浄心庵・長尾弘先生「明来闇去」

 ~ 誰れもが幸せになれる御教え ~

明来闇去

2020-10-16 00:56:33 | 明来闇去

恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より

        第二章 必要なのは正しい生命観の確立

        ◆魂の修行という生命の目的を知ること◆


先の続き・・・

私たちは人間として生まれる以前は
調和と安らぎに満たされた世界におりました。
今私たちが住んでいる次元とは異なる世界です。
こちらが本当にある世界、実在界です。
私たちにはあるよう思える空間や距離や時間さえも、
実在界(あの世)には存在しません。
そこから、私たちはこの仮の世界、
地球上の一時だけの物質化された現象界に厳しい魂の
修行のために出て来ています。
実在界から現象界を見ると、
それはそれは粗悪な危険極まりない修行の場所です。
一歩踏み外せば断崖絶壁から転げ落ちる、
あるいは深い深い泥沼にはまるかもしれない。
又、あの蟻地獄そのものです。

それほどこの現象界とは危ない所です。
誰しもが幸福な人生というものを望みます。
自らの欠点を直さなくてもいいのだと言われる方でも、
自分が不幸でもいいとおっしゃる方はおられません。
それは、調和した光あふれる「魂のふるさと」において味わった幸福感、
至福の芳香というものが、記憶の底に残っているからにほかなりません。
望郷の思いであり、郷愁、ノスタルジアの思いです。
再びかつての幸福感を体験するには、
この現象界の様々な困難や危険や誘惑に負けることなく、
それらをのりこえて、自らの心の奥深くへと探求していかねばなりません。
そのための悪癖の修正とも言えます。

私たちは食べるために働き、生活のために汲々としたり、
時には間違ったことも認めなくてはならなかったり、
人の嫌な面や自分の汚らわしい部分にも直面させられたりと、
肉体を持つかぎり不自由きわまりない人生を強いられています。
しかし、人間はただ食べて寝て働いて、適当に遊んで、
肉体の終わりとともに一生を終えるだけの存在ではありません。
なんのために命をいただき、この地上に出て来ているのか。
それは少しでも魂を進化させ、向上させるためだったはずです。

もちろん、その結果としてこの世の生活が充実し、
幸せも健康も自分のものにできるものでなくてはいけません。
その上で魂のふるさとにいつの日か帰り着き、神様と、
そして魂の兄弟たちとの約束を果たしてまいりましたという
安らかな喜びをお伝えすることです。
そのためにも毎日を心豊かに過ごせるよう、
反省と善き行いの努力をすべきです
一休和尚に次のような道歌があります。
「世の中は喰うてくそして寝て起きてさてその後は死ぬるばかりか」
物質だけを追い求めて生きると、どれほど地位、名誉、財産を得ても、
このような一生になります。


明来闇去

2020-10-15 00:24:55 | 明来闇去

恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より

        第二章 必要なのは正しい生命観の確立

        ◆魂の修行という生命の目的を知ること◆


私たちはなんのために生まれてきたのでしょうか。
誰しもがこんな疑問をいだいたことがあるかと思います。
子供の頃になぜ自分はここにいるのかとふと思ったり、
青年期に自分の生きる道を模索して、
どんな生き方をしたらいいのかと思ったり、
また社会に出て障壁にぶつかり、このままでいいのか、
私の本当のなすべきことはなんなのかなどと悩んだりしたことは、
どなたにでも経験のあることと思います。

人生とは、人との出会いの中で展開してゆきます。
そして、あらゆる出来事を通して、悩み苦しむのです。
人と出会えば出来事が起きて来ます。
この出来事により、私たちは魂の修行をさせていただきます。
魂の修行とは、人間は人それぞれに素晴らしい面もあれば、
また素晴らしくない面もあります。
その素晴らしくない面を素晴らしくするためにこの世に
生まれて来ています。
自分の持っている悪い癖、欠点の修正です。
なくて七癖、あって四十八癖というほど、
人はそれぞれの心の癖を持っています。
その癖は遭遇する出来事によって引き出され、強く出て来ます。
わるく出る癖もよく出る癖もありますが、
特にわるい癖のほうは「業」と呼ばれています。

しかし、自分の欠点を直らないものと決め込んでいる方もおられます。
人間は不完全なのが当たり前だと信じていらっしゃいます。
赤ちゃんを見ると人間は生まれながらの天使であるとわかります。
それが成長するにつれて、心が曇ってゆき、天使失格となってしまいます。
縁ある赤ちゃんで一番早く合掌してくれた方は、
生後一か月で抱きかかえられながら
モミジのような手を合わせて綺麗に合掌してくれました。
また、生後九カ月で、
ハイハイがやっとできる赤ちゃんが綺麗に正座して合掌してくれました。
浄心庵にその写真があります。
正に小さな汚れなき仏像のようです。


