雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

戦い終えて ・ 小さな小さな物語 ( 1218 )

2019-12-08 15:23:37 | 小さな小さな物語 第二十一部

参議院選挙が終わりました。
激戦が予想され、特に注目される選挙区や候補者なども、マスコミにより喧伝されました。
折から、内外では緊張が高まる事件や報道も少なくありませんでした。米中関係はなお予断を許せませんし、イランを廻る国際関係は、かなり懸念される方向に進んでいますし、部分的には、かつての東西冷戦の時代を思い起こさせるような状況も報道されています。
特に、わが国と隣国との緊張関係は、実態はともかく、表面化している部分だけでいえば、戦後最悪の状態と言えるような気がします。国内的においても、京都では、どう受け取ればよいのか分からないような惨事が発生し、気象状況でいえば、「観測史上・・」云々といった報道が、珍しく感じない体質になっているような危険を感じます。

参議院選挙そのものは、直接政権交代を実現させるものではありませんが、いろいろ問題はあるとしても、国政の一角を担う、私たちの代弁者を選出する選挙出ることには間違いありません。
わが日本国家を健全に引っ張って行っていただくためには、様々な要因を検討していただかなくてはならないのは当然です。天下国家の大事に取り組んでいただくことも大切ですし、同時に、庶民の、小さな小さな、ささやか過ぎるような願いにも目を向けていただくのも、政治家の重要な仕事の一つであることを否定される方はいないと思うのです。

しかし、今回の選挙戦はどうでしたでしょうか。
候補者のほとんどの方々は、この国の現状を憂い、将来の不安を心配してくれているような発言をされていました。そして、実現性の可否はともかく、そのために尽力すると誓っていただけていたように思うのです。(勝手な想像ですが)
ただ、残念ながら、国民の多くには、そうした政治理念や意欲のほとばしりより、如何にして自分が当選するか、如何にして所属の党などの当選者を増やすか、といった行動が遥かに大きく見えてしまったような気がするのです。
その何よりの証拠は、惨憺たる投票率です。
棄権された方の中には、健康上の問題から棄権せざるを得なかった方も少なくないでしょう。天候に恵まれなかった地域もあり、とても選挙どころではなかった方もあるでしょう。また、何らかの原因から、いかなる行動に対しても無気力になってしまっていた方もおられるかも知りません。
けれども、投票に参加しなかった理由が「どうせ、自分の一票など大して意味がないから」という人が相当の数を占めているのではないでしょうか。それどころか、「全く関心がない」「選挙があることさえ知らなかった」という人も相当の比率を占めている可能性があります。
現状が続けば、有権者の20%程度の熱烈な支持者を掴むことが出来れば、政権を担うことが出来る可能性が出てくるわけですから、今回の投票率は恐怖さえ感じてしまいます。

ともあれ、新しい私たちの代表者が選出されました。
今回選出された方々は、参議院の約半分であり、衆議員にはさらに大勢の議員がおり、権限も強くなっています。今回当選された方々が、「初心を大切にしよう」ということで、全員が一致団結したとしても大したことは出来ないかもしれません。それどころか、大半の方々は、当選と同時にがんじがらめの拘束状態である人がほとんどかもしれません。
そう考えれば、激しい選挙戦は何であったのか、ということになってしまいます。
結局は、勝った負けたといったところで、私たちの生活にどれほどの変化があるのかと虚しさも感じるのですが、参議院議員となられた方には、参議院の存在感を1/250 程度は動かせる力があるのですから、懸命のご健闘を祈りたいと思います。

( 2019.07.23 )

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パワーハラスメント ・ 小さな小さな物語 ( 1219 )

2019-12-08 15:22:26 | 小さな小さな物語 第二十一部

またまた、国会議員のパワハラがニュースになっています。
どんな事件にも、加害者がおり被害者がいますし、どんな出来事にも対立双方には言い分があるのでしょう。しかし、たとえどのような言い分が有ろうとも、被害を受けた人にとっては、程度の差はあるとしても貴重な人生のある部分を塗りつぶされてしまう一面を持っています。
また、どんな犯罪でも許されるものなどないのでしょうが、中でも、何々ハラスメントと呼ばれる事件は、その多くが、社会的、あるいは家庭内などで、圧倒的な強みを持っている者が、支配者的な立場を利用して行われることが多いものですから、人格的に実に軽蔑すべき事件だと思うのですが、正当に裁かれないことが実に多いような気がするのです。

