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長女の和美が結婚したのは二十四歳の時で、両親もまだ健在であった。
夫となった人は、父の同僚の紹介により知り合った人で、温厚な研究者であった。年齢は和美より六歳上で、父が出向していた大阪の大学の卒業生で、就職した後も時々学校に顔を出していた。
二人は和美の実家の近くに住居を構えた。和美の父の強い希望で、秋沢姓を名乗ることになった。いわゆる婿入りの形であるが、当時はまだ夫婦が別姓を名乗ることは法律的に認められていなかったからである。
和美には名乗る苗字などあまりこだわっていなかったが、父はまだ家という考えを強く持っていて、三人の娘のうちの一人には、それも出来れば長女の和美に秋沢姓を継いでもらいたいと考えていた。幸い、夫となる人には兄がおり、すでに実家を継いでいたこともあって、このことで大きな問題にはならなかった。
夫となった人は、大阪に本社にある医薬品会社に勤めていた。長い歴史を持つ会社であるがその規模は小さく、販売は大手の会社に委託しており、会社として独立してはいるが形態としては大手会社の製造子会社のような位置づけといえた。
ただ、売り上げ規模は小さいが、それなりのブランド力のある製品をいくつか持っていて、経営状態は悪くなかった。特に、夫となった人にとっては、小さな規模の研究部門であるがその仕事に没頭できる環境にあり悪い職場ではなかったようである。
和美は最初の子供の出産を機に勤めを辞め家庭に入った。子供は二人の男の子に恵まれ、穏やかな家庭生活が続いた。
夫は、いわゆるサラリーマンとしては上昇志向の少ない人で、研究部門の一線で働き続けた。上級幹部に就くことはなかったが、平穏な家庭を構築してくれた。いわゆる中流家庭の専業主婦として和美自身には何の不満もない日々であった。
その夫が亡くなったのは、二年前のことである。
夫は頑健なタイプではなく、むしろ見かけは蒲柳の質といってもよい感じの人で、事実風邪や胃腸の不調などを訴えることは少なくなかったが、結婚以来大病することはなく入院の経験も一度もなかった。
和美も健康面ではさしたる問題はなかったが、六十歳を過ぎた頃からは膝に痛みを感じるようになり、そのため運動や外出を控えるようになったことも影響してか、若干体重が増え、それがさらに膝や腰に負担をかけているらしく、そのことが気掛かりで将来の生活について漠然とした不安を感じるようになっていた。
そして、和美の描く将来設計の中には、当然のこととしてパートナーとしての夫の存在があったが、夫は急な発病から三か月ばかりの入院生活のあとこの世を去ってしまった。
夫は、六十五歳を過ぎてからは関連子会社の役員として遇されていたが、給料は本社時代よりは遥かに少なく、仕事も得手な分野のものではなかった。会社の慣例としては、あと二年在籍できることになっていたが、二年早く退職し、和美との次の生活を計画し始めていた矢先の発病であった。
一人残された和美は、さすがに落胆の日々を過ごした。
経済的な面では、夫の長い会社勤めのお陰で、第二年金からの遺族年金があり、退職金などを取り崩しながらではあるが不安はなかった。
二人の男の子もすでに独立していて、親としての責任は終えていた。
子供は二人とも東京の大学に進み、その時点で経済的にはともかく生活的には親離れしてしまっていた。
長男は夫に似たのか温和な性質で、子供の頃から弟や友達とも争うことはあまり好まなかった。その子が東京の大学へ行きたいと言いだしたのには、和美は驚きもし不安もあったが、夫は、これも珍しいほど積極的に賛成したのも意外であった。
長男は大学院まで進み、その後も大学に残り、現在は東京の私立大学の教壇に立っている。
次男は、長男とはかなり違う性格をしていた。積極的というよりは、幼い頃から物事に動じないようなところがあった。学校の成績は長男の方が断然上であったが、高校までは兄と同じ学校に進んだ。ただ、大学の選定については、早くから志望校を決めていて、学校の成績ではとても無理だと言われていた有名私立大学に合格した。
大学でも、単位が足るとか足らないとか言いながらも、再三海外を回ったり、半年ばかりは名前だけのような留学をしたりしていた。渡航費用などは親から支援もしたが学業より忙しいほどのアルバイトで大半を稼いでいた。
結局、大学卒業には六年かかったが、兄貴が大学院までいったのと同じだなどと涼しい顔で、卒業と同時にこれも信じられないような大手商社に入社した。その後も海外と日本と半分ずつで、現在は青い目をした嫁と二人で東京で生活しているが、いつまた外国に行くか分かったものではなかった。
和美は、夫の一周忌を終えた頃から自分の生活を真剣に考え始めた。
