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緑陰茶話   - みどりさんのシニアライフ -

エッセイとフォト

日々の発見と思いのあれこれなど

イスラエルにレッドカード

2025年02月26日 | 話題


Xを見てたら表示されました。
日本語にするとこうです。
ここ数週間、あらゆるスタジアムで見られた「イスラエルにレッドカードを見せろ」運動は、近年のサッカーファンが主導した最大の革命の一つかもしれない。

なぜ主流のスポーツメディアはそれを積極的に無視しているのですか?何の反応も、それに対する報道も一切ありません。

私も知りませんでした。
Xだから真偽も不明ですが本当だったらサッカーファンにリスペクトしたいです。
日本ではこういう動きはないのでしょうか。
あればイスラエルに対するプレッシャーになるでしょうし、パレスチナの人達は励まされるでしょう。


muricaというアメリカ

2025年02月21日 | 話題
アメリカについて、ちょっと書いてみます。
タイトルにある「murica」ですが、主にネットスラングとして使われていて、意味はアメリカのことだそうです。
といっても、ある特徴を持ったアメリカのことです。

検索して調べると最初に以下のように出てきました。
「murica」という言葉は極端に訛りの強いアメリカ人が「アメリカ」を発音時の発音である。この言葉は極端な国家主義や愛国心を表すのに使われるが、人種差別というわけではない。通常は、アメリカ人を軽蔑的だがユーモアのある方法で表していると取られる:肥満で、拳銃を持って、戦争好きで、馬に乗って、酒場で喧嘩して、ビールを飲んで、エッチ好き等々。

上記以外にも色々と調べてみると、保守的で、共和党支持者で、愛国心の強いアメリカ南部の人々とか、「極右が理想とするアメリカ」というニュアンスがあるとか、頭の悪いアメリカ人(レッドネック、田舎者、共和党支持者かウヨとか)のアメリカとか、まあだいたいイメージできる感じです。(レッドネックというのはアメリカ南部に住む保守的な貧困白人層のことらしい。)

私がmuricaという言葉を知ったのは、YouTubeにあった、2016年のインターハイ、井原高校男子新体操部の演技のコメント欄からです。
たくさんのコメントの中の一つで使われていたのです。

去年、「男子新体操・ジェンダー・LGBTQ」の記事を書いた時、そのコメントも取り上げてみようとも考えたのですが、自分が考えたコメントの意味にどうしても自信が持てなかったので触れませんでした。
どのようなコメントであったか載せてみます。


スペルの間違いを直して読みやすくすると以下のような文章です。

Meanwhile in the murica they are arguing about 29000000000000 genders.

この文章、muricaの意味が分かって、英語の構文としても難しくないと思うのですが、私には自信を持って意味を把握するのは難しいものがありました。
一応、Google翻訳では以下のようになってました。

ただ、Google翻訳は間違いや意味不明なものが多いのです。
私はこの翻訳もそういうものの一つのように思いました。
特に“29000000000000 genders”を「29兆人の性別」と訳した点で、「何ですか、それ」って感じです。

それではなく私が考えた意味は、意訳すると「一方、ムリカのアメリカでは、彼らは数えきれないくらいジェンダーについての論争をしています」みたいなものでしょうか。
この場合のジェンダーとは性別のことではなく社会的・文化的に規定された男らしさや女らしさのことではないかと考えたわけです。

正確にはとても訳せないですし、私が考えた意味が正しいのかどうかも私には判断がつきません。
そういうわけでブログの記事では使わなかったのです。

ですが私がそういう意味ではないかと考えたのは、“Meanwhile”とは「一方」という意味ですが、そこでいう一方のもう一方は2016年の井原高校の演技だからです。
それは体操のスキルと、芸術スポーツが持ち得る最高レベルの芸術性で見る人を圧倒する演技でした。



先のコメントの書き手もまた井原高校の演技について同様の認識をしたと思います。
と同時にコメント主は、井原高校のその演技がアメリカにおいてどのように捉えられるかも瞬時に想像がついたのだと思います。