パワーハラスメントという言葉は、和製英語だそうです。それも、2001年に初めて提唱された言葉のようですから、その歴史は新しく、それでいて、今や完全な日常語として定着していることを考えますと、実にすばらしい造語だと感心しますとともに、日本で誕生したことに何とも切なく情けない気がします。
ハラスメントという英語は、「嫌がらせ」といった意味だと思うのですが、今や、パワハラを筆頭に、セクハラ、モラハラ、マタハラ等々、その数は、二十とも三十ともいわれ、それをさらに越える数のハラスメントを具体的に名前を挙げておられる方もいるようです。
私たちの社会は、ハラスメントが渦巻いている陰湿極まりない社会になっているのでしょうか。

何々ハラスメントと呼ばれる事件のほとんどが、陰湿極まりない性格を強く持っていることは否定できないと思われます。同時に、加害者の多くは、人格的に非常に未熟な持ち主が何かのはずみで実力以上の立場になってしまったことがほとんどでしょうから、どんな手段を用いてもその立場を守ろうと必死に考えているのですから、残念ながら、一般市民の多くがそうであるように、家族の生活や世間体を気にしているような被害者は、とうてい太刀打ちできないのです。
さらに言えば、例えば、今ニュースになっている国会議員の場合でも、被害を受けた秘書の方が、それも複数いるそうですから、その中の一人がその議員を反対にボコボコにしてやればよかったのに、と思うのですが、そうなっていたら、おそらく秘書の方が加害者となり、議員の方はヒーロー顔するのではないでしょうか。そうなるような法体制や世間が、私たちの社会にはあるように思えてならないのです。

何種類あるのか知りませんが、残念ながら、何々ハラスメントと呼ばれる横暴を根絶させることなど出来ないでしょう。
それでも、私たちの社会が、そのような手段をもって社会的弱者に嫌がらせをするような人物を、徹底的に指弾する風潮が強まれば、いくばくかの抑制効果は発揮できることでしょう。
その一方で、この種の犯罪の中には、公正な判断が極めて難しいものも少なくないうえ、冤罪事件もすでに発生しています。
同時に、どんなに破廉恥な事件を犯したとしても、罪を償えば許されるべきであることは当然ですが、ややもすると、この種の犯罪が、他の業績により相殺される傾向があることも懸念される一つです。
さらに加えるとすれば、国会議員など特別な権利が与えられる人に対しては、この種の犯罪に対しては特別厳しい罰を与えても、「法の下の平等」には反しないのではないでしょうか。立法化してくださる国会議員はいないでしょうかねぇ。

( 2019.07.26 )

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天使の分け前 ・ 小さな小さな物語 ( 1220 )

2019-12-08 15:20:59 | 小さな小さな物語 第二十一部

反社会的勢力との関わりがスクープされたことにより表面化したお笑い芸人にまつわるトラブルは、所属会社の対応の悪さもあってか、所属会社と所属タレントとの契約のあり方、ギャラの配分などにマスコミの注目が移っている感があり、問題提起となった雑誌社も含め、問題の本質が何なのか分かりにくくなっている感があります。
それはともかく、今や注目の焦点になってしまった感のある、ギャラの配分という問題を考えてみたいと思います。
問題の舞台となっている会社は、お笑い業界ではわが国最大の会社であり、要するタレントの会社は6000人と言われています。大阪発祥のこの会社の影響力は、大阪のテレビ局では、この会社のタレントの顔を見ない日などまずありません。また、今回の騒動で、「ギャラが安すぎる」「会社側のぼったくりだ」などと言う声が、あふれ出てきています。
これまでも、この会社所属のタレントの多くが、「ギャラのほとんどを事務所に取られている」と言った発言をしているようですが、受け取る私たちは、そのほとんどは「ネタだ」と笑っていました。実際は、どうだったのでしょうか。