明来闇去

2020-10-14 00:25:23 | 明来闇去
 
 恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より

           第二章 必要なのは正しい生命観の確立

              ◆心の重量と行き着く先◆


先の続き・・・

これは私たちの誰もがそういう心になれば、体験できることです。
誰にでも該当するということは、
重力の法則が物理的な真実としてこの現象界を支配しているのと同じく、
「心の重さの法則」も心の世界とこの世における
境遇を結ぶ法則でもあるからです。
ところがこの法則は人が死んだ瞬間に、
「この世」だけのものではないということが証明されます。

反対に砂を詰めた砂袋のような重い心でいれば、
現象界の下のほうへと沈んでゆき、
最下層にぶら下がりながら生きていることになります。
「苦しみ」を心の中に一杯詰め込んでしまった場合です。
砂袋の材料は何かというと、怒り、妬み、謗り、愚痴、貪欲などです。
相手をわるく思ったり、わるく言ったり、恨んだり、憎んだり、
いらぬ取越し苦労をしたり、不安や恐怖にとらわれたり、
嘘をついたりすることもそうです。

もちろん、人のものを盗むとか、足ることを忘れた欲望の虜になるとか、
そういうことも心を苦しめ、心を重くします。
心が軽い場合、重い場合、そのどちらもこの世に生かされている限りは、
物質、肉体の世界に心がつなぎとめられていることに変わりありません。

一定の範囲内で上のほうに風船のごとく漂っているか、
それとも砂袋ように下のほうに重く沈んでいるかの違いです。
しかし、臨終を迎え、この肉体界、現象界に心を結びつけていた
肉体の命の糸がプツンと切れると、軽い心は自ずと上へ上へと
上昇して喜びの世界へ行きます。
重い心は鉛のように垂直方向に落ちて、苦しみの世界へ行きます。
これは自然法則と同様に私たちにとっては逆らうことのできぬことです。

いかに厚い信仰をしても、どんな宗教に入っても、
どんなに善い事をしても、その結果、自分の心を苦しめますと
心は必ず重くなります。
下に行きたくない、上に昇りたいと言ったところでどうしようもありません。
先に「心の重さの法則」は「この世」だけに
適用されるものではないということを述べました。
それは、こうした意味においてです。

肉体にあるうちに魂の目的を知り、自らの心を綺麗にし、
自らの心を高める努力をすることによってのみ、
死後は自分の望む方向に行くことができるわけです。
己れ自身を愛することを神様は私たち一人一人に望んでおられます。
死んで自分が行くことになる所が、苦しみの世界ではなく
光に満たされた世界であるためにも、

日頃から自分の心を苦しめないように心がけることが大切です。
「火の車つくる大工はなけれども己がつくりて己が乗りゆく」のとおりに、
火の車を造って乗っているのは他ならぬ自分であり、
地獄へ行くのも自分が行くべくして行っているということです。
これは厳然とした法則の中における人間の選択の自由ですが、
その自由も魂の度合いに応じたものです。



明来闇去

2020-10-13 00:14:42 | 明来闇去

恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より

        第二章 必要なのは正しい生命観の確立

           ◆心の重量と行き着く先◆


地球がこの宇宙に誕生して四十六億年と言います。
そのうちで人間がこの世に生きていられる時間は、
わずか五十年、百年の間です。
電子顕微鏡で見ても見えないくらいの小さな瞬間のはかない
存在が人間というものです。

形あるものは時間の制約の中での現れにすぎず、
実体を持ちません。
かげろうのように現れては消えていく
この世のあらゆるものの中にあって、
私たちの肉体も人生も例外ではありません。
そして何一つあの世に持っていけるものはありません。

そこで、唯一確かなことは仮の宿であるこの世いる間、
私たちの心というものがどういうものがどういう状態であるのか、
それだけが次の世界に移る時の天国と地獄の分かれ道となります。
私たちは本来、心とか意識として存在しているものであり、
「この世」と「あの世」とを往復している生き通しの存在です。
肉体は「この世」で使用済になれば、脱ぎ捨てるようなものです。
ほんとうの自分は痛くもかゆくもないものです。
ところで、その方の思いがどんな状態か、言葉がどんな状態か、
行いがどんな状態か、
それによって人それぞれに違ういわば心の重さとでも
呼ぶべきものが決定されます。
それがまたその人の置かれている境遇に影響してゆきます。

