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日々思うこと

日常と、
日常につながるもの。

「普通の感覚」って大事だと思う。

2006-09-09 | 堅めの話
プリザーブドフラワーの講座の後、スタッフの友人たち(&ふらりと現れたPTA役員仲間)と、仕事がらみでとりとめのない話をした。

主に話題になったのは、目前に迫った運動会のこと。
…というより、運動会を通して目につく一部の親のマナーの悪さだ。
比較的意識の高い保護者の多いこの地域だが、それでも年々マナーの悪い人が増えているような気がするのが、P役員としてもアタマの痛いところだ…

場所取りのために、閉まっている門を乗り越えて休日の学校の敷地に侵入するお父さん、
わが子の“ベストショット”を撮るためには、競技の邪魔になろうがなりふり構わずのお母さん、
そして近隣には何台もの不法駐車の車…
全く、何と言っていいやらだ。
学校の側は、昼食や撮影場所の確保に、いろいろと気を使ってくれているというのに…

愚痴交じりで対策を考えていたとき、一人の友人がこんなことを言ったので、驚きとともに軽い感動を覚えた。
「思うんだけど、日本は(第二次大戦の)敗戦で、何もかもにダメ出ししすぎたような気がするんだよね。それまでの日本にあったいいところまで捨ててしまって、変に個人主義に走って品位が無くなっていってる。」

そして、「品位が無い」から話はどんどん脱線して、今度は別の友人が言うには…
「そう言えばさー、テレビで紀子様ご出産のニュースと一緒に皇室典範どうするのかとかうるさく言ってるけど、こんなときくらいほっといてあげればいいのにね。
今のままの皇室典範じゃ立ち行かなくなる可能性があるってことくらい、みんなわかってるよ。でもこんなときくらい普通に「おめでとうございます」って言えないのかな?!と思うよ。」

これにも感動した。

念のために付け加えると、タイプは違うけれど二人ともごく普通の主婦だ。
(一人は頭の切れる“デキる”タイプ、もう一人はおしゃべり好き・人が好き(…ゴシップも、かな?)な気さくな人だ。)

主婦は政治にあまり興味がない、というのは、まあそうかもしれないな…とは思う。
しかし、主婦の「普通の感覚」は、“理念先行”で頭でっかちになりがちな場所では、時として至極まっとうで貴重なものかもしれない…ということをふと思った。


話はそれるが…
政治系ブログのうち、一部の左翼系ブログでは、紀子様ご出産のニュースにひどく悪意のある記事を書いていて、目を覆いたくなる。
本人たちは「一石を投じて」いるつもりかもしれないけれど、そこには、品位のかけらも感じられない。

イマドキの若者風に言うなら、
「“普通に”ルールは守ろうよ。」
「下品な言葉を使うのは“普通に”やめようよ。」
そう淡々と言いたい気分だ。

意見はいろいろあっていいと思う。
しかし、最低でも「面と向かって口に出せる」範囲の、品位ある言葉でお願いしたい。
普通の感覚で嫌悪感を感じる言葉には、世の中を動かす力はない、ということを勉強しなおしてもらいたいものだ。

先祖の話

2006-08-21 | 堅めの話
帰省先から無事帰宅。
今年は祖母と叔父の初盆だったこともあって、これまでにも増して印象深い里帰りとなった。

その理由の一つが、母から我が家のルーツの話をゆっくり聞けたことだ。
祖母の遺品の中に古い戸籍謄本を見つけたこともあって、それをもとにちょっとした家系図を作ってみたりした。といっても、曾祖母の父母の名前までが限界だったが…

少し前までの私は、「地球人」「国際人」(笑)を気取っており、自分の祖先の話になんて何の興味も起きなかった。自分が日本人であるという事実なんて、“足枷”以外の何者でもなかったから…

それと今回もう一つ、私がルーツをたどることに今一つ積極的になれなかった理由があったことに気づいた。
それは、祖母が「我が家が士族の出である」ということを、常日頃から誇らしげに語っていたことだ。
おかしな「国民皆平等思想」に染まっていた私は、「人間はみんな平等なんだから、そんなことを誇りに思うのはおかしい」と、逆にそれが恥であるかのように思っていた。
お城で過ごした夏の記憶だとか、やさしい女中さんの話だとかのたわいのない祖母や母の思い出話を含め、“祖先を誇りに思う”関係の話には、ことごとく耳をふさいでいた。