ここぞとばかりに、所属のタレントから不満やクレームが幾つも出てきていますが、大阪文化の一端を担う旗手ともいえる会社だけに、問題点の是正は必要なことは当然ですが、「角を矯めて牛を殺す」ということにならないことを願っています。
会社の味方をするわけではないのですが、キャラの問題や契約書の問題なども、そうそう一方的に会社を非難するのはあたらないような気がします。
テレビで、同社の元マネージャーという方が話しておられましたが、「主催者側から1万円支払われたのに、貰えたのは2千円だった」という主張に対して、「事務所が受け取る8千円では、マネージャーの日当にもならない」ので、この程度のタレントの場合は、会社側の相当の持ち出しになっているし、「(月に?)1千万円のギャラを稼いでくれるタレントには、7割支払っても十分だ」と言った内容でした。つまり、タレント対事務所のギャラの配分を一律に語るのは、まったく意味がないと話されていました。
この会社に関わらず、芸能事務所とタレントとのギャラの配分は、タレントの人気が高くなるにつれて、トラブル発生の可能性も高めるようです。
当会社の場合も、契約内容はともかく、多くの著名なタレントが所属し続けており、有るか無いかの収入しか得られない人が相当数あるとしても、6000人もの所属タレントがいるという現実も、認めるべきではないでしょうか。

ただ、「ギャラ」すなわち「パイ」の分配のあり方は、少々の騒動程度では解決しない難問といえます。
大きく言えば、国家予算をどのように配分するかは、政権の重要な使命であり、同時に大きな権限の根源でもあります。これは、組織が小さくなっても同様ですし、家計の割り振りも、家族の特徴や方向性に影響を与え、時には、崩壊の原因になることさえあります。
金銭に限らず、例えば、国会議員の選挙区定員の配分や、選挙制度そのものも、「適正配分」が強く求められる最たるものの一つでしょう。
国家間においても、貿易のあり方、交流のあり方、支援や協力の在り方、等々のいずれにおいても、「適正配分」が求められますが、同時に、その配分の匙加減こそが、国家の意思ということになるかもしれません。

私たちの日常は、多くの場面において、「適正配分」が求められ、「適正配分」を求めています。そして、その多くの場面で、私たちは、自分に有利な姿を「適正配分」と認識しているようです。
「天使の分け前」という言葉があります。これは、ワインやウイスキーやラム酒など熟成を要する酒類は、熟成中に水分やアルコール分が蒸発して、最終的に製造量が目減りしますが、その部分を「天使の分け前」と呼ぶそうです。その量は、条件により違うのでしょうが、1年につき1~3%、ラム酒の30年を超えるものでは50%程も減るそうです。
私たちは、常に「適正配分」を求め、しかもその「適正配分」は少し自分に有利な物をイメージしている可能性があることはすでに述べましたが、適正配分すべき原資は、「天使の分け前」を考慮した物でなくてはならない、と思うのです。
「天使の分け前」を容認することで寛容さが生まれるのではないかと思うのですが、同時に、同じ現象を、「悪魔の取り分」という言い方もあるらしいことが、少し心配ではあります。

( 2019.07.29 )

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小さな小さな物語  目次

2019-12-08 15:05:26 | 小さな小さな物語 第二十一部

          小さな小さな物語  目次


     No.1221  ヒトは進化するのか
        1222  本音と建前
        1223  夏のお友達
        1224  故郷へ故郷へ
        1225  目には目を

        1226  ゆるぎない信念
        1227  スポーツ指導者の育成を
        1228  時には「掛けてみる」
        1229  秋風を待つ
        1230  分かち合う

        1231  虚々実々
        1232  丁寧な手当て
        1233  平行線状態
        1234  感謝 そして お手並み拝見
        1235  想定を超える被害

        1236  結果と過程
        1237  山火事が示唆するもの
        1238  立ち場立ち場
        1239  決断の時
        1240  ゴールライン

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ヒトは進化するのか ・ 小さな小さな物語 ( 1221 )