まず、風船のようにごく軽い心なら、
この現象界の一定の上下幅の範囲内で、フワフワと
最上層のほうに浮かんでいます。
よく「足どりも軽やかに」とか、「心弾み、心踊る」とか、
「手の舞い足の踏む所を知らず」
とか、「欣喜雀躍」などと言った慣用的な表現があります。

すべての喜びのあまり舞い上がりそうな軽快な心の状態、
はじけそうなエネルギーに満ちた明るい心の状態を言い表した表現です。
いつも喜びや感謝に心が満たされて日々の生活を送っていらっしゃる方は、
心が軽いので上のほうに浮かび上がっています。
心が常に安らかで人の幸せを願い、そのために人々に喜びを与え、
人々の幸せのために奉仕する人です。


明来闇去

2020-10-12 00:28:42 | 明来闇去

恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より

         第二章 必要なのは正しい生命観の確立

            ◆心の重量と行き着く先◆


地球がこの宇宙に誕生して四十六億年と言います。
そのうちで人間がこの世に生きていられる時間は、
わずか五十年、百年の間です。
電子顕微鏡で見ても見えないくらいの小さな瞬間の
はかない存在が人間というものです。

形あるものは時間の制約の中での現れにすぎず、実体を持ちません。
かげろうのように現れては消えていくこの世のあらゆるものの中にあって、
私たちの肉体も人生も例外ではありません。
そして何一つあの世に持っていけるものはありません。

そこで、唯一確かなことは仮の宿であるこの世にいる間、
私たちの心というものがどういうものがどういう状態であるのか、
それだけが次の世界に移る時の天国と地獄の分かれ道となります。
私たちは本来、心とか意識として存在しているものであり、
「この世」と「あの世」とを往復している生き通しの存在です。
肉体は「この世」で使用済になれば、脱ぎ捨てるようなものです。
ほんとうの自分は痛くもかゆくもないものです。

ところで、その方の思いがどんな状態か、言葉がどんな状態か、
行いがどんな状態か、
それによって人それぞれに違ういわば心の重さとでも
呼ぶべきものが決定されます。
それがまたその人の置かれている境遇に影響してゆきます。

まず、風船のようにごく軽い心なら、
この現象界の一定の上下幅の範囲内で、フワフワと
最上層のほうに浮かんでいます。
よく「足どりも軽やかに」とか、「心弾み、心踊る」とか、
「手の舞い足の踏む所を知らず」
とか、「欣喜雀躍」などと言った慣用的な表現があります。

すべての喜びのあまり舞い上がりそうな軽快な心の状態、
はじけそうなエネルギーに満ちた明るい心の状態を言い表した表現です。
いつも喜びや感謝に心が満たされて日々の生活を送っていらっしゃる方は、
心が軽いので上のほうに浮かび上がっています。
心が常に安らかで人の幸せを願い、そのために人々に喜びを与え、
人々の幸せのために奉仕する人です。


明来闇去

2020-10-10 00:15:09 | 明来闇去
 
恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より

        第二章 必要なのは正しい生命観の確立

       ◆マクドナルド・ベインに入ったイエスの霊◆


先の続き・・・

浄心庵ではそこに集われた人々とともに現在も週に二度、
一日の反省をしますが、昭和六十二年頃でしたが、
その頃には毎日禅定を行っていると、ある時期毎日のように
不思議な現象が起こりました。
今日はどんなことが起こるのでしょうね、
と楽しそうに言われる方もおられるくらいでした。
たとえば、

禅定に入ると天上界からのものとしか思えぬ美しい音楽が流れ、
禅定を解くまでずっとそこに集う大勢の人々が
それを聞いていたことがありました。
はじめはかすかな音ですが、それがだんだんと大きくなり、
また寄せては返す波のように大きく鮮明になってきます。

時にはその妙なる調べとともにどこの国の言葉かはわかりませんが、
厳かに説法をされているような声が聞こえてまいりました。
ワァ-ッとすごい音がなり響いた時もありました。
UFOの飛行する音はまだ聞いたことがありませんが、
おそらくそんな音に近かったのではなかったかと思います。

禅定の最後にどうぞこの場に集う方々に光をお与えくださいと祈ると、
小さなうすい金の鈴を何百個も一度に振ればこのような
音色になるのかと思われるような、
とても涼やかで繊細優美な音が奏でられました。
マクドナルド・ベインさんの著書に、
イエス様が入ってこられると天から音楽が鳴り響いてくると書かれているのも、
自分の体験からよくわかるのです。


