冬休みが終わり学校が始まると、弘先輩は姫野本家から学校に通うようになった。
そして、サッカー部を辞めてしまった。
ただ、遠くから彼を見るだけで、まるで中学生の時に戻ったみたいだった。
校舎内での偶然の出会いを期待したり、放課後の部活を短い時間だけ眺めたり。
ファンクラブの皆と、サッカーの試合を見に行ったこともある。
応援は楽しかったけれど、行くまでの待ち合わせも行った後の皆との会話も楽しかった。
私に、普通の女子中学生の生活を与えてくれたのは、松原先輩と弘先輩だった。
遠くから眺める日々は楽しかった。
あの頃と違うのは、弘先輩が私に気付いてくれること。
たぶん、気付いている、と思う。
手を振ってくれれば確定するけれど、弘先輩は遠くから私を見て、そしてまた歩き出す。
3階の窓から通路を見下ろすと、歩いている弘先輩が立ち止まって見上げてくれる。
だから、私が通路から見上げた時、そこに弘先輩を見つけた時は凄く嬉しかった。
それなのに、どうして会えないのだろう?
響子さんは本家に帰ると弘先輩に会うみたいだった。
弘先輩に買って行った和菓子やケーキを私にも買ってきてくれる。
最初は、それが嬉しかったけれど、どうして響子さんが会えて私が会えないのか分からなかった。
贅沢になってしまったのだと思う。
高校生になって、先輩達との距離が近付いてしまったから。
亡くなった人に会えないのは寂しいけれど、生きている人に会えないのも、とても辛い。
生きているはずの祖父と母に会えないのは、どこかで諦めていた。
でも、弘先輩に会えない事を諦める事が出来なくて…やっぱり贅沢になってしまっているみたいだ。
「好美ちゃん。ちょっと、温度高いかも」
「難しいね…やっぱり買おうかな」
響子さんと話したくない時もあった。
でも、1ヵ月も過ぎると避け続けることが不可能になってくる。
一緒に住んでいる。
家族とは、こういうものなのかと思った。
生活していくには意思の疎通が必要で、ずっと機嫌悪く過ごすわけにはいかない。
◇◇◇
「姫野」
廊下に近い席でお弁当を食べていた時、名前を呼ばれた。
一緒に食べていた女子だけでなく、クラス中が沸き立った。
「チョコレートは?」
「松原先輩。私が用意していると思いますか?」
「思わない。俺の分はなくても…代わりに渡そうか?」
弘先輩のことを言っているのだと、分かった。
響子さんと話せるようになったのは、バレンタインのチョコのおかげ。
相談したことで、私達は以前のように話せるようになった。
「姫野さん」
その声に、松原先輩が一歩下がる。
「バレンタイン」
前部長の市川先輩だった。
松原先輩の指示で和穂が動いてから、私は男子生徒達から呼び出されることはなくなった。
ただ、市川先輩のことだけを松原先輩は気にしていた。
強く言えない相手だし、話しかけることを禁止する訳にもいかず。
でも、そんな心配は不必要で、市川先輩に声をかけられたのは、とても久しぶりだった。
気を遣ってくれていたのだと、改めて感じた。
だから、この場は穏便に終わらせたいけれど、私が貰って良いのだろうか?
女子から渡すものだと思うけれど。
「姫野さん。好きだよね、ここの和菓子」
見覚えのある紙袋から取り出された透明の袋。
かわいいハート型。
「落雁?」
紙袋は、いつもの和菓子屋さん。
でも、透明の袋に張られたシールは。
「大阪、ですよね?」
不思議に思って市川先輩を見た。
「紙袋は使わせてもらえるけど、パッケージとか包装紙とか使えないんだ。売り物にならない品に使うわけにいかないし。シールは大阪の店で買った商品が、たまたま上手く剥がれたから」
ドライヤーでシールを剥がした日を思い出す。
「あの…前から気になっているんですけれど」
紙袋の絵とシールの模様。
「似てますよね。この2つの店」
市川先輩が、とても不思議そうに私を見る。
「似ているって、同じ人のデザインだし…あれ…ちょっと待って。康太に確認したほうがいいのかな?僕は今日はそれを話すつもりじゃなく」
市川先輩が焦り始める。
「えーっと、これ。僕の手作り」
落雁を指差す市川先輩。
「姫野さん。うちの店のご贔屓だよね?」
「う、うちの店、ですか?」
「正確には僕の親戚の店だけど。大阪も親戚が開いた店。売り物じゃないから簡単な包装だけど、大丈夫。味は自信あるから。姫野家はお得意様だから、いつか話そうと思っていて。それに、今年は花見を復活させると聞いたから。できれば、見習い中の僕の味見を」
「そういうことは、早く言ってくださいっ!」
立ち上がって叫ぶ私に、市川先輩が驚く。
「隠し事されるの、これからは嫌なんですっ!今まで実はこうでした、とか、知らないと思うけど、とか。そんなことばっかりで。それに、市川先輩、卒業するまで私に話しかけない約束でしたよね?」
そんな約束ではなかった気もするけれど。
溜まっていた苛々が、ここで爆発してしまった。
その時、ものすごい力で後ろから口を塞がれた。
「すみません。俺が全部悪いんですっ!」
兄の声が直接頭に響いて、痛い。
「何も好美に話さなかった俺が悪いんです」
先輩に向かって叫んでしまったことを後悔し始める。
「ごめん須賀。僕は知っていると思っていたから。須賀和歌子さんの絵本は僕も持っているし」
「俺も今、凄く驚いています。まだ、気付いていなかったのかって。わざわざ説明する必要もないのに…うっ」
兄が脇腹を押さえた。
「なに…するんだよ…本の裏表紙見れば分かるだろ?画風で分かるだろ?何から何まで全部説明しなきゃいけないのかよ?」
「当たり前でしょ?私、何にも覚えていないんだよ?」
「母さんの仕事と、それは別だろ?今も続けている仕事なんだ」
正直、母の仕事には興味を持っていなかった。
私には母が何を好きか嫌いか、どんなことで幸せを感じるのかが重要だった。
知りたい事の中に、母の仕事は含まれなかった。
小さな時から大切にしてきた絵本も、仏壇に供えられる和菓子の包装紙も。
ずっと、私の傍には母がいたのだと、今になって気付く。
「松原先輩。荷物、ここにどうぞ」
私は、袋に入れていたものを机の上に置くと、空になった袋を松原先輩の前に差し出し、抱えているチョコ達を入れてもらう。
そして、その袋を兄に押し付けた。
「松原先輩の教室まで持って行って」
兄が怪訝な顔で私を見下ろす。
「松原先輩。持ってください」
私は机の上に置いたものを指差した。
不思議そうに松原先輩が見て、袋の文字を読んでいる。
読んで理解した、というのが分かって余計に私は苛々とした。
ヨーロッパにも住んでいたとか聞いたことがある。
「弘先輩、どこにいます?連れて行ってください。市川先輩。ありがとうございます。いただきます」
ハートの可愛い落雁を、私は机の中に大切に入れた。
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