2019-12-08 15:03:53 | 小さな小さな物語 第二十一部

「ヒト」は今、どの辺りを歩いているのでしょうか。
私たちの祖先は、遥かな昔に、驚くほどの偶然と、奇跡的な出来事に出会いながら、何万世代、あるいはそれ以上の世代を紡ぎながら、今日という日を迎えているのでしょうが、その間、どのような進化を重ねてきているのでしょうか。
多くの研究結果が示しているように、肉体的、あるいは外観的な進化はなされてきているのでしょうが、明らかに退化している部分もあるようです。その一方で、精神的、あるいは賢さということになれば、果たして進化がなされているのでしょうか。あるいは、肉体面と同様に、進化している部分と退化している部分が混在しているのでしょうか。

人類がこの地球上に登場したのはいつなのか? 
古来、多くの人々が思い描いたテーマの一つではないでしょうか。現代に近い時代になると、哲学的な発想ばかりでなく、実際に発掘された物をベースとした研究が、飛躍的に進んでいるそうです。しかし、なお、断片的な化石をもとにした研究では、限界があるのは当然といえるでしょう。
現在生存いる私たち、すなわち「ホモ・サピエンス(現生人類)」は、その数75億人を越えているようですが、ただ一つの種です。しかし、人類と呼ばれるような種は、過去に少なくとも20数種以上が存在していたようですが、現在生き残っているのは私たち「ホモ・サピエンス(現生人類)」ただ一種ということになります。

さて、その広い意味での人類が地球上に登場したのはいつか、ということになりますと、なかなか難しいそうですが、学術的にはともかく、乱暴な判断は出来そうです。
出現した化石をもとに推定されているものも、比較的近い研究結果でも、440万年前というのが定説化しかけた時代があったようですが、その後の化石発見で、600万年前、700万年前と遡っているようですから、とても定説化させるのは困難なような気もします。それでも、素人考えとしては、1千万年や2千万年前までは遡ることはあっても、1億年前まで遡ることはないように思うのです。
一方、私たちの直接の祖先の登場がいつかということになりますと、こちらはほぼ定説化されているようです。
およそ20万年前、アフリカで誕生した私たちの祖先は、およそ6万年ばかり前に郷里を離れて、長い年月を重ねてその子孫が世界中に広がっていったそうです。もちろん異説もあるようですが、これがほぼ定説となっているようです。

広い意味での人類が登場しておよそ1千万年、私たちの直接の祖先が登場しておよそ20万年。
この間、私たちの種は進化を遂げてきていのでしょうか。発見されている化石から、体形の変化や脳の大きさなどの変化は確認されています。しかし、脳の大きさが、記憶力や判断力、つまり生存のための知恵や知識の高度化には役に立っているのでしょうが、もっと根本的な知恵、情緒、慈愛などといった面の進化はなされているのでしょうか。
昨今の、国家間の軋轢や、地域紛争、国内においても多発する残酷な事件などを考える時、「ヒト」は本当に進化を遂げているのかどうかと、考えてしまいます。
もっとも、6600万年前に突然滅亡したとされる恐竜は、登場から1億6千万年ほどの時を進化とおそらく退化も繰り返したことでしょうから、人類の1千万年程度の経験など、知恵だ情緒だ慈愛だなどと叫ぶのは、1億年早いのかもしれません。
そうとはいえ、「ヒト」は今、どの辺りを歩いているのでしょうか。そして、どの方向に向かっているのでしょうか。

( 2019.08.04 ) 

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本音と建て前 ・ 小さな小さな物語 ( 1222 )

2019-12-08 15:02:32 | 小さな小さな物語 第二十一部

私たちは、ほとんどの人が二つや三つの顔は持っているようです。
「本音と建て前」という言葉がありますが、私たちは、交渉事となれば、程度の差はあるとしても「本音と建て前」を使い分けているものです。それもほとんどの人は、それほど強い認識はないままに、「本音と建て前」を使い分けているようです。
「一天地六」という言葉もあります。この言葉の本当の意味するところはよく分からないのですが、言葉自体は、サイコロの目が、天(上)が①の場合は、反対側の地(下)は⑥であることを表現した言葉で、映画などでは、威勢のいい兄さんのセリフというのが定番のようです。つまり、「運を天に任す」とか「いさぎよさ」などを表現させる言葉として使われることが多いようです。

