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日々思うこと

日常と、
日常につながるもの。

どちらが恥ずべき存在か

2006-03-27 | 堅めの話
一旦「在る」とされた“残酷な事件”を、後になって否定することほど難しいことはない。
先日、ウェブ上でとあるTV番組を見て、そんなことを考えた。

番組名は「たかじんのそこまで言って委員会」。
南京大虐殺の証拠とされる写真や記事を一つ一つ検証した本の著者である東中野教授を招いて、「南京大虐殺は本当にあったと言えるのか?」を論じていた。
教授は、膨大な数の資料をしらみつぶしに科学的・論理的に検証した結果を、冷静に根気強く説明していた。

冷静にVTRを見れば分かることだが、彼は「南京大虐殺はあった」とも「なかった」とも一言も言っていない。
その主張はただ、
「証拠とされた写真の数々は、証拠たり得ないものである」
ということ、ただそれだけなのである。
それなのに、某氏をはじめとするパネラーの幾人かは、すぐに混同して「それなら戦時中に虐殺はなかったのか?!」などとかみついていた。
(最後にはそのお粗末な頭の中も、徐々に整理されていたようだが。)

それにしても、
なまじことが残酷だと、ただの「事実の検証」がこうも難しいものになってしまうのか…ということを、あらためて思い知らされた。
「この事件の存在には疑問符がつく」という主張をしただけで、「被害者の人権」(それが架空の存在であっても)を踏みにじる“人でなし”扱いされてしまう。

しかしこれは、裏を返せば
人間という存在が、いかに「情」の前に脆いものであるか、ということの裏返しでもある。
人間は残酷な事象を伝え聞くと、条件反射的に弱者の味方についてしまうのだ。

卑近な例だが…たとえば痴漢冤罪事件。
女性である私の心情としては、反射的に女性の側についてしまい、痴漢行為への怒りが先立ってしまいがちだ。
一旦立件されたものが実は冤罪だった、と言われても「本当なんでしょうね?!」とすぐには信じにくいような気がする。

残酷な事件を検証しようとするものには、論理と個人的心情を切り離す強い心が必要だ。
事実を検証しようとすることは(それが残酷な事件であってもそうでなくても)勇気あることとたたえられこそすれ、非難されるいわれはない。

本当に非難されるべきなのは、
「残酷な事件の被害者には無条件で同情しそうになる」人の心の最も弱い部分につけこんで、
ありもしない「残酷な事件」を捏造・主張する、
あまつさえ「事実を検証する」ことさえ阻もうとする、
そんな卑怯さのほうだと思うのだ。

父性と母性のバランス

2006-01-11 | 堅めの話
ボーイスカウトのスキー訓練の空き時間での出来事。小学校低学年の子ども二人がケンカを始めた。
次第に手や足が出始めて雲行きが怪しくなってきたとき、すかさずあるリーダーが「よぉ~し、オレにかかって来い!」と“標的”を買って出てくれた。
すると、それまで険悪だった二人があっという間に「パンチ!キ~ック!」「まだまだ~!」と楽しそうにそのリーダーと戯れ始めたのだ。
(見ている私はまだその荒っぽさにハラハラしていたが…^^;)

実はその前に私は何度も「やめなさい!痛いことしちゃダメだよ!」とか「それよりムシキングごっこしようよ♪」とか、アメやらムチやらで懸命にケンカを回避させようとしていたのだが、ほとんど効果なしだった。
こんなとき、子どもたちにとって「父親的な存在」がいかに大きなものなのかを実感する。


母親は、まず「囲い」を作っておいて、その中で子どもを守ろうとする存在なのかもしれない、と思う。
「囲い」さえ作っておけば、あとは母親は「(その中でなら)何をやってもいいのよ」と“許す”だけの存在でいられるわけだ。
それに対し父親は、「囲い」なんか作らない。最初から「外」で自分で考え、その痛みも自分で実感せよ、と突っぱねる。
そのかわり、時として「ダメなものはダメ」と、断固として“許さない”存在でなければならない。つまり、あえて憎まれ役を演じるということである。
こう考えると、父親と母親は同じ親でも役割がずいぶん違うものだ。


