mimi-fuku通信

このブログを通して読み手の皆様のmimiにfukuが届けられることを願っています。

映画「12人の怒れる男」  mimi-fuku番組情報

2007-10-19 23:21:54 | 映画・芝居・落語
映画「12人の怒れる男」放送終了

 昨日のブログでも触れたましが、この国で裁判員制度が向いているのかどうか?

 笛吹けば踊る国民性と言われ、(良く言えば、順応性の高い国民性)自分で哲学することは苦手で、世情の流れに応じて個人の意見をどんどん変化させていく、私達の国民気質に裁判員制度がどのような意味を持つのでしょうか?

 それに対するヒントが、この映画の中に網羅されています。
 あらゆる好きな映画アンケートでBest100に入る名作中の名作。
 何度も何度も再放送された映画ですが、お勧めの一本には違いがありません。

 放送は、BS2なので見られない方も多いと思います。
 DVDは、正規商品で2400円。また、ワン・コイン版(500円)もあるようですので、ぜひお探しになってご覧ください。

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亀田大毅と沢尻エリカ~報道のあり方。

2007-10-18 22:25:24 | 芸能・スポーツ

 10月18日の朝は久しぶりに、モーニング・ニュース・サーフィンをした。
 謝罪した亀田家の報道をどのように扱うか興味があったからだ。
  その結果、やはりと言うか、各テレビ局のアプローチが私の予想通りの扱いなのに辟易した。

 今日の私は、亀田家の立場で話を進める。
 亀田大毅選手が、頭を丸め反省の意を示した。
100の言葉より、1つの行動
 
 亀田史郎氏は、頭を下げ「色々とご迷惑をかけ申し訳ありませんでした。」と口頭で反省の意を示した。
 私は今回の騒動についての謝罪は、これで充分だと感じる。

 大毅選手は18歳で、本来は未成年の年齢。
 日本の法律では仮に殺人を犯しても、匿名で報道され将来を保護されている。
 ただし、有名人であることから有名税を支払わなければならない立場なので、こうした公開の謝罪会見の場を持つことになるのだが、彼が犯したのは犯罪ではなくボクシングのルール上での反則。
(ただし、試合の進行状況によっては、命にかかわる可能性もある重大な反則。そのため、協会では、重い処分を課した。)

 史朗氏の弁明も「仕方ない。」「とりあえず。」と、歯切れこそ悪いものの、自らを反省し処分を受け入れることを表明。
 言葉使いや、言語の言い回しなどに問題はあるかも知れないが、長年身に付いた史朗氏の会話様式に、いきなり世間の公式の場で執り行なわれる、マニュアル通りの発言を史朗氏に求めても無理なことは理解すべき。
 それよりも、カンニング・ペーパー(別の誰かが会見のために準備した原稿)を読みながらの形式ばった謝罪よりも、氏の謝罪会見は平素の言動と比べ、気持ちの中の譲歩が見て取れ反省の意を感じる。

 さらに、被害者の立場にある内藤選手は、謝罪の映像に対し「これで、充分伝わりました。」と述べ、個人的な謝罪要請にも「いつでも受け止めたい。」と語った。

 協会の処分とは、世間の裁判でいう判決の言い渡しだと私は捉える。
 判決が出、尚且つ、自分達の言い分を飲み込んでまでも謝罪会見に臨んだ亀田家の姿勢を否定することが大人の社会としての正しい姿だろうか。

 今回の各局の報道?姿勢は、いつものごとく集団で特定の人物のミスを徹底的に叩くことを是とする手法にいささかな抵抗を覚える。
 大毅選手を報道陣から遠ざけた父としての史朗氏の気持ちも汲める。
 もし、あの場に大毅選手がいれば、心無い報道記者からの「切腹はどうするんですか?」との質問も飛ぶだろう。
 ひとつのミスに対して、答えようのない質問を次々と18歳の少年に浴びせかけることで、追い込む姿勢が大人としての正しい判断なのか。
 さらに追い討ちをかけるように大毅選手の反省が、猿芝居だと言ってのけるコメンテーターの心理は、それこそいじめ

 沢尻エリカさんの時もそうだった。
 集団で特定の人物を非難する手法の後、沢尻さんが反省の態度を示したのにもかかわらず、当事者でないものが反論することのできない沢尻さんに対し、ある番組の中で無責任に暴力的な発言をしても、取り巻きの廻りの出演者達は笑い飛ばすだけだ。
 その言葉の重み(いじめを誘発するような)は、何の問題にもならない。
 舞台での態度や発言は問題になり、バラエティー番組の中での発言は不問と言うのは、おかしくはないのか?
 それも芸能界の力関係を誇示した、いじめの形態
 (沢尻さんのあの時の行動は、試写会での衣装が自分の意に反したものだとの情報を得ているが、ラブ・ストーリーに金髪であの衣装が、強制的に着せられたものだとすると、他の出演者とのバランスがとれず、腹を立てるのは仕方がないとも思う。もちろん、プロなのだから当然我慢すべきなのだが、感情をコントロールできるにまで大人にもプロにもなりきれていないかったのだろう。)

 とにかく、ひとつの話題に視聴者の食いつきが良いと、徹底的にその話題で引っ張るといったワイド・ショー的な報道番組(って言えるの?)のあり方。
 また、一方的に偏った傾向のある番組進行に疑問を抱くこともなく、笛吹けば踊る国民と言われ、長いものに巻かれろ的な大衆心理動向。

