緑陰茶話   - みどりさんのシニアライフ -

エッセイとフォト

日々の発見と思いのあれこれなど

柿の葉茶の思い出

2016年11月25日 | 庭の植物
関東は雪が降ったらしいです。
関西も少し寒くなって、風が吹きました。
すると柿の落ち葉が庭に溜まり始めます。


この状態はまだ序の口。どんどん、どんどん柿の葉が降ってくるのです。
柿の木に一枚の葉もなくなるまで落ちてくるのです。
柿の木の下は、まるで柿の葉の絨毯のようになります。

掃除しても、また落ちてくるから、全部落ちてから掃除することなんか考えたら大変。
降り積もった大量の落ち葉が、風で家の周囲をグルグル回り始めるのです。
(一応、塀があるので、家の外に出ることはありません。)
掃除がもっと大変になります。

柿の落ち葉はそれなりに綺麗な色です。


それだけ沢山柿の葉があるのなら、柿の葉茶でも作ったら良さそうなんだけど。
何を隠そう、私はお茶は普通のお茶に限るという考えの持ち主なんです。

もちろん、色々試してはみたのです。
ハーブティーとか。フレーバーティーとか。
その結果、分かったことは、お茶は、日本茶にしろ、紅茶にしろ、変な香りなどつけないで、茶の木の葉だけで作ったお茶が一番美味しいということでした。
多種多様なお茶が好きな人は勝手にどうぞって感じです。


ところで、柿の葉茶には思い出すと心苦しくなる思い出があります。

ずっと昔、母の知人が、我が家で毎年柿の実を採る話を聞いて「ついでにその時柿の葉も採ってほしい。柿の葉茶を作るから」と母に頼んだらしいのです。
その話を母が私に伝え、その人にあげる柿の葉をとっておいてほしいと言われました。

私は『ええーっ!』って思いました。
だって、柿の実を採る頃の柿の葉なんて、色づいてこそいないのですが散る寸前なんですから。
寸前は大げさかもしれないけれど、2週間後には紅葉して散り始めます。
ボロボロのゴワゴワ、パリパリで、ほこりだらけ、おまけに虫やらなんやら得体の知れないものが付いている、とっても汚ーい葉っぱなんです。
それ、お茶にするのって感じで・・・。

私はその事を母に言いました。すると母は「何でもいいから取っておいて」と言いました。
実際に採り始めたのですが、やはりとてもお茶にできる代物ではありませんでした。
その事を母に言って、母もようやく納得しました。


そんなことがあって数年後、私はある自然観察会のスタッフになりました。
その会のオプションで、あるお宅の柿の実を採って干し柿を作る催しをやることになりました。(私の家ではありません。)

あれこれオプションの為の打ち合わせをしていると、スタッフの一人が「一緒に柿の葉も採って、柿の葉茶も作りましょう」と言ったのです。

その瞬間、私は吹き出してしまったのです。
我が家での一件を思い出し、瞬間的に『お前もかー』って感じになったからです。

その場は気まずいような、微妙な雰囲気になりました。
私も笑いはすぐに収めました。
誰かがとりなすように「面白そうだからやってみよう」と言いました。

柿の葉茶を作ろうと言い出した人は良い気分ではなかったと思います。
なにしろ笑われたのですから。

で、実際にオプションの会では、柿の葉茶は作ったのかというと作ったのです。
微妙なお味だったらしく(私は飲まない)、誰も何も言いませんでした。

そういうわけで、柿の葉茶というと、私は吹き出してしまったその瞬間を思い出して、なんとも言いようのない気持ちになるのです。
私も吹き出さないで、冷静に、一夏過ごした、散る寸前の柿の葉だから、お茶にするには適さないとでも言えばよかったのですが。

ちなみに柿の葉茶は、6月7月頃までの葉を使えば、ちゃんとしたお茶ができるみたいです。
大変、滋養があるお茶だそうです。


柿ジャム作り

2016年11月21日 | 庭の植物
同居人の兄が体調を崩し、入院してしまいました。

そういうわけで、今年は庭の柿の実取りは私がやりました。
通販でおなじみの高枝切り鋏を使って取るのですが、関節症やら腱鞘炎やら手が不自由な私には大仕事でした。

腕や手に負担がかからないよう、日を開けて3回に分けて取りました。

全部合わせると、このザル4杯分くらいです。

我が家の柿は、一つの実に甘と渋がまじっているのもあるという厄介な柿です。
だからまとめて焼酎で渋抜きしてしまいます。
もちろん、私一人で食べられません。
大半は人にあげました。

それでも相当に残りました。
毎日2個は食べます。今もあります。糖分摂りすぎだと自分でも思います。

そこで柿ジャムを作りました。
作り方はネットで調べて適当です。
ちょっと難しいと思ったのは、渋抜きをした柿でジャムを作ると、加熱によって渋が戻る場合があるということ。
それも柿の品種次第なんだそうです。
我が家の柿がどうなるか、分からないので、少しだけ電子レンジで加熱して試してみました。

結果、ドロドロになって超甘ーいということが分かりました。
腐敗防止のために多少は砂糖を入れた方が良いみたいなのですが、これは砂糖を入れたら甘すぎです!
まったく入れないのも早く傷みそうなので砂糖控えめで作りました。
超甘いのは分かりましたのでレモン汁を絞り込みました。

出来上がったジャムは大きめのビンに詰めました。


早い目に食べないといけないので、この後、小さめのビンに半分ほど入れ替えて、元のビンのものは冷凍庫に入れました。
しばらくは柿ジャムが続きそうです。



ピロリ菌、最新の知見?

