りなりあ

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番外編 6/20

2013-06-20 21:58:27 | Weblog

※怪我の手当てによる血の表現があるので、苦手な方は、この番外編は読み飛ばしてください。

どのシリーズの番外編なのか、不明になってしまったのでタイトルなしです。

指先の記憶第四章19~22辺りの、むつみ視点の物語です。

続きがあるかもしれませんが、区切りができたのでUPします。
3話分くらいの長さになります。

※3話を1話にまとめました。




 

今朝はワクワクして早起きしてしまった。
まだ外は薄暗い。
朝食は用意されていると思うけれど、早い時間に行っても良いのか悩みながら、窓を開けた。
土曜の夜から気温が上がって日曜は少し暑いくらいだったけれど、月曜の今日は空気が少し冷たい。
少し肌寒い、そう思っていたら、おなかがキュルル…と泣いた。
「…いつもなら、まだ寝ている時間なのに。どうしようかなぁ。はる兄は昨日の夜は遅かったみたいだし、今日はお昼過ぎまで忙しいみたいだし…何時に行っても1人だけど…。」
早すぎる朝食だと、お昼前に空腹を感じるかもしれない。
でも、今日はミートパイを教えてもらう日だし、味見…できるから良いかな?
窓を閉めようとして、人影を見つける。
まだ暗い夜明け。
顔も分からないし、声も聞こえない。
でも、少し前に会ったばかりだから、きっと間違いない。
私は窓を閉めると、急いでパジャマから着替えた。
帰ってきた、帰ってきたっ!
突然いなくなって、でも、その理由など誰にも聞けなくて。
はる兄達の結婚式にも姿がなくて、とても残念だった。
鏡を見て、こういう時は寝癖に悩まされることがない真っ直ぐの髪に感謝してしまう。
サイドの髪を留めようと思って。
「えー…昨日まではなかったのに。」
こめかみに、ニキビを見つける。
「やだなぁ…昨日の杏依さんのチョコレートケーキ?」
大きな溜息が出た。
でも、仕方がないから顔を上げる。
「早く行かなくちゃ。」
ドアを開けて、静かな廊下に出る。
焦る気持ちはあるけれど、走るわけにはいかない。
うーん…でも。
走っても許されるような気もするし、怒られたとしても…構わないかな、とか思っていたりもする。
でも…まだ眠っている人もいるだろうし迷惑をかけるのは、やっぱりダメ。
そっとそっと歩きながら、ドキドキも強くなってくる。
「一緒に朝ごはん。今日は何を食べようかなぁ。」
ワクワクが止まらない。

