mimi-fuku通信

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【史上最強のボーカリスト:ロバート・プラント】~ ワールド・ロック・ライブ/NHK-BShi

2009-06-14 21:36:00 | Pop&Jazz

 
 ワールド・ロック・ライブ(ワールド・プレミアム・ライブ) 
 ~史上最強のロック・ボーカリスト:ロバート・プラント~

 放送局 :NHK-BShi
 放送日 :2009年6月14日(日)
 放送時間 :午後11:30~翌日午前1:00(放送終了)
 番組HP:
 http://www.nhk.or.jp/wplive/wrl_vol75.html

 <mimifukuから、一言。>

 ロック史上
 最も重要なハード・ロック・バンドとして君臨し続ける不滅の王道、
 レッド・ツェッペリンのリード・ボーカル:ロバート・プラント
 彼の新しいライブ映像を2つ紹介。

 2007年・年末に突如再結成されたレッド・ツェッペリンのワンナイト・ライブは、
 その年の音楽界の最大の話題となった(2007年12月10日:ロンドン)。
 今回放送されるライブ映像は、
 2007年10月のテネシー州レバノン公演と2005年のシカゴ公演
 話題の再結成ライブの2ヶ月前の映像は、
 現状のプラントのボイスを知る最良の映像と思われる。

 ロバート・プラントは、
 史上最強のロック・ボーカリスト・アンケートでは常に上位の実力者。
 イギリスのラジオ局の昨年2008年のアンケートでも堂々の第一位
 (ただし2007年末のコンサートでの報道過熱の影響も多いかも?)

 プラントの歌唱法は独特で特にツェッペリン時代のライブでの、
 10分を超える大曲での歌唱は自らの声を楽器に変えてしまう
 男性としては珍しい自由にコントロールできる高音域を利用して、
 音を繰り返しながら一音一音に変化を付けるシャウト歌唱は他に類を見ない。
 一説には、ギタリストのジミー・ペイジが歌唱の部分までアレンジを加え、
 プラントがペイジの要求するアレンジを完璧に声で表現しているとも言われる。

 細身でしなやかな身体はセクシー。
 クネクネと腰を動かすパフォーマンスも個性的。
 ツェッペリン時代はペイジの陰に隠れ存在感が薄かったと言う輩もいるが、
 70年代のライブ映像に見るロバート・プラントの個性は、
 ハード&メタルの世界で他を圧する魅力を持っていた。

 唯一無二の個性派ボーカリスト
 震えるように魅力的な高域ボイス
 自由自在に言葉を音に変えるテクニック
 当時のボーカル・テクニックは、
 すべてが超一流だった。

 果たして今も健在か?
 楽しみなライブです。


 ~以下、NHKホームページより転載。

 ロック界を代表するカリスマ的ボーカリスト、ロバート・プラント。
 共演作がグラミー賞を獲得したアリソン・クラウスとのライブと、
 自身のツアーバンドとのライブを紹介。

 1969年にレッド・ツェッペリンのリード・シンガーとしてデビューをはたして以来、
 強い影響力を持つアーティストとして活躍をつづけてきたロバート・プラント。
 2007年暮れに実現したツェッペリンの再結成。
 2009年2月のグラミー5賞獲得などあらためて大きな注目を集めている、
 彼の近年のライブを二つの異なるフォーマットで紹介する。

 *PART.1 ロバート・プラント&アリソン・クラウス

 現在のブルーグラス/カントリー界を代表するアーティスト:アリソン・クラウス。
 彼とのライブの収録は、2007年10月8日、テネシー州レバノン。
 2007年に発表され年間最優秀アルバム賞など5つのグラミーを獲得した、
 ジョイント・アルバム『レイジング・サンド』の世界をステージで再現。
 ツェッペリンの作品にも取り組んでいる。

 *PART.2 ロバート・プラント&ザ・ストレンジ・センセーション

 2002年に結成したバック・バンドとのライブ。
 収録は2005年:シカゴ。
 レッド・ツェッペリン時代の名曲を新しい解釈で聞かせている。

 <Part. 1>

 1:Gone Gone Gone(Done Moved On)
 2:The Boy Who Wouldn’t Hoe Corn
 3:When The Levee Breaks
 4:Black Dog
 5:Stick With Me Baby
 6:Rich Woman
 7:Please Read The Letter