それは私が自分のブログで、男子新体操が欧米西側諸国、とりわけアメリカでずっと言われ続けていると指摘したジェンダーがらみの否定的文言と重なっていたと思うのです。
なぜなら、それこそmuricaのジェンダー規範では、日本の男子新体操は決して受け入れられないからです。
その上で、“Meanwhile in the murica they are arguing about 29000000000000 genders”というコメントは、慨嘆と皮肉を込めた一言ではなかったかと私は思ったわけです。

もちろんコメントの意味は、私はそう思っただけで実際のところは今でも分かりません。
ただ最近になって、トランプ大統領のやることなすことを知るにつれ、『まさにmuricaのアメリカだ』と、何度も思わされました。
というのも、muricaの非文化的で反知性的な価値観はジェンダーにおいてのみ保守性が際立っているのではなく、あらゆる面に及ぶみたいだからです。

トランプ大統領の滅茶苦茶ぶりは他国に対してだけでなく、アメリカ国内でも、取り換えのきかない重要な役職についていた人達を大量に解雇するなど、アメリカそのものを根底から壊そうとしているかのように見えます。
それでもmuricaの人達にとっては、エリートに対する反感からか、危機感よりエリートを痛めつけることで溜飲が下がるだけなのかもしれないですが・・・。
結果、近い将来、murica自身が困ることになり、プーチンが大喜びしそうです。

ところで、私が観てきたアメリカ映画は、むしろmuricaのアメリカを批判するようなものが昔から多かったような気がします。
無茶苦茶古い映画ではビンセント・ミネリ監督、デボラ・カー主演の「お茶と同情」とか。
高校生の頃の映画では「イージーライダー」とか、当時のニューシネマと呼ばれる映画はほとんどそうだったような。

比較的最近のものでは「グリーンブック」とか。
そういうのって私の映画の趣味が反映されていて、実際のアメリカ映画にはmurica好みのものの方が多分多いのでしょうけど。
拮抗する勢力は昔からあったけれど、今はトランプ大統領のアメリカ=muricaが勝っているというところでしょうか。

それにしてもトランプ大統領の言っていること、やっていることは想像の斜め上というか極端で、彼自身がフェイクニュースの世界を生きているのではないかと思えます。
実際、ロシアが流すフェイクニュースを誰よりも信じているみたいだし。(あるいは人がそういうフェイクニュースを信じていると思い込んでいるのか)
あと15年もすれば「史上まれに見る酷いアメリカ大統領」と歴史的にも評価が下されそうです。(いやもう既にそういう評価なのかも)

もちろん、muricaのアメリカなどといって、日本人が笑っていられません。
男子新体操だって日本人でもその存在を知らない人が大半です。

いつだったかYouTubeでテレビの地方局のスポーツニュースを見たのですが、男子新体操が行われておらず一人の選手もいない県で、初めて男子新体操の選手が現れたというニュースでした。
その時、その番組のご意見番的にコメントする年寄り男性の、苛立ちと侮蔑に満ちた態度に私は少なからずショックを受けました。

彼は早くその話題を終わらせたくて必死の様子でした。
多分、彼は男子新体操がどういうものか全く知らないまま「男が新体操なんぞするのか」という気持ちが出てしまったのだと思います。
実は最近も、そういう年寄り男性は意外といると知りました。

murica的な人は日本にもいるし、日本もまた安泰からほど遠いと思い知るべきなのでしょう。


著作権法の目的って?

2024年09月24日 | 話題
この前、朝の番組の「めざまし8」を、途中からだけど見ていたらアニメの「ハイキュウ」と著作権法についての話題だった。

要は「ハイキュウ」というバレーボールを扱ったスポーツアニメがあり、それが国内外で大人気なのです。
それで漫画の舞台とされる軽米町に注目が集まり、「ハイキュウ」の聖地として国内外からファンが訪れているらしい。
軽米町の方も地域おこしの起爆剤として活用しようとしていたのですが、漫画を出版する集英社やアニメの映画を配給する東宝などから「著作権侵害の恐れがある」と指摘されたとのこと。