◇◇◇

「えー!もう食べちゃったの?」
食器を片付ける女性の動作を見ながら、私は椅子に倒れこむようにして座ってしまった。
「これからクラブに行くから軽く…。随分と早いね。むつみちゃん。」
食後のコーヒーを飲む人は、ちょっと寝不足みたい。
「僕は急がないから、ゆっくりと食べて良いよ。」
用意されたカラフルなフルーツを、私が食べやすいように小さくカットしてくれる両手を見ながら、私は絞りたてのグレープフルーツジュースを飲む。
「はる兄とは、いつでも一緒に食べられるもん。」
言ってしまってから、後悔する。
一瞬止まったナイフとフォークが、再び動き出す。
「康太なら、9時頃には戻ると思うよ。クラブで早朝練習に付き合わされている。」
康太お兄様、テニスやめたんじゃなかったっけ?
この前会った時は、高校の部活の帰りみたいだったし、持っている荷物からサッカー部だって私は予想したもの。
フォークに運ばれるフルーツが、どんどん視界から少なくなる。
「はる兄?どうして食べるの?」
「康太に合わせて軽くしか食べていないから。また後で食べるつもりだったけれど。」
フォークが私の手に握らされた。
「10時30分には康太も予定があるから。」
「康太お兄様が9時に戻って来たしても、私、今日は8時30分からミートパイ作るの!」
やっぱり会えない。
「むつみちゃん。」
悔しいのに、なぜか空腹は消えなくて、フルーツは美味しい。
「こうたおにいさま、これからも呼ぶ?」
「え?どうして?康太お兄様は康太お兄様でしょう?」
変だな、と思ってみると、はる兄は何もなかったように野菜のスープを家政婦さんにお願いしている。
「しばらくチョコやナッツは控えること。」
隠していたのに、サイドの髪をかきあげられた。
「はぁーい…。」
私はミートパイを作る工程を思い出しながら、どこかで抜け出せないか、そう考える。
でも、教えて欲しいとお願いしたのは私だし、わざわざ広いほうの厨房を使わせて貰う訳だし。
今日の来客の方達のお料理を西田さんは作らないから、そう言ってくれたけれど、お客様が来ているから忙しいのは忙しいはず。
でも、そのお客様は康太お兄様に関係があるみたいだし、パーティとかじゃなさそうだし、大丈夫なのかも。
「むつみちゃん。あんまり考え込むと、にきびが治っても皺が残るよ。」
思わず、はる兄を睨んでしまう。
年頃の女の子に、皺って失礼だと思う。
「康太は今日は忙しいけれど、また改めて会いに行けば?むつみちゃんの家から、それほど遠くないから。」
「え?えーっ!!」
私の叫び声が、部屋に響く。
「むつみちゃんの家から近い中学校に康太は通っていたから、それほど遠くないはずだよ。今までは車で行けず階段しか使えなかったけれど。」
中学校?
中学生の時に康太お兄様は戻ってきていたの?
「…階段?」
問うと、はる兄が頷いた。
あぁ…どうしよう。
色んなことが繋がり始める。

あの階段の上にはお姫様が住んでいる。

近所の子達が話していたのを覚えている。
そのお姫様に会ったことも覚えている。
1人で眠るのが寂しくて、一緒に眠ってもらったことを覚えている。
でも、私よりも、その人のほうが寂しそうだった。
私の寂しさは、父と母が留守にしている寂しさで、二人が戻ってくれば忘れてしまう。
でも、その人の寂しさは、過去からも、そして未来にも続きそうで、私はその人が消えてしまいそうで怖かった。
一緒に眠れば、温かい。
その体温がある間は、彼女は生きている。
そんな風に思って、彼女の髪が、はる兄に似ていることに気付く。
この人の体温で落ち着く意味が、ようやく分かる。
はる兄と同じ血が流れている。
桜学園にある銅像が彼女の苗字と同じだったことも思い出す。
そして、また見つけてしまう。
空虚な瞳が、康太お兄様に似ていて、私はしばらくの間忘れていた康太お兄様を思い出してしまったのだ。
数年前の事を思い出して、それらを現在と繋げてみた。
「…あそこに、康太お兄様、住んでいるの?」
制服を作りに行ったあのお店で、2人が揃っているのが不思議なようで当然のようで。
「最近、庭の手入れも進んできたから来年の春には桜が綺麗だよ。」
毎年、見上げると、そこは桜に包まれていた。
「…桜って…まだまだ先だわ。会いに行ってもいいの?」
「連れて行ってあげるよ。」
1人では行くな、ってことみたい。
早く会いたいなぁ、康太お兄様に。