明来闇去

2020-10-09 02:05:53 | 明来闇去

    恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より

          第二章 必要なのは正しい生命観の確立

         ◆マクドナルド・ベインに入ったイエスの霊◆


先の続き・・・

「心身の神癒」を読むと、
そこには私たちの命そのものは永遠に死なないということが、うかがえます。
肉体は時間の中で成長し、衰え、ある時間が来ますと、
この世界から消えていきます。
物質だからです。
ところが、生命そのものは死にません。

魂は天上界に帰って、何回も生まれ変わるうちにいろいろなことを学んで、
それぞれの心の癖や欠点を修正していきます。
やがて、完全に成長すればこの世に生まれることはありません。
「如来は再生されないだろう」という仏典の言葉もあります。
イエス様はあの世に帰られたけれど、
ベインさんの体を通して説法をしている。
この死んでも死なないというのは、命そのものです。
生命のことなのです。

本当は生かす力と言うほうがよく、一なる神の御命だけが存在し、
私たち一個の命はそれにより生かされているだけです。
どんな聖者でもその肉体は滅びます。
ですから、「私を信じる者は私の中に生きる」という言葉の意味は、
イエスの教えの中に生きるということです。

花々を通し、動物たちを通し、人間と天使たちを通し、愛が全宇宙の中心、
神の御心より泉のように流れていると言っておられます。
神の愛とは命そのものであり、常に私たちの内なる意識へとそそがれています。
「神、我とともにあり、我、神とともにあり」という言葉の
意義深さもここからわかってまいります。
あらゆるものを生かそうとするその愛と生命の力こそは、
形なき神様から発せられるものです。
そして、人に嘘をつけても自分に嘘をつくことのできない心、
これが神のささやきです。

これにいつも耳を傾けることです。
世の宗教家の中には、過去の聖者が自分の中に入ってきたと言って、
その言葉を述べる方がいらっしゃいますが、
証拠がなければそれが本当にイエスやお釈迦様などの
語られているものなのかどうかもわかりません。
外なる言葉と内なる言葉を識別すべきです。

ところが、このマクドナルド・ベインにイエスが入った時には、
この世では聞いたこともないなんとも言えぬ美しい音楽が説法の期間中
その会場に鳴り響いたり、ご本人よりも一回り大きな姿に身体が伸長したり、
誰が見てもイエス様がのりうつっておられるとわかるほどに
お顔が変貌されたりしたそうです。
霊的なものはこのように証拠がない限りは信じてはなりません。
これも身体に現わされた心の現象の不思議の一例です。


明来闇去

2020-10-08 01:03:23 | 明来闇去

恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より

       第二章 必要なのは正しい生命観の確立

      ◆マクドナルド・ベインに入ったイエスの霊◆


マクドナルド・ベインという方の書物は、
現在のキリスト教では認められていませんが、
イエス・キリストの語られた真理の言葉が書かれています。
この方はヒマラヤでいろいろな勉強をされました。
『心身の神癒」や『解脱の真理』などの著書があります。

第二次大戦後、
南アフリカのヨハネスブルグに暮らしていたマクドナルド・ベインに
イエス様の霊が入ってきて、彼の口を通して語られました。
現代の教会の誤りを指摘しつつ、真理はキリスト教徒だけのものにあらず、
万人のものであるということを明らかにしています。
人間を神の分霊であるとしています。

現代の教会ではなぜイエス様の現わされたような
奇蹟が起きないのか言いますと、
神学に頼るばかりでイエス様の説かれた心を本当には実践していないからです。
イエス様は、「私のごとく生きた者は、私以上の力を現わすであろう」と
おっしゃっています。
私はお釈迦様の説かれた法やイエス様の説かれた真理を行うことによって、
もっとも近き弟子になろうと努力しています。

あくまでも法というのは、日々の実践によってその命が宿るものです。
お釈迦様は、「行いなく、ただ聖句だけを唱える者は
他人の牛の数を数えるが如し」という言葉を残されています。
当時、牛は財産を意味していました。
他人の財産をいくら数えても、自分のためにも
他人のためにも利益がないということです。

また、イエス様は、「あなた方は祈りによって
信仰の証しを立てようとしますが、
私は行いによって信仰の証しを立てましょう」と言われたそうです。
言うより行えということです。

