緑陰茶話   - みどりさんのシニアライフ -

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HSPについて

2019年04月24日 | 健康
今回はちょっと難しいテーマです。
興味を持たれない方はスルーしてください。
HSPについてです。英語の Highly Sensitive Person の頭文字をとっています。

最近、日頃読んでいる二つのブログでHSPについて書かれていました。
一つは紫苑さんのブログ⇒ここ
もう一つは鬼蜘蛛おばさんこと松田まゆみさんのブログです。⇒ここ

それで興味を持ってHSPや、その関連領域について調べてみました。
HSPとは、生まれつき刺激に弱く、周囲の刺激を過度に受け取ってしまう人のことです。
HSPは気質であって病気ではないのですが、感受性の強さゆえに疲れやすく、病気になりやすい人達のようです。
人口の15~20%がHSPとのことですから、少数者ではあっても決して珍しいタイプではないようです。
このHSPの提唱者はエレイン・アーロン博士で、アメリカ在住の心理学者で心理療法家でもある女性です。

自分がHSPかどうか、テストできるサイトも幾つかありました。⇒ここここ
私も一つだけでなく幾つかのサイトで試してみましたが、結果はどこもしっかりHSPと出ました(笑)。

私はもう60代半ばですので、自覚はしていなかったとは言えHSPである自分自身への対処の仕方も、自分の特性として心得てしまっています。(誰にでも学習能力というものがあるのです!)
さらにリタイア後である為、生き辛いという程の大きな困難もありません。
最近では、老化による感覚の鈍麻も自分を楽にしているようです。
というわけで今回、色々と過去を思い出しつつHSPについて知ったこと、考えたことを書いてみます。

実は私、自分が何らかの発達障害ではないかと、ずっと思っていました。
というのも、音に対する感受性が普通の人とまったく違うからです。
発達障害の人とその点とても似ているのです。
実際、それ以外にも、HSPと発達障害は似ているらしいのですが、似ているのは表面だけで、機制というか、仕組みは違うもののようです。

たとえば「カクテルパーティー効果」という現象があります。
カクテルパーティーのような騒がしい場でも、人が個別の会話を楽しむことができるのは、人の脳が自分の興味のある声や音のみ選択して聞くことが出来るからで、そのような選択的聴取をカクテルパーティー効果と言うのです。
ところが私の場合「カクテルパーティー効果」が弱く、騒がしい場で会話しようとしても相手の声を聴き分けることがとても困難なのです。

Wikipediaで「カクテルパーティー効果」について調べると、ここで書いたようなことが記されていますが、カクテルパーティー効果を持たない人として発達障害の人が挙げられています。⇒ここ

ただ、私の場合、逆のことも言えるのです。
大半の人に聞こえない物音が聞こえるのです。
例えば、床下の排水管の継手から極微量の水道水が漏れている音とか、電化製品にスイッチを入れる度に家の中の漏電部分が小さくパシッとショートする音などです。

このような音は、私が指摘して初めて私以外の人も気づきます。
私自身はもちろん、誰にも最初は何の音であるか分からず、あちこち調べて漏水や漏電が分かります。
当然、直すと音もしなくなります。
この例では役に立っているけれど、かつては朝早くからの家の中での家族の話し声など、ドアを閉めた自分の部屋で寝ていても自分の枕元で話されているのと同じで、睡眠不足になって随分困ったものでした。

たぶん私の場合、私自身の興味の有無や好き嫌いに関係なく、周囲のすべての音が元々の音量に比例して比較的平等に聞こえるらしいのです。それが私にカクテルパーティー効果が弱い理由のようです。
これは実は、本人にとっては、とてもしんどいことなのです。
大半の人が、自分が興味のない音や聞きたくない音を遮断できるのに、私はそうではないからです。
これには、いわゆる“聴力”は関係なく、あくまで脳の認知力に関係することです。

たとえば、正常性バイアスという言葉を聞いたことがある人もいると思います。
正常性バイアスとは、これもWikipediaから引用すると「自分にとって都合の悪い情報を無視したり、過小評価したりしてしまう人の特性のこと。」とされています。⇒ここ
問題はその理由で「人間の心は、予期せぬ出来事に対して、ある程度「鈍感」にできている。日々の生活の中で生じる予期せぬ変化や新しい事象に、心が過剰に反応して疲弊しないために必要なはたらきで、ある程度の限界までは、正常の範囲として処理する心のメカニズムが備わっていると考えられる」というわけなのです。

