緑陰茶話   - みどりさんのシニアライフ -

エッセイとフォト

日々の発見と思いのあれこれなど

嵯峨野、貴船を広角レンズで撮る

2017年08月31日 | お出かけ
8月も終盤に入ってお出掛け続きになりました。

旅行会社のバスツアーで嵯峨野のトロッコ列車に乗り、その後、嵯峨野の祇王寺に行き、貴船で川床料理を食べるという企画。
実は広角レンズを買ったので、それで風景写真を撮ってみたかったのです。
写真のツアーもあるのですが、それでは美味しい物が食べられない。
それで美味しいものも食べられそうなこのツアーを選びました。

でも肝心の私の胃の調子がその数日前から悪くなりました。
原因は腱鞘炎の痛みを抑えるのに使ったロキソニンテープ。
以前にもそれで胃を荒らしたので気をつけていたのですが、油断してベッタリ貼ったところ、てきめんに胃にきました。
そういうわけで胃を労わりながらのツアーとなりました。

おひとり様OKのツアーだったので、私は一人で参加。でも他の人達は二人連れが多かったみたい。
お陰様でバスの席は二人分使えました。

トロッコ列車の亀岡駅。中国人で溢れかえっていました。
中国人、トロッコ列車の何が面白いのかしら、と思いつつ自分もトロッコ列車に乗りました。

列車が駅に到着する時、皆が一斉に写真を撮るため身を乗り出します。
私もその内の一人。


列車は予約席で座れました。
窓から見ると保津川下りの船と何艘も行き会いました。
列車に手を振ってくれる保津川下りの人達。

列車の中はこんな感じ。

風が吹き抜けて、そこそこ涼しい。

トロッコ列車の嵯峨野駅で下車。
そこから平家物語の祇王祇女の物語で有名な祇王寺へ。15分くらい歩くのですが時間はすでにお昼。
暑いし、お腹は空くしでヘロヘロ。

途中の道、風変わりな幟のようなぼんぼりのようなものが幾つも立てられてました。
それなりに風情のある道。何より外国人がいません。


祇王寺は庭の苔の美しさで有名です。

祇王寺の隣は竹林。広角レンズならではの写真です。


祇王寺からの戻りも歩きなのですが、バラバラでバスに戻るのが大変。
暑いのに歩かせると添乗員に文句を言っている人もいました。
私は写真を撮るのと、迷子にならずにバスまで戻るのに必死。
やっとバスに乗って一路貴船へ。

ランチは貴船の料亭「右源太左源太」の左源太の方でした。
バスの駐車場まで左源太のマイクロバスが来てくれていました。
時間は団体の予約は難しかったとかで2時30分からで、お腹ペコペコ状態。
にもかかわらず胃の調子は悪い。

前菜です。(お料理は広角でなく普通のレンズで撮ってます。)

この前菜だとビールも欲しかったのですが胃のことを考えて我慢。

貴船の川床は鴨川の川床と全然違います。
貴船川は巾が狭く急流なので、川幅全部が床になります。
そして、高さに合わせて床が設えられています。
頭上は森状態で木に覆われているので、木の葉除けの簾の屋根がついています。

一部、簾の屋根が無く、木が見えているところ。この下には床はありません。

急流の瀬音と蝉(ミンミンゼミ、ヒグラシ、ツクツクボウシ)の声ばかりが聞こえます。
時折、蜻蛉が通り抜けていったり。

お料理は熱い物は物は熱く、冷たい物は冷たく出されました。
火傷しそうに熱かった天麩羅です。

鮎の塩焼きも熱々でした。

ランチが終わると貴船神社にお参りに行きました。
左源太の方は上流で奥宮に近く、まず奥宮からお参りしました。


真ん中にある結いの社。


本宮への参道。


ご神木の桂。


説明の立て札。


3社のお参りも時間制限があるのでゆっくりとはいかず、適当なところで切り上げ。
写真を撮るにはもう少し時間が欲しかったです。
ツアーはランチが遅すぎるし、全体に時間がオシオシでした。
その後はお漬物の西利に寄って帰阪しました。