 この国の姿勢に、新しい裁判員制度は向かないように思う。
 今回の騒動について、私の感じたままを書いた。
 頭を下げる者には、優しくなろう。
 

亀田大毅選手についての、過去のブログ記事へのリンクhttp://blog.goo.ne.jp/mimifuku_act08/e/d33c3bb20b5b42cec06b604c46003773

沢尻エリカさんについての、過去のブログ記事へのリンクhttp://blog.goo.ne.jp/mimifuku_act08/e/28334685d2d9bfb4163c2463125e92c3

 

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フェルメール「牛乳を注ぐ女」 mimifuku的評説。

2007-10-17 23:13:09 | 美術・芸術・創造


 *「牛乳を注ぐ女」
の画像へのリンク。
  http://www.rijksmuseum.nl/collectie/zoeken/asset.jsp?id=SK-A-2344&lang=nl
        ~ オランダ:アムステルダム国立美術館ホーム・ページ内

  *「青いターバンの少女」の画像へのリンク。 
  http://www.mauritshuis.nl/
        ~ オランダ:ハーグのマウリッツハイス美術館ホーム・ページ


 フェルメールの「牛乳を注ぐ女」を鑑賞して思いついたことを述べてみる。
 この絵の価値の高さをどこに求めるか?

 2007年9月26日~12月17日まで、東京六本木の国立新美術館で日本で初公開されたフェルメールの代表作のひとつ。
 美術史の専門書にもたびたび照会されるこの絵の価値を教科書とは違った角度で考えてみた。(ただし、あくまでも素人の想像なので真意は、教科書にそって学習して欲しい。)

 まず、フェルメールについての議論として、フェルメールは存命中どのような画家であったのかについて、現代のフェルメール論者は存命中も著名な画家としての認識で一致しているようだ。
 フランス人の絵画研究者のトレ・ビュルガーが自らをフェルメールの発見者と名乗り無名の忘れられた画家フェルメールを再発見したと言うことが、現代の研究者達にとっては容認できない史実らしい。
 現代のフェルメール論者の見解では、フェルメールは1653年にデラフトにある聖ルカ組合という画家の組合に親方画家として登録。1662年、1670年と二度に渡り組合の理事に選出。画家としてそれなりの地位にあったとしている。

 しかし、私達が現在のフェルメールの価値に対する認識は、レンブラントやルーベンスと並び、「青いターバンの少女」にいたっては、「モナリザ」と並ぶ美しさと表現する方もいるほどだ。
 それが、絵画組合の親方画家であると説明されたところで、当時の著名な画家のひとりであったとは私には思えない。

 その中で、おそらく地方画家であったと思われるフェルメールを世界的な画家に押し上げた最大の要因は、トレ・ビュルガーの審美眼なくしてはありえなかったように思う。

 1866年のパリで過去の巨匠達の作品を集めた展覧会でフェルメールを紹介した所、話題を集めた。
 この展覧会の主催者のひとりがトレ・ビュルガーだった。
 ビュルガーは、展覧会の直後に美術誌にフェルメール論を三度に渡り掲載。この記事が評判になり世間の関心を集めフェルメール熱が沸騰した。
 (この話には、ビュルガーが絵画の売買目的にフェルメールをあえて誇張して記事を書いたという記述もあるが、その絵画に好意を示したのは、展覧会を見ただろう多くの鑑賞者によってのものと考えられビュルガー批判は少し偏っているように思う。)

 では、なぜ多くの鑑賞者はフェルメールの絵画に魅了されたのか?
 そのことを書くには、時間が足りないので再び「牛乳を注ぐ女」の魅力について述べてみたい。

 この絵を見て、心の底から美しいと感じる人は少ないと思う。
 体格のよい質素な服装で陶器の鍋に牛乳をそそぐ女性の姿はごく日常の1コマに過ぎない。
  絵画の手法も1660年代以降(特に1664~66年頃)の緻密な描写とは程遠く、女性の表情のタッチも荒い。、
 
 国立新美術館のパネルの説明では、構成の素晴らしさについて強調し、この絵画の持つ美意識を説明している。
 特に前方の机の位置が不自然な形に切り取られているのは、絵画全体の構成を重んじているためとの説明も、私の目から見れば牛乳を注ぐのに机を壁に水平にした状態よりも、自分の方向に後側を斜めにずらしたほうが、注ぎやすいからとの見方のほうが現実的に思う。
 (そうすると、机の手前の部分の角度が不自然と感じるかも知れないが、フェルメールの描いた「ヴァージナルの前に座る女」ーロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵。の楽器の位置と角度は、この「牛乳を注ぐ女」の机の位置や角度と類似している。そのことから、この机は構成上切り取られたものとは考えにくい。)
 
 机の不自然な切り取りを、後年のセザンヌ~マチスの流れの先駆けのような論説を展開しようとするのには無理がある。
 また、パンの上の点描が新しい光の表現とするのも、後の印象派~スーラへの流れの先駆けのようなイメージを鑑賞者に持たせるような見解で抵抗を覚える。