ある場所で、父性と母性についてこんな話を聞いた。

子どもがくじけたとき、「もう、そのくらいでいいわ。
十分がんばったじゃない。」というのが母性。
「なんだ、そのくらいで。もっと気合を入れてやれ。」
というのが父性。
子どもががんばったとき、「よくやったね。あとは
ゆっくり休みなさい。」というのが母性。
「まだまだ、やれるぞ。気をゆるめるな。」というのが
父性。
今の日本では、母性が強すぎて、父性をたっぷりと
受けながら育っていないから、子どもは弱々しくて
めげやすい。
人間には母性父性どちらもバランスよく必要だが、
どうも父性が弱すぎる。

…確かにそうだろうな、という気がする。
今の世の中、弱音を吐く子どもに「なんだ、そのくらいで。もっと気合を入れてやれ。」なんて指導はできないに等しいだろう。
勘違いした連中からすぐに吊るし上げをくらいそうだ…


そういえば、戦後民主主義の中では悪者扱いしかされなかった「教育勅語」だが、そこには多分に父親的な要素があるような気がする。
(対する「教育基本法」は母親的、ということになるのか??)
今そこここで教育勅語を見直す動きが見られるが、この動きも「母親的」過ぎた世の中が「父親的なもの」を求め始めているということと呼応していないだろうか。


ボーイスカウトは、その名の通り以前は男の子だけしか入れなかった(リーダーも男性のみ)から、男性的なものが色濃く残っている。
スカウトたちは皆リーダー、特に男性リーダーを心から慕っている。
それも、厳しいリーダー、優しいリーダー、面白いリーダー、面白くない?^^;リーダー、みんな同じように大好きだ。
子どもたちのそんな姿を見ていると、今の時代に不足している「父親的要素」が子どもに与える影響の大きさを、確かに感じるのだ。

本当のやさしさとは

2005-11-29 | 堅めの話
もうずいぶん前の話になるのだが、
例の教育関係の掲示板に、こんな投書が載ったことがあった。

・・・
気分が悪くなった人に優しく声をかけてさすってあげたり、
そういうことがすぐに出来る思いやりのある人がいる。

一方、
そういう場面に遭遇すると、気持ちが悪くて
「触りたくない」と思ってしまう自分がいることに
気づいて、イヤになる。
子供には真にやさしい人になってほしい。
・・・

と、だいたいこのような内容だった。
失礼ながら私は、これを読んで失笑してしまった。

ボーイスカウトのサマーキャンプなどでも、
移動のバスに酔った子どもの世話や後始末を、他のリーダーと共に行うことがあるが、そんな人たちが嘔吐物などに「触りたいと思ってやっている」とでもいうのだろうか。

「真にやさしい人」というのがどういう人を指すのかは、私にも分からない。
人の汚物を「触りたくない」と思うようでは、「真にやさしい人」だとは言えない、という考えもあるのかもしれない。
(普通の人でその条件を満たす人が、果たしてどのくらいいるのかは知らないが…)

しかし、私が思う「やさしい人」というのは
「今やるべきことがわかっていて、それを躊躇せず実行する人」
これに尽きるのである。


話は変わるが、私がまだ“青かった”頃…

「究極の愛」とは…?やはり「この人のために自分の命を投げ出せる」ということだろうか…
などと、頭デッカチに愛を定義づけ・ランクづけしようとしていた。

時は過ぎ…
子どもがまだ小さかったある日。
長い間の離乳食作りのせいで、献立から柔らかい部分だけを取り分ける癖がなかなか抜けないことに気づいて(…実際もう離乳食が必要なくなってからも無意識のうちにやっていた^^;)苦笑しながら、ふと思ったのだ。
こういう「習慣」もまた「究極の愛」だったのだ、と。

私の中では「食事を取り分けるクセ」も「命をかけて子どもを守ること」も、何も違いはないことに気づいたのだ。
共通しているのは、そこには「迷いがない」ということである。

本当の「愛」とは?とか「やさしさ」とは?とか、こむずかしく条件付けすることになんの意味があるだろう。
大切なのは「迷いがない」ことのほうではないだろうか。
そのためにはおかしな理屈や理想は、かえって妨げになることのほうが多い気がするのだ。

ある晴れた日に

2005-11-12 | 堅めの話
一人でふらりと公園に行った。
ものすご~~く天気のいい日で、体調もよく、気温も暑からず寒からず(←重要!私は気温の許容範囲がヒジョーに狭いので…)もうとにかく最高!!!な日だった。

と、遠くから親子とおぼしき声が聞こえてくる。
近づいてみると、赤ちゃんを抱っこした母親が、2歳くらいの子どもを連れているのだが、何がいけなかったのか母親は道々ず~っと子どもを叱り飛ばしているのだ。
「言うことをききなさい!」「何やってんの!」「置いてくからね!」
子どもは泣きながら母親の後を追い、スカートの裾ににつかまろうとしているのだが、彼女は歩みをゆるめる気配すらない…

