緑陰茶話   - みどりさんのシニアライフ -

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確率とリスクと責任

2016年05月08日 | 話題
お久しぶりのブログです。

ここしばらく、ボランティアの研修や、旅行や、シニアカレッジでの街歩きやら、ある意味ブログネタだらけで、かえって何も書けないし、一つ一つの出来事の私自身の頭と心の印象もまとまりがつかない状況。
そこへもって熊本の地震。ドカーンと落ち込んでしまいました。

そこで、ちょっとシリアスな話題となりますが、私が密かに懸念している火山のカルデラ噴火について思うことを書いてみます。

カルデラ噴火について、ちょっと説明すると、日本列島ではカルデラ噴火は平均すると6000年に一度、主に南九州と東北・北海道で起きています。
この前の噴火は7300年前、もういつ起きてもおかしくない時期です。

今後100年以内に起こる確率は、火山学者によると1パーセントで、阪神淡路大震災が起こった確率と同じとのことです。

実は、阪神淡路大震災の前日、私の兄は地震が来るかもしれないからと言って部屋の模様替えをしていました。その一週間前には同僚が「大地震が来るかもしれない。不安だ」とも言ってました。

地震が来る前は、私は二人のことを『気の小さい人達』と全く馬鹿にしていたのです。

実際に起こって、兄に地震が起きることが分かっていたのか聞いたところ、阪神間は活断層だらけでいつ起こってもおかしくないと知っていたから前日に部屋の模様替えをしたのは不思議でもなんでもないと言われました。

確率とはそういうものなのです。

日本でカルデラ噴火が起これば被害は壊滅的で、7300年前の噴火では、そのために九州の縄文文化が消滅しています。噴火後、再び九州で人が住み始めたのは1000年後だったのが、発掘調査等で分かっています。

もちろん九州だけが被害を受けるのではなく、日本中に火山灰が降ることになり、その被害により、現代ならば日本のライフラインはほぼストップします。その結果、最悪の場合、1億2000万人の生活不能者(死者)が出るとされています。

煽りで書いているのではない証に、ある程度信頼できるサイトを以下に挙げておきます。

神戸大学
NHK

そんな凄い災害については考えても無駄、起きたらその時の事と思ってしまいそうですが、私は、たとえ日本に住む大半の人が助からなくても考えておくべきだと思うのです。

そうなんです。原発の存在です。
カルデラ噴火が起きれば、大量の火山灰により、日本中の原発もまたコントロール不能になり、メルトダウンに至るでしょう。
結果、世界中に放射能をまき散らすことになるのです。

どうせ自分は死ぬのなら、世界がどうなろうと別に構わないでしょうか。
私はそうは思いません。

その時、大袈裟でなく日本人の大半が死滅するとしても、他国の人達は生きています。
日本以外に住む多くの動物や鳥や魚も生きています。
自分は死ぬんだから、彼らの命や安全を脅かして良いとは思えないのです。

それに、一部の日本人は助かるかもしれませんが、原発の存在は彼らの日本での復活をあり得なくします。(日本列島の、福島以上の高濃度の汚染はさけられません。)
また海外に逃れたとしても、福島で経験しているにもかかわらず、火山の危険を承知の上で、原発を廃棄せず稼働させていた日本人が歓迎されるとも思えません。

日本が原発を廃棄しないということは、それほどの人類と地球環境に対する責任の放棄につながっていると認識しておくべきだと私は思うのです。
(同時に、忘れてはいけないのは、福島では今でも放射能で汚染された地下水を海に流し続けていることです!)

地震同様、火山の噴火予知は極めて難しく、分かっても数日前。ですから、仮に噴火することが分かったとしても、廃炉に間に合う筈がありません。

実は私、2年前の御嶽山噴火の1週間前、飛騨高山と白川郷の観光で、濁川温泉のホテル「旅館御岳」に泊まっていました。そのホテルは御嶽山に登山する人がよく利用するホテルでした。

ツアーの観光バスのガイドさんは、観光案内しながら御嶽山に登ることを勧めていましたが、私はゾッとしたものです。
なぜなら、私は以前にNHKのテレビで観て、御嶽山がいつ噴火してもおかしくない火山だと知っていたからです。
事実、その日から1週間後、御嶽山は噴火し、63人の死者・行方不明者が出ました。
いつ噴火するか分からない危険な山だと指摘されていたのに・・・。

地震や噴火については悪質なデマが多いのは事実です。
実際、確定的なことは何も言えず、個々の地震や噴火の確率とリスクの大きさが語られるだけです。
そしてカルデラ噴火のリスクの大きさは決して馬鹿にできるものではないのです。

原発を廃棄しないことは、地震と火山の国の住人である日本人の、人類と地球環境への責任が問われていることだと私は思うのです。