「遠くにありても近き弟子。近くにあっても遠き弟子」とは。
お釈迦様の言葉です。
高橋信次先生のお口から聞き、大変感激した言葉です。
たとえ身近に仕えて師の教えを実践しない人は、遠く離れた弟子であり、
いまだ巡り逢うこともなくとも、その教えを理解し、
実践する者は最も近き弟子であるという意味です。

「心身の神癒」は、第一話から始まって第十四話までありますが、
その第一話に「我はよみがえりなり。命なり。
すなわち神の愛なり。
私を信じる者は私の中に生き、けっして死なないのである」と
記されてあります。

イエス様は肉体の生死を超越して永遠の生命があることに気付かれ、
それを得られたのですが、
私たちもまったく変わりのない本質というものを
持っているのだということを自覚したいと思います。
私が言っていることを信じてほしい、
そしてみなさんにもこの素晴らしい真理に到達してほしいという願いは、
イエス様の人類への愛でもあります。
ただし、疑問があれば追求し、もはや疑う余地がなくなってはじめて、
本当の信頼ができてくるので、無理に信念を持つのとはちがいます。


明来闇去

2020-10-07 00:27:53 | 明来闇去

 恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より

          第二章 必要なのは正しい生命観の確立

        ◆仏壇とお墓――誤やまった生命観からの迷い◆


先の続き・・・

先祖供養を主としてやっている宗教は多くあります。
この先祖供養の究極の目的はなんでしょう。
ある宗教では、六親眷属の中から亡くなった人を
一人でも多く寄せ集めてきて拝んだら、
功徳があると言って、それに戒名をつけてもらい、
何百体という親戚縁者の亡くなった人を集めて、一生懸命に拝んでいます。
もし悟っておられる方であれば、戒名をつけようが、名前を呼ぼうが、
あの狭いお仏壇の中などには来られません。
悟ったお方は自由なのですから、高い次元の世界に通常はいらっしゃいます。
この地上界のお仏壇にとどまる必要はないはずです。
そういうものに救いを求めて来られる諸霊があるとすれば、
これは成仏できていない不成仏霊ばかりです。
そういう方々を自分の家にたくさん招かれますと、良い結果は出ません。

先祖供養の本来の目的というのは、
亡くなった方々にこの現象界から思いを離して、
魂のふるさと、天上界に帰っていただくことにほかなりません。
供物やお経や線香や燈明を献じても、それで成仏できるわけはありません。
それどころか、「ここにおれば安心だ。ここにおれば、
お経も線香供えてくれる。
ああ、長いこと放ったらかしにされていたけれど、ここにいたら安心だ」と、
かえって霊をその場所にとどめてしまって、
その結果成仏できなくしてしまいます。
執着を与える結果となります。

先祖供養は先ず己が成仏することからと心得て下さい。
私たち自身の生活態度が大切です。
何時間も念仏を唱えて拝んでいても、
一家が喧嘩ばかりで不調和な生活をしていれば、
ご先祖様はちっとも救われません。

ご先祖様に成仏していただこうとすれば、まず己れが成仏し、救われて、
その幸せな姿を見てもらうことです。
それが物質のお供えなどより、何よりの供養となります。
「ご先祖様のお陰で本当に幸せに暮らさせていただいております。
お金はたくさんありませんけれど、貧乏はしておりません。
身体もお陰様で健康でございます。
いつも感謝に満たされております」というように
ご先祖様の前で報告させていただきますと、
ああよかったと喜んでくださいます。
お墓というものに意義があるとすれば、自分がこの世に生きた、
ささやかな記念碑であればよいと思っています。

自己という一個の肉体をいただいた人間が、自らの使命に目覚め、
どれだけ多くの人々に喜んでいただいたか、
どれだけ多くの人々のために尽くせたか、
どれだけ多くの人々に神の愛を捧げたか。
昭和六年七月二十五日にこの世に生をいただき、
この世を去ってあの光の世界に帰るまでの間に、
どれだけの行いができたか、この地球の上に
どれだけの善き行いを積めたか、
それらに関しての自己への讃美の碑としたいと思っています。
お仏壇も、ご先祖様に心を向けて、そのご恩に感謝し、
今の幸福を「ご先祖様のお陰です」
と報告させていただく天上界への窓口と
思わさせていただいております。