子供たちはそれぞれの生活を自立させているので、その面の心配はなかったし、同時に自分が子供たちの生活に波風を立てるようなことは絶対にしないつもりであった。これは、夫が健在な頃から二人で話し合ってきたことであるが、一人になってからさらにその思いが強くなってきていた。
しかし、同時に、足や腰の痛みは和らぐことはあっても完治するとも思えず、そうそういつまでも一人暮らしを出来るわけでもないことは確かであった。
幸い、経済的な面では、生涯世話を約束してくれるそこそこの高齢者施設に入居する程度の物はあった。
子供たちがそれぞれ就職してからは、少しずつではあるが蓄えが出来ていたし、夫の退職金と遺族年金、自分も第二年金を積み立ててきているので、それらで大体賄えるはずであった。
それと、和美は五十代の時に両親を亡くしていたが、その遺産もほとんど手つかずで残されていた。ほんの僅かは妹たちと三人が使えるようにしたが、ほとんどは和美が管理していた。別に和美が一人占めするつもりなどないが、妹たちの考えで、和美が一括管理することになったのである。妹たちの言い分は、自分たちが困った時はその三分の一の範囲で助けて欲しいが、その必要がない時は姉さんが自由にしてくれというものであった。
和美は、幾つかの資料を集めたり、実際に施設などを見に行ったりもした。「テスバウ共和国」もその中の一つであったが、特別に魅力を感じていたわけではなかった。
それと、実際に幾つかの高齢者施設を見てみると、考えさせられることも少なくなかった。確かに、安心は出来そうであるし、かなり高価ではあるが魅力的な施設の所もある。けれども、そのどれもが、何だか人生を卒業してしまったような気持がしてしまいそうな一面を持っていた。
一人暮らしが出来るぎりぎりまで頑張ってみよう、という気持ちに傾きつつあった。
そんな和美の気持ちに決断を与えたのは、長男夫婦が訪ねて来たことであった。
夫の病気や死去などで、子供たちと顔を合わすことが増えていたが、三回忌を迎える少し前に、長男夫婦が訪ねてきて、同居を勧めてくれたのである。同居というよりも、同じマンションに売却物件があるので、そちらへ移ってきてはどうかという申し出であった。
和美が高齢者施設に移ろうと決断した一番の理由は、このことにあった。いつの間にか、子供たちの生活に波風を立てようとしてしまっていることに愕然としたのである。
長女の和美が結婚したのは二十四歳の時で、両親もまだ健在であった。
夫となった人は、父の同僚の紹介により知り合った人で、温厚な研究者であった。年齢は和美より六歳上で、父が出向していた大阪の大学の卒業生で、就職した後も時々学校に顔を出していた。
二人は和美の実家の近くに住居を構えた。和美の父の強い希望で、秋沢姓を名乗ることになった。いわゆる婿入りの形であるが、当時はまだ夫婦が別姓を名乗ることは法律的に認められていなかったからである。
和美には名乗る苗字などあまりこだわっていなかったが、父はまだ家という考えを強く持っていて、三人の娘のうちの一人には、それも出来れば長女の和美に秋沢姓を継いでもらいたいと考えていた。幸い、夫となる人には兄がおり、すでに実家を継いでいたこともあって、このことで大きな問題にはならなかった。
夫となった人は、大阪に本社にある医薬品会社に勤めていた。長い歴史を持つ会社であるがその規模は小さく、販売は大手の会社に委託しており、会社として独立してはいるが形態としては大手会社の製造子会社のような位置づけといえた。
ただ、売り上げ規模は小さいが、それなりのブランド力のある製品をいくつか持っていて、経営状態は悪くなかった。特に、夫となった人にとっては、小さな規模の研究部門であるがその仕事に没頭できる環境にあり悪い職場ではなかったようである。
和美は最初の子供の出産を機に勤めを辞め家庭に入った。子供は二人の男の子に恵まれ、穏やかな家庭生活が続いた。
夫は、いわゆるサラリーマンとしては上昇志向の少ない人で、研究部門の一線で働き続けた。上級幹部に就くことはなかったが、平穏な家庭を構築してくれた。いわゆる中流家庭の専業主婦として和美自身には何の不満もない日々であった。
その夫が亡くなったのは、二年前のことである。
夫は頑健なタイプではなく、むしろ見かけは蒲柳の質といってもよい感じの人で、事実風邪や胃腸の不調などを訴えることは少なくなかったが、結婚以来大病することはなく入院の経験も一度もなかった。
和美も健康面ではさしたる問題はなかったが、六十歳を過ぎた頃からは膝に痛みを感じるようになり、そのため運動や外出を控えるようになったことも影響してか、若干体重が増え、それがさらに膝や腰に負担をかけているらしく、そのことが気掛かりで将来の生活について漠然とした不安を感じるようになっていた。