逆に考えると、正常性バイアスがあまり効かない人は「心が過剰に反応して疲弊」することになります。
それはHSPの人の特徴そのものです。
動揺し、緊張し、その結果、疲れ果てます。

HSPでは、私の場合のように音ではなく、匂い、光、触覚、味、痛みというものに過敏である人もいるそうです。
私も音だけでなく味や触覚、光にも多少は過敏であるように思います。
こうしたHSPの特性から、HSPが慢性疲労症候群、線維筋痛症、化学物質過敏症といった難病と関係があるのではないかとも言われています。

ではなぜ敏感すぎてストレス耐性に弱い、難病とまでは行かないにしろ心身の病気になりやすいHSPが一定割合いるのかということも仮説があるようです。
そもそもは種としての生物の生存戦略の一つとして存在しているらしいのです(HSPの存在は人だけではないとか)。

私は先に、家族の誰も気がつかなかった漏水や漏電の音に気がついたことを書きました。
敏感な個体は異変に真っ先に気が付き、警告を発することができるのです。
一つの共同体の中の5人に1人が気が付けば、共同体そのものを救うこともあったでしょう。
日本のように同調圧力の強い社会では、HSPの人達は沈黙を強いられてしまうでしょうけど、通常ならば20%という割合は、種の生存戦略として絶妙な割合なのかもしれません。
近代以前ならば、現代のHSPの人達をしばしば打ちのめす人工的に合成された音も匂いも光もなかった筈で、HSPはむしろ強い人達だったかもしれません。

HSPについて、もう少し詳しく見てみますと、全般的に言われているHSPの特徴として、あるサイトには次のように整理されています。

①深く処理する

②過剰に刺激を受けやすい(過度な興奮)

③感情反応が強く、共感力が高い

④些細な刺激に対する感受性


①の、深く処理するとは、洞察する、深く考えるということです。
もっとも①の特徴のおかげで、私は敏感どころか鈍い人、とろい人と思われてきました(特に子供の頃)。
というのも、ちょっとした会話をするにも返答に時間がかかるからです。
時間がかかる理由は、HSPの場合、相手の言葉だけでなく態度や表情、さらには周囲の些細な状況など、非HSPの人に比べてはるかに多くの情報を無意識に受け取っていて、その情報の処理に時間がかかるからみたいなのです。

そして①から④の特徴のおかげで、HSPの人は生き辛いと言われているらしいのです。
確かにそれはその通りです。
ただHSPである人も学習します。
成長すると、自分が疲れると分かっている場面を意識的に避けるようになるのです。

私の場合、具体的には、一緒にいる人の声が聞こえないほど騒がしい場所には行かない。
イタリアンのお店に入ってもペペロンチーノは注文しない。(唐辛子が入っているから)
残酷なシーンのある映画や大きな音が予想される音楽は観ないし聴かない。
疲れやすいので何事も無理はしない。定期的に休息する。等々…。

もちろん、避けようのないまま、突然のように圧倒されることもあります。
以前、カナダのテレビドラマを観ていて、その中でカナダの先住民の少女が歌う、部族の弔いの歌を聴いて、号泣してしまい、聴いていられなくなってテレビのスイッチを消したことがありました。
別にうるさかったのではなく、言葉の意味が分からないまま、歌に情動的に反応してしまったのです。

突然で避けられなかったことはともかく、私は、若い頃は、どうでもいいことでゴチャゴチャ言う面倒くさい人と言われてきましたので、30代に入った頃から自分の思いや感じたことを滅多に口にしなくなりました。
成功しているかどうかは分かりませんが、表情もできるだけ平静を装うよう努めました。
HSPの人は芸術や自然に深く感動することが多いのですが、うっかりそれを口にすると、からかわれたり、馬鹿にされたりで、ひどく傷ついたことが過去にはあったのです。

ただ、自分が気づいて、これだけは言わねばと思うことは、よく調べた上で黙っていませんでした。
なぜかHSPの人の特徴として、正義感や倫理観の強さ、誠実さというのも挙げられていますので、それだったのかもしれません。