さて、その「本音と建て前」ですが、この言葉はあまり良い意味で使われることは少ないようですが、本当は私たちの心の中には、まるで住み着いているかのように存在しているものであって、それをどのように使い分けるかはほとんどの場合には無意識のうちにその程度を判断して行動しているようで、それが、人柄とか性格の一端を担っているようです。
ただ、この言葉は、時には、確固たる意志を持って使われることがあり、その場合の多くは、悪意に近いほどの意志をもって相手から利益を奪い取ろうとしているように思われます。
「一天地六」も似たような部分があって、一見、いさぎよく見え、物事を達観しているかに見えてしまうのですが、映画の中のセリフとしてはともかく、日常生活の中で使われると、「なげやり」であるとか、「自分の責任を放棄している」ように見えてしまうように思います。

私たちの日常生活の中において、明らかな交渉の場においてはもちろん、そういう意思のない場においても、案外、これら二つの言葉を連想させるような場面があるものです。
そして、私たちの社会全体となれば、「本音」も「建て前」も、その意味するところが全く違ってくる場合があり、そういう相手との交渉事は、双方ともが「本音」も「建て前」もかみ合わないままとなれば、しんどい交渉となってしまいます。
「一天地六」となればさらに大変です。相手は、自分の行動を恥ずかしいなどとは思わず、むしろ颯爽とでもしているかのように、サイコロを放り投げ、「自分は①でお前は⑥だ」と大見得を切って、聞く耳など全く持っていない場合が少なくないのですから、その対応は・・・、どうすれば良いのでしょうかねぇ。

私たちは、誰でも、二つや三つの顔を持っています。それどころが、百面相とでも表現したくなるような顔の持ち主もいます。
交渉事においては、いくつかの顔を持っているのは相手だけでなく自分自身も同様なのです。ややもすると、自分の顔の数より相手の顔の数の方が遥かに多いように思うものですが、案外良い勝負かもしれません。
その二人が、例えば、「十の顔」を持った人どうしが、一、二の三で「一つの顔」を見せ合った場合、同じような価値観を持った顔どうしが出合う確率は、極めて低いものです。しかも、それぞれが持っている「十の顔」は、同種のものとは限らないのですから、交渉事が難しいのは当然なのです。
個人どうしでもそうなのですから、これが国家間となれば、さらに複雑になるのは仕方がないのでしょうね。

( 2019.08.07 )

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夏のお友達 ・ 小さな小さな物語 ( 1223 )

2019-12-08 15:01:02 | 小さな小さな物語 第二十一部

立秋の日が過ぎましたが、何の何の、猛暑は今が盛り、という感じです。
夏は暑い方が良いのでしょうし、日差しが厳しいのは当たり前といえばその通りなのですが、それにしても暑さにも程度があるのではないかと思ったりします。
来年の今ごろは、東京オリンピックの真っ最中だと思うのですが、世界各地から選手や観戦者を多数お迎えして、さて、この暑さ、本当に大丈夫なのでしょうか。
この日程は、開催都市の意向などほとんど通らないようで、商業オリンピックとしては開催地の気象条件など知ったことではないということなのでしょうか。
もしかすると、海外からの来訪者から暑さに対して苦情を言われますと、「日本人は、こんな時期に大きなスポーツ大会なんてしませんよ」と答えてしまわないか心配です。
もっとも、甲子園は、大熱戦の最中ですが。

さて、それはさておき、私たちは様々なものに季節を感じるものですが、夏、それも最も暑い盛りの季節を感じる物といえば、何をあげるのでしょうか。
つまり、「夏のお友達」といえる存在です。
私は、迷わず「セミ」を挙げます。
夏の訪れとともに初めて聞くセミの声は、何だか少しうれしいものですが、暑い盛り、その暑さを増すような鳴き声は、うんざりするものですが、セミもなかなか考えていて、腹立たしいほどの暑さになると、セミは鳴き止むようですよ。

