に「知らないこと」にしているのかもしれません。

折から、参議院選挙の真っただ中です。
各党首や、有力議員などの意見が、テレビなどを通して伝えられてきます。
いつもは適当に投票していた感もあるのですが、今回は、新聞の選挙公報で、各党の主張、当地の選挙区立候補者、比例代表立候補者、これら全員の記事や写真をじっくり拝見しました。
短い記事で、それぞれの主張や人柄などを承知することなど不可能といえますが、「知らないまま」で投票するのと、「知っているつもり」になって投票するのと、どちらが正解に近付けるのでしょうね。
そして、これほどすばらしい意見をお持ちの方ばかりなのに、当選者の中から、きっととんでもない人が何人かは登場してくるのでしょうから、そのメカニズムがどうなっているのか、「知らない」のですよねぇ。

『 時間とは何かと尋ねられなければ、誰でもそれを知っている。しかし、時間とは何かと尋ねられると、誰もそれを知らない。 』
これは、思想家であるアウグスティヌスの言葉だそうですが、思わず、うなずいてしまいます。そして、この「時間」の部分に入れることが出来る「事象」などは、幾つもあるように思うのです。
私たちは、世の中の事すべてを知ることなど出来ないことですが、知っていると思っていることが、案外正鵠から外れていたり、自分に都合が良いように歪められていることが少なくないことを知ることも、大切なような気がするのです。
『 何を言っているのかと尋ねられなければ、自分の意見ははっきりしてる。しかし、何を言っているのかと尋ねられると、たちまち意見が揺らいでしまう。』などと言う声が聞こえてきそうな気もするのですが。

( 2019.07.17 )

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怒りの種は尽きないが ・ 小さな小さな物語 ( 1217 )

2019-12-08 15:24:55 | 小さな小さな物語 第二十一部

当ブログで、『今昔物語拾い読み』という作品を連載させていただいております。
ご承知のように、今昔物語には、とてつもない量の説話が集められていますので、さて、いつになったら完読できるものかと、ご案内している張本人さえ不安を感じております。
それはともかく、今昔物語そのものは、基本的には仏教礼賛がベースになっていますので、勧善懲悪であり、仏や高僧、あるいは仏典などに人々が救われるというものが多いのですが、中には、愛欲がテーマになっていて、それも表現が直截過ぎて、このままご紹介していいのかと、戸惑う作品もあります。また、芥川龍之介の「鼻」に代表されるように、物語としても面白いものが数多く含まれています。

しかし、やはり中心にあるのは仏教にまつわる話で、その中には、煩悩(ボンノウ)を戒めるものが多く含まれています。
煩悩と言えば、私などは除夜の鐘を連想してしまうのですが、私たちがあれやこれやと思い迷う煩悩の数は108もあるというのですから、生きていくことに煩わしさがついて回ることは仕方がないのかもしれません。幸い私たちは、年末に除夜の鐘を聞けば、百八つの煩悩の全てを洗い流してくれるのですから、有難いことではありますが、一夜明ければ、数限りない煩悩がお友達になってくれるものですから、悟りの境地は遥か彼方のままになってしまいます。
さて、その煩悩ですが、その中の上位の三つを三毒として、特に私たちを苦しめる要因とされているようです。
その三毒とは、「貪欲(トンヨク)・・欲しいものに対して執着してやまないこと。」「愚痴(グチ)・・心理を知らず愚かであること。」そして、「瞋恚(シンイ/シンニ)・・自分の心に逆らうものに対して、怒り、怨み、憎むこと。」の三つを言います。
瞋恚、つまり怒りの心というものは、煩悩の大将格ですから、自制することはそうそう簡単ではないのは仕方ありません。

そうとはいえ、どうして、私たちには「怒りの種」がこれほど満ち溢れているのでしょうか。
大きくは国家間でいえば、大国同士であってもあれほど争わなければならないのだという事例はたくさんありますし、そこそこ平和でさえあれば、食べるのには困らない程度の生活環境はつくれると思われる地域で、憎悪に包まれた惨劇が繰り返されている例も少なくありません。それどころか、わが国と近隣国との関係は、少なくとも表面的には、憎しみと憎しみがぶつかり過ぎて修復は困難という気さえします。
瞋恚・・、釈迦の教えは、我々凡人には難し過ぎるのでしょうか。

わが国内で起きる犯罪だけでも、どうして私たちはこれほど憎み合わなければならないかと悲しさを感じます。怒りの心を押さえることが難しいことは多くの事例が物語っているところですが、少しだけ、ほんの少しだけでも押さえることが出来なかったのかと、虚しさを感じることも少なくありません。
このほど発生した京都のアニメ会社の大惨劇は、あまりにも酷すぎて言葉もありません。事件の真相はまだ明らかになっていませんが、犯人の男には、これほどの犠牲者を出すほどの怒りがあったとでもいうのでしょうか。
私たちの周りには、怒りの種が尽きないほど渦巻いています。しかし同時に、私たち自身も、周囲に多くの怒りの種を蒔き散らしていることも否定しきれないと思うのです。
私たち凡人が、煩悩の大将を押さえ込むことなど出来っこありませんが、ほんの少しだけでも和らげる方法を考えることは大切だと思うのです。そして、それこそが知恵だと思うのです。

( 2019.07.20 )

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