何もこんなに気持ちのいい日に、そんなに怒らなくてもいいだろうに…
2歳くらいの子どもに、そこまで怒らなければならない理由というのが、私にはどうしても考えつかなかった。…

そういえば以前ニュースで、幼稚園に行きたがらなかった女児を母親が刺しただか殴っただかしたというのを聞いて、唖然としたことを思い出した。
たかが「幼稚園に行かない」くらいで、なぜそこまで…!
たまにはサボったっていいじゃないの!死ぬわけじゃなし!
刺したり殴ったりしたら子どもは死ぬんだよ!!


「子どもの意志を尊重すること」と「子どもを躾け導くこと」。
これを健全に両立させることが、なぜそれほど難しいのだろう。

普段私は教育関係の掲示板などで、「子どもの意志を尊重しすぎる」ことへの警鐘に重点を置いた投稿をしている。
しかし一方で、「厳しく教育せねば」と思うあまりか、子どもの意志なんて置き去りにしてしまっている親がいる、というのも、また事実なのだ。
その親子の姿を見ながら、そんなことを考えた。

そう考えると、私の意見はそれらの人々には「誤ったメッセージ」として受け取られている可能性もあるわけだ。
もっとしつけよ!もっと子どもを強制・矯正せよ!
子どもの意志など踏みにじれ!!と…
何だか背筋が寒くなるものを感じる。

…もっとも、それは逆も言えるな。
「子どもの意志を大切に」というメッセージは、「子どもをきちんと教育しなければ!!」という強迫観念が強すぎる人にとっては、気づきを促す言葉ともなるのだろうが、
普段から「子どもの意志」“しか”頭にない人などには「誤った気づき」をもたらす可能性がある。
「そうだ!全ての強制は“悪”なのだ!!」と…

言葉を「意図した人に、意図したように」伝えるというのは本当に難しい。


(写真と本文は全く関係ありません♪)

権利って何だろう…?

2005-10-30 | 堅めの話
とあるお気に入りブログで偶然知った記事なのだが、まずは、何も言わずに読んでみて欲しい。(ちょっと重いけど)

禁煙ファシズム発動(大事な人に押し付ける)

…どのような感想を抱かれただろうか?

実は、私もこれと似たような経験をしたことがある。
(といっても、身近な喫煙者の死にショックを受けたとかの話ではないが。)


車の運転時にはシートベルトが義務付けられているというのはご存知だろう。
若い頃の私は例によってイキがって、

「シートベルトしたからって事故率が下がるわけじゃないでしょ!
あんな窮屈なもの、事故が怖いヘタクソドライバーだけがすりゃいいじゃん!
事故ったときに困るのだって自分だけ!誰にも迷惑かけるわけじゃないんだから、
車に乗るときくらい好きなようにさせてよ!これこそ自己責任でしょ!」

…とまあこんな調子で、シートベルトを毛嫌いしていた。
検問で引っかかって減点されたときも、まるでそれが自慢できることであるかのように考えていたのも事実。


そうこうするうちに、結婚して子どもを授かった。
そんな私でも、さすがに子どもはチャイルドシートに座らせていた。
(ちょうどチャイルドシートが法制化され始めた時期でもあった。)
しかし私自身は相変わらずシートベルトはしていなかった。

ある日のこと。
いつものように後部座席に子どもを乗せてドライブしていた。
そのとき、何の前触れもなくある映像が浮かんだのだ。
(もしかしたら、そのとき実際に事故現場を見ていたかもしれない。)

…私の車が事故に巻き込まれている。
幸いチャイルドシートのおかげで、子どもにはケガはない。
しかし、シートベルトをしていなかった私は、運転席で動かなくなっている。
子どもたちは後部座席で「ママ~!」といつまでも泣き叫んでいる…

そんな映像だ。私は少なからぬショックを受けた。
シートベルトをするしないは、「自己責任」やら何やらの問題ではなかったのだ。
私は「シートベルトをしない権利もある」などという、勘違いした「自由」のおかげで、もう少しで愛する人々を悲しませてしまうところだった。