 <Part. 2>

 1:No Quarter
 2:Shine It All Around
 3:Black Dog
 4:Four Sticks
 5:Tin Pan Valley
 6:Gallows Pole
 7:The Enchanter
 8:Whole Lotta Love


 <関連記事>
 *ロバート・プラント:ロック史上最強のヴォーカリスト
   http://www.barks.jp/news/?id=1000046128

 ~以下、リンク先BARKSより記事転載。

 Planet Rockのリスナーが選んだ
 <グレーテスト・ヴォイス・イン・ロック>。

 1.ロバート・プラント(レッド・ツェッペリン)
 2.フレディ・マーキュリー(クイーン)
 3.ポール・ロジャース(フリー/バッド・カンパニー)
 4.イアン・ギラン(ディープ・パープル)
 5.ロジャー・ダルトリー(ザ・フー)
 6.デヴィッド・カヴァーディル(ホワイトスネイク/ディープ・パープル)
 7.アクセル・ローズ(ガンズ・アンド・ローゼズ)
 8.ブルース・ディッキンソン(アイアン・メイデン)
 9.ミック・ジャガー(ローリング・ストーンズ)
 10.ボン・スコット(AC/DC)

 『大人のロック!』:誌上アンケート。
 *史上最高のロック・ボーカリスト
 ~同2008年夏号(Vol.15)

 1位:ローリング・ストーンズ/ミック・ジャガー
 2位:ジャニス・ジョプリン(最強の女性ボーカリスト)
 3位:クィーン/フレディ・マーキュリー
 4位:レッド・ツェッペリン/ロバート・プラント
 5位:ビートルズ/ジョンレノン
 6位:エアロスミス/スティーブン・タイラー
  7位:ボブ・ディラン(最も偉大なフォーク・ロックシンガー)
 8位:ポール・ロジャース(現在クィーンとのジョイントで活躍)
 9位:ロッド・スチュワート(元フェイセズ)
10位:エルビス・プレスリー(史上最高のスーパースター)

 

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【訃報】プロレス団体ノア代表:三沢光春さん死去/ 09年6月13日

2009-06-14 01:11:11 | 芸能・スポーツ

 
 多くのプロレス・ファンにとって信じがたい悲しいニュースが届いた。
 夜11時58分(2009年6月13日)に友人からのメール。
 「三沢、試合中に死んだわ。今日」
 パソコンを閉じた直後だけに何のことやら?
 再びパソコンを開き情報収集。
 下記に現時点でのWebニュースをまとめてみた。

 三沢選手はG馬場さんを慕い全日本プロレスに入社。
 (1981年3月27日)
 当時の全日本選手の中では小柄な身体で、
 2代目タイガーマスクとしてジュニアの王者となる。
 (1984年8月26日:タイガーマスクとして2度目のデビュー)
 天龍選手らの大量離脱事件の後、試合中にマスクを脱ぐ。
 (1990年5月14日:改築完成したばかりの東京都体育館)
 その直後の1990年6月8日:日本武道館大会。
 ジャンボ鶴田選手に挑戦・涙の勝利
 (私はこの試合を武道館で生観戦している。)
 新しい時代の夜明けだった。

 G馬場さんが唸るほどの高度な技術と受身を身に付け、
 1990年代のプロレスを引っ張った功績はプロレス界の宝石箱
 特に
 超世代軍(三沢、川田、小橋、菊池)の時代

 空前の激しい試合の連続に深夜枠で高視聴率を連発。
 (福沢朗アナウンサーの「ジャストミート」はこの時代に生まれた。)
 また、
 四天王(三沢、川田、小橋、田上)プロレスと呼ばれた時代の、
 完成度の高いプロレスは職人芸の連続でファンを歓喜させた。
 日本のプロレス史上この時代を<真の黄金期>とするプロレス・マニアも多く、
 プロレスが最高度に熟成した時代の中心人物が三沢光晴さんだった。
 この1990年代の全日本プロレスが深夜枠であったことは残念極まる。
 多くの少年達に見て欲しい感動的な戦いの連続だったし、
 観戦した多くの子供達に夢や負けない気持ちを教えた。

 私の一番の思い出の試合は金沢で始めて世界タッグを奪取した
 *三沢&川田VSゴディ&ウィリアムス
 (1992年7月24日:この試合も生観戦している。)
 