 では、この絵のどこが素晴らしいのか?
 例えれば「牛乳を注ぐ女」「青いターバンの少女」を例に、どちらが好きかを比較すると10人中7~8人までが「青いターバンの少女」を選ぶだろう。
 それは、ひとつにモデルの美しさがある。
 少女の見つめる目が、鑑賞者の目を釘付けにする。
 しかし、「牛乳を注ぐ女」の目を見て欲しい。
 視点は、牛乳が注がれる陶器の壷にあり、鑑賞者は無視されている。
 実は、フェルメールの絵画の凄さをここにある。

 1866年の時代。フェルメールが世界に向けて脚光をあびる要因となった年は、同じフランスで開かれた1874年の印象派展の6年前。
 さらには、ミレーの「落穂拾い」が描かれたのが1857年。
 「牛乳を注ぐ女」の構図はミレーが描いていたとしても、なんの違和感もないように感じる。
 
 この時代(トレ・ビュルガーがフェルメール論を展開した時代)の画家の模索は、写真撮影の黎明期と重なり、忠実な模写の技量が画家の最大の使命ではなくなりつつあった。
 また、高貴な人々(富裕層)は実際の写真を見て、写真に対する興味も増大する頃だったのではないか。

 そうした時代にまるで、現代にも通用するポート・レートやスナップ・フォトのように、何気ない時間を切り取ったようなフェルメールの小さな絵画は人々の心を打ったのだろうし、その古い絵画に当時の人たちは先進性は見出し、何よりも新しい絵画表現のひとつに見えたのではないか。
 その証拠になるとは断定できないが、「牛乳を注ぐ女」の絵は、「青いターバンの少女」の数倍の価値で取引されている。

 その後、フェルメールの絵画は、時代々々の多くの著名な画家達の賛辞を受け現代の高い評価につながる結果となった。(例えばゴッホの書簡や、ダリの思う最高の絵画としての評価。)

 1658年という時代に於いて、神話でも貴族の肖像画でもない何気ない一枚の緻密な表現によって書かれたポート・レートやスナップ・ショット。
 群像表現でもなく、風俗画でもなく、何気ない日常の切り取りと、光と構成を取り入れた巧みな実験的絵画手法。
 フェルメールの絵画を見る時、そうした時代背景を想像することは何よりも楽しい。

(注)青いターバンの少女は、真珠の耳飾りの少女と同一作品です。日本名では後者の呼び方が一般的ですが、私自身が目にした2000年4月~7月に大阪で開かれた展覧会の名称を使用しました。ただし、英語名は、Girl with a pearl earring。
オランダ名が、Meisje met de parel。~なので、真珠の耳飾りの少女が、国際的な正式名称のようです。

 

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DENON :CDプレーヤー【DCD-1500AE】 購入&試聴レポート

2007-10-16 23:34:36 | 経済・産業・mono


 先週の水曜日に注文してたSACDプレーヤーとLDプレーヤーが、今日届いた。
 CDプレーヤーは、DENONのDCD-1500AE-SPが、53820円。
 LDプレーヤー(レーザー・ディスク)は、パイオニアのCLD-R5で、34000円。
 自分では満足のいくお買物。
 (5年保障をつけて、総額92211円のお支払い。)

 9時半に自分の部屋に入って、早速にCDプレーヤーを設置。
  待望の音質のチェック。
 
  最初は、ビル・エバンスの定番「ワルツ・フォー・デビィー」から、最初の3曲。
 思った以上に分解度も良く、特にスコット・ラファロのベースがイイ感じ。
 シンバルも音がぶれずにイイ感じ。でも、エバンスのピアノの音が少し曇ってるような?
 そして、このアルバム最大の特徴のライブ・ハウス内の、人々が出す音をどれだけ拾えるか?
 ウン。食器の音も、しゃべり声も、楽しく食事をしている様子が手に取るように聞こえる。
  1961年のニューヨークでの一室がこの部屋に引っ越してきたようだ。
 それにしても、いつ聴いてもこのアルバムは、いい音だよな~。
 そして、うまいよな~。
 iPod等の携帯プレーヤーじゃ絶対にこの感じは伝わんないよ。

 次は、SACDの音質チェック。
 クライバーのベートーベンの7番の4楽章。
 アレッ?弦の音が安っぽく聞こえる。低音は出ない。音の膨らみがない。
 木管の音はよく聞こえるんだけど・・・なぜ?
  一般にクリアで解像度が高いと、クラシックは一本の糸に聴こえず、音のバランスの好みは分かれるんだけど、それが理由でもないようだし・・・。
 多分、輸入版なんで、リマスターの仕方かな?
 国内の通常版の方が、いい音のような気がする。
 
 次は、ボブ・ディランの楽曲「ハリケーン」。~アルバム『欲望』内。
 これは、いいよ。最高 !!
 この曲は、演奏楽器が多く、8分以上の大曲。
 有名なビオラのうねるような響きや、ギターの切れ味の良さ。
 その上に乗るディランの歌声は、楽器のひとつでもあるかのように、投げかける言葉はまるで連射砲。

 最後は、ホィットニー・ヒューストンの楽曲「オールウェイズ・ラブ・ユー」。
 
言わずと知れた【ボディー・ガード】のテーマ曲。
 驚いたのは、この曲での完璧と思えたホィットニーの歌声に、数箇所のミス・トーンがあること。
  音の透明感が、息づかいだけでなく、声の微妙なうわずりをとらえてる。
  でも、それがライブ感を高めてて、いい味になっている。
  ボーカルの技量は、やっぱ日本人では歯が立たないよ。
 これは、前のプレーヤーでは気が付かなかったな~。