でも、それは間違っていた。自分の祖先を祭り上げる必要はもちろんないが、殊更に卑下する必要もなかったのだ。
確かに明治維新で「四民平等」にはなった。しかし私はおかしな“平等感覚”で、自分の両親や祖父母、曽祖父母の思い出まで捨て去ってしまうところだった。
先祖がどこの誰であろうと、誇りに思ってよかったのだ。
名もない町民・農民の子孫は祖先を誇りに思ってよいのに、武士の子孫にはそれが許されない、なんておかしな話はないだろう。

奇しくも小泉首相は8月15日、現職首相として21年ぶりに靖国に参拝した。
メディアは賛否両論かまびすしかったが(…というよりメディアだけが突出してかまびすしかったようだが^^;)小泉さんの行動は、最近の私の心境の変化ともマッチして、大いに拍手を送りたい気分だった。

偉人であろうと、犯罪者として裁かれようと、
今の自分があるのは「先祖」あってこそ。
そして、先祖を誇りに思うことは、自分の存在そのものを誇りに思うことともつながる。
一神教の名のもと、正義の押し付けに走るのと比べて、なんと平和的な思想だろうか…日本人は「先祖を敬う」という思想を、もっと誇りに思っていいと思う。

議論をブチ壊す「そもそも」論

2006-07-29 | 堅めの話
今日は、忙しいです。今も実は小学校の一泊キャンプの合間にシャワーを浴びに帰ってきたところです。あと10分もしたらウチを出なくてはならないというのに、何もこんな忙しいときに更新しなくても…
という気がしないでもないんですが、そこはアマノジャクな私ですから

主にネットでの議論を見ていて、思うことがある。
ある問題について話し合っているときに、すぐに「そもそも」論を持ち出す人がいるのだ。
たとえば
「適切な『評価』とは?」というテーマで話し合っているときに、
「そもそも評価なんて必要なのか?百害あって一利なしではないか。」などとブチ上げる。

「北朝鮮のミサイル問題で、日本はどう対応すべきか?」という問いかけに対しても、結局言っていることは最後まで「そもそも日本が関係を悪化させたのがいけなかった」という、これだけ。

こういう人がいると、建設的な話にはなりにくい。

更に困るのは、本人には「議論をブチ壊している」という意識がないことだ。
それどころか、「自分の主張は、より普遍的で問題の本質に迫っている」などと勘違いしている場合も多い。

でも、最近思うのは、
結局こういう人々って「お気楽」なんだな…ということ。
だって、「この問題を解決できなければ生命の危険が迫る」というときに、悠長に「そもそも」論なんてぶっていられる余裕はないはずだから。
たとえば自分や自分の愛する人が銃を向けられたら、必死で逃げ道や犯人の説得法を考えるだろう。
「そもそもなぜ銃という危険な武器が存在するのか」などと考える人はいないはずだ。

そういう意味では、「そもそも教」信者(スミマセン、勝手に名前つけちゃいました)は、本当の意味では問題を抱えている人に寄り添うつもりはなく、どこか「他人事」なのだという気がする。

反面教師

2006-07-11 | 堅めの話

反面教師というのはバカにできないものだ。

自分自身の考え方の変遷をたどってみても、
「良識ある人の説得」よりも
「あれ…?私もそう考えてたはずなんだけど、何かおかしい…」と気づかせてくれた「反面教師」の存在のほうが大きいような気がしている。
(素直に人のいうことを受け入れられない人間であることを暴露するようで、大変お恥ずかしい話であるが…)

私にとって一番の「反面教師」は、
「何かをさげすむだけ」の人である。

たとえば「学校の先生の人権意識がもう少し高いといいのですが」
などという発言。
この発言のウラには、当然ながら
「少なくとも先生より自分の意識のほうが高い」という、人を見下ろした感覚がある。

または、「日本をダメにしたのはコイズミ」などと政治家をこきおろすだけの人。
こういう人は「外交もダメ、何もダメ」とダメ出しばかりが得意で、決して「しかしここは評価する」なんてことは言わない。

言わせてもらえば、 確かに日本の外交はヘタかもしれないけど、

少なくともアンタよりずっとまし!!