◇◇◇

教えて欲しいとお願いしたのは私なのに、焼きあがるまでの時間も勉強になるのに。
ミートパイが焼ける間、厨房から離れることを西田さんは許してくれた。
9時15分。
康太お兄様は、食事をしているかもしれない。
急ぎ足で食事室に向うけれど、そこには康太お兄様の姿はなかった。
家政婦さんに問うと、10分前に来て、野菜スープを飲むと席を立ったらしい。
あの野菜スープ美味しいもの。
一緒にご飯は食べられなかったけれど、同じものを食べたことが嬉しい。
うーん、でもやっぱりそれで満足は、できない。
厨房に戻ってオーブンを見る。
膨らんできたパイにドキドキする。
その時、厨房の風の流れが変わって換気扇の音が少し変化する。
裏口のドアが開けられた、それが分かって私は厨房から通路を見た。
「え…?」
入ってきた人が壁を支えにして、ずるずると床に座り込む。
私の変化に気付いた西田さんも彼を見て、駆け寄った。
「哲也さん。どうしました?」
はる兄の従弟の立辺哲也さんが、苦しそうな顔で私達を見上げる。
「ちょっと…不注意で…。」
ポツポツと赤い色が床に落ちる。
私は厨房から救急箱を持って来た。
ちょっと抵抗されたけれど、哲也さんの右手をとる。
「西田さん。今日は前園先生が来ているみたいです。」
「えぇ、そうでしたね。お呼びしてきます。」
「あの」
哲也さんが声を出す。
「後で自分で行きます。晴己には言わないでください。」
消毒液を取り出した私の手が止まる。
でも、すぐに私は再開した。
オーブンの音が厨房から響いて、西田さんが戻る。
「哲也さん…棘…残っていると大変ですから、ちゃんと診てもらってくださいね。」
哲也さんとは、あまり話をしたことがない。
はる兄は直樹さんと一緒にいることが多くて、哲也さんは大輔さんといることのほうが多い。
私とは、あまり接点がない。
それに、私は彼の妹さんと同じ学年で、正直、あまり良い関係ではない。
当然といえば当然。
はる兄の従妹でも、彼女がはる兄に会うことは滅多にない。
それなのに、私は、いつもはる兄と一緒にいる。
直接、何か意地悪をされたり嫌がらせをされたとか、そういうのはないけれど、でも、私を嫌っているのは確かだ。
そのことを哲也さんは知っていると思う。
「包帯…巻けば止血になりますけれど…怪我をしていること見れば分かっちゃいます。」
哲也さんと目が合った。
初めてかもしれない。
「手首、強めに包帯巻いても大丈夫ですか?でも、長時間は無理です。右手を使うのも避けてください。」
包帯を細くして、哲也さんの右手首に巻く。
「長袖着れば見えませんから。」
哲也さんが溜息を出した。
「さすが、医者の娘。」
「でも、棘は取れません。」
哲也さんの手のひらには、擦り傷、そして残ったままの棘。
これは生垣の棘だ。
手のひらに残るということは、あの棘を哲也さんは握ったことになる。
どうして、そんな状況になったのか、あまりにも不思議すぎて問うことさえできない。
「あぁ、これくらい。」
哲也さんがピンセットを救急箱から取り出して、棘を抜いた。
血が流れる、でも止血しているから流れ続けることはないと思う。
「ありがとう、むつみちゃん。」
哲也さんが、右手を頭上に乗せた。
そのままの体勢なら、たぶん、血は止まると思うけれど。
「まだ小さい棘が残っているかもしれませんから、その手で何かを触ったら哲也さんの傷口が開くだけじゃなくって、傷もつけちゃいますからね。握手とかしたら、相手の方を傷つけちゃいます。」
ミートパイをつくることなんて絶対に無理。
「気をつけるよ。」
哲也さんは、ヨロヨロとする足取りで歩いて行く。
出血しか手当てしなかったけれど、足も腰も痛そうな感じだった。

◇◇◇

焼きたてのミートパイを注意しながら食べる。
美味しい。
自分で作れたことが、凄く嬉しい。
西田さんにお礼を言って、そして。
「やっぱり西田さんのほうが美味しい…当然ですけれど。」
西田さんと自分を比べるのは、失礼だって分かっている。
でも、羨ましくて、盛大な溜息が出た。
「何事も経験です。作る度に発見があります。」
「発見?」
「今日は、むつみちゃんと一緒に作ったことで、小さなパイを学ぶことができました。」
西田さんが差し出した手を見てみる。
哲也さんの手も大きかった。
だから、西田さんの手も大きい。
「むつみちゃんの小さな手で作られるパイは、食べやすいですし、パイと具の割合が難しいと分かりました。何度か割合を変えて作ってみます。このサイズはパーティには適していますね。」
褒められたような感謝されたような、とにかく少しは役に立てた…迷惑にはならなかったみたいで、ホッとする。
「今日は晴己さま達、中華のご予定です。一口サイズの点心を用意していますから、このミートパイも」
「ダメダメっ!」
私は西田さんを見上げる。
「はる兄達に食べてもらうのは、まだまだダメなの!私、持って帰る。」
「こんなにたくさん?」
「…冷凍しても美味しいか、試してみる。」
西田さんが残念そうに首を傾げた。
「絶対に出さないでね。冷めるまでの間、私、ちょっと用事があるの。」
エプロンと三角巾を椅子の上に置いて、私は時刻を確認して厨房を出る。
9時40分。
裏口から出ると、そこは庭。
ここなら走っても大丈夫。
私は本館の向こうにある書庫へと向った。

