『 皇后さま お誕生日 』
皇后雅子さまが お誕生日を迎えられ
ご感想が 公表されました
即位関連の多くの行事は
一般国民では 想像もつかないような重圧と 推察されます
そうした中で 実に印象深いお姿を 多くの国民に示され
令和という 新しい時代が始まろうとしている予感を 与えてくださった
皇室の弥栄を 祈念いたします
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梅の花 なににほふらん 見る人の
色をも香をも 忘れぬる世に
作者 大弐三位
( No.1446 巻第十六 雑歌上 )
うめのはな なににほふらん みるひとの
いろをもかをも わすれぬるよに
* 作者 大弐三位(ダイニノサンミ)は、平安王朝文化の全盛期を生きた宮廷女房であり歌人である。( 999頃? - 1082頃? )享年八十三歳位か。
* 歌意は、「 梅の花は なぜあのように 美しく咲きかぐわしい香りを漂わせているのか 見るお方が 色も香りも 棄て去った世界においでなのに 」といった意味であろう。
この和歌の前書き(詞書)には、「 上東門院、世にそむき給ひにける春、庭の紅梅を見侍りて 」とあることから、作者が仕えている上東門院( 一条天皇の中宮 彰子 )の出家を悲しんでのものであることが分かる。上東門院の出家は1026年のことなので、作者が二十七、八歳の頃の作と推定できる。
* 作者の本名は、藤原賢子(ケンシ/カタイコ)。父は山城守藤原宣孝、母は紫式部である。
1001年に父が死去。作者三歳の頃である。両親の結婚期間は3年程度であったとされているので、作者の成長期のほとんどは母である紫式部の手で育てられたように思われる。
* 母の紫式部となれば存在が大き過ぎるので深く触れることは避けたいが、娘である作者との関係する部分だけを引用したい。
紫式部の生年は諸説が多すぎるが、970~977年の頃というのが有力のようである。紫式部が上東門院に仕えたのは1006~7年の頃とされる。夫との死別後五年ばかりしてからであるが、その以前には、藤原道長の妻である倫子のもとに仕えていたらしく、その能力を評価されて彰子(上東門院)付の女房となったようである。彰子付の女房の期間は5~6年らしい。ただ、その期間に、「紫式部日記」が書かれ、「源氏物語」の少なくとも一部は完成していたらしい。
* 1017年、作者大弐三位は、母と入れ替わるかのように、上東門院のもとに仕えた。すでに一条天皇は崩御していたので、中宮彰子時代は経験していない。
出仕に関しては、おそらく母の影響があったと推定され、「源氏物語」が今日のような評価を受けていたとは考えにくいが、紫式部という名前はすでに誕生していた可能性があり、大弐三位の生涯にわたって影響を受け続けた可能性はある。
* しかし、女房としての実績、女性としての評判、和歌の実績などは、決して母紫式部に劣るものではなかったようである。
出仕後、藤原頼宗、藤原定頼、源朝任などの貴公子との交際が伝えられ、その後、関白藤原道兼の次男道隆と結婚し一女を儲けている。ただ、この結婚はやがて破綻する。
大弐三位の生涯に大きな転機をもたらしたのは、1025年、親仁親王(のちの後冷泉天皇)の誕生に伴い、その乳母に任じられたことである。
* 1037年には、東宮権大進(正四位下)高階成章と再婚し一男一女を儲けるなど、充実した日々であったようだ。三十九歳の頃である。
そして、1054年、後冷泉天皇の即位にともない、従三位に昇叙する。夫の成章も太宰大弐(従三位、後に正三位)に就任し、これにより「大弐三位」と呼ばれるようになる。
この時、すでに五十六歳位と思われるが、その後も長命を保ち、八十歳の頃に歌会に出席したという記録も残されている。
* 大弐三位の没年は不詳であるが、1082年頃で享年八十四歳位ではないかと推定されている。
母紫式部の存在が大き過ぎるように見えるが、その生涯は、母をも上回る評価を受けていたのではないかと推定される。
最後に、小倉百人一首に採録されている和歌をあげておきたい。
『 有馬山 ゐなの笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする 』
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