  で、今流しているのが、カーペンターズのベスト盤。
 流してるだけなのでサウンド・チェックはなし。
 夜中なので小さな音なんだけど、それなりにクリアに聞こえる。
 5万円~6万円台で、この音がでれば満足。満足。
 オーディオは凝り始めるとキリがない。
 でも、多少は凝ったほうが、長い人生に潤いが持てる。

 LDプレーヤーは、12年前に買ったのが現役で活躍してるので、設置は日曜日かな?
 古い方も、嫁入り先が決まっているのでヤレヤレ。
 今日は、この辺りで。オヤスミナサイ。

追記・後日のレポート。

 SACDはもう一枚、偶然に所有していたバーンスタインのショスタコービッチの交響曲第5番から、3・4楽章を視聴したが、やはり横の広がりしか感じられず部屋全体には響き渡らない。18年前の古いアンプなので、端子がアナログしかなく、デジタル端子でないとSACDはうまく鳴らないのかな?

 しかし、通常のCDだと、クラシックも良い音がする。
 手持ちのCDの中で高音質チェックによく使用する、カラヤンの指揮したリヒャルト・シュトラウスの楽劇「サロメ」より、7つのヴェールの踊りでは、今までに聴こえなかった木管のアンサンブルに絡む細かい打楽器の音が鮮明だったし、クライバーの指揮したヨハン・シュトラウスの歌劇「こうもり」序曲のサウンドの豊かな広がりはこの1曲を聴けただけで、53820円の元を取った感じ。
 
 歌唱の方では、プッチーニのトゥーランドットでのドミンゴの音程の確かさが確認できた。ガーディナーのモンテヴェルディでは、このプレーヤー独特の少し硬い音が、この曲の持つ優しさを損なう感じもするが、すべてを求めるのは無理。
 レオンハルトのバッハ「ミサ曲ロ短調」は、これまでの演奏とは違い緊張感が緩和されたふんわりとした演奏で、以前のプレーヤーでは捉えることのできなかった輪郭が浮かび上がり、心地の良いバッハを堪能できる。
 
 さらには、懐かしのマイケル・ジャクソンのスリラーや、プリンスのパープル・レインを聴くに至っては、家族からウルサイと苦情が出るほどにヴォリュームを回してしまうほどのゴキゲンなサウンド。

 前のソニーの初期型CDプレーヤーが15万以上したことを思うと、選択しの少なくなったオーディオ製品でも、買いやすい価格での高品質が保たれており、今後も希望が持てる。
 オーディオに懲りだすとキリがないが、アーティスト達の創造と努力に対して、できるだけいい音で聴く環境は整えたいものだ。 

 

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亀田家の処分について。

2007-10-15 22:54:34 | 芸能・スポーツ


  亀田大毅(18)  ボクサーライセンス停止1年

  亀田史郎(42)  セコンドライセンス無期限停止

  亀田興毅(20)  厳重戒告、

  金平桂一郎(41) クラブオーナーライセンス停止3カ月の処分


 ボクシングの処分の中で一番重いのは、永久追放。
 次に重いのが、ライセンスの剥奪。
 その次に重いのがライセンスの無期限停止。
 さらに、ライセンスの停止が1年、半年、3ヶ月、1ヶ月と続く。

 ただし、ライセンスとは、ボクシングの許可書(免許)であり、ライセンスが剥奪されても運転免許のように、期間をおいて再発行される可能性もあり、永久追放以外はボクシング界に籍を置くことができる。

 と言っても、亀田家にとっては重い処分といえるし、妥当な処分と感じる。
 テレビ・ドラマ「HERO」で松たか子さんが言った印象的言葉を亀田家に送る。
 「反省してください。」

亀田家に対するこのブログ内へのリンク
http://blog.goo.ne.jp/mimifuku_act08/e/d33c3bb20b5b42cec06b604c46003773


追記 10月17日

 この日、亀田父子(父の史郎氏と次男の大毅選手)が、東京都文京区のJBCにおいて、謝罪会見をした。
 謝罪会見には協栄ジムの金平桂一郎会長が同席し、兄興毅選手は欠席した。
 大毅選手は、試合前の金髪頭を丸刈りにし、終始無言でうつむいたままで、2分ほど同席した後、JBCの職員に抱きかかえられて途中退場した。
 父の史郎氏は処分に対し、言いたいことはあるが、処分に従うとの方針を示した。

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台風18号 2007年10月

2007-10-15 22:19:05 | 台風関連

台風18号進路
http://www.jma.go.jp/jp/typh/0718.html
          資料:気象庁ホーム・ページ内

10月15日 夜

 中心気圧1006hPa。アリューシャンの南海上で温帯低気圧になりました。

10月14日 夜

 中心気圧1000hPa。暴風域はなく、強風域の最大直径は、370km。
 今後も日本の気象に影響を与えることもなく北北東に進路をとっています。

10月12日 午後

 10月12日の午後に台風18号が発生したようです。
(12日~13日は、出張のため更新できませんでした。)