この話で見てて良く分からなかったのは集英社や東宝がどの程度、軽米町での「ハイキュウ」の活用を嫌がっていたかということでした。そもそも全く嫌がっていなかった可能性もあります。
というのも、国内外のファンが盛り上がって聖地巡礼までしてくれるのは集英社や東宝にとってもありがたい筈で、ファンに対しても軽米町には行くなとは言えないからです。
本当に嫌なら軽米町での積極的な活用をはっきりと断るか、あるいは町にロイヤリティーを支払ってもらえば良いのです。

わたしがこの話を取り上げたのは「ハイキュウ」のファンだからではなく、同じような話を最近たて続けに聞いているからです。
最初に意識したのは日本の女性ダンスグループのアバンギャルディがアメリカの人気オーディション番組「アメリカズ・ゴッド・タレント」の決勝で、当初予定されていた曲が著作権の関係で踊れず、決勝の日の4、5日前くらいに別の曲で踊らなければならなくなったことです。

そのことが影響したのかどうかは分かりませんが、アバンギャルディは決勝戦では敗退しました。
私はその時の動画のコメント欄で、アメリカ人らしい人が書いていたことが気になったのです。
その人は、アバンギャルディが当初予定していた曲で踊れなかったことで日本の著作権法について書いていたのですが、その人自身の経験として、とにかく日本の著作権は無茶苦茶厳しく、たとえお金を支払うといっても自分が使いたい曲を使用することができなかったと書いていたのでした。

知っている人は知っているのですが、アバンギャルディは予選では岩崎宏美の「シンデレラ・ハネムーン」で踊り、物凄く話題になりました。

話題になったのは彼女達のダンスだけでなく、原曲の1.14倍のスピードで使った「シンデレラ・ハネムーン」も話題となりました。
結果、ビクター・エンタテインメントはスピードアップバージョンとして「シンデレラ・ハネムーン」を配信リリースしています。

つまり「アメリカズ・ゴッド・タレント」でのダンスの楽曲として使われたことによって、曲や歌手の知名度も国際的に上がり、ビクター・エンタテインメントは新たに売り出して儲けているのです。
アバンギャルディのその実績を考えれば、当初予定した楽曲の著作権者がそこで楽曲を使ってほしくないというのはちょっと不思議なのです。
もちろん、よほど金銭的に吹っ掛けたか、アーティストとしてのこだわりからアバンギャルディに使ってほしくなかった可能性もあります・・。

冒頭の「めざまし8」でも、番組内で語られていたのは日本の著作権法の他国に比べても異様なまでの厳しさでした。
たとえばの話、私がトトロのキャラ弁を作ってこのブログでアップしたら、違法なんだそうです。
つまりスタジオジブリから訴えられる可能性があるということです。(現実には考えられませんが・・・)

もちろん私がキャラ弁をこのブログでアップしても私の収益にはなりません。
でも、使用者が営利目的ではないことは関係ないみたいです。
許可なくジブリのキャラクターを不特定多数の人が観られる環境で使ったということが問題にされるみたいです。(何がダメなのか分かるようで分かりませんが)
だから、仮に私がどれだけトトロが好きで、キャラ弁作って、それ見せてイイネもらって、トトロ好きな人達と一緒に盛り上がりたくても、それはできないわけです。

日本以外の諸外国の場合、私は厳しいと思っていたのですがそうでもなく、むしろビジネスチャンスを作り出せるよう緩やかなのだそうです。
技術革新が著しい中、規制ばかりを強くすると、現実に諸外国との競争に負けてしまうからです。
最近も、アメリカだったか忘れましたがフィギュアスケートで楽曲を使ったとして訴訟があったとのことですが、和解し、同時に訴訟などが起こらないように制度的にも使いやすくしたらしいです。

ちなみにフィギュアスケートに関しては、元フィギュアスケーターで、氷上の哲学者と言われていた町田樹さんが、著作権について、とてもよく纏められた研究をされてます。
私はなぜ町田樹さんが氷上の哲学者と呼ばれていたのか、彼が現役時代には分からなかったのですが、研究者として活動を始めた彼を見るとよく分かりました。

町田樹さんに聞く~フィギュアスケートと音楽と著作権〜 | KENDRIX Media 権利のDXを志向するメディア

フィギュアスケート日本代表として2014年ソチ・オリンピックに出場したのち、同年12月に競技者を引退した町田樹さん。2020年10月から國學院大學人間開発学部の助教として、...