セミは、世界中には、3000種ほどもいるそうで、わが国にも30数種いるそうです。多くは、「夏のお友達」として活躍するようですが、春や秋に姿を見せる物もいるようです。
ご承知のように、セミは長い地中生活のうえ地上に姿を現しますが、成虫としての地上生活はごく短く、一、二週間といわれることが多いですが、実際は一ヶ月程度は生存できるらしいのです。しかし、何分天敵が多く、人間に捕まえられて虫かごに入れられると、数日の命になってしまうようです。
わが国にいるセミの地中生活は、1~6年くらいだそうです。アブラゼミは6年だという説明書もあります。
北米には、素数セミ(周期セミ)という種類がいるそうで、13年ごとに大量発生する物が4種類と、17年ごとに大量発生する物が3種類いるそうです。それらは、地域ごとにどこかで毎年のように発生するらしいのですが、一つの地域では、13年あるいは17年ごとにしか姿を見せないそうです。しかも、一つの地域で13年セミと17年セミの両方がいる地域はほとんどないそうです。
素数セミが、繁殖のため地上に姿を現す期間を素数年ごとにしたのは、混血を避けるためだともいわれますが、もしそうだとすれば、誰が配慮したことなのでしょうか。

それにしても、セミは長い地中生活を送った後、危険いっぱいの地上に姿を現し子孫を残そうとするのでしょうが、その時間をどのように把握しているのでしょうか。遺伝子としてその行動パターが埋め込まれているのだ、といわれてしまうと、反論のしようもないのですが、長い長い地中生活の全てが、遺伝子に支配されているだけなのでしょうか。
17年セミの場合、おそらく卵の期間が半年ほど(翌年に幼虫になる種類が多いらしい)、地中生活が16年余り、そして地上生活は1か月足らず、という生涯を、水が流れるように遺伝子の指示だけで過ごしているのでしょうか。案外、人間の持つ時間とは違う物差しかもしれませんが、たとえ短くとも、大空に羽ばたく時を、指折り数えて(セミの幼虫の指がどんな物か知らないのですが)待ち続けているのではないでしょうか。
そう考えれば、限られた時間を懸命に鳴いているセミに、無事子孫を残してくれよと、祈りたいような気になるのです。
もっとも、鳴いているのは、オスだけだそうですが。

( 2019.08.10 )

 

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故郷へ故郷へ ・ 小さな小さな物語 ( 1224 )

2019-12-08 14:57:11 | 小さな小さな物語 第二十一部

多くの企業が大型連休に入ったということで、道路や交通機関は大変な混雑が報じられています。
高速道路などは、道路環境の整備や、様々な情報、利用者の選択などの影響もあってか、10年ほど前と比べると、多くの地点でずいぶん緩和されているように思われます。
それでも、いつもとは違う激しい渋滞や、新幹線などでも100%を遥かに超える乗車率になった列車が何本もあるようです。
季節の風景といえばそれまでですが、第三者の目では混雑の中大変だろうなと感じるのですが、気がつけば自分が当事者になっていることもあり、その時には、それほどの悲壮感など抱いていないのですから、不思議な気がします。

この期間に、海外に出掛ける人も多く、各地の空港も大混雑です。海外に向かう人々のほとんどは、練り上げた計画を抱いてのレジャーなのでしょうし、各地の著名なレジャー施設や観光地、あるいは宿泊施設も満員状態のようです。
折から、近隣国との摩擦もあって、地域によっては観光客の減少が現実化している地域もあると報じられていますが、日本列島全体としては、異常と報じられる猛暑など何のそのとばかりに、盛り上がっている人の姿が多く報じられています。
そうした中で、激しい混雑や渋滞の中を、故郷へ向かう家族連れの姿も多く見られます。大きな荷物を持ち、子供の手を引いて、故郷へ向かう人々の姿は、テレビを通じての姿であっても、ほのぼのとしていて、自然に顔が緩んできます。

『故郷へ、故郷へ』という家族連れの姿は、なおわが国に根付いている風景なのでしょうか。当然、家族連れではなく、ただ一人、故郷へ向かう人も少なくないことでしょう。
また、孫の元気な姿を見せたいとか、都会生活を頑張っているよと報告したい、といった前向きな目的で向かっている人が大勢いるのでしょうが、中には、それほど具体的な理由はないとしても、何とはなく疲れを感じていたり、心の奥に澱(オリ)のようなものを感じていたりして、この休み、親の顔でも見てみるか、久しぶりにお墓参りでもしてみるか、という人もいるかもしれません。