そして、和美の描く将来設計の中には、当然のこととしてパートナーとしての夫の存在があったが、夫は急な発病から三か月ばかりの入院生活のあとこの世を去ってしまった。
夫は、六十五歳を過ぎてからは関連子会社の役員として遇されていたが、給料は本社時代よりは遥かに少なく、仕事も得手な分野のものではなかった。会社の慣例としては、あと二年在籍できることになっていたが、二年早く退職し、和美との次の生活を計画し始めていた矢先の発病であった。
一人残された和美は、さすがに落胆の日々を過ごした。
経済的な面では、夫の長い会社勤めのお陰で、第二年金からの遺族年金があり、退職金などを取り崩しながらではあるが不安はなかった。
二人の男の子もすでに独立していて、親としての責任は終えていた。
子供は二人とも東京の大学に進み、その時点で経済的にはともかく生活的には親離れしてしまっていた。
長男は夫に似たのか温和な性質で、子供の頃から弟や友達とも争うことはあまり好まなかった。その子が東京の大学へ行きたいと言いだしたのには、和美は驚きもし不安もあったが、夫は、これも珍しいほど積極的に賛成したのも意外であった。
長男は大学院まで進み、その後も大学に残り、現在は東京の私立大学の教壇に立っている。
次男は、長男とはかなり違う性格をしていた。積極的というよりは、幼い頃から物事に動じないようなところがあった。学校の成績は長男の方が断然上であったが、高校までは兄と同じ学校に進んだ。ただ、大学の選定については、早くから志望校を決めていて、学校の成績ではとても無理だと言われていた有名私立大学に合格した。
大学でも、単位が足るとか足らないとか言いながらも、再三海外を回ったり、半年ばかりは名前だけのような留学をしたりしていた。渡航費用などは親から支援もしたが学業より忙しいほどのアルバイトで大半を稼いでいた。
結局、大学卒業には六年かかったが、兄貴が大学院までいったのと同じだなどと涼しい顔で、卒業と同時にこれも信じられないような大手商社に入社した。その後も海外と日本と半分ずつで、現在は青い目をした嫁と二人で東京で生活しているが、いつまた外国に行くか分かったものではなかった。
和美は、夫の一周忌を終えた頃から自分の生活を真剣に考え始めた。
子供たちはそれぞれの生活を自立させているので、その面の心配はなかったし、同時に自分が子供たちの生活に波風を立てるようなことは絶対にしないつもりであった。これは、夫が健在な頃から二人で話し合ってきたことであるが、一人になってからさらにその思いが強くなってきていた。
しかし、同時に、足や腰の痛みは和らぐことはあっても完治するとも思えず、そうそういつまでも一人暮らしを出来るわけでもないことは確かであった。
幸い、経済的な面では、生涯世話を約束してくれるそこそこの高齢者施設に入居する程度の物はあった。
子供たちがそれぞれ就職してからは、少しずつではあるが蓄えが出来ていたし、夫の退職金と遺族年金、自分も第二年金を積み立ててきているので、それらで大体賄えるはずであった。
それと、和美は五十代の時に両親を亡くしていたが、その遺産もほとんど手つかずで残されていた。ほんの僅かは妹たちと三人が使えるようにしたが、ほとんどは和美が管理していた。別に和美が一人占めするつもりなどないが、妹たちの考えで、和美が一括管理することになったのである。妹たちの言い分は、自分たちが困った時はその三分の一の範囲で助けて欲しいが、その必要がない時は姉さんが自由にしてくれというものであった。
和美は、幾つかの資料を集めたり、実際に施設などを見に行ったりもした。「テスバウ共和国」もその中の一つであったが、特別に魅力を感じていたわけではなかった。
それと、実際に幾つかの高齢者施設を見てみると、考えさせられることも少なくなかった。確かに、安心は出来そうであるし、かなり高価ではあるが魅力的な施設の所もある。けれども、そのどれもが、何だか人生を卒業してしまったような気持がしてしまいそうな一面を持っていた。
一人暮らしが出来るぎりぎりまで頑張ってみよう、という気持ちに傾きつつあった。
そんな和美の気持ちに決断を与えたのは、長男夫婦が訪ねて来たことであった。
夫の病気や死去などで、子供たちと顔を合わすことが増えていたが、三回忌を迎える少し前に、長男夫婦が訪ねてきて、同居を勧めてくれたのである。同居というよりも、同じマンションに売却物件があるので、そちらへ移ってきてはどうかという申し出であった。
和美が高齢者施設に移ろうと決断した一番の理由は、このことにあった。いつの間にか、子供たちの生活に波風を立てようとしてしまっていることに愕然としたのである。