KENDRIX Media 権利のDXを志向するメディア | 音楽の著作権、テクノロジーに関する情報やインタビュー記事を発信し、音楽クリエイターをサポートするメディアです。

 


話を戻すと、実は私が一番ショックを受けたのは「ハイキュウ」でもなければアバンギャルディでもなく、男子新体操の応援サイトであるOuenMRGさんが今までYouTube上で上げていた男子新体操の演技動画をすべて削除してしまったことでした。

理由は、演技で使用されている楽曲の著作権上の問題があることが分かったからだそうです。
OuenMRGさんはもちろん、演技している学校やら個人の許可を得て配信していました。
問題はそこで使われている楽曲の著作権のようでした。(ですから楽曲を使っていない動画は残している)

通常、男子新体操は高校や大学のクラブ活動なので、演技する楽曲の許可は学校が得ていて、それは問題はないみたいです。
ところが演技動画の配信はYouTube上では問題はないそうですが、楽曲の著作権法上で違法になってしまうみたいなのです。

男子新体操の動画を配信しているサイトは他にも幾つかあるのですが、OuenMRGさんがダメなら他もすべてダメなんじゃないかと思います。
OKなのは国士舘大学がやっているように男子新体操部自体が動画の配信を行うことです。
X(旧Twitter)で読む限り、今後はそうしていくしかないみたいな話しぶりです。
でもこれ、高校や大学の部がやるにはあまりに負担が大きいものです。

そしてそれは今後の問題なのですが、過去の、OuenMRGさんのサイトが提供していた演技動画が見られなくなったことも大問題なのです。
というのも、男子新体操のファンというのは国内外にいるのですが、OuenMRGさんのようなサイトで男子新体操を観てそのスポーツを知り、ファンになった人も多くいるからです。

私もそうなのですが、YouTubeのお勧めで男子新体操の演技を観てファンになった人達がたくさんいます。
YouTubeから動画が消えれば、当然、新たなファンも生まれにくくなります。
そういう人達にとっては過去に感銘を受けた演技動画が見られなくなったのです。

それは他人事ではなく、私にとっても、青森大学のあの演技、名取高校のあの演技、井原高校の・・と、幾つもの演技がもう二度と見られなくなったのです。
そして町田さんの考えでは、それはファンだけでなく競技者にとっても深刻な事態のようです。
というのも、振付を考える人も含めて競技者もまた過去の演技から学んで自分の演技を組み立てるからです。

町田さんはそれを「巨人の肩の上に乗る」という学問に使われる言葉を使って、研究だけでなく演技を作るような他の創造的営為も同じと語っています。以下、引用。

研究者にとって「巨人の肩の上に乗る」という言葉は金科玉条なのですが、先人たちが積み重ねてきたものを全部踏まえてその上に自分の新たな知見を積み重ねる、先人たちの知識をたどり、だからこそ新しいものが見えてくる、という考えです。
まだやられていない何かをオリジナリティとして少し加える。本能だけで創る人は別ですけど、基本的にアーティストはいろんな音楽を聴いて、従来の作品の内容や傾向などを総合的に理解した上で、どのようなことがオリジナリティにつながるのかを考えながら、音楽市場に対して作品を投入していくのではないでしょうか。その営みは、まさに研究者的なところがあって、そこはバチッと同じだと感じます。私は振付家でもありますが、振付家と研究者は全く別のアイデンティティなのかというと、そうではなく、むしろ全く同じことやっていると思っています。
誰もが過去の作品にアクセスできるアーカイブ、あるいは過去の作品をきちんと(適切かつ現実的な許諾料で)著作権処理し二次利用できる環境が、次世代のより良い作品を生み出すためのインフラになる、と私は考えています。


町田さんが語っているのは主にフィギュアスケートの場合なのですが、男子新体操の場合はさらに深刻になります。

というのも、フィギュアスケートの場合ならば、その演技はNHKなり民放なりで一度は放映され、視聴者はそれを観ることができ、映像も残っています。
ですが、男子新体操の場合はテレビ局が撮影することはまず無いのです。
撮影は競技会を主催した体操協会か、競技会に参加した各学校の男子新体操部か、OuenMRGのようなサイトだけです。
つまり過去の演技を知るには大半がYouTube頼みだったのです。

