私はボランティアで市の文化財収蔵館によく行きます。
そこでは、現役時代には知ることのなかった色んな知識を得ることができます。
その内の一つ、博物館における写真撮影について(文化財収蔵館も博物館です)。
市の文化財収蔵館でも発掘現場や様々な文化財資料の写真を撮るのだそうですが、実はその写真、すべて昔ながらのフィルム写真で、今主流のデジタル写真ではないのだそうです。
理由はデジタル写真は容易に改竄可能だから。
逆に言うとフィルム写真では大きな改竄はできないから。
文化財は詳しく調査される以前に現物が損なわれたり、災害等で無くなってしまうことは幾らでもあるようです。
その一方で、古文書の文字一つで歴史が大きく塗り替えられることだってあるのです。
現物がすでになく、写真しか残されていない場合、簡単に改竄できるデジタル写真で撮ったものには信憑性はないと見なされかねないので、あえてフィルム写真で撮るみたいです。
博物館ではデジタル写真を使わないという話を聞いた時、私は正直感動しました。
そこまで厳密に資料を取り扱うのかと。
博物館とか文化財収蔵館というと、どんなお宝があるのかと思われそうですが、実は、大半が見るからに価値のないガラクタなのです。
それでも一つ一つフイルム写真を使用するのです。
私が感動した大本の理由は、この1年以上の、モリカケ問題だけでない、改竄・隠蔽・廃棄といった事がざらに行われているこの国の現況、さらに国民がその事に何とも思わないでいることに、絶望に近い思いを抱いていたからです。
最近も、あちこちの学校のイジメ問題で、学校や教育委員会が事実の隠蔽を図るのに必死になっているのを見聞きするにつけ、日本人もトコトン堕ちたなと思わざるをえませんでした。
フィルム写真で撮ることぐらい、特に感動することでもないのかもしれませんが、そんなことで感動するくらい、きちんと記録を残そうとしない、この国の現況は酷いと思うからです。
なにより、自分に被害が及んでからでは遅いのに、国民の無関心も酷いと思います。
私も、自分には関係のない話ではないのです。
もう15年くらい前の事だったでしょうか。
長く掛かっていて、過去に手術もしたこともある総合病院に久しぶりに行った時、見ると分厚い筈の私のカルテが妙に薄っぺらいのです。
医師との会話でカルテの話が出て、5年以上前のカルテは廃棄されたと言われました。
法的に問題ないとかで・・・。
自分の医療記録の大半が失われたと知って「それって大変なことじゃないですか」と私が言うと、医師は私の顔を見て「そうですよ。大変なことですよ」と言いました。
後々どういう医療過誤が発覚するかも分からないのに、5年って、いくら何でも短すぎるではないですか。
廃棄する前に本人に連絡してもらえば、私が自分で持っていたいくらいのものです。
日本という国はなぜ記録というものを、そんなにも疎かに扱うのでしょうか。
カルテに関しては、日本医師会は電子媒体化を前提に永久保存を提唱しているようです。
古い紙のカルテもマイクロフィルムを電子化すれば保管場所に困ることもない筈です。
なぜそうしないのか、厚生労働省の都合が悪いからでしょうか。
話はその辺りに落ち着きそうです。
カルテというのは、時には歴史を語る資料であることを、去年見たNHK、ETV特集のドキュメンタリー「隠されたトラウマ~精神障害兵士8000人の記録~」で知りました。
敗戦時、国の命令で役所に保管されていた多くの公的文書が廃棄・焼却されました。
(今に続く、現政権にとって都合の悪い資料は素早く廃棄する伝統はその時培われたと以前聞いたことがあります。)
そんな中で、戦場で精神障害を発症した患者達のカルテを、政府の命令に反し、廃棄・焼却せずドラムカンに入れ地中に隠した医師達がいたのでした。
それを指示した医師はカルテを50年間公開しないと決めていたとか。
50年経ち、公開されたカルテの内容の紹介がその番組でした。
その内容は、第二次世界大戦の日本軍の残虐行為を無かったこととして、日本を美化したい今どきのネトウヨが聞けば「嘘だー!!」と叫びたいようなものです。
時には子供まで殺さねばならない状況の中で、心を病んだ兵士達の記録だからです。
殺された中国人の側から見れば、同情なんてとてもできないことでもあるのです。
(今書いていて、なぜか私は、最近起こった無差別殺人の加害者を「死ぬんだったら一人で死ね」と感情的に攻撃する人達のことを思い浮かべてしまいました。)
日本軍は戦争末期になると本来徴兵してはならない知的障害者まで戦場に送り込み、彼らが精神を病み、かつてのように普通に生活できなくなっても、障害者だったという理由で恩給(年金)の対象からも外していました。
8000人のカルテは、公的文書を残すということの意味を改めて思い知らせてくれます。
資料や公的文書は改竄することなくまず残して、そこに記された辛い事実と向き合うことからしか、より良い未来は開かれないと思うのです。
