緑陰茶話   - みどりさんのシニアライフ -

エッセイとフォト

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介護はチームワーク、介護は生前供養(5)

2016年09月29日 | 思い出
介護について語る場合、介護する側とされる側の関係が、介護が始まる以前に良好だったかどうかが重要だと思います。親子だから、あるいは夫婦だからって、仲が良いわけではないからです。

私の場合、良好ではありませんでした。
にも書きましたが、母から受けるストレスで私は心療内科に通っていました。

前に書いたように、母はまな板に茸を生やすような人でした。
それは一事が万事で、明らかに使用不可能となった物を捨てないのです。

雑巾などは、何十年も使いながらちゃんと洗わないので、腐って腐臭が漂っている雑巾を使い続けていました。結果、家じゅうに腐臭が漂うのです。

母が何年も使い続けていたタオルも凄かったです。母は常時1本しかタオルを使わなかったのですが、これもちゃんと洗わないものだから、濡れている時は何かの細菌が繁殖していたのかヌルヌル、乾いた時はバリバリになって棒状でした。

母は齢と共に目が不自由になっていたのですが、母の目の病気は腐ったタオルのせいではないかと思い、何度もタオルを捨てるように言ったのですが完全無視でした。
(家に新しいタオルがなかったわけではないのです。貰い物のタオルが手つかずのまま山ほどあったのです。)

料理の時に手を拭くエプロンも、洗いもせずに使い続けるものだからカビだらけでした。
見かねて私がバスタオルを半分に切って紐をつけてエプロンを二つ作ったのですが、直ぐにカビだらけにしてしまいました。洗濯しないで同じエプロンを使い続けるからです。

庭に、肥料になると言って生ごみをぶちまけるのも頭痛の種でした。生ごみは肥料にならず、むしろ土を汚すということが分からないのです。そもそも母には腐敗と発酵の区別がつかないのでした。

とまあ、この種のエピソードを上げればきりがありません。

今、高齢者で周囲が困ることと言えば、誰もがイメージする“介護”もさることながら、いわゆるごみ屋敷に繋がってしまう、物に対する異常な執着やら、医療や介護の拒否というセルフネグレクト(自己放置)であって、私の母の場合もそれに近かったかもしれません。

母は倒れる以前、頭もしっかりとしていましたし、体も糖尿で目が悪い以外とても元気で、いわゆる“介護”の必要な人ではなかったのです。

ただ、極端に不潔な状態に自らをおいてしまう状態は、老いと共にひどくなっていったような気がします。
それは視力や嗅覚や体力の低下が隠れた原因としてあったのかもしれません。

若い頃はどうだったかというと、その傾向はありました。

昭和30年代、女性の下着(シミーズとかズロース)がまだ木綿ばかりで色も白が大半だった頃、母の下着は長年身に付け過ぎて色が茶色になっていました。
父が呆れて「それは元々そういう色だったのか、それとも醤油で煮染めたのか」とか「わしの給料は新しいものが買えない程少なくはない筈だ」とか言っていましたが、母は一切無視。

影響は子供の私にも及んでいて、小学生の頃、学校から雑巾を1枚持ってくるように言われた時、母にそのことを言うと、雑巾として家で使用中の、子供心にさすがにそれは持っていけないと思うような雑巾を持っていくように母から言われました。
その時は、私は朝早く起きて、こっそり新しいタオルを出して、それを縫って持っていきました。

ただ当時は、確かに普通とは言い難かったものの、物凄く不潔とか、悪臭ふんぷんとか、そういう次元ではなかったのです。
齢を取って、明らかに異次元の状態に突入したのです。

元々そういう傾向があって、その上、変化は徐々に起こります。だから家族のストレスも知らないうちに増大していくのです。

私の場合、症状は週末だけの激しい下痢でした。
ウィークデイは仕事をしていて家にいないのですが、週末は1週間分の掃除や洗濯や庭仕事をします。その時に症状が現れるのです。母のやったことや、やっていることを眼にしてしまうからです。
ただ、心療内科に行っても、ストレスによる過敏性腸症候群と言われただけで、薬も全く効きませんでした。心療内科には、愚痴を聞いてもらいに行っているようなものでした。

そんな状態の時に、母は倒れたのでした。
そのことを心療内科の医師(女性)に言うと、医師は「みどりさん、今のうちよ。雑巾もタオルもみんな捨ててしまいましょ」と言いました。

考えてみれば、入院期間は長い筈だし、帰っても今まで通り動けるとは思えない。眼もどうなるか。医師の話によれば1年もたないということだし。
それならばと、雑巾もタオルも、変色してヨレヨレになった母の下着もすべて捨て、新しく出したり、買い整えたり。家の中もすっかり模様替えしてしまいました。文字通り、鬼のいない間に洗濯したのです。