◇◇◇

辿り着いた場所は、ひんやりと寒かった。
書庫の一番奥。
低い棚が並ぶ場所に来ると、幼い頃に戻った気持ちになる。
ここに並ぶ本を、もう読まないかもしれないけれど、ここが指定席だった。
入ってきた人には、すぐに見つからない場所。
窓から光が入り、そこは少しだけ温かい。
静かに近寄って、指定席を見る。
…やっぱり。
目を瞑っている人のまつげが少し揺れている。
あれは、はる兄のジャージだ。
いつも、ここに来れば会えた。
テニスクラブの練習の後も書庫にいることが多かったように思う。
私の姿を見つけると本を読んでくれた。
私の話も、たくさん聞いてくれた。
でも、あまり自分の事を話してくれたことは…ないかもしれない。
妹がいるんだ…その言葉を覚えている。
会えないけれど。
そう言った時の瞳を、私は忘れることができない。
私を見ている時も…違う…一度も私を見ていなかったと思う。
いつも、私の向こうに誰かを見ているのを感じていた。
寂しそうな瞳が同じ、あの人と。

キュルルー…。

響く音に、まつげが揺れる。
思わず、笑い声が出てしまった。
「康太お兄様。」
ゆっくりと瞳が開く。
彷徨う視線が、私を見た。
きっと、たぶん。
初めて目が合った気がする。
「おなかすいているみたい。ミートパイ作ったの。味見して?」
康太お兄様がおなかをさすって、そして笑った。

◇◇◇

お天気が良くて風が心地良くて、このまま手をつないで散歩に行きたい気持ちだった。
後姿を眺めたいから、ちょっと後ろを歩いているのに、康太お兄様は私が付いて来れないと勘違いしているみたいで、立ち止まって待っている。
追い付くと、歩く速度を私に合わせてくれる。
背中を見ていたいから。
ずっと眺めていたいから。
だから私のことは気にせずに、康太お兄様は歩いてください。
そう言いたいけれど、言えなかった。
待ってくれるのも合わせてくれるのも、康太お兄様が優しいから。
それは分かっている。
でも、分かるけど、分かっているけど。
やっぱり…起こさなきゃ良かったかも。
どういう繋がりかは知らないけれど、はる兄とは血の繋がりがある人。
でも、直樹さんや哲也さんや大輔さんとは似ていない。
はる兄とも似ているわけではないから、康太お兄様の顔や髪型に他の人との共通点は見当たらない。
でも、性格とか考え方とか、結構似ている。
細かいところとか、几帳面なところとか、自分の考えを変えないところとか、はる兄に似ている。
…一応、褒めているつもり。
私は、はる兄も康太お兄様も大好きだもの。
身長が凄く伸びている。
あ…でも、裾がちょっと長い…そうだよね、もっと身長伸びるよね、きっと。
だけど、今でも充分に格好良い。
「どうしたの?むつみちゃん。何か楽しいことでもあった?」
私を幸せにしてくれる本人からの言葉に、どう答えて良いか分からない。
「えーっと…ミートパイ、まぁまぁ美味しいかなぁっと思って」
「凄いね。むつみちゃん小学生なのに料理上手で。俺の妹、何もしないし出来ない」
妹。
やっぱり、あの人かなぁ。
須賀さんの苗字と姫野さんの苗字。
気になるけれど、私が気にすることではない。