 三沢選手を最後に生観戦した試合が1999年5月2日
 G馬場(死去後の)引退興行:東京ドーム大会。
 三沢選手よりサイズも大きいベイダー選手に完全勝利。
 強さが際立った試合だった。

 なぜかプロレスの大きな賞にはあまり恵まれなかったがファンの心には、
 天龍源一郎選手、武藤敬司選手、小橋健太選手等と並ぶ、
 ミスター・プロレス、ミスター・ベストパウドの称号を冠した。

 私は馬場さんが亡くなってから約10年。
 プロレスを見る機会は極めて少なくなった。
 しかし言葉にするには余りに多くの思い出がある。
 馬場さんが逝き、鶴田さんが逝き、三沢光晴が逝った。
 プロレスは、私の中で完全に思い出になっていく。
 友人達とプロレス談議をした多くの思い出とともに、
 三沢光晴も大切な思い出に変わる。
 悲しいね。

 ご冥福をお祈りします。


 【追記:6月14日朝】

 朝8時から放送されている日本テレビ「TheサンデーNEXT」で、
 昨晩の痛ましい悲劇の映像の一部が放送されました。
 映像は三沢選手がバックドロップに倒れた直後からのもので、
 映像提供は、『FIGHTING TV サムライ』
 静寂の場内で心配そうに覗き込むレフリーと潮崎豪選手。
 バイソン・スミス&齋藤彰俊選手はリング場をウロウロろ動き回る。
 映像が変わり心臓マッサージを続ける中、
 次第に場内に集まる選手の数が増し場内からもミサワコール。
 ピクリともしない。
 控え室から高山善廣選手も異常な状況にリングへと向かう。
 会場のコールも悲鳴に近いものに変わっていく。
 リングには多くの選手が集まり三沢選手を囲む。
 心配そうに覗き込む佐々木健介選手の姿も見える。
 心臓マッサージが続けられる。
 およそ6分後に救急隊が到着。
 心臓蘇生装置(AED)による応急手当てを開始。
 しかし意識は回復せず担架により緊急搬送される。
 担架で移動する際も心臓マッサージは継続。
 ハンカチで泣きながら目覆う女性ファンの姿も映像はとらえた。
 死因は今の所(午前9時現在)不明。

 *メイン・キャスター:徳光さんの追悼のコメント。
 「映像を見ていて取り乱してしまいすみませんでした。
 プロレス・ファンの方々なら試合後リングで倒れる選手を、
 何度か見かけることもあると思います。
 しかし多くの場合1~2分後には立ち上がって元気な姿を見せ、
 一礼してリングを去ります。
 今回はそれがなく選手達にとってもどうしていいのか、
 まったく分からない状況であったと思います。
 受身の天才であった三沢さんがこうした形で逝くのは、
 (本人にとって)無念だったと思います。
 プロレスと言うのは受身のスポーツであります。
 受身が上手ければ相手の技が大きく見える。
 そんなスポーツです。
 受身の名人が受身で逝ってしまったことは、
 三沢さん自身<死に切れない思い>だと感じます。
 社長業との兼任。
 年齢以上の練習。
 そうしたことが原因でないか?
 無念です。」

 *放送でに映しだされたスポーツ3誌の一面記事。
 ・ニッカン・スポーツ:プロレス試合中・三沢さん急死。
 ・サンスポ:プロレス試合中頭部強打・三沢さん死す。
 ・スポーツ報知:リングで昏倒・三沢が死んだ。 

 <関連記事>
 
*追悼:三沢光晴の生き方 ~理想主義者/馬場イズムの継承。
 http://blog.goo.ne.jp/mimifuku_act08/e/9a64fc2ef40e2614f7acf53787877ec6 

 *追悼:三沢光晴 ~日テレ特番の放送と東スポ&週プロ特集号。
 http://blog.goo.ne.jp/mimifuku_act08/e/bd66598bec6422592d88f9dcf1902af0