かくして、私の週末限定の過敏性腸症候群は、母が倒れて以後、症状が出てくることはなくなったのでした。

こんなことを書くと、そんな体に悪そうなタオルなど、勝手に捨てられなかったのかと思われそうですが、それができればゴミ屋敷の近隣住民も悩むことはないのです。

たとえば、文豪の森鴎外の娘に、森茉莉という作家でエッセイストがいました。
彼女もまたゴミ屋敷の住人でした。正確には、彼女の場合はアパートに住んでいたのでゴミ部屋の住人でした。

そのアパートが老朽化して取り壊しが決まり、引っ越しせざるを得なくなった時、彼女の部屋の家具を運び出そうにも、長年のゴミや埃が湿気で土と化していて、家具はタケノコを掘るように土と化したゴミを掘らねば運び出されなかったということでした。(手伝いに行った出版社の編集者の証言です。)

森茉莉の部屋がそれほどひどい状態でなかった頃、彼女の部屋のゴミを見るにみかねて、森茉莉の親友だった詩人の萩原朔太郎の娘である作家の萩原葉子が、ゴミ袋一つ分のゴミを無断で捨てたそうです。
森茉莉はそのことに怒り狂い、激高のあまり呼吸困難に陥り、救急車で病院に運ばれる騒ぎになったそうです。

森茉莉は晩年まで人気のあるエッセイストで、作家として活躍していましたが私生活はそんなふうでした。

母の場合も、他人には信頼されていて、様々な活動をしていたのです。

こういうタイプの人は、勝手にゴミ(と第三者には見える物)を処分されると怒り狂い、時には暴力沙汰になるのです。
かといって、どんなに説得を試みても自分でゴミを処分することもないのです。
少なくとも、相手との良好な人間関係を保つにはゴミは捨てられないのです。

こういう状況に解決策があるかどうかは疑問です。
母の場合、介護が必要なほど体の状態が悪くなったことが、結果として解決に繋がったのです。



高野山 宿坊体験一人旅(2)

2016年09月11日 | 旅行
そして、いよいよ宿坊体験です。

そもそも、高野山に行ったのは宿坊に泊まりたかったから。
宿坊についてはNHKの番組で取り上げられていて興味津々でした。
中でも、高野山の宿坊は一番行きやすそうだったのです。

ただ、友達にその話をしても理解されませんでした。
「雑魚寝なんでしょ」とか言われたりして。

確かに、関西で生まれ育った私くらいの年齢の人間にとっては、高野山の宿坊は、私は行ったことがありませんでしたが、林間学校とかクラブの合宿とかのイメージなんです。

でもそれって、40年以上前の話ですよ。今、雑魚寝の筈がないのです。
(雑魚寝の宿坊もあるのかもしれない、それは分かりませんが、私も調べて行くので)

宿坊で体験したいものは三つありました。

1、精進料理
2、朝のお勤め
3、阿字観

三つとも体験することができました。

私が泊まったのは不動院という宿坊。
口コミの評価が高かったのでそこにしました。

お部屋はトイレ付きで、新しくてきれいでした。
ただ、窓が小さく外がほとんど見えず残念でした。

部屋の床の間のお軸や額。



庭です。




化粧を落とすのが面倒でしたのでお風呂に行く前に食事しました。

精進料理はお膳では出ませんでした。
一の膳、二の膳、三の膳といったお膳で出ることを期待していたので、ちょっとがっかり。
席はテーブル席で、正座しなくてすむので、その点は楽かも。

高野山中でも古くて由緒ある庫裡が食堂になっていて、宿泊客全員でいただくのですが、食べるテーブルは別です。
部屋数は多いようでしたが、泊まっている人の数は見たところ16人くらい?
食事中、庫裡は少し寒かったです。

私は一人旅でしたので、6人席を一人占め状態です。

お料理です。


お味の方は雑味のない精進料理です。
ただ、カラーピーマンや茗荷の炊いたのなどは微妙な感じ。


不味くはないのですが、冒険し過ぎの印象でした。

特筆すべきはご飯が美味しかったこと。
普通の白ご飯ですが、ご飯だけで、他に何もなくても食べられるくらい美味しかったのです。
私はいつも1膳しかいただかないのですが、2膳いただきました。

それでもお櫃にご飯が少し残ったのですが、内心、🍙にして持って帰りたいくらいでした。
美味しいので塩もいらないくらい。
おかげでお腹いっぱい。

夜はお風呂に入り、朝が早いのでテレビを9時まで観て寝ました。

夜中1時30分頃、汗びっしょりで目が覚めました。
自律神経失調症によるホットフラッシュです。
高野山の気温の低さに体温調整が狂ってしまったみたいです。
浴衣はもちろん、枕もシーツも汗でジットリで