明来闇去

2020-10-05 00:18:55 | 明来闇去

恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より

         第二章 必要なのは正しい生命観の確立

       ◆仏壇とお墓――誤まった生命観からの迷い◆


もし、私は死んだらお仏壇の中に祀ってもらうのだとか、
お墓の中に入れてもらうのだと思っておりますと、必ずそこへ行きます。
死ねば肉体がなくなり、思いの世界、心の世界だけとなりますから、
この目に見える現象世界よりももっと精妙な波動の想念が写し出す世界に
住むことになります。
思ったことはこの現象世界よりも速く、そのままに現わされてまいります。
だから、死んだ後にはあの世などなく、無に帰すまでだと信じている方は、
行く先知らずとなります。
ところが、亡くなってもなお意識があるとわかり、はじめて、戸惑いますが、
生き場がないのでさまようしかありません。

そうかといって、お仏壇やお墓に入るものと思っていればそこへ行き、
やはり成仏はできません。
つまり、光あふれる素晴らしいふるさとに帰り着くことはできないのです。
死んでお仏壇やお墓の中に入ってはなりません。
これまで私たちの考えていたこととは違うかもしれませんが、
お仏壇やお墓はこの世の現象世界の物質です。
その物質に心をとらわれていては、そこから心が離れられず、成仏できません。

以前、四国に行きました時に、死んでお墓に入ってはいけませんと話していますと、
あるおばあさんが「私は毎日お墓へお参りして、どうか早くお迎えください。
ここへ入れてもらったら極楽です、と言って頼んでいます」と言われます。
「それはいけません。もし、不審に思われるのだったら、
今夜一晩おひとりでお墓に行って寝てみてください」と言いますと、
「いやいや怖い怖い、あんな所ではよう寝ません」とおっしやいます。
生きていて怖い場所は死んで行ってもやはり怖いのに決まっています。
同じ意識を持った自分が行くのですから。


明来闇去

2020-10-04 01:13:39 | 明来闇去

       恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より

         第二章 必要なのは正しい生命観の確立

          ◆服毒自殺の遺体に起きた奇蹟◆


まだ結婚前の二十七歳の女性が服毒自殺をされました。
青酸カリなので劇毒です。
人間を死に至らしめる毒には神経を麻痺させて心臓を止める毒と、
細胞を腐らせてゆく腐敗させる毒があるそうです。
麻痺させるほうの毒はサソリなどが持つものです。
蛇は大きな獲物を鵜呑みにして、消化しやすいように腐敗させるそうです。
この娘さんが飲んだ毒は細胞を腐らせるほうです。
身体の床面に接した部分はすぐに変色してきます。
仰向けなら背中のほうです。

二時間くらいで真っ黒になり、五、六時間もすると全身が腫れあがって、
鼻や口など穴という穴から汁が出て来ます。
もう見られた姿ではありません。
鼻や口には綿を詰めるのですが、細胞が腐っていますから、
鼻も口も膨れあがり、穴が広がっていよいよお化けです。
なんとかしてほしいと頼まれて、そのお宅に赴き、到着した頃には、
すでに池の底の泥といった状態にまで身体が変色していました。

お顔は紫色になり、身体は腫れあがり、
胸をかきむしって断末魔の苦しみのまま目をむいて死んでおられました。
石のごとく硬直していて指一本動きません。
今から二十年も前のことです。
あまり気の毒な姿に胸が痛みまして、家族のご諒解を得てから、
その方に向かって話しさせていただきました。
「どんな事情があったのか私は知りません。

しかし、あなたはとんでもないことをしてくれました。
自らの命を自らが絶つとは神の御心に最も背いた行為です。
神は幸せに生きよ、健やかに生きよとおおせられます。
あなたはその神のご意志に背いてなんということをしましたか。
あなたは間違ったことをしたのです。
その過ちにまず気付きなさい。
あなたは毒を飲むことで死んでしまったのです。
自分の死をはっきりと自覚しなさい。
神様の御心に背いて救われることは誰にもできません。
自然に逆らっても同じことです。
間違いを素直に認めて、神様に心からお詫びを言いなさい。
私も共にお詫びします」

泣きながら赦しを乞い、「どうかこの方の罪過ちをお赦しください。
私たちの罪をお赦しください」とお祈りさせていただき、目を開きますと、
真っ黒になって腐りかけたその方の顔がきれいになっているのです。
白くなり、ピンク色さえさしてきています。
目はむいていましたが、手で瞼に触れるとさっと閉じてくれました。
一瞬にしてお化粧をしたような顔に変わっておられました。
家族の方も親戚の方も驚いておられました。

