りなりあ

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指先の記憶 第二章-48-

2010-02-28 06:58:18 | 指先の記憶 第二章

哲也さんが知っているのは、私の家族のこと。
彼は祖母を知っている。
姫野家のことを知っている。
「婚約者になれば教えてくれるんですか?」
「そのうちに。それに、そうなれば自然と現実を知る事になる。」
知りたい事実を教えてくれる人は、もうこの世にはいない。
「姫野?どうして…拒否しないんだ?」
私のことを知っている人を、このまま帰すのは、とても惜しい。
「哲也さん。」
その声に私は部室内の人達の存在を思い出して、振り向いた。
「すみませんけれど、僕は姫野さんと付き合おうと思って、その話をしていたところですから、先に僕が返事を貰っても良いですか?」
全く空気を読まない声が響く。
「ちょ、ちょっと弘君。こんな時に」
「だって、このままだと姫野さん哲也さんと婚約しちゃうよ?」
由佳先輩の焦る声に反して、弘先輩は相変わらずのんびりとしている。
“婚約”という単語は、私には遠い世界の言葉。
「そういうことなら返事をすれば?好美。」
哲也さんの促しに、私は首を傾げた。
そんな私の肩を須賀君が両手で掴む。
「姫野?何を悩んでいるんだ?」
須賀君が問うのは、分かる。
私は中学の時から弘先輩に憧れていて。
松原英樹ファンクラブに所属していても、そこからの情報で弘先輩のことを知れるのがうれしかった。
高校に入学して、サッカー部のマネージャーになって、弘先輩との距離が凄く近くなった。
私の気持ちが大きくなったのか、また小さくなったのか、それは自分でも分からない。
だけど。
弘先輩の存在は私には特別だった。
舞い落ちる桜を思い出して、決して忘れてはいけない日の事を、私に思い出させる存在だった。
それは辛いだけではなく、悲しいだけではなく。
忘れてはいけない日に存在した、別の空間で生きる人。
世界中の全てが真っ暗だと思っていた私に、幸せに過ごす人もいるのだと、悲しいけれど現実を教えた存在。
他には何も見えなかったのに。
それなのに、弘先輩の周囲だけが異空間だった。
「決められないのなら、ゆっくりと考えればいい。」
膝を受け止めた左手が、私の頭上に置かれる。
それは、さっき松原先輩がしてくれたのとは、何かが違った。
祖母を知る人。
私のことを、私の家族を知っている人。
私の知らないことを、哲也さんは知っている。
「期限は来年の4月。」
「4月?」
「3月に好美は16歳になる。誕生日当日まで、というのは酷だと思うから4月。それまでに、どちらにするのか考えればいい。」
冷たい声。
抑揚のない、感情のない声。
でも、私は。
私から離れていく哲也さんの手を見ながら、遠い過去を探す。
何人の人が、幼い私の頭を撫でてくれたのだろう。
誰が、私を抱きしめてくれたのだろう。
「どうしてですか?私には拒む権利はないんでしょう?」
「ないよ。でも強制されるよりも自分の意思で俺を選んだほうが納得できるだろう?」
「凄い自信ですね。」
思わず、笑ってしまった。
とても傲慢な人だ。
「康太。期限は4月だ。」
哲也さんは冷たい声を残して、大輔さんと部室を出て行った。
しばらく沈黙が続き、その沈黙を瑠璃先輩が破る。
「ちょっと、どういうこと?これじゃ、まるであの時の杏依と同じだわ。小野寺君!どうして付き合っていることにしなかったの?あの時の松原君みたいに嘘を並べれば良かったのよ。
彼氏がいることにすれば、いくらなんでも」
「それは無理だと思うよ。」
相変わらず弘先輩は、口調が変わらない。
「だって、香坂さんは、あっさりと新堂さんを選んだ訳だし。僕が姫野さんと付き合っていたとしても、姫野さんが哲也さんを選ぶかもしれないよ。」
「…最初から相手に譲ってどうするのよ。」
由佳先輩の声が呆れている。
「弘先輩、どうして焦らないんですか?姫野は哲也さんの申し出を断らなかったんですよ?」
「焦ってるよ。英樹の二の舞になるのかなぁって。」
「…おい、弘。今更、俺を傷つけるな。」
松原先輩の言葉に思わず笑ってしまった私に、部室内の人達の視線が向けられた。