…こういうふうに文句ばっかり言っている人というのは、きっと外交の上っ面だけしか見えていないんだろうな~と思う。
政府が「ある行動を選択する」までに、どんな困難があるかなんて考えてみたこともないのだろう。あらゆる可能性が考慮され、裏では虚虚実実の駆け引きがあるというのに…
こういう人々には、ほんの少しでいいので、
「もしかしたらホントはみんな、自分が思ってるより頭がいいのかも…?」とか、
「自分が思ってるより思いやりがあるのかも…?」
という可能性について考えてみることをオススメしたい。

こういう「反面教師」な方々は、「支持者が減るということはあっても増えることはない」ということに、いつになったら気づくのだろう…
でもまあ、ちょこっとホンネを言えば、「何かおかしいゾ!」と気づくためには、これからもバンバン活躍して欲しいというのもある。
どんなにもっともなことを言っているように聞こえても、きちんとモノを考えている人なら、いずれ「何かおかしい」と思うようになるだろうから、私は何も心配していない。


頼もしい!

2006-07-06 | 堅めの話
NATO、北のミサイル発射に異例の声明 (読売新聞) - goo ニュース

テポドン発射に動揺を隠せないでいた私ですが、ここにきてアメリカ・国連以外に頼もしい味方がもう一人?いたことがわかりました!

多少ハッタリでもいいんです。外交は「ハッタリかましてナンボ」(いやん、ちょっとお下品…)の世界でもありますし。
とにかく日朝平壌宣言に違反したことは確かなんですから、日本もキッチリと対応してほしいですね。
「約束なんて破っても平気」なんて思わせてしまったら、今後どんな恐ろしいことに発展するかわかりませんから…

世界は一つ(のクラス)その3・「先生」?の存在

2006-05-31 | 堅めの話
実はこの「クラス」には、「先生」めいた存在がいます。
言わずと知れた「国連」です。
しかしこの「先生」がまた頼りにならない…
クラスの混乱を収めるどころか、各国の思惑にいいように利用されてしまっている感じです。

清廉潔白・公明正大だと信じられていた国連が、どうやらそうじゃないらしい…ということは、最近になってやっと人々(日本人)の知るところとなりつつありますね。一部にはまだ“国連至上主義者”もいますが…
国連の真実の姿を知るのには、ネットの力も大きく貢献したんじゃないでしょうか。
(と、エラソーに言っていますが、恥ずかしながら私もその一人です。
皮肉なことに、新聞から離れて以来どんどん見えなかったものが見え、
“自分の頭で”考えられるようになってきました。)


たとえば、国連人権委員会。
国連人権委員会を正義の使者と信じている方は、「国連人権委員会」でググってみるといいかもしれないです。(ここなんかおすすめ。)

「人々の人権を等しく守る崇高な組織」の姿をとりながら、そこにあるのは
人権弾圧国家同士の醜いかばい合い、そして
自国にとって「目の上のコブ」的な国への執拗な糾弾ばかり。
国連信望者には申し訳ないですが、実態は理想とかけ離れています。
「エコヒイキ」と「汚職」にまみれた先生、といったほうが、実態に近いです。

そして日本…しょっちゅう糾弾されていますね。
なぜでしょうか。本当に日本はそれほどどうしようもない国なのでしょうか。

違います。

これには、あるカラクリがあります。
下世話な言い方をすれば、クラスに「チクり魔」くんがいるっていうことですよ。
「せんせ~い、“日本”くんはこんなワルイことしてまーす」と自分のことは棚に上げて「先生」に得々と報告してくれるおかげで、日本の国際的地位はその努力に反して一向にあがりません。
「先生」からは、まるで問題児みたいに目をつけられています。

(余談ですが…こういう事実を知ってハラが立ちませんか?!
私はメチャクチャ頭にきました。)

日本が一生懸命「先生」の要請に応えようとしている一方で、そうやってうまく「先生」に取り入ることで、「ガキ大将」の位置を虎視眈々と狙っている輩もいるのです。
そろそろ日本も過剰な国連信奉をやめて、うまく立ち回ることを考えたほうがよさそうです。

…ま、アメリカみたいに「先生」をナメちゃってる?ってのも、それはそれで困るんですけどね。

世界は一つ(のクラス)その2・クラスの中にクラスがたくさん?!