共感力が高いので、他者の気持ちや立場に寄り添えるとも言われていますが、実際に他者に関与するのはなかなか難しいものです。
正直、何かに気が付いても自分がしゃしゃり出ることはせず、その人の身近な人に任せるようにしています(相手の気持ちやら何やら、ゴチャゴチャ考えるのもHSPの特徴だそうです)。
余程の場合を除いて、私が相手に寄り添って行動を起こすのは動植物だけです。

動植物、とりわけ植物は共感的に寄り添うと良い結果を残します。
たとえば私は植物をほとんど枯らしません。
私より10倍も20倍も世話をしていながら、植物を枯らしてしまう人がたくさんいます。
話を聞いてみると、相手(植物)の状態に気づかないまま、ほとんどルーティンワークのように水やら肥料やらを与えているのです。

長い間、私は、そういう人がなぜ植物の欲していることを知ろうとしないまま、前のめりに「世話」をするのか分からなかったのですが、HSPについて知って初めて分かったように思いました。
非HSPにとっては、植物にたくさんの愛情はあっても、植物の状態を直観的に理解して、その上で適切なケアすることが困難なようです。
寄り添うとは、そういうことを意味するらしいのです。

当然というか、少なくとも私の場合、HSPだから特にやさしい人というわけではないのです。
HSPの共感力は性格ではなく本人も意図しない特性だからです。
むしろ人の痛みに気が付いていながら行動を起こさず、そのために罪悪感にさいなまれることの方が多いのです。
敏感すぎるがゆえに打たれ弱く、争いや葛藤は避けようとするのです。

20代の半ばくらいまで、HSPのそうした特性は私にとってもしんどいものでしたし、今現在の若いHSPの人達も苦しい思いをしているようです。
青春の持つ苦しさみたいなもんだと私は思っていました。
ですが今では、HSPの存在が知られるようになって、HSP独自の葛藤や困難の回避方法、有効な活かし方、どういう仕事が向いているかまで、情報として世の中に出ているようです。
ハウツー本だけでなく、HSPやその関連の研究も、特にヨーロッパを中心に盛んに為されているらしいです。

私も、若い頃にHSPについて知っていたら、まったく違った人生を送っていたのではないかと思います。
HSPについては、今まで発達障害と間違われて診断されたりもしてきたようですが、人数が多いということもあり、今後は発達障害と並んで重要な概念になるのではないかと思います。

最後に、私にHSPの存在を教えて下さった紫苑さんと鬼蜘蛛おばさんこと松田まゆみさんに感謝申し上げます。



背割桜と松花堂庭園、正法寺

2019年04月11日 | 写真
吉野の桜が空振りだった翌々日、去年も行った背割堤に写真教室の仲間と行きました。⇒去年の記事はここ

当初、背割堤は去年の台風の被害が大きいとのことで、行く予定ではなかったのです。
ところが、同じ八幡市の松花堂庭園でつばき展が開催されており、また松花堂の近くの正法寺というお寺でも庭園が特別公開されているということで行くことになったのです。

やはり背割堤の桜の被害は酷かったです。
生々しく伐られた切り株です。

残っている桜も傷んだ枝を伐採したためにスカスカ。




一本一本、台風で傷んだ枝を伐採し、手当したみたいですが、寂しい眺めとなっています。

それでも名高い背割桜のこと。人出は多かったです。
去年は見なかった結婚式の前撮りのカップルを何組も見ました。






この日は冷たい風が吹いていて、花嫁さん達は寒かったと思います。
背割堤は二つの大きな河の真ん中にある堤だから、いつも風が抜ける場所なのです。
去年の台風では、どれほど強い風が吹いたことか・・。

仲間とお弁当を食べた後、背割堤を後にして、八幡市の駅からタクシーで松花堂庭園に行きました。

松花堂というのは、石清水八幡宮の社僧だった松花堂昭乗という人の草庵の名前であるとのことです。
もともと石清水八幡宮のある男山にあったものを明治期の神仏分離政策の流れで今の場所に移築されたそうです。