YouTubeでアップしてはいけないというのなら、どうやって第三者が過去のそうした大会の演技を観ることができるのでしょうか。
YouTubeで見られないのなら、今から男子新体操に取り組む若い人達は、過去の演技を知るという「巨人の肩の上に乗る」こともできないのです。

さらにここでも「ハイキュウ」やアバンギャルディの時と同じことが言えるのです。
というのも、YouTubeの動画に付いたコメントを読んでいると、男子新体操を観て、使われている楽曲に興味を持ち、曲の名前を聞く人達がたくさんいるのです。
とりわけ国外の人達が曲について知りたがっています。
曲の購入の方法を聞いている人もいて、購入されれば当然、著作権者の利益につながっているのです。

楽曲だけではないのです。
男子新体操はゲーム音楽やアニメで使われた曲を使用することも多く、当然、元のゲームやアニメに興味を持ち購買者となる人もいます。(動画のコメント欄でそのように書かれていることもあります)
なにより日本の楽曲は外国で知られていないものが多く、彼らにとっては斬新で美しいものと映るようなのです。
いってみればYouTubeの動画は、日本の文化を国外に広げ、売り込むチャンスを作っているのです。

そうしたことを考えると、単純に配信を規制して、国内外の人達の視聴を妨げることが著作権者の利益になるとは思えないのです。
そして、この点についても、先の町田樹さんがフィギュアスケートの場合のこととして“ジャンル間転送”という新しい言葉を作って説明しています。
以下、引用です。

「ジャンル間転送」ですが、分かりやすく言うと、フィギュアスケートの観客がスケーターの演技を見たことをきっかけに、その演技に関連する諸芸術作品(例えば、その演技で用いられている音楽や、その演技が題材としている舞踊作品)へと副次的にアクセスしていくという消費者行動の現象を指します。
各市場から著作者への対価還元はもちろんのこと、CDが売れるといった経済的な還元だけではなくて、転送された消費者が音楽や芸術の魅力を知り、継続的に関与し続ける、そこまで行動を変容させる力がフィギュアスケートにはあるのではないかと私は考えています。


もちろん国内外の視聴者の行動を変容させる力は、町田さんが語るフィギュアスケートだけでなく、男子新体操にも、アニメにも、その他の楽曲を使うダンスのようなパフォーマンスにも現実にあります。
そして今のところ、その足を引っ張っているのが日本の異様に厳しい著作権法みたいなのです。
(もちろんそれだけではないでしょうけど)

「めざまし8」でも、日本の著作権法が厳しすぎるので変えてほしいという声が上がっていると出演していたコメンテーターが語っていました。
関係者は今一度、現実を見直して、どのようにすれば著作権者の真の利益になるか、また著作権者以外の多くの人々や日本という国のためになるか、考え、制度を変えていってほしいものです。


お一人様ツアーとマンスプレイニング

2024年06月29日 | 話題
タイトルを見て、お一人様ツアーは分かるとして、マンスプレイニングって何? と思われる人もいるかもしれません。
マンスプレイニングは最近、ちょくちょく聞くようになった言葉です。
要するに男性が女性に対して、聞かれもしないのにあれこれ説明したり、アドバイスしたり、蘊蓄(うんちく)を傾けたりすることです。
実は相手の女性の方がよく知っている事柄でもお構いなしにです。

英語のman(男性)とexplain(説明)を足した新造語だということです。
英語圏で使われ始めたのでしょうけど、女性なら誰でもマンスプレイニングで不快な思いをしたことがあるだろうと言われています。
確かに色々と思い出すことはあります。(笑)

側で見ていて、自分のことでなくても、あれは嫌だろうなと思ったこともあります。
随分以前のこと、アンドリュー・ワイエス展があって、そこでたまたま見た光景。
どういう関係か分かりませんが年配の男性と若い女性。
年配の男性がアンドリュー・ワイエスの絵の解説をして若い女性はひたすら聞いている。
その解説もアンドリュー・ワイエスの絵の何がダメかみたいな話。