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国立新美術館 フェルメール「牛乳を注ぐ女」展について。

2007-10-14 19:41:54 | 美術・芸術・創造

展覧会のホーム・ページへのリンク
http://milkmaid.jp/

 10月11日の午後に、国立新美術館で開催されている、フェルメールとオランダ風俗画展を見てきた。
 平日の午前と言うこともあり、思った以上の混雑もなく、おだやかに見ることができた。
 
 ただし、フェルメールの「牛乳を注ぐ女性」のまわりには人垣ができており、最前列の絵画の真正面で鑑賞するには、2~3分を要した。(展覧会後期の休日だと随分と待たされる可能性あり。)
 
 最前列と書いたのは、「牛乳を注ぐ女」が展示してある室内には、2つのゾーンが低いフェンスによって区切られており、前列ゾーンは基本的には立ち止まることが禁止。後列ゾーンは、ゆっくりと見たい人のために立ち止まることが許可されている。
 とは言っても、「牛乳を注ぐ女」の作品の大きさは約46センチ×41センチと大変小さく、その絵を鑑賞するのに前列で約2メートル。後列で約4メートルの距離があり、肉眼で細かい部分を確認することは不可能だ。

 この、展示法は多くの来場者予想と絵画の持つ重要性を考える上で仕方のない措置であり、細かい描写を見たい人は単眼鏡などの道具が必要なので注意。
 ただし、この絵に対するハイビジョンでの映像公開や、パネルによる説明も多数あるので、本物は色彩とサイズの確認だけでも見る価値は充分にあると思う。
 特にこの絵は保存状態も良く、色の対比も比較的単純なため距離を感じさせない存在感がある。

 mimifuku的評説は、別のページに表示します。下記へリンクしてください。
http://blog.goo.ne.jp/mimifuku_act08/e/f894068c2d20aaef2110d5534051867e

 

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内藤大助vs亀田大毅  mimifuku的な見解

2007-10-13 22:59:58 | 芸能・スポーツ

世界ボクシング評議会(WBC)フライ級タイトル戦
内藤大助vs亀田大毅
2007年10月11日ー有明コロシアム
  
  亀田選手の反則行為
   *下腹部への攻撃。(ロー・ブロー)
   *相手を両腕でホールドし動きを止める。(ホールディング・クリンチ)
   *頭部を使っての攻撃。(ヘッド・バッティング)
   *目潰しを目的としたもの。(サミング)
   *ダウンした選手に対する攻撃。さらに両者ダウン後のもつれた形での膠着。
 そして、一番問題なのが
    *ホールド後に持ち上げ投げ飛ばそうとしたレスリング行為。

 このブログをお読みになられている方の中で、映画「ミリオンダラー・ベイビー」をご覧になられた方ならお分かりと思うが、ボクシングにとっての反則は、その後の選手生命のみならず、その後の人生を大きく狂わせる可能性を持っている。

 ボクシングそのものが危険なスポーツなのに、もしも何の準備もしていない選手がいきなり投げ飛ばされ、何が起きたのか分からないままに反射的に立ち上がり、立ち上がりざまのガードのない状態で、不意打ちにストレートが顔面にヒットした時の衝撃度を想像して欲しい。
 ボクシングのルールは、試合を円滑にかつ公正に進行させる目的のほかに、生命の危険を守るためにもある。
 そのルールの意味を認識せずにリングに立つなら、それはスポーツではない。
 
 たしかに、プロ・ボクサーの使命として、多くのお客さんの来場や、社会からの注目度は不可欠である。
 そのため、あえて亀田家と言うカテゴリーの中で、悪態をついたり、スポーツとしてボクシングを見る側からは、陳腐にしか見えないパフォーマンスに徹することも良いと思う。(下品を喜ぶ格闘ファンが多いことも、周知の事実ではある。)
 日本人ボクサーとして、初のヒールとしての立場からのアプローチを否定もしないし、世間がボクシングそのものに目を向けさせるために時には、そうした試みがあっても良いと思う。(本人達はそれを望んではいないと思うが・・・。)
 
 ただし、リング内では別の話だ。
 私はモハメド・アリ選手を高く評価するが、マイク・タイソン選手はボクシング界の汚点だと思っている。
 リング外のモハメド・アリ選手の言動は不愉快に見えて、誰もがあこがれた。
 本当のアリ選手の全盛期は、フィルムの世界でしか知らないが、ジョージ・ファーマン選手に勝ったあのキンシャサでの試合(1974年10月30日)を、子供ながらライブ映像で見た記憶と感動は生涯忘れない。
 (後にドキュメント映画として日本で公開された時には、石川県ではマニアック過ぎて上映されず大阪まで見に行った。~BS2でも放送済。)
 
 亀田興毅選手が、世間で注目された頃に、またアリの物真似選手がでてきたと思った記憶がある。
 「有言実行。」自分で自分を追い込んで必ず勝つ。
 「大言壮語。」世間の注目を一身に集めプロとしての存在感を示す。
 亀田興毅選手は茨の道を選んだなと感じた。
 しかし、ボクサーにとっての答えはリングの中にある。
 全盛期のアリ選手のボクシング・スタイル(徴兵拒否も含め)が闘争芸術なら、晩年のアリ選手のボクシング・スタイルは禅問答だった。
 
