5月20日頃から思うところあって3冊の本を並行に読んでいる。
・九鬼周造:「いき」の構造
・桂 文楽:芸談・あばらかべっそん
・古今亭志ん生:志ん生長屋話
~「いき」の構造は再読。
思う所とは短期マイ・ブームとしての粋(いき)についての学習。
昨晩(26日)、
行きつけの居酒屋で“粋とは何か?”について意見を交わした。
店主が考える粋とは、
「ネチネチと他人の事情に深入りをしないこと。」
ママさんは、
「清潔で話し上手な人。」
お客のAさんは、
「パリッとした服装で身のこなしが軽い人。」
お客のBさんは変わった意見で、
グラスにお湯を先に入れ上から焼酎を注ぎ込み、
「鹿児島ではこれが粋なんだよ。」
私が粋(いき)に興味を持った理由は中期マイ・ブームの落語。
『志ん生長屋』から<三軒茶屋>の一説。
「江戸時代には火事は鳶職(とびしょく)が請け負ったもので、
“他人の財産を守るため自分の身体が黒焦げになるともかまわねぇ”
と言うような意気(粋)がありますから普段は言葉が悪くなる。」
桂文楽さんの『芸談・あばらかべっそん』から<雪の夜ばなし>では、
「ある大雪の晩に来るはずの噺家の到着が遅れて高座に穴が開く。
やって来た連中は20分の噺を30分、35分と話を繋ぐが限度がある。
雪に億劫になりヌク(無断欠席)輩も多くさらに穴が開く。
見習いの私も引っ張り出され覚えたての『道灌』を3度やらされた時には
聞いているお客さまもさぞ辛かったことだろうと泣きたい思いでした。
半ベソで楽屋を下りたら身も知らないお客さんがスーッと私の傍に来て、
“おい、若えの。ご苦労だったな”と手も切れるような一円札を、
3枚くださった時には嬉しさに夢見る思いでした。」
と書かれている。
この文書を読みながら“私が粋と感じた経験”を思い出した。
私が20代の頃にある展示会の会場で同席した旅館の女将さんを、
車で自宅にお送りした時の降り際に点袋(ポチ袋)を手渡されたので、
“何ですか?”
と中身を確認すると丁寧に折られた千円札が3枚入っていた。
“そんなつもりじゃないですよ。”
とお戻ししようとすると、
“タクシーに乗っても同じくらいかかるでしょ。
このお金は私の懐にあるべきお金じゃないのよ。”
との言葉を気に入って家に帰って家人に話すと、
“旅館は心付けを貰うのが通例になってるからじゃない?”
と素っ気ない返事。
しかし、
“私の懐(ふところ)にあるべきお金じゃないのよ。”
の言葉に感じた粋(いき)は生涯忘れないだろう。
私は5月20日の記事に
粋(いき)とは公共性を重んじる庶民行動のことで、
野暮(やぼ)とは自分中心にモノを見る着眼と行動。
~粋(すい)と粋(いき)と通:粋人と通人の意味を考える。
と記入した。
ここで、
九鬼周造著:『いきの構造』について考えてみよう。
『いきの構造』は昭和5年に雑誌「思想」に掲載された論文で、
1、序説。
2、「いき」の内包的構造。
3、「いき」の外延的構造。
4、「いき」の自然的表現。
5、「いき」の芸術的表現。
6、結末。
からなっている。
現代人の視点で読むと著作として推薦できる作品ではないと感じるが、
「いき」について作者が考え得る多面な角度からの分析に頭が垂れる。
個人的には、
<第2章:「いき」の内包的構造>に注目したい。
作者が考える「いき」の定義は、
“垢抜けして(諦)、張りのある(意気地)、色っぽさ(媚態)。”
となる。
意気地(いくじ)を「いき」とする定義は、
「いき」とは、
江戸児(えどっこ)の気概であり生粋(きっすい)を江戸児の誇りとする、
江戸文化の道徳的理想の反映と位置づけ、
“江戸の花”には(志ん生さんの噺にもある)命をも惜しまない町火消。
鳶者は寒中でも白足袋裸足、法被一枚の“男伊達”を尚(とうと)んだ。
さらに文書は、
「いき」のうちには溌剌(はつらつ)とした武士道の精神が生きており、
“武士は喰わねど高楊枝(たかようじ)”の心はやがて江戸者の
“宵越しの銭は持たぬ。”の誇りとなったと続く。
垢抜け(あかぬけ)を「いき」とする定義は、
「いき」とは、
“あっさり、すっきり、瀟洒(しょうしゃ)たる心持”であり、
この“あっさり、すっきり”への解脱(げだつ)は諦(あきら)めに通じる。
男女の纏わる色事や恋沙汰の煩悩は、
<真心が裏切られたりする経験>や<歳を重ね浮世から遠ざかる事実>等、
世間に揉まれながらも
“諦め=独断的な執着から離れた瀟洒として未練のない恬淡無碍の心”