硬直していた手が柔らかくなっていて、
ぱらっとほどけた指を組ませると今度は離れてしまいます。
縛ってはかわいそうなので、
座布団を二つ折って肘につっかい棒をして合掌してもらいました。
よかった、救われてくれたと感じまして、布をお顔にかけたのです。
有り難うございました。
この方の罪を赦していただきました、という気持ちでした。

すると、白い布が目のあたりから濡れてきまして、
見る見るうちにぐしょぐしょになりました。
「涙で濡れてしまいましたから、新しい布と替えてあげてください」
と遺族の方にお願いしました。
もはや鼻や口から汁が出ることはありませんでした。
この体験をさせていただくことにより、
神様はすべてを赦してくださることがわかりました。
そこでよく考えました。

神がもしお怒りになってお赦しにならないのなら、
いくら私のような者が泣き叫んで赦しを乞うてもこういう
現象は起きないはずです。
本人が心の間違いを反省してこれを神様にお詫びしたならば、
必ずその苦しみから救われます。
ただ、赦さないのは、自分自身の内なる良心でした。
その過ちに目覚めるまでの長い時間を苦しみの中で過ごすのです。

神様はご自分に最も背いた行為をした者さえも、救われなさい、
自ら目覚めて救われなさいと、慈愛を与えてくださっていたのです。
「自殺者は永遠の地獄へ落ちる」と説く宗教がありますが、
自殺者でも悔い改めたら救われるのです。
もし神仏の心から一メートル離れたら、
私たちは自分自身を一メートルの苦しみとして
自らを裁くようになっているのです。
しかし、それも神の御心という大宇宙大自然の正しい軌道に戻るための
調整にすぎなかったのです。


明来闇去

2020-10-03 01:06:17 | 明来闇去

恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より

         第二章 必要なのは正しい生命観の確立

         ◆棺桶を破って飛び出してきた遺体◆


人生でいちばん大切なことは何かと言いますと、どこから生まれてきて、
この世で何をして、死を迎えてどこへ行くかということを知ることです。
これを知らないと迷います。
まず、私たちは両親のご縁により肉体をいただいて、
素晴らしい光の世界からこの地上に魂の修行に来ています。
そして、その修業が終われば、またあの光輝く魂のふるさとに帰ります。
帰ることができないと、成仏できません。
この世を去る時にこの世に思いを残してはなりません。
すべてのものから心を離すことです。
自分の生まれる前に住んでいた魂のふるさとに帰らなくてはなりません。
死というものを越えて、光明燦然と輝くふるさとに帰り着くのです。

以前、こんな珍しい話を聞きました。
若い結婚前の男性が、明日結婚式という前日に交通事故で亡くなったのです。
即死でした。
即死の場合は、自分が死んだという自覚が持てないのです。
死を自覚できず結婚するという執念がどういう事態を引き起こしたかと言いますと、
すでに祭壇を組んで納棺をし、そこに安置してあるというのに、夜中になって、
バリバリバリという音とともに棺桶を破って遺体が飛び出してきました。
みんなが寄ってたかって取り押さえました。
それで、遺体を調べてみると、やはり息はしていません。
しかし、暴れ出したらかなわないので、ロープでグルグル巻きに縛って、
それから新しい棺桶を買いに行って、その中にまた遺体を入れました。
これは本当にあったことです。

死んだ者が動くということ自体、科学では考えられないことです。
そういうことは、身内としては人に知られたい話しではありません。
しかし、このような話はちょいちょいあるそうです。
私の知っている限りでも、五、六人の方からその類の話を聞きました。
人間の肉体は科学や医学では解明のできない神秘的な存在です。
現代医学の誤りは、身体がわるければ切ればよいとか、
薬を投薬すればよいと考えてきた点です。
肉体を物質と見なしてきたからです。
絶対に助からないとわかっている脳死の人を生命維持装置をつけて
何カ月も費用をかけて生かします。
実際には死んでいてもとにかく生きさせたらいいということです。
これは現代医学の大きな誤りです。


明来闇去

2020-10-02 01:00:09 | 明来闇去
 
恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より

       第二章 必要なのは正しい生命観の確立

             ◆死ぬとは何か◆


先の続き・・・

この世の肉体生活において色の世界は空の世界と重なり合っていて、
私たちの目に見えるのは、このうち物質化している色(現象)の部分だけなのです。
しかし、生まれて老いて、最後は必ず死ぬという、
時間の経過とともに移ろい消滅していく肉体が今目の前に現れている次元を超えた次元に、
永遠に「ある」世界―――言葉を換えれば、
形を現わしたり消したり自由自在に創造できる
「おおもと(根本因)」の世界―――がちゃんとあるのです。
もちろん、神は永遠の存在としてそこにおいでになります。
死ぬと魂は肉体を脱してこの実在界に帰っていきます。
これが本当の死なのです。
肉体に未練を持ったり、この世に思いを残すと、
魂は肉体からスムーズに離れなくなり、死にきれません。
迷える霊魂としてさまよってしまうということを意味します。
これをわかりやすいたとえで説明すると、