広角レンズは使いこなせてないですね。

パナソニックの人に聞いたところ、広角レンズは風景だけでなく、インテリアや住宅関係の仕事の人が部屋の中を撮るのによく買うのだそうです。
部屋の中を人間の視覚以上に写り込ませるので良いみたい。

私の場合はもっと研究の余地ありです。


介護はチームワーク、介護は生前供養(7)

2017年08月24日 | 思い出
久しぶりの介護シリーズです。
母の介護の経験の中で、当初このシリーズで書こうと思いながら止めていたことを書いておこうと思います。
とても長いし、重い話だと思います。興味のない人はスルーしてください。

このシリーズを書こうと思った理由は、介護について、介護保険制度が始まっているにもかかわらず、介護保険以前の、30年くらい前の介護のイメージのままの人が多いことに気づいたからです。
それで私が経験した介護の実際を書いてみようと思ったのです。
介護を自分だけで抱え込まず、専門家である他人の力を借りれば乗り切れることを書きたかったのです。

そうすると逆に、介護保険を利用しても途方に暮れた経験は書きづらいものがありました。
なにより、あまりにも大変だったことは記憶も曖昧になっていました。
今回はその書かなかったことを書いてみます。
たぶん、今、介護をしている人にとってはレアケースであり、そんなことがあるのかと思われるようなことですし、役に立つ話でもないです。

それは、介護保険を利用しての母の介護が始まって5年目のことでした。
母の回復は、視力が元に戻らないことを除けば元気で、デイサービスにも一番楽しんで通っていた頃の出来事です。

ただ、世の中や私自身の状況は順調とは言えませんでした。
リーマンショックで20年以上働いた会社は破産し、再就職も年齢を理由に履歴書を送ることさへ断られる始末。
1年以上失業して、やっと公的な機関の契約職員になりフルタイムで働き始めました。
ところが背中を事故で傷め(労災ではない)、それをかばっている内に椎間板ヘルニアになりました。
ヘルニアは少し良くなってもまた発作を繰り返し、だんだん悪化して、結局、その職場も止めざるをえませんでした。

数か月休養して、椎間板ヘルニアがすっかり良くなってから、次に、やはり公的な機関(役所)で、年度替わりの4月から働くことにしました。
ただ、この時はフルタイムではなく、役所なので土日祝日は確実に休み、ウィークディに月に15日の出勤という契約でした。

私が新しい職場で働き始めて1週間くらい経った頃、母が左耳の下が何だか痛くて食事もしづらいと言い出しました。
見ると少し腫れていました。
私は耳下腺炎だなと思いました。私も同じ経験をしたことがあり、まったく同じ症状だったからです。
私はすぐに駅近くの耳鼻咽喉科に連れて行きました。

医師の診断は私の予想通り、耳下腺炎でした。
抗生物質が処方され、1週間経ちましたが良くならず、別の抗生物質が処方されました。
でも1週間たっても良くならずまた別の抗生物質が処方されました。
でもその抗生物質でも良くならず、医師は大きな病院に行ってほしいといいました。
幸か不幸か、私の居住地には比較的大きな総合病院が複数あり、今後のことも考えて一番近くの総合病院(仮にK病院とします)宛に紹介状を書いてもらいました。

もうゴールデンウイーク直前のころでした。私は仕事で病院に付き添うことができなかったので、兄に付き添いで行ってもらいました。
その日、仕事から帰ると母は耳の下を腫らしたまま寝ていました。
兄に聞いてみると、K病院の医師いわく「下咽頭がんです。入院しても治療の方法もないので入院はさせられません。連れて帰ってください」とのことで、そのまま連れて帰ったのだそうです。
K病院の医師は組織を生検に出しているとかで、それ以外は何もせず、薬の処方もありませんでした。
兄と私は生検の結果を待って、とりあえず家で養生することにしました。

