りなりあ

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指先の記憶 第四章-36-

2013-08-04 01:29:36 | 指先の記憶 第四章

廊下を走ると、子どもの頃に祖母に注意されたことを思い出した。
何歳の時だったのか分からない。
1人で走っていたわけではないと思う。
誰かを追いかけていたような気がする。
一緒にいたくて追いつきたくて。
右の物置に隠れたこともあった。
探してくれる人がいるから隠れた場所。
数を数えて…数え方を教えてくれた人がいたはず。
離れに辿り着いて、玄関が見える廊下に立つと、扉の向こうから声が届く。
廊下から玄関に飛び降りて、扉を持つとガシャンっと音が鳴った。
その音に雅司君が振り向いた。
捕まえていた虫を籠に入れると、私へと手を伸ばす。
「よしみ? うわー おひめさま みたい」
広げた両手は、土遊びの最中だった。
「雅司君。」
この子を抱きしめることが許される。
この子の幸せを望むことが許される。
そして、与えることも。
抱き上げようとして両腕を雅司君に伸ばした時。
「好美、雅司、止まれ!」
背後から兄の叫び声。
私の前には大きな背中。
その体の前方を覗き見ると、雅司君が空中に浮いた状態だった。
そして、彼の土で汚れた両手は、私の前に立つ人の胸元に手形をつけている。
「すみません。三上さん。間に合わなくて。」
「…いや…良いんだ…小野寺君。好美の着物が無事なら。」
振り向いて私を見下ろす大輔さんが、私の姿を見て安堵の溜息を出す。
雅司君を後ろから抱え上げた弘先輩が、宥めるように雅司君の頭を撫でた。
「好美ちゃんっ!何も履かないで怪我したらどうするの?」
足袋は、きっと汚れているけれど、響子さんの声を無視する。
「裕さん。すみません。そっちの玄関にタオル置いてあるから…外の水道で…あぁ!!雅司、大人しくしろ。弘先輩すみません。ちょっとだけ捕まえておいて下さい。」
兄は色々と指示を出して行き、雅司君の靴を脱がせた。
「響子、最小限に抑えるから諦めてくれ。」
「うぅ…分かりました。容子さん。ごめんなさい。ごめんなさい。」
私の着物の袖を紐でまとめながら、響子さんは祖母に謝り続ける。
兄は、裕さんからタオルを受け取ると、雅司君の足を拭いて、そして両手の泥も拭い取る。
私と雅司君は最初は良く分からなかったけれど、次第に視線を合わせてワクワクしてきた。
「いいぞ。行け、雅司。」
兄の合図に雅司君が両手を伸ばした。
雅司君は弘先輩に抱えられている。
靴は脱いでいるから歩くことはできない。
雅司君が両腕を私の首に回して身体は少し密着したけれど。
「康太…次は、どうすれば良い?姫野さん、抱えられるの?」
「あー無理です。そのまま雅司を抱えたままでお願いします。弘先輩の服が一番汚れていないから。」
私は雅司君の背中に腕を回すが、そうすると弘先輩の胸元に手の甲が当たってしまう。
雅司君と密着したくて抱き寄せると、弘先輩の腕が私の身体に当たってしまう。
困ったな、そう思っていたら。
「帯があるから気にしなくて良いよ。」
にこやかに弘先輩に言われた。
気にしていることを知られてしまったことや、状況を冷静に判断されたことが余計に恥ずかしくなる。
でも、弘先輩に支えられていることで、雅司君の上体は安定していて、彼は私の肩の上に手を添えているだけだった。
「おかあさんが よしみのいえ むしが いっぱい おえかき たのしいって」
和歌子さんの記憶に残る庭。
「たくさん かいて おかあさんに みせるんだ」
私も描いたのだろうか?
今の雅司君の年齢の時、たぶん私は母と離れていた。
その頃の事は何も覚えていない。
「さくら」
雅司君は、身体をひねると弘先輩の肩に手を置き、門の外を指差した。
「かいだんの いちばんうえの さくら おかあさんが いちばんすき」
母が、この家を思い出す時、隣には父がいるのだろうか?
雅司君が弘先輩の肩から手を離し、私の頬を撫でる。
小さな手がペタペタと触れる。
心配そうに私を見る瞳が、何人もの人と重なった。
兄に母に。
そして彼の父親に。
叔父にも似ている気がした。
彼の従兄姉達にも似ていて、私がまだ会ったことがない彼の祖父にも似ているのだろうか?
生きている人達に似ている幼い子の体温が、血の流れを私に教えてくれる。
若くして亡くなってしまった祖父の面影を残す兄。
祖母に似ていると言われる私。
亡くなった人に似ている私達は過去を残しているかもしれないけれど、腕の中の男の子は、しっかりと現在と未来を掴んでいる。
雅司君が私の首に両腕を回した。
「なかないで」
もっと抱き寄せたくて、彼の背中に回している両腕に力を込める。
こうして再び会えたことが嬉しくて、そして私のことを彼が認めてくれるのかどうか不安になり、感情が混乱して涙が止まらなくなる。
この子の日々の幸せに、混乱や不安を与えるのは嫌だった。
私との繋がりを、雅司君に話す必要はない気がしてくる。
悩ませたくない思いと、私を拒絶される恐怖。
今が幸せなら、このままでいたいと思ってしまう。
兄の気持ちが少しだけ分かった。
私が問えば、きっと兄は真実を教えてくれた。
何も覚えていなくて何も知らなくて。
私が現実に向かい合う日が来るのを待っていてくれた兄に、何度も心で謝り続ける。
「よしみ ぶどう たべたい」
雅司君の髪が私の左耳を撫でる。
かんざしが痛かったらどうしよう、そんなことを考えていた。
「そうだね。ぶどう…食べようか。」
動く可能な限りで、雅司君の背中を撫でた。
その時、前髪に触れる指に驚いて視線を上げた。
私の前髪を撫でる指が、そのまま頬に触れる。
私の両手は動かない状態だったから、涙で濡れる目の下に、弘先輩の唇が触れても何も抵抗できなかった。
雅司君は私の左肩に顔を埋めている状態。
「みんな、家に入ったから。」
そう言われて、少しホッとする。
でも、ちょっとだけ弘先輩を睨んでみた。
それなのに。
再び弘先輩の唇が、今度は少し長く触れた。



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