2016年11月17日 | 健康
昨日、定期検診で胃の内視鏡検査を受けました。
終わってから検査した若い医師が私に「耳鼻科か何かで長期間抗生物質を飲んだことがありますか?」と聞きました。
耳鼻科ではありませんが、交通事故で怪我をして化膿予防の為に1ヵ月ほど抗生物質を飲んだことがあり、その事を話しました。

その後、検査した医師ではない年配の医師が検査の詳しい結果説明をしてくれました。
私の胃は萎縮性胃炎であり、かつてピロリ菌に感染した形跡があるが今はいないこと。
何らかの理由で抗生物質を飲み、それでピロリ菌が排菌されることがあること。
ピロリ菌に感染しない限り胃がんになることはないが、私の場合、ピロリ菌はいないが胃がんのリスクがあり、1年に一度の検査を続けてほしいこと。

私はほぼ毎年胃の検査を受けており、自分が萎縮性胃炎だということも知っていました。
ただ、今回初めて、ピロリ菌がいない理由が、どうやら怪我の治療のための抗生物質にあったことを知ったのでした。

というのも、ずっと以前に勤めていた会社の検診でこんなことがあったのです。
30代の頃から、私が検診で毎年引っ掛かるのは、普通の生活が可能なレベルの血小板減少症なのです。
その度に今は寛解していて治療の必要がないことを言わねばならないのですが、ある年の検査の医師が私に「ピロリ菌の存在が血小板減少症の原因になっていることがある。一度ピロリ菌の検査をして、いるようなら除菌すればどうか」といったのです。

で、紹介状も書いてもらい、それを持って血液内科の主治医に見せました。
すると主治医が言うには、「あなたの血小板減少症はピロリ菌とは関係がない。膠原病からきているものだ。だが一度試してみるか」と。

というわけで今度は消化器内科に回され、内視鏡検査を受けて、医師が言うにはピロリ菌の一番いそうな場所の組織をとってピロリ菌の有無を検査しました。
結果は陰性、つまりいなかったのです。
ですが、消化器内科の医師は頑張りました。「あなたの胃には絶対にピロリ菌がいる。内視鏡検査も絶対ではない。別の検査を受けてくれ」と。

ピロリ菌の有無を調べる検査は幾つかあるのですが、たぶん内視鏡で組織を取る検査は精度としては高い筈です。
他の検査はもっと簡単で、もっと安価なのです。

私は考えました。血小板減少症は安定しています。つまり、どうしても治さなければならないものではない。
しかも血液内科の主治医は私の血小板減少症はピロリ菌とは関係ないと言っている。
一番苦しくて高い検査でいないとされたピロリ菌を、何がなんでも探さねばならないのか・・・。

で、その時点でピロリ菌の探索はやめました。それが正解だったのです。
当時の私の胃は慢性胃炎の状態でした。
ピロリ菌がいなければ慢性胃炎にはならないのです。だから消化器内科の医師が「絶対にピロリ菌がいる」と頑張ったのも間違いではないのです。
でもいなかった。そういうケースがあるということです。それが今年受けた病院の医師の指摘したことです。

私の胃はその後、痛み止め等による薬剤性の胃炎で荒れるようなこともあり、早くに萎縮性胃炎に進展しました。
慢性胃炎は齢と共に萎縮性胃炎になり、胃がんのハイリスクと言われているのです。

その後も毎年、胃の検査を受け続けて、冒頭の病院とは別の胃腸科の病院ですが「ピロリ菌で萎縮性胃炎になっています」と言われ続けました。
その度「以前受けた検査でいなかったのですが」と言っても「それは萎縮性胃炎でピロリ菌も住めない胃になったからですよ」と言われていました。
でも、検査を受けた時点では慢性胃炎の状態で、ピロリ菌は十分に生息可能なはずなのにと内心思っていたのです。
ですが昨日、ようやく謎が解けました。

で、最後に重要なことを一つ、ピロリ菌に感染しない限り胃がんにはならないということ。
そして、日本人の場合はどのように感染するのかですが、5、6歳までの家庭内感染が大半だということ。