その翌日からはゴールデンウイークに入っていましたが、母の症状はあっという間に悪い方に急展開しました。
耳の下が化膿で首も顔も変形するほど急激に腫れ上がり、パンパンになって首も曲がらない状態。
動かすと激痛で、当然、食べ物を食べることはできなくなり、なんとか吸い飲みでジュースだけは飲ませることはできました。
たぶん、いきなり抗生物質を止めたため、今まであまり効かないとはいえ薬で抑えられていた化膿が爆発的に進んだものと思えました。

この頃のことは、私は切羽詰まっていましたので記憶も不確かなのですが、だいたい起こった事を記します。
母の状態は、若い人でも絶望するような、耐えられるかどうか分からない酷いものでした。
しかも母はその時86歳、耐えられるかどうか私には疑問でした。
私はK病院に電話し事情を話しました。
でも答えは、今は病院は休みで、ゴールデンウイークが終わった診療日に受診してくださいというもの。
私が何を言っても「診療日に来てください」で終わり。

あの頃ほど私がゴールデンウィークが終わることを待ちわびたことはないです。
やっと終わって、診療日、私はシフト上、勤め先を休むことができないので、兄に母をK病院に連れて行ってもらいました。
ところが家に帰ると、母は何の治療も受けないまま、ベッドで寝ていました。
ゴールデンウィークで生検の結果は出ておらず、そのまま帰されたというのです。

私にとっては、生検の結果なんてどうでもよかったのです。
早く腫れあがった耳の下を切開して大量の膿を出さねば、母の苦痛は終わらないし、食事もできないのです。
黙って医者の言うがまま母を連れ帰った兄にも腹が立ちましたが、兄にしてみれば医者の指示に従っただけなのです。
医者は入院はさせられないの一点張りだったそうですが、入院より治療をしてほしかったのです。

兄は危機的な状況というものが全く理解できない病気音痴みたいな人ですし、自分が介護にも看護にも当たらないので「どうしようもないやろ」と投げやりなものでした。
母の担当のNケアマネにはメールで連絡を入れていましたが、ゴールデンウィーク中だったからかどうか音沙汰なし。
これも奇妙なことでした。いつもは真面目で熱心な人なのです。
私は途方に暮れました。

その時、ふと思い出したことがありました。
まだ母が介護とも縁がなく、元気だった頃、母の甲状腺に良性の腫瘍ができたことがありました。
良性でも切除しなくてはならず、その手術を受けた時のことです。
病院は甲状腺の専門病院である神戸にある隈病院でした。

隈病院は日本全国から患者が来るほど甲状腺専門の高度な医療を受けられることで有名でしたが、それだけではなく心身両面に立ち、徹底した患者本位の医療をすることでも知られていました。(今もそうなのかは知りません。ずっと昔、今の皇后陛下が妃殿下だった頃、甲状腺の病気に罹られた時、甲状腺の治療とともに当時の院長先生によるカウンセリングも受けておられたのは知る人ぞ知る話。)
隈病院では、患者や患者家族の誰もが目につくところに「相談室」の掲示がありました。
治療に関することでも、退院後のことでも、分からないことや心配なことがあれば何でも相談に来てくださいと書いてありました。

患者やその家族のための「相談室」は総合病院ならどの病院にも設置されています。
ただ、どの病院でも患者やその家族の誰もにもその存在が周知されているかというと疑問です。
それは病院の姿勢の問題で、多くの病院は面倒なことで相談はされたくはないからだと思います。
隈病院では病院に来た人が嫌でも目に入る場所に掲示がしてあったので、当時『さすが、隈病院』と思ったものでした。

私は隈病院の相談室のことを思い出して、K病院は総合病院なので、必ず相談室はある筈だと考え、そこに相談してみようと思いました。
その時は勤め先を休むことなど気にしていられなくて、翌日くらいにはK病院の相談室に行って母の窮状を相談していました。
時を置かずK病院から電話があり、母の診察をするので来院してほしいとのことでした。
翌日、しんどいから行きたくないという母を説得して車に乗せ病院に行きました。
その頃になると母の耳の下の腫れは、自壊して皮膚が破れ膿が流れ出ていましたが、皮膚の奥に大量に溜まっている膿を出すにはやはり医療の専門家やそれなりの医療器具が必要と思われる状態でした。