 しかし、亀田家の選手達に言葉にできるスタイルを見つけられない。
 亀田家と言うカテゴリーの中にはモハメド・アリを見つけることはできない。
 亀田家と言うカテゴリーの中にはブッチャーやシーク、シンのにおいがする。
 亀田家というカテゴリーは、ビー・バップ・ハイスクールの世界である。
 
 
 無茶苦茶な文体になったが、亀田家と言うカテゴリーは、ボクシング界にとって無茶苦茶な位置になろうとしている。

 しかし、亀田三兄弟のボクサーとしての品格は薄いが、素質は高い。
 また、これほどボクシングの本質(ルールの中での真剣勝負)が問われたことは、過去に例がない。
 
 できることなら、亀田三兄弟には、別々のトレーナーと、別々な放送局がつき、それぞれの挑戦を見て見たい気もする。
 また、活躍の場を国内に限定しなくても良いだろう。
 ただし、大毅選手はJCBの判断に従うことは当然だし、興毅選手は今の姿勢を続けたいなら、負けることが許されない。
 ・・・しんどいだろうな。
  しかし、それは本人が選んだ道なのだから迷わずその道を進んで欲しい。

 内藤大助選手は、亀田大毅選手とは違い終始大人の対応をとった。
 ほんとに、内藤選手のもつイメージは労働階級の近所のお兄さんの雰囲気で、気さくで、おしゃべり上手で、柔和なタイプはこれまでのボクサーとは違ったファンを獲得したと感じる。
 2007年7月18日。タイの英雄的ボクサー、ポンサックレック選手に三度目の挑戦で王座をもぎ取り念願をかなえた。
 ポンサックレック選手の戦跡は67戦64勝(33KO)3敗。
 タイトルは、2001年3月から17度の防衛。(内、日本人との防衛線は延べ8回。)
 
 たぶん、次の試合は、このポンサックレック選手との再戦と言われている。
 場所はタイ国内。相手選手の年齢は30歳。勝つのは難しいかもしれない。
 しかし、ポンサックレック選手を破り、来年の春にでも、東京か大阪のドーム球場で兄の興毅選手との世界戦が実現すれば、それこそ世紀の大一番になる。

 ファンとは勝手なもので次々と妄想に駆られながら、宣伝媒体に煽られ、プロである貴方達に要求を突きつける。しかし、それに答えるのも一流の証。

  などと書くのは、ワガママの極みか?

【平均視聴率】 
 内藤大助vs亀田大毅戦の平均視聴率は、関東地区で28・0%。関西地区で32・3%、中京地区で29・8%を記録した。
 亀田選手の地元関西地区で高い数字が目立ち、各地区でボクシングの試合としては高視聴率を示している。


 この試合の私の感想。
 
 
11日の夜は、東京のホテルに入ったのが8時20分頃。
 部屋に入って、テレビをつけたら9ラウンドの途中だった。
 試合内容は、翌日のスポーツ紙や友人からのメールである程度は把握している。
 友人の話では、亀田選手のファイト・スタイルは終始変わらず、固いガードに腰が引けた完全な守りの姿勢の中での一発狙い。
 内藤選手は、亀田選手の強打を恐れてか、距離をとって足を使いながらも伸びる軽いパンチで採点を稼ぐスタイル。
 始まる前のセレモニーや緊張感とは裏腹に、1Rから余り派手な打ち合いもなく、見ている側からするとイライラする試合展開だったと聞く。
 私自身も短い時間だったが、これといった決め手のない奥の浅いボクシングを見せられているといった感想を持っている。

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石油と環境のこと~つづき。

2007-10-10 23:14:07 | 環境・資源・未来
 
 昨日のんは、おもしろかった。読んでる人にはしんどい内容だと思うけど、あんな風にに文書を作ることないもん。昨日の内容を正式な文書にするには、多分一日3時間で一週間ほどかかるかな?
 人に読んでもらう文書でないし、でもまだまだ人を意識した内容で綴られてて、今日はどんな文節が、飛び出すか自分でも楽しみ。
 なんて言ったって、今の時点でなんの構成もできてないし、今日は30分だけ、頭の体操しますので、お時間が許せば読んでみてください。

 昨日の石油の話で書き足らなかったことに、1988年以後アメリカでも誰もが環境の変化に気づき始めた。しかし、当時のブッシュ(父)もクリントンもそのことを見過ごしてしまった。科学者は、政権に都合のよい環境解釈をし、その科学者の研究所には多額の研究費の援助があった。
 
 石川県では、1985年(昭和60年)以後に著しい積雪の減少が見られ始めた。
 石川県は、冬の気温が雪と雨の境目にあり、2~3度の違いで雪になったり、雨になったりする地方で、降水量は、11月中旬から、3月中旬まで、厚い雲に覆われほとんど晴れ間がのぞくことは少ない。
 かっては、12月に入った雪は、屋根の上の根雪になり、温暖の差で、大きなつららもできていた。
 また、突然の大雪に見舞われ、昭和の時代の旅行ガイド・ブックには、その期間は、都会からは絶対車で旅行しないようにと書き込まれていた。(でも、そのことはスキー・ブームを経て、都会の人も随分と雪に強くなったし、車も四輪駆動車も増えてきたため1990年前後には、都会の人も安心してドライブに来られるが。)
 