を覚え垢抜けしていく。
“野暮も揉まれて粋となる”
の意味は野暮(=執着)が経験を重ねることで垢抜け(=諦め)すること。
媚態(びたい)を「いき」と定義は、
時代の特徴であり遊郭があった時代の遊びとしての歓楽や異性との交遊。
現代社会の男女同権の視点とは懸離れた「いき」に戸惑いを感じる。
「いき」の構造では、
「いき」とは日本人特有の独特な民族性を持った言葉(行動形態)だと位置づけ、
自然な情景(季節や人の振舞)や日本人が好んで用いる意匠(デザイン)や、
衣服や建築物まで「いき」が活用される言葉の意味を事細かく説明している。
九鬼周造さんの著作を読んで感じることは、
「いき」と言う二文字の内に含まれる様々な意味の違いや感じ方の違いは、
言葉(日本語)を使用する者として単語が持つ曖昧さを痛切に思い知らされる。
例えば『愛国心』と誰もが口にするが『愛国心』が持つ意味は様々だろう。
言葉は言葉巧みな者に利用され易い特徴を持ち、
さらに言葉は、
人の人生ばかりでなく国家の将来すらも左右する特徴を持つ。
現代に生きる日本人の特徴として言葉の意味を深く理解せずに、
単語の持つイメージ(印象)に左右されている人達を多く見かける。
また、
現代に生きる日本人の特徴として数字に対し非常に敏感に反応し、
自分を平均値に置きたいとする願望を強く感じる。
私は5月20日の記事中に
粋(いき)とは公共性を重んじる庶民行動のことで、
野暮(やぼ)とは自分中心にモノを見る着眼と行動。
と記入した。
公共性を重んじる粋(意気=心の動き)とは、
“他人の財産を守るため自分の身体が黒焦げになるともかまわねぇ”
ではないし“自己犠牲を理想とする考え”は利用されやすく危険だと感じる。
私が考える公共性を重んじる粋(いき)とは、
“おい、若えの。ご苦労だったな”
であり、
“私の懐(ふところ)にあるべきお金じゃないのよ。”
である。
仕事や作業に対する労(ねぎら)いや感謝の気持ちを言葉にしたり、
報酬や心付け(お礼)が持つ循環を平成に入って社会は否定し続けてた。
1990年以後の平成の世の日本の低迷を考えるキーワードとしての、
“粋(いき)が持つ意味”と“粋(心意気)の喪失”
では、
粋の意味を知る上で重要なキーワードである野暮(やぼ)とは何か?
“野暮は揉まれて粋となる。”
九鬼周造さんが主張する野暮とは、
“独断的な執着に傾倒し未練たっぷりで欲深いこと。”
となるのだろうか?
執着(しゅうちゃく)の意味は、
<深く思い込んで心が離れないこと。思いが捉われること。>
それは1990年以後の日本に於いて何を意味しているのだろうか?
日本的風土に急速に入ってきた合理主義の波は社会構造を変えた。
大きな理由としてのデジタル技術の発展による社会変化が挙げられる。
来る波(社会変化)を止める事はできない。
そうした中、
誰が(これまでの手法に)執着し続けているのか?
また止めることのできない社会変化に相応しい制度とは何か?
デジタル社会(IT社会)が発展し続ける中で、
“粋な行動”を目の当たりに学ぶことを今後益々難しいと感じるが、
将来への不安が鬱積(うっせき)する世知辛い世の中でさえ、
“公共性(他人を意識すること)を重んじる庶民の粋は失わないで欲しい。”
と心から感じるし、
私自身が“粋=公共重視の姿勢”を心に抱いて生きたいと思う。
<ブログ内:関連記事>
5)『粋(いき)と野暮(やぼ)』を学習し『日本人気質』を探求する。
→ http://blog.goo.ne.jp/mimifuku_act08/e/500a0fa9ad7b12bd8220d7529e6cc56c
3)白洲次郎の伊達(だて)と白洲正子の粋(すい)を観る。
→ http://blog.goo.ne.jp/mimifuku_act08/e/379e8178c29d7983d922f9effa5c827e
2)『粋(すい)と粋(いき)と通(つう)』:粋人と通人の意味を考える。
→ http://blog.goo.ne.jp/mimifuku_act08/e/16fde21d9a7cd5d0336e06b0227ac1ea
1)『雨音を楽しむ』:日本文化(日本人の精神)と音の関係。
→ http://blog.goo.ne.jp/mimifuku_act08/e/f9ef76c825dfaeedd837ff7ac9dff246