私の家では母が噛んだ食べ物を幼児であった私に与えるようなことをしていたそうです。
そういうことも、子供が可愛いからする口チューも、単に虫歯菌がうつるだけでなく、ピロリ菌もうつるのです。
それが胃がんだけでなく、私の場合は違う病気ですが、突発性血小板減少性紫斑病(ITP)のような難病も引き起こすわけです。

大人になってからの感染は一過性だそうです。
どうやら口チューは、大人同士だけにしておく方がよさそうです。


</font>

介護はチームワーク、介護は生前供養(6)

2016年11月06日 | 思い出
前回は母に不名誉なことを書いてしまったので今回は名誉なことを書きます。

私の母の場合、とても前向きで負けず嫌い、それが少々度を過ぎるという面がありました。
自分の病気や老いをなかなか認めようとしなかった事など、時には死の危機さへ招きました。

たとえば、まだ母が50代の頃、胆石の発作を起こしたことがありました。
私は当時、実家に住んでいなかったのですが、激痛でうなっている時でさへ、病院に行こうとせず、家事をやろうとしていたそうです。
父が見かねて、引きずるようにして近くの病院に連れて行ったところ、直ぐに大きな病院に行くように言われ、大きな病院に行くと即日手術されました。

後に母は私に、医者がとても生意気で、自分に向かって「あなたは死にたかったのですか」と言ったと言って怒っていました。
実際には、手遅れ寸前だったのですが、それを認めず、「医者が生意気」というところが母らしいです。

ただ、母の介護をするに当たって、家族にとってはその性格が、とても楽に働いたのでした。

自宅での介護が始まって、私が見ていてとてもショックなことがありました。
それは食事風景で、目の見えない母は当然のように手掴みでご飯やおかずを口に入れていたのです。

私はお箸で食べられなくても、せめてスプーンを使ってでも、手掴みでなく食べてほしくて、ケアマネさんに、リハビリの一環として目が見えなくてもちゃんと食べられる方法を母が学べないか聞きました。
するとケアマネさんは私をキッと見据えて言いました。

「〇子様(私の母)は、眼が見えなくなっても、自分の力で食べようとしていらっしゃいます。私は〇子様を立派だと思います」

そう言われて、私も初めて知ったのですが、80歳を過ぎて失明した場合、食事は介助されて食べるのが当然らしくて、通常の中途失明者のように食べ方を学んだりしないということ。
でも母は、病院にいた時から自力で、つまり手掴みで食べていたのです。
たぶんそれは、ほかの同じような状態に陥った高齢者はしないことのようだったのでした。

もう一つ気づいたこと。家族の目から見て否定的に見えることでも、他人の目から見ると評価されることもあること。
私もケアマネさんに言われて『手掴みで食べることが評価のできることなのか』と驚いたのですが、介護に他人を入れることの大切さは、同じことが異なる視点で見られることにもあるのではないでしょうか。

いずれにしても、負けん気が強くて何でも自分でやろうとする母の性格は、介護者にとっては後々までありがたいことでした。

大腿骨骨折の手術後のリハビリも、同室の同じような手術を受けた人達が痛みに苦しんでうまくいってなかったにもかかわらず、母の場合、とてもうまくいって、珍しいことだそうですが正座までできるようになりました。それは、自立心と行動力が人並み外れていて、その上、痛みを恐れない母の性格の故だったかもしれません。

そういうわけで、当初こそ訪問看護士に来てもらっていましたが、直ぐに必要なくなり、お風呂にも自力で入れるようになったのです。(家に誰もいない時でも一人で入ろうとするのには困りましたが。)

よく「私の母はわがままだから・・・」と介護について心配される方がいますが、私の母もわがまま、というより、究極の自己中人間でした。ただ、介護については、そのわがままさがプラスに働きました。わがままというのは、案外、家族に対してだけだったりするからです。

友人知人の話を聞いていると、介護度が高いわけでもなく介護で困っている人は、別世帯なのに子供である自分が何でもしてあげて当然だと思って、毎日親の家に通って世話をしてあげていたりします。
親の方も、それが当然になって、一日でも子供が家に来ないとヤンヤと電話をかけてきます。
子供相手なら、わがままがきくということもあると思います。

ただ、それで自分がやりたいことが何もできないなどと子供が愚痴るのは間違いなような気がします。プロと相談してある程度は任せるということもせず、親の本来的な力を引き出すこともせず、親子でそういう介護の方法を選んでいるだけなのではと思える部分もあるのです。

もちろん、母の場合も何の問題もなかったわけではなく、完全失明した結果、昼夜の区別がつかなくなり、昼夜が逆転したことなど、困ったこともありました。(ラジオの深夜放送が面白いと母は言っていました。)
でも、高圧的な態度をとる看護師さんは嫌っていましたがヘルパーさん達とは仲良くなって、まずまずのスタートだったのです。



母が中年の頃の刺繡の作品、掛け軸に仕立てたものです。
題は「花車」です。