松花堂昭乗は江戸時代初期を代表する文化人の一人で、茶の湯・書・絵画を能くしたとのことです。
松花堂については、気になる松花堂弁当との関連も含め、詳しいことはここを見て下さい。

私達の目的は松花堂庭園で催されていた「つばき展」でした。
松花堂庭園は22000㎡あり、40種を越える竹や300本を越える椿、それ以外にも桜や梅、馬酔木などの木が植えられています。

つばき展の為に、椿を使った様々に工夫した拵えものがありました。
ただ申し訳ないのですが、私にはそういうものより、普通の庭園の景色の方が良くみえました。

































この日の最後の目的地、正法寺の特別公開は午後3時で終了ということで、とても間に合いそうになく諦めていました。
ところが、寺の外からの景色も良いとかで、歩いて行くことになりました。

そこでは桜と寺のコラボを楽しむことができました。
正法寺です。











正法寺からはバスも来ず、タクシーも拾えず、駅まで歩いて帰りました。
疲れていたせいか、駅前で入った店の名物、走井餅と桜餅のセットがとても美味しく感じられました。
写真仲間と「2万歩は歩いた」と言い合って帰った一日でした。


花は吉野というけれど・・・。

2019年04月09日 | お出かけ
今年は桜の季節に桜の記事を今まで書かなかったのですが、満を持して(笑)upしてみます。
4月3日にバスツアーで吉野に行きました。
一目千本とやらを私も見たかったし、あわよくばカッコイイ写真も撮りたかった・・・。
でも桜なんて殆ど咲いていなかった。
寒波のおかげです。

ツアー会社の人は気を遣って、吉野だけの予定だったのを急遽郡山城跡も組み込んでくれました。
郡山城跡の桜はなんとか咲いていました。






桜とお城はちょっとベタな取り合わせなんですけど。

郡山城の中には柳澤神社がありました。
柳澤というのは五代将軍徳川綱吉の寵愛が深かった柳澤吉保の柳澤で、郡山城は息子の吉里が城主でした。
私も唐突に郡山城跡に行って、色々思い出したのですが、後で調べてみると、1975年のNHKの大河ドラマ「元禄太平記」で、石坂浩二が吉保役になっていました。
吉保の側室染子を演じたのは若尾文子です。
染子が産んだ子が吉里で、当時は私も大河ドラマを観ていたのでした。

行った日はお城のお祭りで、屋台も出ていました。
お城に行く人達、近鉄の踏切を渡って行きます。


それで吉野なんですが、桜は駐車場でしか咲いていないと。
これです。
真下から撮った枝垂桜です。

一目千本はこれ。
1週間、早過ぎました。
でも去年は4月3日でもう遅かったのだそうです。
今年はちょっと寒い日が続きましたので。

吉野を歩いていると、熊のように大きな犬3匹を連れた人と行き会いました。
人だかりがしていました。

モコモコで、冬はいいけど、夏は暑いでしょうね。

というわけで、桜を求める私の旅は続きます。


はてなの茶碗を買ったみたい・・・

2019年04月06日 | 茶道
2週間に一度の茶道のお稽古、続けています。
ただ2週間に一度なので、習ったことは次回までには忘れます。^^;

というわけで家でもお稽古をするのですが、色々とそれらしい道具があった方がいいわけで、中古で茶碗など買いました。
一番欲しかったのは水指で、鍋を代わりにしてお稽古しても今一つ感じがでないのです。

それで、ネットで中古のお茶道具のセールをやっていたので、水指と、どうせ送料を払わなくてはならないのだからと建水と茶碗を買いました。

問題は京焼の楽茶碗。

使い始める前に洗っておこうと思い、洗い桶につけると微細な泡がプクプクプクプクと・・・。

『これは』と思い、引き上げるとビジビジビジビジと音を立てる。
ひびでもあるのではと調べても、目に見えるようなひびはなく・・・・・。
一度お茶を点ててみました。

お茶を点ててお茶碗を置くと置いた所に細かく汗をかくような状態なのですが、漏れるというほどではない。
漏れる前に早く飲まないといけない茶碗なのかもしれません(笑)