お風呂の湯船いっぱいにお湯をはったとします。
そこへスポンジボールを漬けたとしましょう。
スポンジボールの中へ水が浸透してゆきます。
お風呂のお湯が実在界であって、スポンジボールが現象界です。
スポンジの中にお湯が浸透しているように、
この世の現象界の中にあの世の実在界が浸透しているのです。
現象界と実在界が重なって一体となっています。
スポンジボールをお湯の中に漬けて、「これはスポンジだけですか」と尋ねれば、
多くの人は「いや、中に水が入っています」と言います。
「これは水がけですか」と尋ねると、「いや、スポンジでしょう」と言います。
つまり、不二一体、見えないものと見えるもの、
実在界と現象界が一つとなって現れる世界が、この世であるといえます。
このスポンジボールからうまく思いを離して、スポンジの外に出て、
実在界へ帰った人が成仏された方です。
そして、湯垢のようにスポンジボールに付着して「ここは住み慣れたところだ、
このスポンジが好きだ」と言って、スポンジから離れない人が迷える霊です。
実在界こそは私たちが帰るべきふるさとです。
そして、私たちは肉体がなくなっても、霊として存続します。
数々の体験を通して、誰よりもよく知っていると自負しています。


明来闇去

2020-10-01 00:07:21 | 明来闇去

恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より

         第二章 必要なのは正しい生命観の確立

               ◆死ぬとは何か◆


先の続き・・・

そのためにも生命の本質を知らなくてはなりません。
心臓も肺も胃も私たちの意志で動かしているわけではありません。
私たちは生命の祖でありエネルギーの元である神から分け与えられた命によって
生かされている存在です。
ですから、人は神の分け御霊と呼ばれます。
自分の命がどこから来てどこへ帰るか。
これがわかれば、心穏やかに死を迎えられます。
周囲の人々には迷惑や心配をかけなくてすみます。
「この身体は私のもので、私が生きているのだ」と思われがちですが、
それはとんでもない見当違いです。
その証拠に、「私は年をとりたくない」と言っても、
また「死ぬのは嫌だ」と言っても、
時間が経てば必ず年をとり、死ななくてはなりません、
これを自分ではどうすることもできません。

自分がいただいている命がどこから来ているのかが理解でき、
この世から離れる時は諸々の執着より思いを離し、
感謝できてはじめて、帰るべきところに帰ることができます。
「母なる大地に肉体をお返しし、魂は天の父なる神のみもとに帰る」ということです。
あの世の存在については科学的な証明がないではないかという方もいらっしゃいます。
しかし、臨死体験の研究やサナトロジー(死の科学)の開拓者として世界的に有名な
「死ぬ瞬間」の著者エリザベス・キューブラロス(一九二六年生まれのスイスの精神科医)
の努力などにより、近年では一般にもかなり浸透しつつあります。
一杯のお茶を「頂戴します」と言って飲べば、
この世からそのお茶は消えてなくなるように、
現在ある建物でも何百年か何千年も経てば消えてなくなってしまいます。
同様に私たちの肉体も現にここにあるように思っていても、
定められた時間が過ぎた時には、この肉体は消滅してしまいます。

死が訪れるとたちまちにして肉体は腐ってゆき、
一瞬たりともとどまることなく腐乱しいきます。
野に放っておけば、やがて腐り果てるか、
動物や鳥に食べられて、やがて消えてしまいます。
今在るように見えるのは、ただ一時的に現れているにすぎません。
この世に形あるものとして生じた限りは、
必ず消えてゆかなければならない宿命のもとにあります。
頂いたお饅頭が、トイレに行くとそのままの形で出て来るなどということはありません。
この世のいっさいはまったく実体がないことがわかります。
形となって現れた世界、般若心経で説かれている「色即是空 空即是色」の「色」の
世界に当たる目に見える現象世界(以後、現象界と呼ぶことにします)を「この世」と
呼んでいます。
一方で、「空」と表わされている世界、「あの世」という世界が、実はちゃんとあるのです。
そして、こちらこそが実体のある世界(以後、実在界と呼ぶことににします)です。