病院で診察を待っていると、Nケアマネがやってきました。
母が病気になってからNケアマネはずっと顔も見ていなかったのです。
様子がおかしかったので今でもその時の記憶は鮮明です。
いつもはキビキビした人が、足取りも躊躇いがちにフラフラと、表情も『これでいいのか』と考えているような感じで来たのです。

担当の医師は50がらみの女医で、ベラベラとしゃべりながら、皮膚の割れた場所から膿を吸い出していったのですが、麻酔とか痛み止めとか一切なし。
最初は吸引器のようなもので吸い出していましたが上手くいかず、結局、針を外した大きな注射器を突っ込んで吸い出していきました。
母は我慢強い人なので何も言わず耐えていましたが、とても痛そうで見ている方が辛いぐらい。
しかも話しながら吸い出すのですが、目が患部ではなく、娘の私とNケアマネの顔を見ながらで、口には出しませんでしたが内心『患部を見て、痛くないようにやってくれないか』と思いました。
後に母は、その時の処置ほど生涯で痛い思いをしたことはなかったと会う人毎に話してました。

処置しながら医師が話したことは、膿を出さなかったのは、切開すると癌がキノコのように耳の下から生えてくることがあり、見栄えがよくなく、そうなったら気の毒だから、というようなこと。
大量の膿はすべて癌の死骸だということ。「これ、みんな癌の死骸ですよ」と言ってました。
膿が多すぎて生検に出しても結果が出ない(つまり陰性だという)こと。
そうして、実際にはどれくらいの時間だったか分かりませんが、私にはとても長く感じられた、痛みに対する配慮がまるで感じられない乱暴な処置が終わりました。

同じ日ではなかったと思いますが、病院の相談室のソーシャルワーカーとも話し合いを持ちました。
その時のソーシャルワーカーの態度も不自然でした。
最初に話した時と異なり、防衛的というか、感情抜きのロボットのような応対だったのです。
Nケアマネといい、ソーシャルワーカーといい、普段は普通の人ですので、私のやったことは余程の横紙破りだったようです。

ソーシャルワーカーによれば、担当の医師は、家族が可哀そうなので入院させてあげても良いと言っているということでした。
家族より患者である母が可哀そうだと思わないのかと私は思いましたが、結局、入院はこちらから断りました。
その代わり、在宅で看護するために、在宅の末期癌患者を専門に診る訪問医を確保してもらいました。
看護師の方はNケアマネが手配してくれました。
その二つは最速でやってもらいました。そして、やっとまともな看護体制が整ったのです。

来てくれたのは緩和ケアの専門医でしたので、母は相当に楽になったようです。
もちろん、訪問看護師や専門の医師が来てくれるといっても、在宅の看護は大変でした。
腫れはある程度治まったとはいえ、母の耳の下からは相変わらず大量の膿が流れ続けていました。
看護師さんは色んな種類のガーゼ類を用意しましたが、どれも役に立たず、私は看護師さんに一番大きな夜用の生理用ナプキンを購入するように言われました。
看護師さんは私が買ってきたそれを半分に切り、膿が流れる傷口に当てるようにしたのですが、1日に2度替えてもパシャマや下着が流れ落ちた血膿でグチョグチョになりました。

ただ、そういう状態はいつまでも続くことはありませんでした。
膿の流出は徐々に治まりました。3ヵ月ほどで傷口もふさがり、その後は傷跡さへ目立たなくなって、要するに完治したのです。
皮膚の割れ目から「癌がキノコのように生えてくる」こともありませんでした。

K病院の医師の癌という診断には確定的なものは何もなく、もともと私は懐疑的だったのですが、末期癌専門の訪問医に本当に癌であったか聞くと、「膿と一緒に流れ出てしまったのかもしれませんね」ということでした。
翌年、たまたま最初にかかった町の耳鼻咽喉科に私自身がかかることがあり、その時についでに母の話をすると、そこの先生は「そんなもんが癌であるわけないやろ」と激怒しました。
その先生にすれば、自分が紹介状を書いた患者が総合病院で酷い扱いを受けたことに怒り心頭だったようです。