どうもよく分からない「はてなの茶碗」※を買ってしまったようなのです。
セール商品なので返品もできない。

肝心の水指はこれです。

これで水指の蓋を開ける所作などサマになるかもです。

※「はてなの茶碗」についてお分りにならない方はこちらを参照してください。⇒ここ

                                      


庭の茶花の植栽ですが、桃色ミヤマオダマキの花が咲きました。

シャガも咲いています。



上から見たとこ。

春蘭も満開です。

侘助も今が盛りです。





才気煥発な人

2019年04月02日 | 話題
4月から、健康と医療について学ぶ教室に一年間、通う予定です。

ところが入学式の案内を見て考えてしまいました。
入学式で記念の講演を行う大学の先生が、若い頃何度か講演を聞いて良い印象を持てなかった人なのでした。
入学式自体、出ても出なくてもよいのですが、今回は講演が始まる前に帰ることにしました。

私にはどうも受け入れ難いタイプなのですが、エッセイでも、講演でも、対談や座談会での発言でも、人の言葉尻を巧みに捉え、悪い意味での「常識」をバックにして、特定の人に対し、面白おかしくレッテル貼りして、聴衆や読み手の受けを狙う、そういうタイプの著名人がいるのです。

そんな人、本当にいるのかと思われそうですが、よくいますし、人気もあります。
口が上手いというか、レトリックが上手くて、嫌味にとられないのだと思います。

たとえば、まだ20代の頃、伊丹十三の「女たちよ!」というエッセイを読んだことがあります。
その中に、彼の学生時代の野球部員のことが書かれていて、たいした根拠もなく「頭が悪い」と断じていました。
とても上手く書いてあったので、たいていの人にとっては面白いエッセイなんだと思います。
(伊丹十三はエッセイの名手だと言われています。)
実際に、野球の強い高校は頭が悪い生徒が行く高校だという俗説もあって、そういう「常識」という名の予断と偏見に則っての記述だったと思います。

実は、それについては、何を隠そう私は当事者で被害者だったのです。
というのも、私の出身高校は近辺では有名な進学校ですが、私が20代の頃、たまたま2年続けて甲子園に出場し、そこそこ良い成績を残したのです。
当時、就職の面接を受けに行って、面接官は私の履歴書を見て、高校がその出場校だと気が付くと「野球の強い高校は馬鹿が行く高校だと相場は決まっているもんだ」と私に言ったものでした。
私は自分が賢いとは思わないですが、そんなふうに言われて面白い筈もありません。
もちろん、就職は不採用でした。

どんな偏見であれ偏見というものは広めてほしくはないのです。
というのも、どんな人でも何らかの当事者であったり、一般には知られていないことについて、とても詳しかったりすることがあるからです。
そうでなくったって、書かれていることが明らかに差別的な言辞と理解できることもあります。

取り上げている事柄が自分がよく知っていることだと、その論者の底の浅さや愚劣さが嫌でも目についてしまうのです。
そういうタイプの人は例外なくとても賢い、いわゆる才気煥発な人でもあって、話が面白いので人気もそこそこあるのです。
伊丹十三などはまだ可愛いのかもしれません。私が込められている悪意のレベルが本当に酷いなと思ったのは作家の橋本治でした。
(私って、とんでもない文章を、いつもたまたま読んでしまう人なのかもしれませんが・・・。)

今回の講演者の場合、文章ではなく、対談や座談会でそういうことをやってしまっていた人です。
私が見聞きしたのは20年以上前の話ですから、齢をとって、そういう態度はもう改まったかもしれません。
相手を馬鹿にしながら聴衆を笑いの渦に巻き込むその手腕は、ある意味物凄い才能だったと思いますし、結果、人寄せパンダよろしく、あちこちで引く手あまただったのも頷けます。
私も彼女の言い方に思わず吹き出してしまったことがありますし、その時、笑いの対象とされた人の驚いたような、傷ついた表情もまだ覚えています。

今、考えてみると、その種の才気煥発な人が馬鹿にするのは、自分が理解できない事や下らないに違いないと思っている事に一所懸命になっている人だったと思い当たります。
自分が理解できないことに一所懸命な人なんて、誰にでもいます。
それが受け入れられないだけでなく、そういう人を受け狙いに利用してしまうところが頭の良い人達の悲しい性だったんだなぁと今では思うばかりです。