核家族化という現象が広がり始めてから久しく、現在のわが国では、どこが故郷だか分からないという人も少なくない、と何かの記事で読んだ記憶があります。
確かに、故郷といえる地をはっきり持っている人であっても、すでに実家が無くなり、親戚や親しい知人が少なくなるにつれて、その地に足が向かなくなるのは、ごく自然な事でしょう。
また、生まれ育った土地で生涯を過ごす人にとっては、『故郷』というものが少し違うものとして感じているかもしれませんし、例えば、東京のまんまん中で生まれ育った人が、縁あって、新幹線の駅からはさらに数時間を要するような土地で何十年間を過ごした場合、やはり、その地を故郷としての認識はあるのでしょうか。
かく申し上げる私自身が、自分の故郷というものに、極めてあやふやな認識しか抱けないのです。それでも、やはりこの季節は、漠然としたものですが、「故郷」に想いを走らせることがよくあるのです。
『故郷へ、故郷へ』・・・。そこに向かう動機は何であれ、故郷と認識している地があることは、心の重しになってくれるはずです。そして私のように、極めてあやふやな故郷しか持っていない人は、ぜひ、何かの時に思い描く地を『故郷』に定めるというのはいかがでしょうか。都市とでもいいし、神社仏閣でもいいし、何かの施設でもいいし、風景でもいいのではないでしょうか。
『故郷』は、私たちの揺れ動くことの多すぎる心の、ちょっとした重しになってくれるような気がするのです。

( 2019.08.13 )

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目には目を ・ 小さな小さな物語 ( 1225 )

2019-12-08 14:55:52 | 小さな小さな物語 第二十一部

隣国との対立関係は、解決の目途が見えないままむしろ激しさを増している感があります。
一方は報復措置だと言い、もう一方も報復措置だと言う。今回は、たまたま(?)同じような貿易手続きの変更がなされましたが、それでも、両国ともに、相手国の行動は報復措置だと言い、自国の行動は貿易管理上の正当な措置だと主張し合っているようです。
拳を振り上げ合ったところで、打ち合うわけにもいかず、睨みだけで相手を降参させようと思い合っているような気さえします。
他人の痛みは忘れることが出来ても、自分の痛みはなかなか忘れることが出来ないのは、聖人君子同士でもなければ、当たり前のことなのかもしれません。

『目には目を、歯には歯を』という、よく知られた言葉があります。
言葉の意味は、ごく一般的には、「同害報復」といわれるもので、「目をやられたら、目をやっつけろ」「歯をやられたら、歯をやっつけろ」つまり、「やられたら、やり返せ」というふうに使われることが多いようです。
隣国との対立は、その形に近い状態のように見えます。両国が、「やられたら、やり返せ」という決意を固めているとすれば、両国ともに自国が先にやられたと考えている状態ですから、双方ともに次はどこに仕返しをすべきかと作戦を練っている状態かもしれません。
そうだとすれば、次はどちらかが足を狙い、それに対して足に仕返しをし、それに対して次は腕を狙い、それに対して腕に仕返しをし・・・、最後は心臓を打ち合うところまで行くことになるのでしょうか。

『目には目を、歯には歯を』という言葉の出典は、ハムラビ(ハンムラビ)法典だそうです。
ハムラビ法典は、バビロン第一王朝の第六代の王ハムラビ(在位紀元前1700年前後)が、慣習法を成文化し発布した法典で、完全な形で残る最古の法典です。
この法典の中にこの言葉が示されているようですが、この言葉の解釈には、大きく分けて二つの解釈がなされているようです。
一つは、前記したように「やられたら、やり返せ」を容認しているという考え方です。
もう一つは、「同害報復」という手段は容認しながらも、報復に限度を設けているのだという考え方です。つまり、「目をやられたら、仕返しするのは目に限る」ということで、それ以上の報復を戒めているということになります。
研究者の中には、さらに進んで、「目をやられたら、自分の目だけで済ませなさい」つまり報復などもってのほかです、とする人もいるようですが、個人的には、少々考えすぎのような気がします。
この考え方には、聖書の影響を受けているような気もしますので、少し長くなりますが引用してみます。
聖書の中の「山上の説教(垂訓)」(マタイ伝)と呼ばれる部分に、「『心の貧しい人は幸いである。天の国はその人たちのものである』で始まる有名な教えが列記されていますが、その中に、『あなた方も聞いている通り「目には目を、歯には歯を」と命じられている。しかしわたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬も向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。 」という教えがあります。この部分は、報復行為を戒めていることは確かですが、『目には目を、歯には歯を』ということは、報復行為を容認している言葉だと、イエスは承知していたのだと私は理解しています。