その後は眠れず、寝ても変な夢みたり・・・。

翌朝は6時30分起床。

朝のお勤めは7時からで、6時50分には宿のお坊さんが迎えに来ます。
だから大慌てで着替えて身支度整えました。

本堂で行われるお勤めは参加自由ですが、欧米系の外国人宿泊客も含め、ほぼ皆さん出てきてたみたい。
やはり椅子席で、足は楽でした。

法主さんに二人の弟子僧の3名での読経。
その後、渡されていた般若心経をみんなで唱えました。

小鳥の声が聞こえる寒いほどの凛とした空気の中、最後に法主さんの説法でお勤めは終わりました。
日本人宿泊客が席を立つ頃、法主さんは外国人宿泊客の傍に行き、流暢な英語で何か(たぶん説法)言ってました。

そのまま朝ごはんになりました。


やはりご飯が美味しい。精進料理だからか、卵はありません。
でもヨーグルトはついていました。(精進料理でヨーグルトはOKなのか?)

食後はいったんお部屋に戻り、お坊さんのお迎えをうけて、また本堂に行き、阿字観を体験しました。
来ていたのは5名でした。

阿字観というのは、真言密教の瞑想法の一つで、目的は大日如来と一体化することです。
というと特殊で難しそうですが、ヨガや禅同様、その実践は精神の安定をもたらすものでもあるようです。

最近、たまたまNHKの番組の「助けて‼ きわめびと」というのを観ました。
そこで、すぐ人と争ってしまう人が、合気道で「争わない“チカラ”」を学んでいたのですが、その時の合気道の呼吸法と阿字観で学んだ呼吸法が似ていました。

ここで私がいい加減な事を書いてはいけないのですが、要するに吸うことより吐くことにポイントを置く腹式の呼吸法です。
詳しくは、本当に阿字観体験してくださいと言うしかないです。

それで私が少しは悟りに近づいたかというと、当然のことながら、全然です。
でも、今後は少しでも複式の呼吸法を取り入れればと思っています。

その後は、10時にチェックアウトして、観光することなく、そのまま家に帰りました。

下界というか、俗界というか、煩悩にまみれた日常を離れて、たまの高野山は良かったです。



スポーツジムで大失敗(-_-;)

2016年09月05日 | 日記
今日、スポーツジムで大失敗しました。

入会して1ヵ月たったので、体成分分析を受けて、隠れ肥満を脱していたのは良かったのですが、プールで水中ウォーキングし、その後お風呂に入って、その後のことです。

間違えて、知らない人のバスタオルで体を拭いてしまったのです。

なぜ間違えてしまったのか。
とても良く似たタオルで、「あら、こんな所に置いてたわ」と思って使ってしまったんです。
そのタオル、ほかの物はなくて、タオルだけ置いてあったのです。
その前に、私も一回、自分の荷物を移動させてたので、勘違いしてしまったのです。

体を拭いてから下着を身に着けようとして、下着と一緒に自分のバスタオルが・・・

もう、どうしようかと思いました。
私が使ったバスタオルの持ち主は、プールなのか、お風呂なのか、いませんでした。

出てくるのを待って、事情を話して謝罪し、バスタオルを交換する?
何してくれるのよ」なんて怒鳴られたらどうしよう。

一瞬、自分のバスタオルも、使ってしまったバスタオルも置いてトンズラ・・という考えが脳裏をよぎりましたが、それだけはいけないと思い・・・。
冷静になって、スタッフを探しました。

運よくスタッフが脱衣所に入ってきて、すぐ事情を話しました。
20代前半の若い女性でしたが、落ち着いてましたね。

「ご自分のバスタオルは持って帰ってください。レンタルのバスタオルがありますので、お手紙をつけてそれを置いておきます」と。
手紙を書くまで待ってくれるように言われ脱衣所で待つことに。
もしその間にバスタオルの持ち主が来たら私も事情を話し、謝ることにしました。