その前に、もう一人激怒した人がいました。Nケアマネです。
在宅で診ることになって、介護認定のし直しをする際に、Nケアマネは一応主治医ということになっていたK病院の医師に、必要書類の一つである医師の所見の記入を依頼したらしいのですが、返ってきたきた書類のほとんどすべての項目に「不明」と記されていたらしいのです。
上から下まで不明・不明・不明・不明・不明の羅列だったそうで、それにキレたらしいのです。
もちろん、そんな書類は提出できず、書き直しを依頼するかどうかという時、事情を知った訪問医が「僕が書きます」と言ってくれて事なきをえたようです。

一連の出来事はK病院の医師が最初にきちんと診療してくれていたら、母も私も、そんなに苦労しなかったと思います。
これは介護保険制度に問題があるというような問題でもないと思います。
医師の言葉、指示というのはとても権威があり、医療のシロウトの家族である私の言葉や思いよりはるかに重んじられるのです。
客観的にみて医師の指示がどれほどおかしくても、です。
Nケアマネが動かなかったこと、躊躇いの理由はそこにあったと思います。

当時の私は新しい職場に就職したばかりで、仕事は覚えねばならず、シフトの都合上、そうそう休むこともできず、一時は私は勤め先を辞めることも考えていました。
ただ当時の就職状況はとても厳しく、一度退職してしまうと再就職は難しかったと思います。
でも、介護がうまく回り始めると特に仕事を辞める必要もなくなりました。

K病院の医師が母の診療を実質的に拒否していた理由は、色々と推測は可能ですが、不明というしかありません。



夏休み

2017年08月12日 | 話題
8月に入って写真教室も夏休みだし、なんだかお疲れモードでボランティアにも行かず、勝手にボランティアも夏休みです。
(文化財収蔵館は本当は忙しくて、ボランティアにはたくさん来てもらいたいとか・・・。m(__)m  )

今日、暑くて放置してある庭にキノコを発見。
いかにもキノコらしいキノコです。

上から見るとこんな感じ。

同じ種類のキノコは2本あり、1メートル少々離れて生えてました。

さっそくお味噌汁の具に、などとはさすがに考えませんでした。

キノコが生えるなんて、やはり秋なのでしょうか。

昨日は梅田で友人とランチ。
2500円という値段のわりにはパッとしない料理。
和食だったのですがお吸い物も付いてなくて、デザートもなし。

帰り際、レジ横に割引優待カードが置いてあって、それを見ると、どうみても同じ料理が、そのカードを提示すると2000円を1900円にすると。
しかも1時以降なら1700円だと。
じゃあ2500円という値段は何? 見た目では分からない違いでもあるのでしょうか。

そもそも、そのランチは友人の提案で、「夏の味めぐり」という梅田北エリアの五つのホテルの共同企画でした。
スタンプラリー形式で、五つのホテルを巡れば何か貰えるらしい。
一つ巡っても、次のホテルで飲み物が1杯だけ無料になるらしい。
どのホテルもそのランチは2500円の設定なのだけど、何を貰ったところで最初から高く設定してあるのならホテルは損せず、お客が損するわけです。
料理も2000円でも高いと思う代物。
もう二度とこの企画には乗りません。

その後、梅田のグランドビル内の喫茶店「キーフェル」に行き、ケーキセットを注文。

友人が注文したシブースト。

私が注文したレアチーズケーキ。


グランドビルからの眺めはなかなかのものでした。


それにしても毎日暑いです。
今年の夏は何もしないで過ごします。

しめはミーちゃんです。
床の間の前でお澄ましです。




怖い話

2017年08月10日 | 思い出
昨日、NHKのBSで、京都異界中継というのをやってました。
京都に関わる怖い話ばかり百の物語を、京都の各地からライブで語るという趣向。

4時間もの長時間番組で、ほかの番組を見たり、途中でお風呂に入ったりで真剣に見ていたわけではありません。
面白かったのは生番組だったので、進行役のアナウンサーや話の話者が、結構ポカするのが分かったことです。

