恩師のご著書「思いの中に生きる」より
思いの中に生きる
先の続き・・・
そして、一週間たってお見えになりました。
よく言うのですが、一回お会いしますと大慨の方を私は覚えているのです。
「ア、 この前お見えになりましたね」とか、「○○が悪かったですね」とか、
本当にコンピューターほど顔をよく覚えています。
名前は知りませんけど、顔は知っているのです。
ところが全く見覚えがのない方、きれいな明るい方がお見えになっておられます。
「いつ見えたのですか」と尋ねましたら、
えらく嬉しそうな顔をして笑っておられるのです。
それで、「どなたでしたかな」と言って聞きましたら、「あの泣いていた者です」
と言われて、全く別人になっておられました。
ものすごく明るい顔で。
やっぱり別嬪さんでも泣いていたら顔も歪んできます。
嬉しいお顔をされていたらものすごくきれいなお顔の方です。
で、「あんたでしたんか」と言うと、
「お陰さまで本当に助けてもらいました」と言って、嬉しいお顔で、
もう全然想像つかないような顔になってしまっておられました。
その姿を見せてもらって、
その方の目が直ったからその人がそんなに幸せになってくれたのかというと、
やっぱり目は見えないままです。
肉体に何の変化もないのですね。
片方は見えないし、片方は見える。
その中で、四年間朝から晩まで泣き続けていた方が、
その方の心が潰れた目の方へ向いていたから泣いておられただけで、
その方の心がある方の目に向けられて感謝に変わると、
今度は喜びの毎日に変わってしまったのです。
といいますのは、
環境、片目が潰れたという環境の中に私たちは生きているのではなく、
その思いの方の中に生きているという証拠ですね。
そして、人は苦しみの毎日を送る。
悲しみの毎日を送る。
ところが、同じような環境の中にあっても喜びの方に心を向けた時、
その人は極楽の生活をします。
そして、感謝。
目が片方なくても感謝と喜びと、そして片目は見えるという希望、
そういう思いでその方が一生を送ってくださったら、その人は片方の目が
なくても、間違いなしに極楽へ行かれます。
しかし、もし私とお会いできなかったら、
あの人は死んだら地獄へ行かれます。
悲しみと苦しみの世界に入っていかれます。
ですから、これは一つのたとえとして現実にあった方の
話しですけれども、
そのように環境の中に生きているのではなく、
思いの中に生きているのだということのいい証しになると思います。
どんな苦しみの中にあっても、どんな辛い中にあっても、
その思い方を変えていけばいいのです。
そのとき、苦しみが喜びに変わります。
この見方の方法をうまいこと応用して下さい。
そうすれば、喜べば喜びごとが必ず続きます。
喜べば 喜びごとが 喜んで 喜び集めて 喜びに来てくれます。
また逆も真なりですね。
悲しめば 悲しみごとが 悲しんで 悲しみ集めて
悲しみに来ます。
ですから、苦しんだり悲しんだりしたら、
「泣き面に蜂」と言う言葉、これも
真理です。
大きな声で泣いていようものなら、蜂が飛んできて刺して、
また泣かしてくれます。
それといっしょで常に明るい光を自分の心にいただいているんだと思います。
それは自分の思い方でどうにもなるのですから。