2006-05-31 | 堅めの話
さてさて、「世界は一つのクラス」説ですが…
本当に「一つのクラス」のたとえ話ですむなら、話はまだ簡単なんです。
(それでも簡単とは言えませんが。)

今便宜的に「国」イコール「個人」に見立てて
「世界は一つのクラスのようなもの」と述べてきましたが、やっかいなのは、
それぞれの「国」自体がまた「クラス」のようなものだ、ということです。
つまり、表向き一つの国のように見えていながら、国内は一枚岩ではない、ということです。
というか、「一枚岩な国」なんてお目にかかったことはないんですが…
最近では移民の問題も加わって、それぞれの国の内情はますます入り組んだものになっています。

中立国スイスも例外ではないのです。
「中立国の戦い」を読んでいただければわかると思いますが、歴史的に複数の地域・民族の複雑な絡みがあって、とてもすぐには理解できるものではありません…(スイマセン、はっきり言って全部を理解しようとするのをあきらめました^^;)
スイスは、それ自体が相当複雑な「クラス」なのです。
実は、スイスが中立政策をとっているのは、様々な利害を調整する過程で、そうせざるを得なくなったということなんですよね。
「世界中みんななかよし」を実現したいからそうしているわけではないのです。

世界は一つ(のクラス)その1・個性的な国々

2006-05-30 | 堅めの話
「中立国の戦い」
…実はまだ読み終えていません。^^;
入試では世界史を選択したくせに、この本に書かれている歴史的背景を想像するには、悲しいかな知識が全然足りません。

でも、私なりにわかってきたことがあります。
それは
世界って、「一つのクラス」みたいなものなんだな、ってこと。


学校生活を経験した方だったら、クラス運営がそうそういつもうまくいくわけではないことを知っていると思います。

ガキ大将もいれば、その“腰ぎんちゃく”もいる。
仲良しグループもあれば、グループ間やグループ内での対立もある。
イジメっ子がいたり、いじめられっ子がいたり、
クラスでどんなことが起ころうが「わが道を行く」の子もいる…
一つのクラスの中には本当にいろいろなタイプの子がいて、またそれ以上にバラエティーに富んだ関係性が見られます。


ところで、「ガキ大将タイプ」の国と言って、真っ先に思い浮かべるのは、やはりアメリカです。
「われこそは正義」
「弱いものいじめをするヤツは徹底的にこらしめる」
「やられたらやりかえす」
…体力(国力・軍事力)といい、発言力の大きさといい、カンペキに「ガキ大将」の条件がそろっています。

ただ、この「ガキ大将」、ときにやりすぎることがあるのも事実。
「おまえはオレの仲間だよな? な?!」
「今アイツを弁護したな?!おまえはアイツの仲間だろう!」
「正義たるオレに仇なすものは、誰であろうと許さん!」
などと、ヘタをすると暴走する心配は無きにしも非ず…

日本の位置づけは、今のところは「腰ぎんちゃく」に近いものであることは否定できませんね…
しかしながら、ある程度力を持つ「ガキ大将」がいると、クラスにある種の秩序が保たれるというのも、また事実。
う~む、難しいものがあります…


…で、中立国の話に戻りますが
「中立国」を選択するというのは「我関せず」の道を選択するということなんだな~と思ったわけです。

誰(どの国)が誰(どの国)と争おうが、関係ない。
他の人に害を及ぼすこともないかわりに、利益になるようなこともしない。
理不尽なイジメがあろうが、見て見ぬふり。
「自分の分」さえ確保できれば、それでいい。
(「自分の分」だけは、何があっても死守する。)
…とまあ、こんな感じですか。(そういえばそういう子、いませんでした?)
現状の日本では、とうていとれそうもない戦法だという気がします…


(・・・予想外に長くなってしまいました。二つに分けます。)

ただ一つの「正解」?