そしてそれ以来、子どもを乗せているいないにかかわらず、運転するときにはシートベルトをするようにしている。


で、話は先の「禁煙ファシズム」に戻るのだが、ここではこのように語られている。

 喫煙を理由に他者の人権を圧迫するのはおかしい。
 人の自由や権利を尊重することは大事である。
 それを理解しているから、世の中に対してとか、大勢に対して
 働きかけようとは思わない。

その上で彼はこう語るのだ。

 「私の周りの大事な人たちには、嫌がられても(喫煙を)やめさせたいと
  思うようになりました」

そうか、そういうことだったのだ!
私は「権利」という言葉の響きの良さにはばまれて、もう一足歩を進めることができずにいたのに気づいた。


シートベルトの話で言うと、
昔も今も私は助手席の人には特にシートベルトを勧めたことはない。
それこそ、「(シートベルトを)したくない人に無理に押し付けるのはよくない。
シートベルトをしない権利もあるのだから。」という考え方だ。
しかし、私は間違っていた。

覚えておいて欲しいのだが、これから先私の車に乗る人には
「シートベルトをしない権利」は、ない。(よほどの身体的理由があれば別だが)

逆に言うと、もし私から「シートベルト?しない権利もあると思うよ~」などと言われたら、「どうでもいい人」だと思われている、ということだ。
…というのは冗談にせよ、(私は「どうでもいい人」は愛車には乗せない
特に大切な人に対しては時には「権利」と名のつくものでも制限させてもらおう、という決意を新たにしたのだ。

子どもを助手席に乗せるようになったとき、もしも子どもが「シートベルトしない権利」なんてものを持ち出しても、そんなもので説得されない自信がついた。
身勝手だといわれようがなんだろうが、私のためにそうしてもらう。
これは、権利なんぞの出る幕ではないのだ。


それにしても「権利」という言葉は、
「他人」(平たく言えば「どうでもいい人」)に対して使われる分には違和感はないし、ほとんど無条件に「広く認めるべきだ」と素直に思えるのだが、
「大切な人」に対してその概念をそのまま持ち込むことって出来るのだろうか。
全ての人に最大限の権利を認めるべき、という主張は、裏を返せば「何もかもどうでもいい」につながるような、冷たいもののようにも感じられてならない。

これから先、子どもは様々な「試練」を持ち込んでくるだろう。
しかし、「子どもの権利」などという甘い言葉の響きにだまされて道を誤るようなことだけはないようにしたいと、強く思った。

言葉の選び方。

2005-10-06 | 堅めの話
以前家庭教育学級で、プロの声楽家の方を招いてコンサートを企画したときのことだ。
私は例によってお手紙作りの担当だった。イラストやフォントにも凝って、我ながらなかなかの出来のものを作ることが出来た。

先生のチェックも通り、無事コンサートも終わって、幾日か経ったときのこと。
学校で出会ったあるお母さんから、お手紙の中の一文にクレームがついた。
その一文とは
「小さなお子様をお連れになる場合には、演奏の妨げにならないようご配慮ください」
だった。

私はこの一文を、「注意」というよりは「小さいお子さん連れでもOKですよ~」の意図をこめて入れたつもりだった。プロの演奏会では「未就学児入場不可」の場合も珍しくないからだ。
しかし、そのお母さんは(彼女にも未就学児がいたのだが)「子連れの人に冷たい感じがする。これでは気を使ってしまって参加しにくい」と感じたそうだ。

もちろんそのお母さんには、そういう意図ではなかったことを説明してヒタスラ謝ったのだが、言葉というのは自分の意図したように伝わるとは限らないのだ、ということを痛感した。
言外に感じとっている意味が、人によってはまったくの正反対であることもあるとは…

面倒がらず、省略せず、また複数の立場の人の意見を聞きながら文章を練るというのは、やはり大切なことのようだ。

・・・と言いながら、実はいまだにこのテの浅慮が多くて我ながらイヤになることが多いのだ…あ~あ…

運動会で思ったこと

2005-09-21 | 堅めの話
「休め、気をつけ、礼」で始まった昔ながらの運動会は、今年もいい雰囲気のうちに終わった。暑い中子どもたちはよくがんばっていたと思う。

少し前に教育関係の掲示板で、運動会という行事に対する根本的疑問が議題にあがったことがあった。
そのとき私は(…その問題提起が学校教育の価値を認めない論者によってなされたこともあって)「運動会擁護派」に与した。
不思議なもので、私自身は運動が得意でなかったせいもあって、運動会はどちらかといえば―いや、明確に―嫌いだった。そんな私が運動会の意義を認める日が来ようとは…感慨深いものがある。