少々くどくなりましたが、悲しいかな、私たちは憎しみの心を棄て去ることは、そうそう簡単な事ではないようです。憎まれることは不幸ですが、憎む方もやはり不幸です。しかも、私たち人間というのは、常に自分の方には言い分があると思う本能を備えているようなのです。第三者が見て、100%相手が正しいという場合でも、1%くらいはこちらにも言い分があるという心の底の声を払拭できない悲しい性を、私たちはどうすることもできないようです。
『目には目を、歯には歯を』という行為は、ハムラビ王の遥か昔からの人間関係の一つなのかもしれません。隣国同士が、仲が良くない例は、歴史上数えきれないほど見られる現象です。
わが国がこの地を離れることが出来ない以上、私たちは何とか知恵を生み出して、隣国に限りませんが、価値観の違う国家とも平等な友好関係を築いていかなくては、存在できなくなるのではないでしょうか。

( 2019.08.16 )

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ゆるぎない信念 ・ 小さな小さな物語 ( 1226 )

2019-12-08 14:54:37 | 小さな小さな物語 第二十一部

ちょっとした難儀に直面すると、固いはずの決心は容易に揺らいでしまい、我ながら自分の信念の弱さを感じたことは、これまでに二度や三度ではないように思います。
自分が人間として、最低限の人格を保つためには、この一線からは絶対に譲れない・・・、と固い決意を抱きながら、その一線が少しずつ後退し、「いやいや、大人の対応というものもあるはずだ」と心の中で歯ぎしりしながら、最後の一線をずたずたにして棄て去り、懸命に自分自身に言いわけし、その自分の姿を悲しく見つめている自分がいたように思い出されます。
『ゆるぎない信念』という言葉は、私にとってまぶしくもあり、一種のトラウマのようなものを誘発する力を持っているように感じています。

ところが、人生を長く生きていくうちに、たいして知恵や経験を積むことが出来なくても、少し考え方が変わってきたように思うことがあります。
『ゆるぎない信念』などという生き方(?)は、もしかすると、目くじらを立てるほどの事ではないような気がしてきているのです。
各界の指導的な立場と思われる人々の言動などを数多く見聞きするにつけ、『ゆるぎない信念』などというものは、観念上のものだけで、社会を泳ぎ抜くためには、浮き輪程度の役には立つとしても、すばやく前進するにはむしろ負担になるものなのかもしれないように感じるのです。

政党間に見られる論争は、政治的信念に基づくもので、主義主張が対立する部分があることに意味があるともいえますが、論争の結果得られるもとは多くないように思われます。
最近厳しさを増している隣国との対立を見ていると、『ゆるぎない信念』などというものは、身を守る武器であり、自由自在に姿を変える攻撃の武器であり、何よりも、自分自身の矛盾に苦しむ心を鎮める魔法の言葉なのかもしれない、と思ったりするのです。

『老子』は、その教えの中で、剛直であることを戒め、柔軟であることを良しとしています。『老子』の教えを、たとえその一端だとしても簡単に一行で説明することは、とんでもないことだとは思いますが、『ゆるぎない信念』そのものも、人の世を生きていくうちに、挫折のために後退し、能力の限界から縮小していく事実を知りながら剛直であり続けることは、正しくないのかもしれません。
主義主張に拘り続けると世間は狭くなり、スポーツであれ教育であれ過去の経験を押し付ける指導は、多くの不幸を生み出しています。どうやら、『ゆるぎない信念』も、そうした一面を持っているようで、自己に課するのはともかく、間違っても他人様に押し付けてはならないことは確かなようです。
『老子』まで持ち出してこのような考えを披露することじたい、自分の『ゆるぎない信念』が姿を消しかけている証拠なのかもしれません。

( 2019.08.19 )

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