2006-05-10 | 堅めの話
めすねこさんのエントリ「医療の良心を守る市民の会」設立を読んで、自分の経験を思い出した。
(スミマセン、トラックバックという方法を知らないもので…^^;)

二度目の流産のときのこと。
かかりつけ医のいない実家での出血に動揺して、とりあえず唯一連絡先を知っている産婦人科(いとこがそこで出産した)に電話してみることにした。
「これこれこういう経過なんですが…受診したほうがいいでしょうか?」
「なんとも言えませんね~。」
「このまま安静にしていたほうがいいでしょうかね?」
「ですからなんとも言えないんです。」
こんな調子だった。
その後の対応にもどこか冷たいものを感じたこともあって、そのころの私は「なんでそんな応対しかできないの?!」と怒りと悲しみだけにとらわれていた。

でも、今になって思うのだ。
私は「ただ一つの正解」を求めてしまっていた。
「そういう場合にはこうしてください」という「“正解”の指示」が下ることを期待していたのだ。

妊娠初期に流産の兆候が現れたら、「まずは安静に」これは鉄則と言っていいだろう。
しかし、病院で適切な処置を受ければ流産を未然にくいとめられる場合もある、これも事実。

逆に言えば、リスクを押して病院へ行くことも、自宅で安静にしていることも、「これが正解」とは誰にも断言できない、ということだ。

もちろん、素人と医者は違うから、医者の指示に従えば多少「打率」は上がるだろう。しかし「絶対の正解はない」という事実には変わりはない。
「出血が何cc以上だったら来院」などというマニュアルがあるわけではないのだ。

もしも、医師の「来院してください」という指示に従って来院して、その結果流産したら…
「医者の不適切な指示のせいで流産してしまった!!」と一方的に医師を責める人がいないとも限らない。(それでなくても、子どもを亡くした悲しみは、冷静な判断力を奪うのに十分だ。)

何につけても「正解」を求めてしまう、これは現代病と呼んでよいような気がする。
産婦人科の医師が減っているのは、世の中の意識を映し出した結果なのかもしれない。

「大人になる」ということは

2006-04-26 | 堅めの話
人は、生れ落ちたそのときには「自由」そのものだ。
なぜなら
「(自分が)やりたいこと・できること」は、
「イコールやってもいいこと」
だから。

もちろん、生まれたばかりの赤ん坊の「できること」なんて、飲む、泣く、寝るなど、数えるほどしかない。しかしそれらは全て「やってもいいこと」なのである。赤ん坊は「これはやってもいいことなのだろうか」などと悩むことはない。

それが乳児から幼児になって、「できること」が少し増えてくると、世界は少し様相の違ったものになる。

確かに、自分の足で歩けるようになった分だけ「自由」になったかのように見える。しかし、いくらそうしたいからといっても、交通量の多い道路を大人と手をつながずに歩くことはできない。
今までは、目に入るおもちゃは全て遊んでいいおもちゃだったのが、買い物先のスーパーのおもちゃで遊ぶことはできない。
つまり、「できること」の数が「3」から「30」くらいに飛躍的に増える反面、今までは存在しなかった「やりたいけどやってはいけないこと」が生まれるのだ。しかもその割合はどんどん増して行く。

大人となった人間はどうだろうか。
「できること」は星の数ほどに増えるだろう。
何にいくらお金をかけてもかまわない。その気になれば有り金全部ギャンブルにつぎ込むこともできる。
他にも、たとえばごみの不法投棄から詐欺、強盗、殺人に至るまで、良いことでも悪いことでも何でもできるだけの知恵も力も備わる。
しかし「できること」に対する「やってもいいこと」の割合は、いかに微々たる物となっているだろうか…

つまり、大人になるということは「できるけれどやらない、やってはいけないこと」を相対的に増やすということなのだ。言い換えれば、人間は「自由な存在」として生まれて、どんどん「不自由」になるということだ。

さらに言えば、品格の備わった尊敬すべき大人ほど、「できること」に対する「やってもいいこと」の割合が低い、つまり「不自由」であると感じる。
(これは「ノブレス・オブリージュ」の概念と通じるように思う。)
品格ある大人は、「やりたいこと、できること」がどんなに増えても、自分が実際に社会においてやるべきことは限られていることを知っているし、その覚悟ができているものなのだ。

親が子どもに教えるべきなのは「自由」ではなく「不自由」なのだ。そこを勘違いしてしまうと、この世の中はひどく住みにくいものになるに違いない…