 今年の石川県の平野部では、一月、二月と全くと言ってよいほど積雪がなく、人と会えばその話ばかりだった。「変な気候になったね。そのうち地震でも来ないか心配だ。」と人が口々に言っていた矢先に能登が揺れた。
 断言できるが、科学的には、気温も雲も地震とは関係ない。しかし、人の心理の中には、気象異変はすべて連動している。
 天変地異は、過去には政治にも宗教にも利用されたし、天変地異は疫病の流行をも連動し、それぞれの時代の思惑の中で、人々の心に揺さぶりをかけた。

 今の環境変化がもたらす天変地異が、電波や光に乗って私達の耳に到達するとき多くの人の脳の働きの中で自己投影と比例する形で拒否感を感じ、その拒否感を利用しようとする輩も出現して、多くのことが不安と安心のバランスの中でそれぞれの思惑が混在する世情は、平安の世も鎌倉の世も現在の世も何も変わらない。
 ただし、現在と過去の違いは、その天変地異の原因の多くを人間は把握していることで、解決策の道筋も認知している人が多いことである。ただ、その解決策を棚上げし、問題の解決を先送りする理由はこの世の中を支配するのが余生の短い人たちだと言うことだ。
 5本の番組の中である老紳士が、「私達は将来の孫の世代にこう言われるだろう。
おじいちゃんたちは、私達に何の資源も残してはくれなかった。残したのは住みにくく環境が悪化したこの世界だけだ。」みたいなことを語っていた。

 番組の中では、石油の枯渇について触れているものもあった。
 埋蔵量と消費量のバランス。消費量と大気汚染や温暖化のバランス。
 ハッキリとした科学的数字は解釈によってバラツキがあるものの30年後、50年後には、深刻なものになっている。
 また、ある番組は、石油がなくなることの前に、石油需要と産出量のバランスが逆転した時に、石油価格の高騰と強国同士の綱引きの中でいさかいが起きる可能性と貧国に供給できる量の石油確保が難しいだろうとも予測しており、そのバランスが崩れ始めるのが2016年頃になるらしい。
 多くの番組な過程は、すべての石油を使い切ることを前提としている所が、今の現実のようだ。

 ここで、再び老紳士への子供達の嘆き。
 「おじいちゃんたちは、私達に何の資源も残してはくれなかった。残したのは住みにくい、環境が悪化したこの世界だけだ。」
 さらに、付け加えよう。
 「資源がないことで何かをしようとしてもなにもできず、環境が悪化したことで人々の心はギスギスしたものになり、ギスギスした心に争いは絶えず、おじいちゃん。生きていく希望がないよ。」
 もしかしたら、こんな世の中が、今日生まれた赤ちゃんが、私の歳になる頃に現実のものになっているかも知れない。

 そのことが、分かっていながら何もできない社会は、何も知らない過去の社会よりも低俗かも知れない。

 予定よりも3分オーバーしてしまった。
 明日と明後日は、出張のためにブログはお休み。
 もしかしたら、4~5日お休みするかも。
 今日のは、カッコつけすぎ?
 でも、番組をみた感想なんで・・・。そんなに、偉くはないですよ。

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石油と環境のこと~mimifuku言葉遊び

2007-10-09 23:50:28 | 環境・資源・未来

 10月1日から始まったBS1の石油特集をやっと見終えた。
 ・・・と言うより聴き終えた。
 この特集を文書に残すには時間が足りないので、いつも私の頭の中だけでやる言葉遊びで記してみる。
 たぶん、理解不能の部分もあると思いますが興味があれば・・・ネ。
 また、読み直しもしませんので誤字や脱字もそのまま掲載します。
 
 今、バックに流れているのがムターのモーツァルト。流れるような映像はいい感じ。
 石油と台風。そういえば、このブログは台風の話題ばかりだね。でも、台風って、今問題の環境について書くには一番分かりいいんじゃない?
 う~ん。そうかもね。温暖化=台風の構図が、ニュースの話題として多いもんね。
 カトリーナ以後は、アメリカでも環境について本気で考えているんでしょ?
 話し変わるけど昨日のボストン・マラソン大変だったね。31度まで気温が上がってバタバタ人が倒れて亡くなった人も出たんだ。
 そうそう、西日本も今年は10月に入っても30度越え連発で、九州の人たちもクタクタなんじゃない。
 九州って言えば、今日の雨ひどかったみたいだね。あれって、15号台風でしょ?
 うん。低気圧が思ったより早く来たというか、北にある強い低気圧に引っ張れれたって言うか、そんな感じ。でも、最大で200ミリ前後の雨だし、西日本の人たちにとっては、この雨をきっかけに涼しくなるんじゃない?たぶん、局地的な短時間豪雨でもない限りは災害にならないと思うよ。