それとは別に、学生編で、京都の一人の大学生の話を聞いて、私自身、思い出したことがありました。
京都は大学が多く、全国から学生が大学生活を送るべく集まってくるのですが、そんな彼らは、ごちゃごちゃした街中の安い賃貸みたいなところに住むみたいです。

正確には覚えていませんが、そんな賃貸に住んでいたある女子大生、隣から話し声や笑い声など所謂生活音がよく聞こえてきたそうです。
ある日、窓からベランダに出て、隣を見ると、隣に部屋などなかったということです。
この話は京都の街中のごちゃごちゃ具合を知っていないと怖さが理解できないかもしれません。

以下はこの話を聞いて思い出した私の話です。

小学6年生の夏休み、6年生全員で学校から1泊2日の林間学校に行くことになりました。
行った場所は、市外にある、市が所有している「青少年山の家」みたいな場所です。
昼間は川遊びやらなんやら楽しみ、夜は定番のキャンプファイヤーをしました。

どこでもそうでしょうが、キャンプファイヤーでは、火の点火役はその場の最年長の人がなり、火の神とか営火長とか称して、それっぽい凝った衣装を身に着けて現れ、火をつけます。
その時の火の神は教頭先生だったと思います。やはり、凝った衣装で現れ火をつけました。

キャンプファイヤーの火が燃え盛っている時です。
私は何かが気になって後ろを振り返りました。すると遠くに白っぽい人影が見えました。
まるでシーツを頭から被っているかのような人影でした。
でも私は、ついさっき、凝った衣装の教頭先生を見たばかりだったので、その人影を教頭先生だと思いました。
まだあんな格好して、何をウロウロしているんだろうと不思議に思いました。

後になって落ち着いて考えれば、それは火の神の衣装ではなかったのですが、遠くだったこともあり、深くは考えなかったのです。
ただ、その人影の移動の仕方が、地面に対して水平に、スーと動いていったことに変な感じがしました。

キャンプファイヤーも終わり、就寝時間になりました。
子供達は2階建ての大きな建物で寝る子と、テントサイトのテントで寝る子に分かれていました。
私は建物で、2階の一番端の部屋で寝ることになっていました。
1階は男子にあてがわれていました。

部屋には2段ベッドが両側にあり、私のベッドは隣が外壁になっている側の下でした。
別の側の子達は、トントンと壁を叩いたり叩き返したりして隣室の子達と遊び始めて、私は隣が外で何もないので詰まらないなと思いました。

やがてそんな遊びにも飽きて、私は眠れずにいましたが、みんなは静かになって寝てしまいました。
すると私の真横の壁から、トントン、トントンと何者かが叩く音がしました。

隣は外の筈。しかもここは2階だし。
私はゾーーーとしました。
違う、違う。これは上のベッドの子がふざけて叩いているんだと私は思いこもうとしました。
音も止んで、私はいつの間にか寝ていました。

翌朝は大騒ぎになっていました。
かなりの数の子供達が幽霊を見たからです。
特にテントで寝た子供達が見ていました。
少なくとも私がキャンプファイヤーの時に見た白い人影は教頭先生ではなかったようです。

私も、夜のトントンと壁を叩く音の話をしました。
私の上のベッドで寝ていた子は、当然のように自分は何もしていないと言いました。
「誰かが外から叩いていたのじゃない?」という子がいて、試しに外から叩いてみましたがコンクリートの壁で、叩いてもトントンという音はしませんでした。
そもそも、私の寝ている真横を叩くには梯子が必要で、そんなことをする人がいるとは思えませんでした。

しかも、その音は私だけが聞いていたのではなく、1階の一番端の部屋の男子は全員が聞いていて、あまりに怖くて外壁側のベッドの子は内側のベッドの子と一緒に寝ていたということでした。

子供達は幽霊の話でもちきりになりましたが、何も見ず、何も聞かなかった子供達もたくさんいました。

一体あれが何であったかは今でも分かりません。
夏の夜の、私が経験した怖い話です。

お口直しにミーちゃんの可愛い写真です。
通販生活で買った私の腰痛用座椅子を占拠したミーちゃんです。