◇◇◇

厨房に戻ってミートパイを食べて、西田さんに質問する康太お兄様を見ながら、なんだか溜息が出た。
西田さんの説明を聞くだけで、康太お兄様はミートパイ作りに挑戦しそうな勢いだ。
作りたい、というよりも、作ってあげたい、食べさせてあげたい、そんな気持ちが伝わってくる。
また今度、一緒に西田さんに教えてもらおうよ。
今度、私の家で一緒に作ろうよ。
誘いたい気持ちがあるのに、誘えない。
換気扇の音が変わる。
哲也さんの時と同じように。
私は通路に視線を送る。
杏依さんと、そして“彼女”。
西田さんに続いて、私は頭を下げると康太お兄様を呼んだ。
康太お兄様は立ち上がると通路の人達を見て、そしてミートパイを一口で食べる。
丁寧に石鹸で手を洗うと、その姿を目で追っていた私に優しい笑顔を向けてくれた。
「むつみちゃん、美味しかったよ。ありがとう」
「康太お兄様。疲れているのに起こしてごめんなさい。でもお会いできて嬉しかった」
また会える?
会いに行っても良い?
そう聞きたくても、聞けない。
私の三角巾を、綺麗に整えてくれる指が、私のこめかみをそっと撫でる。
「ミートパイ、こんなにたくさんどうする?食べ過ぎると治らないよ?」
三角巾で隠れていると思っていたのに、康太お兄様にも見つけられてしまう。
こういうところ、はる兄と似ている。
女の子が気にしていること、わざわざ指摘しなくても良いのに。
「野菜嫌いじゃないよね?ジュース作って飲むと良いよ。ミートパイ、少し貰って良いかな?」
「…準備しておきます」
取りに来てくれるの?
持って行ったら良いの?
それも聞けなかった。
厨房を出た康太お兄様と杏依さん達の会話は聞こえないけれど、とても楽しそうに見えた。

◇◇◇

ジュース作って飲むと良いよ。
アドバイスをしてくれた。
とても優しい。
でも、その言葉に心が痛くなる私は、とっても嫌な子に成長してしまったのかもしれない。
もし、ここにいるのが、はる兄だったら。
作って私に渡してくれる。
はる兄と康太お兄様は似ている。
だから、康太お兄様もあの人になら、作って渡してあげるはず。
ジュースを作って欲しかった。
はい、と渡して欲しかった。
そんなことを望む自分自身が私は怖くなる。
なんとなく…分かってきたかもしれない。
私は新堂とは無関係だと言われること。
哲也さんの妹さんが、私を嫌うこと。
はる兄が結婚する前、たくさんの人がパーティに来ていたけれど、その人達は私が1人の時は冷たいのに、はる兄の前では私に優しくしてくれたこと。
全部、全部…私が我侭だから。
はる兄の愛情を受けることに、戸惑っていなかったから。
当たり前だと思っていたから。
それを、康太お兄様にも求めてしまうなんて。
「むつみちゃん。野菜ジュース飲みますか?」
西田さんの優しい言葉。
「じ…自分で、作ります」
言うと、西田さんが、とても優しく笑う。
「一緒に作りましょうか?覚えて帰って家でも飲むと良いですよ」
「…あっ!」
西田さんの優しい言葉に、私の目の前が明るくなる。
「星碧が納得する美肌ジュース。西田さんお願いします」
一瞬、西田さんが固まった。
小学生のニキビの為のジュース。
女優の為のジュース。
厳しい顔つきで悩む西田さんを見て思わず笑った私に、また西田さんが笑顔になる。
「これは大変な事になりましたね」
作ってもらって、渡してもらうばかりだったけれど。
作ってあげたい。
渡してあげたい。
そんな風に思えるのも、とても幸せなのかもしれない。