絵の鑑賞くらい自分の感性でして見たいわって感じです。
若い女性の表情はというと、まさに無表情です。
あれが典型的なマンスプレイニングだったのですね。
当時はそういう便利な言葉がなかったのです。

もう一つの例は知人とホテルの喫茶室で話をしていた時のこと。
知人(女性)がいきなり声をひそめて、私から見ると後ろ隣りの席を顎で示して「私、ああいうの一番嫌い」と言いました。

見ると一つのテーブルに年配の男性が一人、後は若い女性ばかり4、5人のグループ。
話しているのは男性のみで女性たちはひたすら男性の話を聞いている。
大学のゼミの先生と女子学生なのかなとその時は思いました。

不気味なのは両者とも会話が成立していないのです。
男性は相手の意見を聞くことはなく、ひたすら気持ちよさそうに自分だけで話してました。
女性たちは一様に無言で無表情。

マンスプレイニングについて調べてみると、なぜ男性は女性を前にするとあれこれ知識を披歴したがるかですが、女性が自分より知識がある筈がないと思い込んでいること。
知識のない女性に知識を授ける優越感を味わいたいこと。要するにマウンティング。
などなど色々説明されてます。
女性の側からするとマンスプレイニングは余計なお世話以外のなにものでもないですけど。

そのマンスプレイニングとお一人様ツアーの関係は何か、ですが、お一人様ツアーは、性別を問わないお一人様ツアーと、女性限定のお一人様ツアーがあるのです。
女性客の中には絶対に女性限定でないとダメという人もいます。
その理由は見知らぬ男性と話したくないし、話も聞きたくないから。
中には婚活というか、ナンパ目的でお一人様ツアーに参加する男性もいるみたい。
そういうのの相手は絶対にしたくない。

これは関西が特にそうなのか分かりませんが、お一人様ツアーでは女性達はすぐに打ち解けあってお話したりすることが多いのです。
でも男性はポツンと一人か男性同士でかたまっていてもお通夜状態。
それだけならまだしも女性の参加者相手にマンスプレイニングを始める人もいる。

実は一度そういう現場を見たことがありました。
フランス料理の夕食で5,6人掛けの丸テーブルで一人の男性が蘊蓄を傾け、しゃべり倒していました。
幸いにも私は別のテーブルでした。

後で聞いたら、やはり嫌だった人、面白い話だったから構わなかったという人、最初から男性客と一緒のテーブルに座らないように細心の注意をしていた人、色々でした。
聞きたくない話を聞かされたり、女性同士でおしゃべりを楽しみたいのに見知らぬ男性の一方的な話を聞かされたら、せっかくの旅行、豪華のフランス料理もだいなしになりかねない。
だったら最初から女性限定のお一人様ツアーに行くでしょう。

お一人様ツアーではさすがに無いのですが、アメリカでの調査によると、会議のような場で、人が話していて、話を遮られることは男性より女性の方が多いらしいです。
女性の話は無価値で無意味だと思われているみたいです。

女性が意見を述べていると、「それは違うね」とか「関係ないね」とか、バシッと切るように言って、まったく違う方向に話を持っていく男性。
機嫌よくその状況に追随する他の男性達。
最初から話し合う気なんて無いんです。

よく似ているけどちょっと違う状況もあります。
私の経験です。
私は自然観察が趣味で、自然観察会のボランティアスタッフも長年務めてました。
ただそんな話を勤め先でするようなことは、親しい同僚以外ありませんでした。

ある時、勤め先で男性営業マンが葉っぱを持ち込んで「この植物が何か分からない」と他の営業マンに聞いていた時がありました。
取引先でその植物が繁茂して困っていると相談を持ち掛けられたらしいのです。
誰も分からないみたいでした。
それで私が用事で立ち上がったついでにその植物を観に行きました。
葛でした。

「葛ですね、これは」と私が言うと相手は「葛?」と不審な顔をしました。
全然信用していない様子。
そこに70代の専務が口をはさみました。
「葛というのは、あの葛餅の葛か」
「そうですけど」と私が答えると、そんな貴重な植物が繫茂している筈がないとでも思ったのか文字通り鼻で笑われました。