誇るに足る国とは、そういう国の筈なのです。
そこでは、現役時代には知ることのなかった色んな知識を得ることができます。
その内の一つ、博物館における写真撮影について(文化財収蔵館も博物館です)。
市の文化財収蔵館でも発掘現場や様々な文化財資料の写真を撮るのだそうですが、実はその写真、すべて昔ながらのフィルム写真で、今主流のデジタル写真ではないのだそうです。
理由はデジタル写真は容易に改竄可能だから。
逆に言うとフィルム写真では大きな改竄はできないから。
文化財は詳しく調査される以前に現物が損なわれたり、災害等で無くなってしまうことは幾らでもあるようです。
その一方で、古文書の文字一つで歴史が大きく塗り替えられることだってあるのです。
現物がすでになく、写真しか残されていない場合、簡単に改竄できるデジタル写真で撮ったものには信憑性はないと見なされかねないので、あえてフィルム写真で撮るみたいです。
博物館ではデジタル写真を使わないという話を聞いた時、私は正直感動しました。
そこまで厳密に資料を取り扱うのかと。
博物館とか文化財収蔵館というと、どんなお宝があるのかと思われそうですが、実は、大半が見るからに価値のないガラクタなのです。
それでも一つ一つフイルム写真を使用するのです。
私が感動した大本の理由は、この1年以上の、モリカケ問題だけでない、改竄・隠蔽・廃棄といった事がざらに行われているこの国の現況、さらに国民がその事に何とも思わないでいることに、絶望に近い思いを抱いていたからです。
最近も、あちこちの学校のイジメ問題で、学校や教育委員会が事実の隠蔽を図るのに必死になっているのを見聞きするにつけ、日本人もトコトン堕ちたなと思わざるをえませんでした。
フィルム写真で撮ることぐらい、特に感動することでもないのかもしれませんが、そんなことで感動するくらい、きちんと記録を残そうとしない、この国の現況は酷いと思うからです。
なにより、自分に被害が及んでからでは遅いのに、国民の無関心も酷いと思います。
私も、自分には関係のない話ではないのです。
もう15年くらい前の事だったでしょうか。
長く掛かっていて、過去に手術もしたこともある総合病院に久しぶりに行った時、見ると分厚い筈の私のカルテが妙に薄っぺらいのです。
医師との会話でカルテの話が出て、5年以上前のカルテは廃棄されたと言われました。
法的に問題ないとかで・・・。

自分の医療記録の大半が失われたと知って「それって大変なことじゃないですか」と私が言うと、医師は私の顔を見て「そうですよ。大変なことですよ」と言いました。
後々どういう医療過誤が発覚するかも分からないのに、5年って、いくら何でも短すぎるではないですか。
廃棄する前に本人に連絡してもらえば、私が自分で持っていたいくらいのものです。
日本という国はなぜ記録というものを、そんなにも疎かに扱うのでしょうか。
カルテに関しては、日本医師会は電子媒体化を前提に永久保存を提唱しているようです。
古い紙のカルテもマイクロフィルムを電子化すれば保管場所に困ることもない筈です。
なぜそうしないのか、厚生労働省の都合が悪いからでしょうか。
話はその辺りに落ち着きそうです。
カルテというのは、時には歴史を語る資料であることを、去年見たNHK、ETV特集のドキュメンタリー「隠されたトラウマ~精神障害兵士8000人の記録~」で知りました。
敗戦時、国の命令で役所に保管されていた多くの公的文書が廃棄・焼却されました。
(今に続く、現政権にとって都合の悪い資料は素早く廃棄する伝統はその時培われたと以前聞いたことがあります。)
そんな中で、戦場で精神障害を発症した患者達のカルテを、政府の命令に反し、廃棄・焼却せずドラムカンに入れ地中に隠した医師達がいたのでした。
それを指示した医師はカルテを50年間公開しないと決めていたとか。
50年経ち、公開されたカルテの内容の紹介がその番組でした。
その内容は、第二次世界大戦の日本軍の残虐行為を無かったこととして、日本を美化したい今どきのネトウヨが聞けば「嘘だー!!」と叫びたいようなものです。
時には子供まで殺さねばならない状況の中で、心を病んだ兵士達の記録だからです。
殺された中国人の側から見れば、同情なんてとてもできないことでもあるのです。
(今書いていて、なぜか私は、最近起こった無差別殺人の加害者を「死ぬんだったら一人で死ね」と感情的に攻撃する人達のことを思い浮かべてしまいました。)
日本軍は戦争末期になると本来徴兵してはならない知的障害者まで戦場に送り込み、彼らが精神を病み、かつてのように普通に生活できなくなっても、障害者だったという理由で恩給(年金)の対象からも外していました。
8000人のカルテは、公的文書を残すということの意味を改めて思い知らせてくれます。
資料や公的文書は改竄することなくまず残して、そこに記された辛い事実と向き合うことからしか、より良い未来は開かれないと思うのです。
誇るに足る国とは、そういう国の筈なのです。