運動会の意義とは、「行動を共にすることで絆が強まる」ということを、文字通りカラダで実感できるということだろうと思う。
「何はともあれ、やってみる」あるいは「案ずるより産むが易し」というヤツだ。
こうして文にしてしまうと単純なことのようだが、人間はほうっておくと「頭」が先にたってしまって、本来「カラダ」で実感しなくてはならないことまでアタマまかせにしがちである。
ある程度強制的に参加させられる運動会は、その順序をひっくり返してくれるいい機会なのではないかと思うのだ。

もちろん、そうは言っても気持ちの面でのかかわり方は人それぞれでいいと思う。何もみんながみんな熱くなって「青春」しなくたってよいのだ。(むしろそれは北朝鮮っぽくて(失礼^^;)気持ちが悪い…)
現に私も「当事者」だったころは、結局最後まで熱くなることはなかった。

ただ、人は「行動を共にすることで気持ちが一つになる」という体験を、一度はどこかですべきなのではないかと思う。それも、できればまだアタマでっかちになりきっていない若いうちに…
この社会が様々な人々の集まりであり、好むと好まざるにかかわらず自分もその集団の恩恵をこうむっている、という事実がある以上、それは「必須科目」なのではないかと思うのだ。
(もちろん、それが「運動会でなければならない」というわけではないけれどね。)


余談だが…
「気持ちが一つになっている」と確認ずみの人々の集まりが行動を共にすることができるのは、至極当たり前の話だ。と、ずっとそう思っていたし、現にそう思っている人も多いだろう。
しかし実際は、同じ理想の下に集まっているはずのものたちの集まりが、いとも簡単に崩壊してしまうのを、私は何度か目の当たりにしてきた。
思想などの「アタマ」でのつながりは、私たちが思っているよりもろいもののようなのだ。
それ故、思想がからむ団体の運営やそこへの参加は、(スポーツなどの)思想のからまない団体におけるそれよりも、かなりの精神的タフさが要求されると思っていたほうがよさそうである。


どうやら「思想」よりも「行動」のほうが、人と人を結びつける力は大きいらしい。
最近特にそう感じることが増えた気がする。

薄っぺらな社会

2005-09-07 | 堅めの話

日本のドラマが面白くない最大の理由は、登場人物が“薄っぺら”であるということである。

「いい人」はどこまでいっても「いい人」。
「悪い人」はどこまでいっても「悪い人」。
せいぜい、「いい人と思わせといて実は悪い人」(またはその逆)といったパターンどまりだ。
人物像に奥行きがないだけでなく、「善悪」という一元的な基準から抜け出せていないものだから、ストーリーをどんなに作りこんだとしてもチャンチャラ可笑しいものにしかならない。
(逆に言えば、日本のドラマでも人物像がしっかりしていれば、結構ハマれる面白いものになることが多い。)

一般に「裏表のない性格」というと、たいていの日本人はいい意味でとらえるだろう。
しかし、裏表があるというのは「悪い」ことなのだろうか。
(そもそも「裏表」という言い方からして「善悪」二元論から抜け出せていないような…)

「私には裏表がない」と言い切れる人間は、私に言わせれば
「私はウソをついたことがない」というのと同じくらい信用ならない存在だ。
思うに人間は、服を着ないでは人前に出られなくなったその瞬間から、真の意味での「裏表のない」存在には成り得ないのだから。

たとえば、赤ちゃんには「裏表」はない。(当たり前か…)
うれしければ笑い、不満だったら怒る。社会にあわせて衣服を纏おうとも思っていない。
まさに「見た目通り」、ウラもオモテもない存在である。
日本人には、それを「天真爛漫」だと賛美し、「大人の世界はホンネとタテマエの薄汚れた世界だ」と悲観する人が多い気がするのだが、なぜいい年の大人にもその子どもじみた基準を当てはめようとするのだろう。
子どもと大人の基準が同じものであっていいはずがない。

たとえ不満を感じてもそれをそのまま表さないで、「気持ち」とは違う行動をとることができる、それこそが「大人の世界の住人」だ。

たとえば、
・子どもが愛しくてたまらないという気持ちはそのままに、子どもを厳しく躾け導く必要性を知っていること。
…「愛しているから何でもしたいようにさせる」これではあまりに「大人」気ない。

・「なんとしても勝ちたい」と願う競争心を大切にしつつ、フェアプレイ精神を養うこと。
…目指すべきは「競争心を害悪視する」ことでもなければ、「手段を選ばず勝利に執着する」ことでもないはずだ。