これはちょっとショックでした。
葛は山野に幾らでも自生してますが葛の根から葛粉を精製するのはとても手間がかかり、普通、葛餅で使われるのは北海道産のジャガイモから取ったでんぷんで、いわゆる本葛はそれなりに高価なのです。
また日本の葛は荒地でもよく茂ることから緑化のために外国で植えられましたが、繁茂しすぎて在来の植物を枯らしてしまい、丈夫過ぎて根絶することもできず、Japanese green monster と呼ばれているのです。

そこまで詳しくなくても、葛は秋の七草の一つだから、誰が知っていても不思議でも何でもないことです。
それがまったく信用されなかったとは・・・。

よく似た話は野鳥でもあって、バードウォッチングの会でのこと、初めてバードウォッチングをしたらしい60代くらいの男性、鳥を見つけたものの何の鳥か分からない様子でした。
私が見るとジョウビタキでした。
それで「あれはジョウビタキですよ」と言うと、やはりあからさまに不審な表情。
私の言葉は無視して、首を傾げて、図鑑を調べてました。

バードウォッチングの会は通常、鳥を見つけたら教えあったり、フィールドスコープを持っている人は持っていない人にも見せてあげたり、親切にしあうものなのです。
かの男性は初心者とはいえ、マナー違反というしかありませんでした。
私は友人に「あれがジョウビタキでないというなら何なの」と言いつつその場を離れました。

断っておきますが、葛にしてもジョウビタキにしても、いたってポピュラーで、知っていて偉いというようなものではないです。
私がショックを受けたのは、その種のおじさん達が、自分達が知らないものを女性が知っている筈がないと確信していることです。
だから全く人の話に取り合わないのです。

マンスプレイニングも女性には知恵も知識もないという思い込みから、時には親切で行われるわけですが、はっきり言って相当に不愉快です。

私は別に男嫌いではないですが、おじさんには近づかない、話をしない、親切にもしないという3ないで対処するしかないのでしょうか。
話をして、本当に面白いおじさんもたくさんいるのは知っているのですが・・・。


車椅子ユーザー叩き

2024年03月29日 | 話題
最近、X(旧ツイッター)のあちこちで炎上していて、YouTubeのコメント欄にもちょっと延焼していた事柄に車椅子ユーザーのあるクレームがありました。

Xを代表とするsnsの記事って、読んでいて精神衛生に物凄く悪いものが多いので、読まない方が良いのだけれど、くだんの車椅子ユーザーを叩く人達の在り方・考え方は結構普段から目にし耳にしていたので、ちょっと書いてみたいと思います。

私の記憶なので若干の間違いもあるかもしれませんが、そもそもの話は、ある女性の車椅子ユーザーが、いつも利用している映画館で、車椅子専用の席は一番前になっていて、脊椎に障害もあって2時間も見上げて見るのが辛いので、追加料金を払ってリクライニングの席に行くのに、段差があってスタッフが二人がかりで車椅子を持ち上げなければならなかったらしい。

いつものようにそのようにして映画を見終わると、映画館の支配人が彼女の元に訪れ、スタッフの数も限られているし、何か事故があっても責任が取れないので、次回からは車椅子ユーザーに対応できる別の映画館に行ってほしいと言われ、久しぶりに悔しい思いをしたということをXに書き込んだことが発端だったみたいです。

このこと自体は色々と背景の事情もあるのでここでは踏み込みません。問題なのはその後に続いた何百という車椅子ユーザーへの非難の嵐の方でした。
誰かが別の場所で少しでもその車椅子ユーザーを擁護する発言をXですると、そこでもまた同じ炎上が勃発するわけです。
一言でいうと、人に迷惑をかける存在でありながら、権利ばかり主張する、ワガママな障碍者というわけです。

叩く人は徹底的に叩きのめさないと気が済まないみたいです。
その車椅子ユーザーが正しいか正しくないかは関係なく、何百人がかりで寄ってたかって叩くその執拗さに驚くし、日本の社会って荒れてんなと思います。
ネットリンチで、これじゃあ自殺者も出るのもよく分かります。

ただ私の母も、元気で生きていた時はテレビで障碍者が何か言うと「障碍者なのに偉そうに」などと言っていました。
その母も亡くなる8年くらい前から失明し、車椅子を利用する障碍者になってましたけど。