 で、石油の話。
 番組は、どうだったの?
 う~ん。新しい発見は余りなかったかな?今まで語られていることが多いと思うよ。全部で、5回+1回の形で放送したんだけど。中で、興味があったのはウランの話かな?それと、別枠で放送した、石油の歴史の話はおもしろかった。
 とにかく中国とインドの経済発展が、この急速な温暖化の原因になっているみたいな言い回し。たしかにそうなんだけどそれを望んだのは、先進国だし、安い労働力とその労働の代価として支払われたお金を再び循環させて、円滑な経済活動をしようってのが当初の狙いで、潜在的消費大国を次から次へと作っていくことによって資本主義の発展があるんだけど、潜在的消費国が先進国になるってことには、膨大なエネルギー消費がその地区で起こるといことでそれに伴う石油の消費がすごい。
 日本と、北米と欧州だけなら確か5~7億人位って記憶しているけど、中国とインドだけで20億人の人間がいて、その中で豊かななる人が当面は四分の一としても、従来の倍、約10~12億人が大量のエネルギー消費をするんだからたまったもんじゃないよね。さらに、中国って今の国内電力をまかなっている70パーセントが石炭らしくって、今後10年で原子力発電所を30個以上作るらしいよ。
 えっ?大丈夫なの。日本でさえ原子力の安全が論議されているのに、安全な原発を作る技術って持っているのかな?
 さ~?でも、やるって言っているならやるんじゃない?あの国は、国家の方針に国民が個人で意見できても、集団で反対行動を起こすことは難しいし、今は国事態がイケイケだし、生活の安定力が増している今、危険を国内で宣伝しない以上は、安全なシステムとして国民は認知させられるんじゃないかな?それに、世界環境を考えると石炭で二酸化炭素をばら撒かれるより、原発の方が環境にやさしいのは確からしいよ。
 ホントに?
 うん。爆発さえしなければね。チェルノブイリから、20年以上も経つし大丈夫なんじゃない?それにそうしないと、石炭中心の電力供給じゃ、あれだけの経済発展後の国民の大量消費意欲をまかなえないし、原子力か、火力か、その他か。つまり、ウランか、石油か、石炭か、水力か、太陽光か?
 まだ、あるとしたら、忍耐か我慢かで電力を放棄するか?
 でも、石油で番組が一番重要視してたのは、ガソリンだったよ。
 電力は、国家の国策だけど、ガソリンは、個人の行動だし・・・。
 そればかりじゃないけどね。
 でも、個人の行動って大事でしょ。特に田舎は、自動車がないと行動範囲が制限されるし、それに最近の郊外店型社会は、車社会なくしてできなかっただろうし、輸送力の増加は、速度の向上にもつながったわけだし、速度の向上が、都会の資本を田舎にシフトさせる要因になったし。
 それって、いまの社会の縮図だよね。
 うん、大量消費型社会にするには、より安い製品の需給の確保が図られて、それが、日本の場合は、中国や東南アジア諸国に生産拠点を持つことと、都会の大資本を地方に分布することで達成したんだよね。
 でも、海外に生産拠点を求めたことは、国際競争力を強めることがりゆうでしょ?
 そうなんだけど、国際競争力を求めることが、話を元に戻すけど、エネルギーを大量消費できる個人をこの10~20年間で少なくとも2倍。インドや中国以外の、その他の諸国を混ぜると3倍位の大量消費のできる個人を生み出す結果になったみたいだね。それに、日本でも、個人の豊かさの格差を出たものの、ちょっとくらい収入が少なくなっても前よりも物が買いやすくなってるでしょ。
 つまり、環境って経済なんだね。
 アメリカ制作の番組では、その点を強調してたよ。
 経済優先がいまの環境破壊を生み出したって。
 でも、反対意見として、経済を優先させなくては国民の不満が爆発する。それを防ぐためには、需要されるものを供給できる社会こそ人々の精神は安定する。そんな考えもあるんだよね。
 豊かさを求めるために資源消費を加速させるのか、環境保護のために個人の生活欲に制限を求めるのか?
 個人の命と生活を尊ぶのか、ことによると人間の存在そのものの増加が今後の世界の流れのなかで否定されるのか。
 石油の便利さと、石油が与える将来に対する不安と。
 まっ、答えは出ないんだろうし、気象の変化くらいは世界を動かす人たちにとっては、個人の生活の中で解決できるレベルである以上余り問題にならないのかもしれない。

 とこれで、1時間。今日はおしまい。

 それと、ちょっと独り言だけど海外ドキュメンタリーのクレジットの中で制作統括として見かける、NHKの林由香里さん。
 林さんのチョイスはいつも面白いものが多いですね。(後で気づくのですが。)
 人体シリーズでお名前を見かけたのが最初だと思いますが、随分と活躍の場を広げられているようです。
 ためになる番組作りに感謝しています。
 と、お知り合いの人がいらっしゃったらお伝えください。

この話の続きへのブログ内リンク
http://blog.goo.ne.jp/mimifuku_act08/e/5b9862132a7207683095132ee01e308c


追記:10月30日
この記事のテーマになった番組のタイム・テーブルです。
BS1 「海外ドキュメンタリー」 シリーズ・石油
10/1  石油枯渇はやってくるのか
10/2  中東からアフリカへ ~拡大するアメリカの石油確保戦略~
10/3  アメリカ 石油依存の構図 ~遅れる温暖化対策~
10/4  石油高でウラン鉱山が復活する ~揺れるカナダ先住民の村~
10/5  ドキュメンタリー・ドラマ 2016年 石油がなくなる日
10/7 石油 1億6千万年の旅 前編
10/7 石油 1億6千万年の旅 後編


訂正:人体の制作には、林由香里さんはたずさわっていませんでした。
    家にある資料で調べてみると制作に林勝彦さんのクレジットがあり私の勘違いでした。
 

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