◇◇◇

「…苦い」
「ですね。むつみちゃんのジュースには、あとで蜂蜜を混ぜると良いと思いますよ。碧さんは苦くても大丈夫ですか?」
「お母さん…お肌の為だったら苦くても絶対に大丈夫」
だってプロだもの。
でも、苦くないのがベストなのは確かで、でも、西田さんは平気で飲んでいるから…これを苦いと感じるのは私が子どもだからなのかもしれない。
「こんにちは!」
突然の大きな声に私と西田さんは驚いた。
扉が開く音に気付かなかった。
通路を見ると、見ているだけで暑くなりそうな人が立っている。
「あれ?むつみちゃん?」
「…こんにちは。久保さん」
テニスクラブでコーチをしている久保さんだった。
声の大きな人だと知っていたけれど、こうして静かな厨房で聞くと、耳が痛くなる。
「あー…西田さん。今、何か作ってます?凄く良い匂いが」
西田さんと私は目を合わす。
ミートパイをひとつ渡して、早々に退散して貰おう。
「ミートパイです。でも、私が作ったから、あまり上手じゃないし、あまり美味しくないですけど」
キラッと久保さんの目が輝く。
「…良かったら、食べますか?」
「本当に!ありがとう!」
久保さんは通路に立ったまま。
あ、そっか。
練習の途中だから、そのままの格好で厨房に入るのは、確かに困るかも。
私はミートパイのお皿を持って通路へと向かった。
「おぉ!たくさんあるね!」
1個だけだからっ!
これは康太お兄様の分だから!
「あのさ、むつみちゃん、これどうするの?」
持って帰ります。
康太お兄様と分けます。
「今日来てる奴がさ、この匂い、嗅ぎつけたんだよね。俺はさすがにクラブまで匂わないと思うけど。食べたいって言ってるんだけど」
言われて通路を見て、扉の方を見る。
でも、誰もいない。
「今、コートで寝転がってる。腹減ったって、うるさいんだ。食べさせるまで動きそうにない」
そんなの知らないです。
我侭な選手、久保さんが指導と教育してください。
「…作ったのは私ですよ?なんだか申し訳ないですから…」
「大丈夫大丈夫、あいつ小学生だし、味なんて分からないから」
思わず、久保さんを見上げてしまった。
「あ、違う。そういう意味じゃなく」
小学生なのに凄いねって康太お兄様は言ってくれた。
妹は何もしないよって。
美味しいって言ってくれたから、でも…持って帰って康太お兄様は、どうするの?
妹さんと一緒に食べるの?
そんなこと、もし哲也さんの妹さんだったら、絶対に食べないと思う。
「どうぞ。たくさん作ったので良かったら全部、どうぞ。私、小学生ですけれど、結構美味しく出来ましたから」
ごめんね、と項垂れた久保さんに私は心で謝る。
今朝は、とっても嬉しかった。
少し前まで、凄く幸せだった。
だけど、気持ちが落ち込む時は、とても急速で、なかなか浮上することができない。
謝ることすらできない私の前で、久保さんがパクッとひと口でミートパイを食べる。
「おぉ!!すっごい美味しい!」
満面の笑顔だった。
目の前の人は子どもみたいに賑やかで騒々しいけれど、やっぱり大人だった。
私は、やっぱり子どもで、とても身勝手だ。
「こりゃ…取り合いになるな。あ、そうだ。ニンジン入ってない?あいつねーニンジン嫌いなんだよね」
思わず笑ってしまった。
久保さんの指導を受けているということは、かなり有力な選手なはず。
それなのに、食べ物に好き嫌いがあるなんて。
「その子の料理、作るの大変だね」
「だろ?お母さんと奴の将来の彼女に俺は頭が上がらない」
そう言って久保さんは笑うとミートパイをお皿ごと持って行く。
私は扉のドアを開ける為に、久保さんの後ろを歩く。
康太お兄様の後姿、格好良かったな…そんな事を思いながら。
「ありがとう。むつみちゃん」
またひとつ。
ミートパイを頬張りながら、久保さんが歩いて行く。
私は厨房に戻ると、三角巾とエプロンをはずした。
「西田さん。今日はありがとうございました。私は今日は帰ります。康太お兄様に、ミートパイ、ぜひ作ってみてくださいと伝言お願いします」
私も帰って作ってみよう。
ミートパイの前に野菜ジュースを作ってみよう。
美味しいと言って貰えるのは、幸せなことだから。

番外編―完-



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