・平和な世の中に暮らすことを望みつつ、現実の諸外国の姿をよく観察して、うまく国際社会を渡っていく術を探ること。

これらは「子ども」にはとうていマネできないことである。

大人が「裏表のない純粋さ」を追い求めていたら、社会は果たしてどうなってしまうだろう?
もうすでにその弊害は出始めているという気がする。周りを見まわしてみるといい。
「ホンネだけ」あるいは「タテマエだけ」の薄っぺらな存在になり下がってしまった(しかも自分ではそれを誇りに思っていることすらある)日本人がいかに多いことか…

とかく「裏表のなさ」や純粋さばかりが礼賛される「お子ども社会」を疑問にも思わない日本人は、英語の“innocent”や“sophisticated”という言葉がなぜ「二重」の意味を持つのか、そのあたりからもう一度人間というものをとらえ直してみたほうがよいのではないかと思う。(辛口失礼。)


バカの壁

2005-08-05 | 堅めの話

養老先生の本「バカの壁」はあまり面白いとは思わなかったのだが、「バカの壁」というネーミングについては「うまい表現だなぁ~」と感服せざるを得ない。確かに「バカの壁」としか言いようのないものの存在を感じることがあるからだ。

県会議員Fさんのブログでも書いたが、「考え方が違う」ということ自体はおおいにあっていいと思う。むしろ違うがゆえにより必要性を増すコミュニケーションの中で、お互いに思考の深まりを感じることが多々ある。

しかし、この「コミュニケーション」が成立しない、つまり、最初から超えられない「バカの壁」の存在を感じる人というのが、やっぱりいるのだ。これは「自分と考え方が同じかそうでないか」というのとはまったく別の問題である。

これにもいろいろなパターンがあるように思う。(また、普段はそうでない人でも場合によって一時的に以下のような状態になる、ということもあるだろう。)

①そもそも自分にしか関心がないという人。「自分の周りの問題を片付けるのでイッパイイッパイである」という場合もある。
しかしこのタイプの人は、その前提さえ理解していればそこそこフツーにつきあえるし、それはそれでホンネonlyの気楽な付き合いができる場合も多い。

②いわゆる「不思議ちゃん」・「不思議くん」。
もしかしたら本人たちには「バカの壁」は無いつもりなのかもしれない…^^;しかし思考回路や表現形式が常人の理解を超えていると、結果的に何か「超えられないもの」が存在しているかのように感じることがある。
しかしこのタイプの人も付き合いづらい人ばかりというわけではなく、むしろつきあううちに「こんな考え方をするのか~!」と自分の世界観の狭さに気づかされることも多い。

③「自分は絶対的に正しい」と思っている人。
このタイプの人の「バカの壁」は、正直一番やっかいだ…何しろ「正しい」と大書きされた壁なのだから…
硬直化」のブログに書いたような反応をする人は、このタイプの人である場合が多い。
悪いことにこのタイプには、それに見合うだけの知識でバリバリに武装している人や、やたらと自信マンマンな人も多いのだ。そうなるとますますコミュニケーションは成り立たなくなる。

このタイプの人とは、正直できればかかわりを持ちたくないと感じてしまう。
なぜなら、彼らにとって「コミュニケーション」とは、「周りの人々の啓蒙」を意味しているからだ。
何を言っても「暖簾に腕押し」。
こちらの言いたいことは向こうの都合のいいように曲げて解釈される。
そのくせ、他意無く投げかけられる疑問には過剰反応して、「口出し無用!!」という拒否反応を示すことも多い。
自分の意見に「疑問を呈する」というだけで、彼らにとっては十分「反逆行為」に当たるからだ。

不幸にして相手がそのタイプの人だとわかったら、自分の精神衛生を第一に考えて、距離をとることをお勧めする。
今のところこれ以上いい対処法を思いつかないし、ヘタに関わったところで不毛な場合が多い気がするから…


多くの人に見てほしい。

2005-07-27 | 堅めの話
ブックマークを編集しました。
(左メニュー・かなり下のほうです…^^;)

特に「少年犯罪データベース」は一人でも多くの人に見てほしい。
私たちが、新聞を始めとするマスコミによって、いかに「現代=病んだ社会」という見方を植えつけられているか、よくわかります。
「古き良き時代」なんて「…ウソつけ~!!」と叫びたくなるでしょう。