 ~以下、Web上の記事転載:独自編集。
 
 2009年6月13日(土曜日)。
 プロレスリング・ノア代表でレスラーの三沢光晴さん(46)が死亡した。
 広島県警の調べによると、
 試合はメーンイベントのタッグマッチで午後8時10分ごろ開始。
 試合中時折頭を振るなど不自然なしぐさを見せていた三沢さんだったが、
 潮崎からタッチを受けてバイソン&斎藤の合体技と、
 斎藤の蹴りの連発を浴びるとぐったり。
 試合終盤の午後8時45分頃
 とどめに斎藤から高角度の岩石落としを食らった際に受け身の体勢が、
 十分取れずに体を「く」の字に折る不自然な形で落下。
 頭部と首を強打した。
 三沢さんは全く動かなくなり異変を察知したレフェリーが試合をストップ。
 試合後に団体トレーナーや観戦していた医師らがリングへと駆け込み、
 心肺蘇生を施すと所属選手もリングに上がり場内は騒然となった。
 そのまま担架で退場した三沢さんは広島大学病院へと運ばれ、
 搬送先の病院では集中治療室で救命処置を受けたものの
 同10時10分死亡が確認された。

 三沢さんは昨年1月にも、
 日本武道館で行われた森嶋選手とのGHCヘビー級タイトル戦で、
 首を強打し病院に搬送されたことがある。
 また、
 今年3月に日本テレビの地上波放送打ち切りが決まったころから、
 「体調が悪い」と関係者に漏らしていたという。

 *会場
 :広島県立総合体育館グリーンアリーナ「サザンナビ09」広島大会

 
*GHCタッグ選手権試合
 :バイソン・スミス&齋藤彰俊組(王者)VS三沢光晴&潮崎豪組(挑戦者)

 
 ◆三沢光晴(みさわ・みつはる)
 1962年(昭37)6月18日:埼玉県越谷市生まれ。
 ~栃木・足利工大付高ではアマレス・フリー87キロ級で国体優勝。
 ~卒業後全日本プロレス入りしジャンボ鶴田の付け人を務める。
 1981年8月:越中詩郎戦でデビュー。
 ~メキシコ遠征を経て帰国後2代目タイガーマスクとして活躍。
 1990年にマスクを脱いで超世代軍を結成。
 1992年に3冠を初制覇。
 1999年に全日本社長に就任するが、
 2000年5月に解任→その後『ノア』を設立し社長に就任。
 2001年に初代GHCヘビー級王者になった。
 得意技はエルボー、エメラルドフロウジョン。
 185センチ、110キロ。


 ~以下Web記事:詳細な記事を転載。

 *死亡:三沢光晴さん:プロレス試合中に頭を強打
   ~毎日新聞。
  http://mainichi.jp/select/jiken/news/20090614ddm041040144000c.html

 13日午後8時半ごろ広島市中区基町の広島県立総合体育館で行われた、
 プロレスリング・ノア広島大会で試合中にノア社長でプロレスラーの、
 三沢光晴さん(46)が倒れ心肺停止状態で広島大学病院に救急搬送された。
 (県警広島中央署によると)同10時10分に死亡が確認された。
 同署は主催団体や対戦相手などから事情を聴いている。
 大会関係者や観客によると三沢さんはこの日タッグマッチに出場。
 バックドロップを受けて頭を強く打ち動けなくなった。
 レフェリーが三沢さんに「動けるか」と聞いたが三沢さんは「動けない」と答えた。
 試合はそのまま中断。
 医師だという観客の男性が自動体外式除細動器(AED)で蘇生を試みたという。
 当時、約2300人の観客がいた。
 1980年代はタイガー・マスクとして活躍
 1990年からはマスクを脱ぎ本名で活動。
 ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田両選手(ともに故人)に次ぐエースとして活躍した。
 2000年に全日本を退団してプロレスリング・ノアを設立し社長を兼務。
 受け身のうまさには定評があった。
 【加藤小夜、星大樹】

 ◇プロレスで死亡:97年に初の事例。
 日本にプロレス興行が根付いた1953年以降、
 国内での試合中の事故が原因で死亡したのは、
 1997年にJWP女子プロレスのプラム麻里子さん(当時29歳)が最初。
 広島・アステールプラザでの大会で相手の技を受け頭部を強打したものだった。
 男子では、
 2000年に栃木・足利工大付高レスリング部で三沢さんの後輩となる、
 新日本プロレスの福田雅一さん(当時27歳)が頭部を強く打って死亡。