日本人って、子供のしつけのいの一番は「人様に迷惑をかけるな」で、障碍者はそのルールから外れた存在なので、当然のように小さくなって生きていなくてはならないと思いこんでいたのだと思います。
かくいう私も、自覚せず同じような思い込みを持っていたみたいです。

そういう思い込みが無くなったのは、私自身が車椅子ユーザーになる経験をしたからです。
私は今まで2度車椅子ユーザーになってます。

ちょっと前にも触れたのですが、30代の半ばくらいの頃、胃にポリープができて、取った方が良いということになりました。
医師は最初は日帰りでできる処置だと言ってました。

ところが私は、血小板減少症という、一度出血すると止まりにくい血液の病気を持っています。
それを慮ってか、医師は念のために一泊入院してもらうと言いました。
そして処置の時、ポリーブを取るや否や「出血が止まらん」と医師は言い、看護師に安静の指示を出し、トイレに行くにも車椅子で行くことになったのです。
入院は1週間続きました。

私は4人部屋に連れていかれたのですが、看護師さんは私がトイレに行かなくてもよいようにベッドの脇にポータブルトイレを置き、そこで用を足すように言いました。
もちろん用を足すときはカーテンを閉めます。
ところが、カーテンを閉めて用を足そうとしても出来ないのです。
用を足せない、平たく言うとおしっこが出ない・・・。

原因は場所による心理的緊張だったみたいです。
私のベッドの位置は部屋の扉のすぐ横で、人の出入りが一番響く所。
そして人はしょっちゅう出入りします。
看護師さんや医師だけでなく、お見舞いの人達やら入院患者自身も歩き回っていて、そんな場所で薄いカーテンをしただけで用など足せない。
カーテンを閉めるから用を足してるって分かるし。

でも用を足さないわけにはいかない。
特に胃を養生しているので、栄養輸液を24時間点滴で体内に入れており、普段は行かない夜中でも用を足したいのでした。
仕方なく看護師さんを呼んでトイレまで車椅子で連れて行ってもらってました。

もちろん私はポータブルトイレが使用出来ないことを謝罪し、「申し訳ないです」とか「すみません」とか、終わってからは「ありがとうございました」とか、言えるだけのことは繰り返し言って連れて行ってもらっていたのです。
看護師さんも「みどりさんの年齢ならできないでしょうね」と言ってくれてました。

部屋のポータブルトイレが使用できるかどうか、年齢が関係あるのかと思われそうですが、高齢になるとそんなことが平気になってしまうみたいです。
事実、別の病気での入院時、同じ部屋の高齢女性はカーテンも閉めずに用を足していて、最中に目が合って気まずい思いをしたこともありました。
齢を取った今、私が大部屋でベッドのわきのポータブルトイレを使用できるかどうか分かりません。

ただ真夜中で、人の出入りがなく、誰もが寝静まっている時は、私もベッドわきのポータブルトイレを使用することができました。
別の病気で入院時、一人部屋だった時は昼間でも部屋に置いてあったポータブルトイレを使用できていました。
やはり人の耳や目が気になっていたのだと思います。

とにかく、そうやって毎日、昼間にトイレに連れて行ってもらっていたのですが、さすがに「申し訳ありません」とか「ありがとうございました」と言い続けることに疲労感を覚えてきました。
そこまで言わなあかんのかと。
私にそれを言わせているのは何かとか。

それは、それこそ人に迷惑をかける存在は小さくなって生きていなければならないという考えだったのでした。
とりわけその時の私は、せっかく病院が用意したベッドわきのポータブルトイレを心理的抵抗感から使用できないという負い目が大きかったのでした。
でも、それって私のワガママ?

私はすぐに良くなって退院しましたが、自分の意識はかなり変わりました。
それが必要なら、車椅子ユーザーは少々のワガママを言っていいと私は思っています。
車椅子を介助する場合も、相手からお礼を言われたら「お気遣いはいりませんよ。当然のことですから」と言おうと思ってます。

誰もなりたくって車椅子ユーザーになるわけではないし、高齢になれば誰だって障碍者になる確率が高くなりますからね。