そのうち、スタッフがレンタルのバスタオルと事情を書いたメモを持ってきて、バスタオルに見えやすいようにそれを貼りました。

「もう良いですよ」とスタッフに言われましたが、そのまま帰っていいものかどうか。
人のバスタオル、使っちゃいましたしね。

会って謝れるものなら謝ることにして、ロッカー室で服を着て、髪を乾かし・・。
その間、何度か脱衣所を覗いてバスタオルの持つ主がいるか探しましたがいませんでした。

脱衣所を何度も覗くのも何だし、いいのかなぁと思いつつ、帰りました。

レンタルのバスタオルのレンタル代は取られませんでした。

バスタオルの持ち主の方、申し訳ありませんでした。

大失敗、大反省の一日でした。


高野山 宿坊体験一人旅

2016年09月04日 | 旅行
介護のテーマは少し休憩し、先日高野山に行ったときのことを2回に分けてご報告です。

8月末、予約してあった高野山の宿坊に一人で一泊してきました。
空気は清涼で、長袖の上着は着ていましたが、思いのほか肌寒かったです。

高野山は初めてではありません。
リーマンショックの直後、20年以上勤めた会社が破産し、失業していた頃、友人と一緒に行きました。
その時は日帰りで、行きのみ〝天空〟に乗りました。

その時は10月末頃に行ったのですが、紅葉が全くなくて、高野山というのは、紅葉のない場所なのかと思ったものです。
その時に詠んだ句。

   職もなく紅葉もなきや高野山

今回の旅は宿坊で色々体験することが目的です。
でも、一応はゆっくり高野山を回りました。

8時過ぎに家を出て高野山駅についたのは11時半。金剛峯寺のある千手院橋のバス停に着いた頃には丁度お昼になっていました。

お腹が空いたので腹ごしらえしたかったのですが、食べる所が少なく、あっても待ち時間が長いから他を当たってくれと言われたり。
ウロウロして喫茶店を見つけ、そこの手作りカレーがやたら美味しかった。
渡されたメニューはなぜか英語でしたが。(日本人に見えない? まさか中国人に見えた?)
ちなみに高野山で使われている外国語は英語とフランス語です。

腹ごしらえしたところで高野山真言宗の総本山である金剛峯寺へ。


中に入って、見学もしましたが、運悪く80人の中国人観光客のツアーとぶつかりました。
ゆっくり見学なんてできない。

基本、高野山は中国人観光客は少ないのですが、不運としか言いようがないです。
途中でお茶とお菓子の接待が大広間みたいな部屋であったのですが、係の人がせっかく用意した80人分のお茶を、添乗員らしき人が時間がないということで要らないと言っていました。
「せめてお菓子だけでも」と係の人は叫んでました。

でも私はそこで中国人観光客と別れることができ、内心、ヤッターです。
お茶は色の薄い感じの緑茶でしたが、とても美味しいお茶でした。

金剛峯寺内部のお部屋の襖絵はカメラで写せないのですが、お庭は写せます。




このお庭は日本最大の石庭だそうで、雌雄一対の龍が奥殿を守っているように表現されているとか。
名を蟠龍庭と言うそうです。

金剛峯寺から多くの堂塔が立ち並ぶ壇上伽藍へ歩いていきました。
蛇腹道という道なのですが、そこで前に見つけることができなかった紅葉を見つけることができました。
季節はまだ早く、色づいてはいませんでした。
そこで一句。

   高野山我待つ紅葉まだ青し

根本大塔や金堂には入ってお参りしました。
国宝の不動堂から根本大塔を臨んだ写真です。



この後バスで奥の院口へ。
そこから歩いて御廟までお参りしました。一番手前の新しいお墓に在日名のものがあったのですが、どこかのツアーのガイドから漏れ聞いた説明によれば、最近建った一番高いお墓だそうで2億円とか。
在日の方でも真言宗の人がいらっしゃるのでしょうか。にしてもお墓に2億円とは・・・。


鬱蒼とした杉の森は気持ちが良かったです。

帰りに参道の途中にある姿見の井戸を覗いてみました。
その井戸を覗いて、自分の姿が映らなければ3年以内に死ぬんだそうです。
ちゃんと映ったので、私は後3年は生きられるみたい。
この井戸を覗く勇気がない人もいるらしいです。

参道を抜け、一の橋からはバスに乗って予約していた宿坊まで行きたかったのですが、バス亭が分からず歩くことにしました。
途中、苅萱堂に入りましたが、そこの人があれこれ話しかけてきて物を買わせようとしたりするので早々に退散。

私が泊まる宿坊の前には、新しい建物である摩尼宝塔があり、そこにも入ってみました。
そこの釈迦如来はビルマ(現ミャンマー)から寄贈されたものとか。
どうやらミャンマーと関係の深いお堂のようで、戦没者の慰霊の為のもののようでした。

堂の中を巡ると、高野山では有名な三鈷の松の3本松葉も置かれていました。お守りとして自由にお持ち帰りくださいと書かれていて、言っては悪いですが苅萱堂とはえらい違い。
100円置いて、一つ頂きました。

(2)に続きます。