 また1999年3月、
 女子プロレスの選手(当時23歳)が試合中に頭部を強打、
 同年4月に急性硬膜下血腫で死亡した。


 *ノア・三沢さん死す・プロレス試合中頭部強打。
  ~サンケイスポーツ

  http://www.sanspo.com/fight/news/090614/fga0906140503002-n1.htm

 三沢、壮絶マット死!! 
 13日午後8時40分ごろ広島県立総合体育館グリーンアリーナで開催された、
 「プロレスリング・ノア広島大会」で同団体の社長、
 三沢光晴選手(46)が試合中に相手の技を受け頭部を強打。
 救急車で市内の病院に運ばれたが同10時10分に死亡が確認された。
 ジャイアント馬場が大腸がんに倒れ、
 アントニオ猪木が引退した後の日本マット界を、
 けん引したエースが衝撃の“殉職”となった。

 マット上で大の字となった三沢がピクリとも動かない。
 2300人:満員の観衆による「ミサワコール」にも立ち上がることはできなかった。
 「社長!!」「社長!!」
 選手、関係者が呼び掛けたが三沢に反応はない。
 専属トレーナーが心臓マッサージを繰り返す。
 さらに、
 「観客の方でお医者さんはいませんか!?」というリングアナウンサーの要請で、
 マットに上がった医師が自動体外式除細動器(AED)で蘇生を試みた。

 すぐに救急車が手配され広島大学病院(広島市内)に搬送。
 県警広島中央署は、
 「病院から三沢選手が心肺停止状態と連絡があり署員が向かった」と説明。
 午後10時10分に死亡が確認された。
 死因は不明。
 6月18日:47歳の誕生日を目前にしての悲劇だった。

 三沢は13日夜、
 メーン・イベントのGHCタッグ選手権(60分1本勝負)に潮崎豪とのタッグで出場。
 第17代王者の斎藤彰俊、バイソン・スミス組に挑戦した。
 リングサイドで観戦していたという会社員男性(35)=広島市=によると、
 「この日の三沢は精彩を欠いているように見えた」という。

 そんな中でアクシデントは起きた。
 ゴングから25分過ぎ斎藤の打撃技を顔面などに受けていた三沢は、
 さらにバックドロップを同じ斎藤から食らう。
 本来、後頭部をマットに打ち付ける技だがこの一撃はかなりの急角度で落下。
 ほぼ脳天から落ちた。
 ダウンした三沢にレフェリーが「動けるか」と聞くと、
 三沢は「動けない」と答えたがすぐに意識を失った。

 試合は27分03秒・レフェリー・ストップ。
 斎藤、バイソン組が3度目の王座防衛となったが、
 ただならぬ状況に会場の熱気は次第に冷気となり、
 ショックで泣き出す女性ファンの姿もあった。

 三沢は全日本プロレス時代に2代目タイガーマスクとしてデビュー。
 捨て身のファイトで多くのファンを魅了した。
 本名の「三沢光晴」となって幾度となく名勝負を演じた川田利明選手との、
 『3冠ヘビー級選手権』ではテレビ解説を務めていたジャイアント馬場(故人)が、
 熱過ぎるファイトに泣いてしまった逸話もある。

 「受け身の天才」と称される一方で試合中のけがも多く、
 首や腰にいつも爆弾を抱えていた。
 13日午後11時過ぎ、「三沢死亡」の衝撃的ニュースに、
 病院前は報道陣でごった返した。
 また県警広島中央署が団体幹部や対戦選手から詳しい事情を聴いている。


 *三沢さん死因「頚髄離断」、遺体は東京へ。
  ~ニッカン・スポーツ
  http://www.nikkansports.com/battle/news/p-bt-tp0-20090615-506677.html

 13日に広島県立総合体育館で行われた試合後に急死した、
 プロレスラーの三沢光晴さん(享年46)の死因は、
 バックドロップを受けて頭部を強打したことによる、
 頸髄(けいずい)離断だった。
 三沢さんは、古傷の頸椎(けいつい)損傷に加え、
 肩、腰、ひじも痛めていたという。
 社長業と看板選手の両立や決して手を抜かない性格が、
 命を縮めた可能性がある。
 遺体は東京に運ばれ近親者だけで密葬を行う予定。
 この日ノアは、
 「どんな状況でも全力を尽くす。」
 という三沢魂を引き継ぎ悲しみの中で博多大会を決行した。

 

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